Ort-d.d「女中とアラスカ-不条理劇二本立て公演-」/ジャン・ジュネ「女中たち」

◎女中たちの自壊する嘘の世界に、大山金太郎の幻を見た
 高橋 英之

 舞台を見ながら、奇妙なシンクロをしてしまった。こともあろうに、あの大山金太郎と。そう、『熱海殺人事件』(作:つかこうへい)のあの犯人役と。

 大山金太郎「なしてね、おいが職工じゃからね」
 ソランジュ「わたくしは女中です」


 夜ごと、「奥様と女中ごっこ」をしている女中姉妹。軽蔑されながらも、お慕い申し上げることになっている、憎悪の対象としての奥様。その唾棄すべき存在による抑圧された日中の暗さを紛らわせるために、女中姉妹がくりひろげる夜の虚構。それは、憂さ晴らしというよりは、女中姉妹にとってのもうひとつの世界の構築。

 その夜、姉の女中ソランジュ(三橋麻子)は、奥様役をつとめる妹の女中クレール(金子由菜)を絞殺するシーンにようやく上り詰めつつあった。Ort-d.d主宰・倉迫康史の大胆な演出で奥様のベッドに見立てられたベビーベッドのようなミニチュアのベッドの上に、奥様役を演じるクレールが鷹のように腕を広げて舞い降りる。優しさを見せつけるふる舞いが、高慢さの香りを発散させる。突き刺す言葉が投げかけられる先にいるのは、自分自身である女中クレールを演じる姉ソランジュ。いつもは達することができないドラマの極みに向けて、ソランジュは加速する。クレールもまた、その加速度に乗るように、理不尽なる高みの地位にある奥様役を演じきろうとしている。正義の味方のキメのポーズかと見まがう所作でソランジュがベッドの後ろに立ち上がる。左の手の甲を前に向け、すっと指先を天にさし、腕をL字に構える。シャキーン…たしかにその音が聞こえた。普段の夜なら、女中クレール役を演じるはずのソランジュが、この追いつめられた姉妹たちの最後の虚構の舞台で、初めてソランジュ自身となっていた。これまでの心にたまったものをぶちまけ、殺人者となることを誇らしく語り、いわばドラマのヒロインとして、警察の手に渡ることを潔しとしている。自らの意思として。その彼女が、文庫本5ページはあろうかという長いセリフを一気に吐く。そして、最後のクライマックスに、死体役となっていたもう奥様役だか女中役だかわからなくなっている妹クレールにセリフを投げかける。

「今こそ、わたしたちは、マドモワゼル・ソランジュ・ルメルシエになった。ムメルシエ一家の女。女メルシエ。音に聞こえた極悪人さ。(ぐったりして)クレール、あたしたち、もうおしまいよ。」

 日頃の鬱屈した女中生活の怨みつらみをすべておっかぶせる先であった奥様役を、自身の物語の中で殺すことに成功したソランジュは、その虚構の栄光にまどろむ恍惚感を存分に堪能しながらも、最後の最後に心が折れてしまう。突然の崩壊。高揚の消失。嘘で固められた女中姉妹の虚構の物語は、この夜に至る手前で、現実の世界とのトンネルを貫通させていた。奥様の愛する情夫たる旦那様を、偽計の告発書により逮捕させることに成功したのだった。ソランジュとクレールの女中姉妹は、奥様を悲しみに打ちひしがれる姿として現実の世界に召喚した。事実、奥様(渡辺麻依)は、旦那様を失った悲哀にまみれ、舞台の中盤で登場したときには自身の奥様役に耐えきれなくなったかのように「もうおしまいだわ」と嘆息する。女中たちは、この偽りの悲劇が本物となることで、奥様がその絶望ゆえにいやがうえにも更に美しくなることさえ、隠微なる楽しみと期待していたのかもしれない。しかし、その期待は裏切られた。虚構から現実へのトンネルは、突如、旦那様の釈放というごく当たり前の帰結に及んで、この夜、逆に堰を切ったように虚構の世界の崩壊をもたらした。そのことは、単に虚構の崩壊のみを意味するのではない。虚構と現実の間にトンネルを通してしまったいま、現実世界のつじつまの不整合は、虚構世界への耽溺を許さず、虚実の皮膜を破り、姉妹の全存在に悲劇的結末をもたらすことが必至な状況なのであった。

 狂気を演じることに躊躇をみせない三橋麻子が、ソランジュに乗り移ってのその虚構のクライマックスで絶叫してみせたとき、自分の目には、間違いなく大山金太郎の姿が舞台の上で重なっていた。そう、つかこうへいの名作『熱海殺人事件』の犯人・大山金太郎。職工として蔑まれてきた果てに、捜査室で偉大なる存在としての犯人役となることを宿命づけられた犯人。そして、本作品『女中たち』の女中ソランジュは女中役を演じきろうとした女中。職工と呼ばれ、田舎者あつかいされ、女中ソランジュに負けず劣らずうつうつとした日々を過ごすことを余儀なくされた大山金太郎は、こともあろうに捜査室で初舞台を踏むことになる。女中たちのように練習はしていない。それどころか、犯人となる心づもりもない。その彼が、突然現実の世界で、恋人を殺してしまう。その偶発的ともいえる事件の凡庸すぎる犯人が、百戦錬磨の刑事たちによって、あえてドラマチックな事件の偉大なる犯人役として、虚飾のセリフを繰り出させられる。大山金太郎、彼もまた、事件前には女中たちと同じように嘘の世界を構築し、その嘘が自壊してゆく悲哀をたっぷりと味わっていた。

