高嶺格「Melody Cup」

◎民主主義的演出へのアンビバレンス
 竹重伸一(舞踊批評)

 最前列の客席より一段窪んだ所一面に、四面を板で囲まれてブルーシートが敷かれている。奥の壁には白いスクリーン。スクリーンと舞台後方の板の間の通路もパフォーマンス空間である。この1時間45分の作品のラスト、舞台前面の板の前に一列に並んだ12人のパフォーマー全員でビージーズの「メロディ・フェア」を歌うのを聴いている内に舞台作品としては久し振りに幸福な感情に襲われたが、一方で作品全体からは拭い難い違和感を感じる部分も私の中にあることは否定できない。その辺りの感情の曲って来る所を考えてみようと思う。

 「Melody Cup」は結果的に高嶺格の個人的なユートピアを観客にも幻視させるものになったように思う。それは先ず非常にPC的ではあるが国籍や民族や性別に関係なく一人一人が尊重され、対等に扱われる社会である。この舞台はタイ人5人と日本人7人によるコラボレーション作品であるが、前半の「新幹線」や「アーノルド・シュワルツェネッガー」といった人口に膾炙した同じ単語をタイ語と日本語で繰り返し合うシーンを除くとタイ・日の文化的差異が強調されるような場面はほとんどなく、誰がタイ人で誰が日本人であるかなど意識しないまま最後まで観ることができた。そして高嶺のパフォーマーの扱いはラストの顔を白塗りした12人が一人一人舞台前面に出てきて舞踏のように感情を露出させた仕草をするシーンが象徴的なように極めてフラットであり、メンバー間にある舞台経験におけるかなりの差を感じさせないように演出している。冒頭の長い群舞のシーンも経験のあるダンサーにソロを取らせたりはせず、技術的には平易な踊りが音と視覚的な要素との巧みなアンサンブルでかなり緊密なダンスとして成立している。それは一見無国籍な共同体の祭りで踊っているようでもあったが、よく見ていると時々一人また一人と踊る輪から零れていく人がいて個への眼差しも感じられ、集団的熱狂とは距離を置いているのが分かる。

 とにかくこの作品はヒエラルキーの排除とパフォーマーの匿名化という民主主義的な演出で一貫している。ただその点で議論になるのは豹柄の水着に蜘蛛の巣のストッキング姿のDiva(女神)と呼ばれる小柄で豊満なタイ人女性をセックスシンボルのようにフィーチャーしたシーンであろう。フェミニストから批判を浴びそうなシーンであるが、恐らく高嶺は長身でスラリとしたモデルタイプの女性ばかりが美の基準になっている先進国一般の状況に異議を呈したかったのではないだろうか。世界的に1960年代から演劇においてもダンスにおいてもアカデミックな技術の獲得を前提にした職業的な演技や踊りを否定し、日常の身体をそのまま舞台に乗せる流れが政治的な運動と連動するように現れてきたわけだが、高嶺の演出方法もその系譜に位置付けられる。匿名化されていても一人一人のパフォーマーは実に生き生きとしており、その点が私がラストで幸福な感情に襲われた大きな理由だと思う。

 そしてもう一つは東洋的な自然との調和の願望である。この作品の主人公は時に山のように垂直に盛り上がり、時に海の波のようにうねる有機的なブルーシート=自然そのものであるとも言え、パフォーマーの行為はそのブルーシートの掌で遊んでいるように見えた。全員がブルーシートの中に入って富士山のような山を作り上げるラストからは人間の営みも所詮自然の活動の一部であり、最後には皆そこに還って行くというメッセージを感じることができた。

 後半の方でチベット風の衣装を着て書物を携えた男女のパフォーマーの直接的な問答もあるように、この作品の大きなモチーフは仏教的な「空」であろう。仏教では人間も含めた万物の存在に不変性を認めず、全てが「縁起」という関係性によって成り立っていると考える。その「縁起」は日本ではしばしば「自然(じねん)」という言葉に置き換えられて、「自ずからしからしむ」というような人為的な要素を極力排除して自然のリズムと一体化していく志向へと繋がっているように思われる。一方キリスト教では人間は自然よりも上位の存在で、自然は人間が支配する対象である。そして人間の魂は神の導きによって永遠性を獲得することができると教えられる。高嶺がそうしたキリスト教的思考とは対立する立場にいることは明らかである。

 しかし私は高嶺の自然に対する感覚は現代においてはナイーブ過ぎるのではないかと思う。キリスト教徒でなくても現代人が怪物のように発達した科学技術の恩恵を受けて自然を自分達の快適さのために都合よくコントロールしながら日々生活している事実は否定できず、そこから目を逸らすべきではない。自然との調和を求めるには我々はあまりにも肥大化した生き物になっていて、自然という母なるものからとっくに追放されてしまったのではないだろうか?

 更にいうと個の確立は肉体の欲望の解放でもある。それは当然無意識の様々な歪みも孕んでいるはずなのに高嶺の射程はそこまでは届いていないので、この作品は現代の深層に蠢くカオスを映し込むには至っていない。その辺りが作品全体を薄味にしてしまっていると思う。そこまで至らせるためにはより技術のあるパフォーマーを使ったり、演出の権力を発揮してパフォーマーをもっと追い込むという反民主主義的な手段を取る必要があるだろう。
(初出:マガジン・ワンダーランド第235号、2011年4月6日発行。無料購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 竹重伸一(たけしげ・しんいち)
 1965年生まれ。舞踊批評。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『音楽舞踊新聞』『シアターアーツ』等に寄稿。現在『舞踊年鑑』概況記事の舞踏欄の執筆も担当している。また小劇場東京バビロンのダンス関連の企画にも参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takeshige-shinichi/

【上演記録】
高嶺格「Melody Cup」(タイ・日本共同制作作品)
【横浜公演】横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール(2011年2月19日-20日)

構成・演出/Direction:高嶺格
出演/Performer:Dearborn K. Mendhaka、Pakorn Thummapruksa、Ratchanok Ketboonruang、Preeyachanok Ketsuwan、Nattiporn Athakhan、朝倉太郎、伊藤彩里、児玉悟之、トミー(chikin)、富松悠、ニイユミコ(花嵐)、諸江翔大朗

チケット料金〈日時指定・全席自由〉一般前売2,500円/当日3,000円 学生&ユース(25才以下)前売2,000円/当日2,500円 ペア4,500円(前売のみ)

主催:Melody Cup公演事務局、国際舞台芸術ミーティング in 横浜2011 実行委員会
共催:横浜赤レンガ倉庫1号館(公益財団法人 横浜市芸術文化振興財団)
協力:NPO法人黄金町エリアマネジメントセンター
【伊丹公演】アイホール(2011年2月12日-14日)

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