台湾国立中正文化中心、SCOT「椿姫-何日君再来」(流行音楽悲恋花劇)

◎見えないものを見えるようにする
 よこたたかお

ふじのくに⇔せかい演劇祭(1) 論点
 2011年6月11-12日にかけて、静岡舞台芸術劇場で鈴木忠志演出の『椿姫―何日君再来』が上演された。
 この作品は『椿姫』(デュマ・フィス)から原作を取っている。とはいえ、小説版・戯曲版の『椿姫』の上演ではない。むしろ『椿姫』と言えばヴェルディ作曲のオペラ版が人口に膾炙しており、演劇よりもオペラ愛好家の中によく知られている作品だろう。鈴木忠志は既に2009年に『オペラ 椿姫』を上演している。従って、今回の『椿姫―何日君再来』は『オペラ 椿姫』(2009)への応答であったといえよう。

 中国、台湾、日本の政治的・文化的コンテクストを持った流行歌(ポピュラー・ソング)を用いながら、劇は進行していく。独白、歌唱、合唱など様々な台詞回しを用いながら、多層的に演劇空間を構築していく。

 いわば、この作品は歌を用いない近代演劇と、歌を用いるオペラの中間的様式であったと言える。ここで私が近代演劇とオペラの中間的様式だと言うのは、台詞を発するという物理的な現象が、物語のコードに完全に回収されきって受容されるわけでもなく(近代演劇)、リズムを持った台詞回しが「歌」というコードに回収されて受容されるわけでもない(オペラ)という意味で用いた。

 劇の冒頭で、アルマンの父が息子に向かって「お前はまだ幻を見ているのか?」と発して退場していく。これは中盤で再び繰り返される。上演全体を通してみれば小説版「椿姫」の引用が多くの部分を占めるが、その「椿姫」は「精神病院」という入れ子構造の中で二重化されている(それを明らかにするのが、白衣に赤い長靴を履いている看護婦である)。

 また、舞台中程に「額縁」(鈴木忠志いわく、これは「額縁」ではなく「縁」らしいが)があり、ブルジョワ階級の登場人物は、この「縁」の中に収まるように演出されている。アルマン、アルマンの父、マルグリットの三人だけが「縁」の外側におり、主要な登場人物として前景化されると共に、社会からはみ出した者たち=アウトサイダーとして描かれている。

 アルマンの幻想の中で、アルマン自身は同時に自壊していくブルジョワ階級の夢を見る。その夢を観て、アルマンは最後に微笑み、そして芝居は終演する。

 フランス19世紀末のデカダンス趣味の『椿姫』というメロドラマを、メロドラマに憧れる狂人として描き書き直すことで、舞台上の発話行為は現代化される。
 これが、演出上の構造である。

「椿姫―何日君再来」公演から
【写真は、「椿姫―何日君再来」公演から。撮影:Liu-Chen-Hsiang(C)National-Chiang-Kai-Shek-Cultural-Center,R.O.C
提供:SPAC 禁無断転載】

(2) 演劇のフィクション
 先ほど私が中間的様式と述べた、冒頭のアルマンの父の台詞「お前はまだ幻を見ているのか?」は、物語にも歌にも属さない。この台詞は『椿姫』からの引用でもなければ、流行歌でもない。所属するコードを持たない発話行為である。演出の構造上、これは精神病院の一室かどこかで狂気に陥ったアルマンに向かって投げかけられた言葉であるということにはなるが、この入れ子構造は劇の冒頭では明らかにされない。従ってどういう理由から、どういう目的を持って発話されているのかどうかは一見すると判別が付かない。

 ただ観客は、物理的に舞台上で発せられた言葉を感得するだけである。とはいえ、この発話が「現実世界」や「日常世界」に属しているとも受け取ることはできない。まさに舞台上で発話されているのだから。では、このアルマンの父の発話を、私たちはどのように解釈すればいいのだろうか。

 あえて言えば、この発話は「日常とは違うもの」に属しているといえる。
 つまり、この発話は二重化された二つの世界を同時に抱え込んでいることで成立をしている。これが、本作品の真骨頂であり、私が以下に考察を試みたい「演劇のフィクション」に関する切り口である。

 鈴木忠志『内角の和・II』は「演劇のフィクション」に言及し、こう述べている。

むろん日常に存在する身体を完全に否定することはできないが、日常とは違うものをつくるという意識で身体を扱うことはできる。そこに演劇のフィクションがあるのだ(…)
(鈴木忠志、『内角の和・II』、太字、筆者)