大山金太郎「私たちはあの時、あれほどしあわせだったのに。とても悲しかったことは、私たちの話す言葉は辛い職場や、いやな寮生活の怨み事でしかないのです。そしておきまりのお盆になったら田舎に帰ることを、彼女は楽しく話してくれました。そして僕が職場を変えることも、うれしく聞いてくれたのです。でも本当は田舎に帰ることも、職場を変えることも、僕らは信じていないのです。他に話すことがないから、仕事を変えるのだと気負ってみるのです。そして、きっと仕事を変えるのです。」

 信じていない嘘をつき続け、結局のところ、その嘘のような話がやがて現実の世界に悲劇として立ち上がる。それは、哲学者ジャン・ケレヴィッチがイロニーと呼んだ、迷える者の迷いをさましてしまう「嘘として自壊する嘘」。すなわち、あえて繰り出される嘘。このジャン・ジュネの『女中たち』と全く同じテーマではないか。創作された国も言語も時代背景も異なる『女中たち』と『熱海殺人事件』がだぶってみえたのは、恐らく偶然ではない。なぜなら、これらの作品のように信じていない嘘をつき続けるしかない人間は、いつもあふれているからだ。いや、現代では、女中という言葉が死語に近くなりつつあり、職工という言葉が忌避されてメディアなどでは使われなくなっているからこそ、こうしたイロニーとしての嘘をあえてつき続けていくしかない人間はむしろもっとその数が多くなっているのではないか。そして、その嘘が、ときとして現実世界にさりげなく通じてしまう嘘の世界からのトンネルによって、突如として現実の悲劇として立ち上がり、どうしようもなく全ての存在が崩壊していく。これは、不条理劇でもなんでもなくて、よくある話なのだ。(蛇足ながら、そういう意味では、今回の公演が、ハロルド・ピンターの『いわばアラスカ』と並べて「不条理劇二本立て」と銘打たれたのは間違いだっただろう。『いわばアラスカ』は実話に基づいた作品であったし、『女中たち』はむしろ虐げられた者たちにありがちな話だったのだから。)

 『女中たち』では、ソランジュが極限までそのドラマを追い詰めて、ついに奥様役を殺すところで、逆に心がおれて「もうおしまいよ」と崩れる。しかし、その刹那に、作者ジャン・ジュネは、今度は妹のクレールを最後の狂気の使者として立ち上げる。クレールは、旦那様の釈放を知らされて追いこまれた姉妹が、奥様を待つ間に用意した毒入りの菩提樹花茶をソランジュに要求する。「そんな…」「だって…」と躊躇するソランジュに、口伝えのセリフを最後の奥様役となったクレールが要求する。しかし、結局この虚構の世界で訓練をつんでしまった姉妹は、見事に悲劇の最後のシーンを演じきってしまう。

 クレール「菩提樹花のお茶と言っているのですよ!」
 ソランジュ「でも、奥様…」
 クレール「そうよ。続けて。」
 ソランジュ「でも、奥様、もう冷めております。」
 クレール「それでも飲みます。おくれ。」

 久しぶりに高揚する演劇を味わわせてもらった。Ort-d.dの主宰・倉迫 康史は、「台詞が交響曲のように響き合う台詞音楽劇とでもいうべき言語劇の上演を芸術的目標」とすると宣言しているが、今回の『女中たち』では、女中クレールが、自分自身である女中クレール役を演じるソランジュを罵る奥様役を演じ、本物の奥様がまたその現実の中でクレールを罵る奥様という役割を演じ、罵りのセリフが3人の間で交響していた。ときに歌舞伎か能の所作のような形式美をまぜ、ときにかつてのアングラ劇さながらの絶叫をまぜるというように趣向を変えて。それは、罵りのコード進行の上で変奏する狂気のジャズトリオ。ソランジュ役の三橋麻子が狂気の極みで繰り出した、あのL字腕組ポーズが忘れられない。奥様役の渡辺麻依が外に去りゆくシーンの中で、塀の上から顔だけ出して「殺すつもりね、このわたしを」とつぶやくシーンは背筋が寒くなった。しかし、なんといって忘れられないのはクレール役の金子由菜の最後のシーン。無言で、毒入りのお茶のカップとる。暗転の絶妙のタイミングにあわせて、この舞台の全ての時間を最後のこの0.5秒に集約させるかのような速さで。瞬間、鳥肌が立った。

 倉迫康史の演出は、この最後のシーンで粋な味つけをやってくれた。舞台の奥のテーブルをはさんで向かい合う二人。「ハッピーバースデー」の歌が聞こえてくる。もちろん、原作にはない。でも、どこか、ふさわしい。つらい現実の世界を耐え、虚構の世界を堪能し、偽計のトンネルの先に希望の光をみつけたものの、自壊する嘘の力に押しつぶされた彼女たちが選んだこの演劇的高揚は、たしかに彼女たちが生まれ変わるための新たなバースデー。それを、あえて「ハッピー」とするイロニーを倉迫康史は忘れていなかった。
(観劇日=2011年5月14日)
(初出:マガジン・ワンダーランド第245号、2011年6月15日発行。無料購読は登録ページから)

【上演記録】
Ort-d.d 『女中とアラスカ‐不条理劇二本立て公演-』/ジャン・ジュネ『女中たち』
にしすがも創造舎(2011年5月7日-5月8日、5月14日-5月15日)

作:ジャン・ジュネ
訳:渡邊守章(岩波文庫版より)
演出:倉迫康史

出演
金子由菜、三橋麻子、渡辺麻依

スタッフ
照明:木藤歩
衣装:竹内陽子、前田和美
舞台設営協力:弘光哲也
制作:飯塚なな子
主催:シアターカンパニーOrt-d.d
共催:にしすがも創造舎
チケット料金:
一般1,500円/豊島区民・学生1,000円
『いわばアラスカ』とのセット券
一般2,500円/豊島区民・学生2,000円

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