連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第10回

||| 初観劇で暗転にびっくり!

-森元さんが、このお仕事につかれるまでの経緯をうかがえますでしょうか。

森元 僕は広島の出身でして、1964年生まれで、早稲田大学に83年に入学しました。大学に入学した頃は、鴻上尚史さん率いる第三舞台が、ちょうど大隈講堂裏のテントから紀伊國屋ホールに進出される頃で、もう、飛ぶ鳥を落とすとはこういうことかという感じでしたね。第三舞台で最初に見たのは、ザ・スズナリでやった『モダン・ホラー』です。看板俳優だった岩谷真哉さんが亡くなった後で、早大劇研の総力を結集した作品で本当に面白かった。
 あと、野田秀樹さんが初めて本多劇場に進出した『走れメルス』も見ています。他にも第三エロチカとか遊◎機械全自動シアターとか青い鳥とか見てましたね。つかこうへいさんの戯曲やエッセイは広島時代から読んでいて大好きでしたけど、残念ながら活動を停止されている時期でした。
 東京に来て初めて見た舞台は大学1年生の5月、大隈講堂の裏のテント公演でした。早稲田の演劇研究会のアンサンブルのひとつだった大/早稲田攻社という劇団で、今もZAZOUS THEATERで活躍されている鈴木勝秀さんの作・演出でした。会場内の光景を今でも覚えてますが、客席はひな壇が3段くらいあって、各列に15人くらい座れる感じでした。でもお客さんは全然入ってなくて、せいぜい20人いるかいないかくらいだったですね。
森元隆樹さん やがて、薄暗い客席で本を読んでいたら、突然音が大きくなって、みるみる真っ暗になっていって。で、パッと照明がついたら3人くらい登場してて、セリフを言い始めた。何にびっくりしたって、この暗転にびっくりしたんです(笑)。この人たちはどこから出て来たんだろう? どうやってセットを変えたんだろう?って。で、次の暗転の時「今度こそ!」と目を凝らすんですけど、やっぱり分かんないんですよ(笑)。
 今でこそ、小劇場の芝居やタレントさんが主役の舞台を、全国で公演したりしていますが、当時の広島はそんな状況ではありませんでしたから、舞台なんて見たことがなくて。だからもう暗転が新鮮で、それで舞台を見に行くようになったんです(笑)。そして先に出た第三舞台が、本当に暗転が早くて、それはそれはお見事で(笑)。
 やがて脚本や演出にも目が行くようになって、大学2年の冬に見た第三舞台の『デジャ・ヴュ’86』という作品で決定的に演劇の世界の虜になりました。当時つきあってた彼女と見に行ったのですが、観劇前は食事をして陽気に喋っていたのに、観劇後はもう完全に無口になってしまって。「どうしたの? どうしたの?」って彼女に言われ続けたのを覚えています(笑)。自分が何となく考えていたことを、全部先にやられちゃってると思うくらい、もう完璧だったんですね、そのときの僕にとっては。

||| 劇団活動で借金を背負う

森元 で、大学3年の1月だったかな、就職どうするのっていう時期に、「劇団やってみたくない?芝居作ってみたいよね1回」って、酒飲んで仲のいいヤツに言ったら、僕の周りの卒業できないヤツらが集まってきたんです(笑)。「なんか面白いことするらしいね」って。で、シアターグリーンに行って6月に公演したいんですけどって言ったら、偶然2週間空いてたんです。なので「じゃあ2週間貸してください」って言ったら、向こうがびっくりして「旗揚げですよね?」「そうです」「公演期間は?」「たぶん3日間ですけど、その前に稽古します」「稽古で2週間?」「はい」「普通は、稽古をしてから来るんですよ」なんて会話があって、結局1週間だけ借りました(笑)。今思い出しても、よく貸してくれたなあと思います。
 脚本・演出・主宰を担当したんですけど、やってみたら文字通りビギナーズラック。いやもちろん社交辞令なんですが、面白かったって言ってくれる人が多かったんです。けれどその一方で、どこかの政党じゃないけど足腰の弱い集団なのが露呈して、ちょっと厳しいことを言い争うと、もう劇団がグラグラになっちゃったんです。今まで仲良かったヤツらなのに、もう大喧嘩で。
 演劇に限らず、仕事でも人間関係でも、何事もちゃんとやろうとすると奥は深い。それを知らない甘ちゃんが物を作ろうとするから、ひとつ収めればひとつ問題が発生し、もう玉突きみたいに大騒ぎになる。芝居自体も、ただのお客さんだったころは「もっと脚本練り込めよ」とか「もっと暗転の時間を短く」とか(笑)当然のように思うのに、自分の舞台だと簡単にはできないということが分かってしまったんですね。
 なので、もうちょっと分かるところまでやりたいと思って。大学も奇跡的に4年で卒業したのですが、そのまま劇団を3年くらいやってました。でも、公演を重ねるごとに借金もすごくなっていって、最終的には250万円くらいになっちゃったんです。何せ「ノルマってやだよね」なんて言って劇団を始めたものだから、言うのは簡単ですけど「じゃあ誰が金を出すのか?」ってことまでは考えてなくて(笑)。
 うちの親父は広島の普通の警察官でして、実家が山持ちというわけではないし、だからまあ借金も膨らんできたし、芝居の作り方も少し分かったし、もうやめようと思ったのが27歳の時でして。
 でも「借金があるうちに就職するというのは嫌だ」って、また訳の分からないことを考えまして(笑)。で、借金を返すためだけの2年間が訪れるんですね(笑)。もう、死に物狂いでアルバイトをしました。当時、アコム・丸井・大信販・ライフなどから50万円ずつ5社くらい借りてました。50万円借りて、月に2万円ずつ返済。ところが翌月元金を見たら、49万8000円。つまり、世の中には利子というものがありますから、元金は月に2000円しか減らない。「なるほど!俺は一生返済し続けなくちゃいけないんだな!こんな恐ろしいシステムだったんだな!」と思い知りましたね(笑)。

-でも、なんとか無事に完済されたんですね。

森元 はい。2年間かけてようやく完済。あの時期の借金の苦しさが染み付いているので、僕はもう今、一切借金はしません(笑)。ローンも組まない(笑)。で、29歳になり借金を返し終わったので、就職することにしました。いくつか出版社やメーカーなどを受けて全部失敗して。ちょうどバブルが終わって、既卒採用は30歳がぎりぎりの頃でした。まあ、そういうことは何も考えてなかったんですけど。
 で、連敗を重ねていた7月に「三鷹に新しいホールができるので演劇企画員募集」っていう小さな新聞広告を目にしたんです。「35歳までの演劇関係者。公務員資格不要。待遇は市職員に準ずる」という条件でした。「ああ、こんな仕事があるんだなあ。俺でも演劇関係者なのかなあ」と思ったことを覚えています。最近でこそ少しはそういう募集がありますけれど、当時は全然ありませんでしたから。どうやら三鷹市のほうで、新しいホールをつくるけれど、市の職員だと3年とか5年で異動があるので、企画に関しては固有職員を入れて活性化しようということだったんです。受けたら、40人くらい応募があったらしいんですが、私が運よく受かったんです。(>>

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