 これは、写実的な演技を基調とするリアリズム演劇に対する批判でもあり、同時に舞台上で達成されるある種のリアリティを集約した言葉である。

 俳優が舞台上で演技をすること、つまり演劇のフィクションを見せるということは、身体に物理的に負荷をかけなければ、「日常とは違うもの」は生まれない。ある意味では、この「日常とは違うもの」の広さ、大きさ、力強さ、強度のようなものが演劇のフィクションの強度を上げるのである。

 これがドラマのフィクションとは異なるということは、演劇を鑑賞する側からすれば当然のことかもしれない。「演劇を文学から切り離す」という傾向も当然のことのようになりつつある今、「演劇のフィクション」が「ドラマのフィクション」とは異なるということは改めて指摘することもないだろう。

 物語のコードにも回収されず、また歌というコードにも回収されない発話行為は、「精神病院にいるアルマン」と「アルマンの見ている幻想」の二重性の中に存在する。(当然、これは「俳優」と「登場人物」の二重性ではない。もし「俳優」と「登場人物」の二重性が問題になるとすれば、それは現実と虚構の裂け目を生み出す力は無視されてしまう。)「精神病院にいるアルマン」と「アルマンの見ている幻想」という構造は、当然「これは演劇である」というコードによって支えられてはいるが、そのコードの強度は、「精神病院~~」と「~~幻想」の二重性に委ねられている。

 従って、我々がこの作品を目の当たりにしたときに感じる演劇のフィクションの強度は、演出をもって初めて達成されるといえる。

「椿姫―何日君再来」公演から
【写真は、「椿姫―何日君再来」公演から。撮影:Liu-Chen-Hsiang(C)National-Chiang-Kai-Shek-Cultural-Center,R.O.C
提供:SPAC 禁無断転載】

(3) 身体訓練をしない演劇のフィクション
 こうした演劇のフィクションの強度を持とうとして、鈴木忠志が自身で兵士(トゥループ、劇団)を持ったことは現代演劇の一つの偉業に数えられる。鈴木忠志は俳優が舞台だけで生活できるような環境を整備し、商業演劇ではなく芸術的価値に重きを置いた劇団に所属する「舞台俳優」を育成している。その意味で、私たちは鈴木忠志の仕事を評価せざるを得ないだろう。

 しかし、身体的訓練や職業俳優としての保障を得ることだけが(もちろん、それが重要であることには変わりないが)、演劇のフィクションの強度を保つ方法ではない。

 いわば、身体訓練を拒否してきたといえる90年代以降の演劇人にも、その戦略を見出すことができる。その演出家とは前田司郎である。

 前田司郎もまた、積極的に演劇は嘘を付く場所であるという発言=演劇のフィクションの強度を問題にしているということを発言し、実践する演出家である。特に前田司郎の場合には「アトリエ・ヘリコプター」という自身の劇場を持っている点で、同世代の他の演出家とは趣向を異にしている。論点となるのは単に劇場を持っているというだけではないし、また前田司郎だけが他の演出家と比べて突出しているということではない。ただ、「静かな演劇」という言葉の中にひとくくりにされてしまっている感のある若手演出家連の中の違いを明らかにしていく上で前田司郎が好例であろうということである。

 前田司郎の場合、「日常生活」の表象の向こう側に、やはり「日常生活」があるという点で、作品がギリギリのところで「世界」からは無縁のところにあり、より不可解な私たちの「日常生活」へと入り込んでいく。それは「死体」(『生きてるものはいないのか』)であったり、「ディズニーランド」(2010年の工場見学会で上演された小品)であったりする。

 そして、前田司郎作品の真骨頂はアトリエ・ヘリコプターで最大限に発揮される。アトリエ・ヘリコプターは同時に前田の父親の経営する工場であり、同時に前田の住む場所であり、同時に劇場である。物理的な意味での前田司郎の「日常生活」が、次第に前田司郎以外の関係者及び観客にとって不可解な、読解不能な「日常生活」へと変化していく。

 その変容の過程を目の当たりにできる場所は、まさにアトリエ・ヘリコプターである(他にこまばアゴラ劇場も、前田作品の真骨頂に触れることはできるが、例えば東京芸術劇場や川崎市アートセンターなどプロセニアムアーチを持った劇場機構では、前田作品の真髄には触れることはできないと私はこれまでの観劇体験から感じた)。

 鈴木忠志が日常性から反発する代わりに、前田司郎は日常性をフィクション化する作業を通じて、演劇のフィクションの強度を上げている。これは、前田司郎が自己劇化することでキャラクターを造形しているという意味ではない。前田司郎が徹底的に「力を抜く」ことで、日常性から逸脱していくということを意味している。いや、むしろ「力を抜く」ことの難しさが、前田作品を技巧的なものに仕上げている。両者のアプローチは、真逆のものである。しかし、その真逆のアプローチの中にも演劇のフィクションの強度を上げるという積極的な姿勢が共通点として挙げられる。

 前田司郎は、物理的な日常世界の身体を対象化し、それを「力を抜いて、そのまま(直接的に)」舞台に上げる。舞台上に上がる前田司郎(ないし登場人物)を観て、私たちはこれが前田司郎なのか、登場人物なのか、区別がつかない。しかし、問題は「俳優」なのか「登場人物」なのかではない。ここで「日常的な行為(act)」をしている俳優が、「(死体やディズニーランドなどの)演技を“日常的に”再び行為(re-act)する」という二重性に演劇のフィクションが生まれるのだ。

(4) 世界の代理表象(re-presentation)に抵抗する
 「演劇のフィクション」が圧倒的に演劇愛好家にとって、また演劇初心者にとっても魅力的でありえるのは、(俗な言い方だが)見たこともない世界を見せてくれるからではないだろうか。

 この見たこともない世界は、つまり「見えないもの」であり、「見えないものを見えるようにする」(ピーター・ブルック)のが、「演劇のフィクション」にほかならないと私は思う。

 これは、「見世物小屋」の復権を意味しているわけではない(そもそも、寺山修司も単にブールヴァールの見世物小屋を復権しようとしていたわけではないだろう)。「見えないもの」は、単に悪場所-世間から隠されているようなもの=アンダーグラウンドを意味するだけではなく、触知することの不可能なものの表象を可能にする芸術は演劇しかない(ハンナ・アレント)ということを意味する。

 また「見えないものを見えるようにする」というのは、演劇によって世界の突端を垣間見ようとか、社会の構造を見出そうとする代理表象の役割を担うものとして演劇を捉え直そうとするものではない。そのような国際フェスティバル化していくような枠組みに、恐らく鈴木忠志の作品も、前田司郎の作品も乗るようなことはないだろう(一方で、平田オリザの作品は、まさに「覗き箱舞台」なのだから、国際フェスティバルには通用するのかもしれないが)。

 演劇が「イマ、ココ」性を発揮しようとすればするほど、作品がショーケース化していくことに自覚的になるべきだろう。近年の国際フェスティバルの訴求力の向上、国際フェスティバルに対する助成金の増加は、この逆説を加速させているとも言える。

 個人的な意見を述べさせてもらえば、演劇が提示(presentation)であろうと、再現(re-presentation)であろうとどちらでも構わない。演劇が表象不可能なものに向かうのならば、それは表象不可能なものの再現(re-presentation)でも構わないだろう。それは単なる言葉遊びなのだから。しかし、表象可能なものの再現(re-presentation)になってしまうのは最悪である。

 従って、読者の中でもし「見えないもの」とは何なのかと思う方がいれば、早々にして劇場に足を運び、劇場でそれを体験していただきたいと思う。
 そして、劇場で体験した時に私たちは、この芝居が成功だったのか失敗だったのか。また自分にとって面白かったのか、つまらなかったのかを判断することができるようになる。初めて見たもの、触れたものは誰にだって面白いと思えるのかもしれないが、演劇は未知なるものとの遭遇というよりは、未知なるものへと誘ってくれる媒体項であるのではないかと私は思う。

 正直に言って、私には『椿姫―何日君再来』において「演劇のフィクション」を作っていた「日常とは違うもの」が何であるのか、わからない。そして恐らく、これは誰にもわからない。だからこそ、あの時静岡芸術劇場にいた観客は、共に精神病院の中でアルマンに似た夢を見ていた、と言うことができるのであろう。

【著者略歴】
 よこたたかお
「演じることの楽しさ、美しさ、喜びを伝える」をモットーに演劇活動を展開。2005年に劇団NUDOを立ち上げ、現在に至る。劇場での作品上演だけでなく、路上などでのパフォーマンス活動も活発。日本劇作家協会会員。
* youtube映像>> http://www.youtube.com/user/yokotatakao

【上演記録】
流行音楽悲恋花劇『椿姫-何日君再来』(「ふじのくに⇔せかい演劇祭2011」招聘作品)
静岡県舞台芸術劇場(2011年6月11日-12日)

演出:鈴木忠志
原作:アレクサンドル・デュマ・フィス
出演:陳文彬、周明宇、翁寧謙、邱安忱、佐藤ジョンソンあき、内藤千恵子、呉朋奉、竹森陽一、塩原充知、加藤雅治、新堀清純、藤本康宏、石川治雄、カメロン・スティール、高野綾、齋藤真紀、木山はるか、満田年水、内野彰子、小林清美、太田夏子、上田大介

製作:台湾国立中正文化中心、SCOT
後援:台北駐日経済文化代表処


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