連載「芸術創造環境はいま-小劇場の現場から」第13回

 大石時雄さん(いわきアリオス支配人)
◎「第二の敗戦」から、新しい価値観の作品を

 震災からほぼ半年たった8月末、福島県のいわきアリオス(いわき芸術文化交流館)を訪ねました。いわき市の人口は今年4月現在、約34万人。福島県内では郡山市や福島市より人口の多い都市です。その中心にあるアリオスは、大ホール、中劇場、小劇場などを備えた総合文化施設です。しかしアリオスだけでなく、街のあちこちに屋根をブルーシートで覆った家が見えるなど、震災の傷跡はいまだ残っていました。
 前回の高知、金沢の美術館に続いて、地方都市で独自の活動を展開している公共文化施設の登場です。世界や東京などの先端芸術を呼び込むだけでなく、「脱東京」スタイルの芸術文化活動を地域に根ざしてどう展開するか。アリオスの実践例に、都市型小劇場の活動につながるヒントが隠されているかもしれません。(編集部)

||| 建物と組織はシンプルなほど強い

-震災直後から、このいわきアリオスは住民の避難所になったそうですね。

大石時雄さん
大石時雄さん

大石 そうです。公民館、小学校、公園などは一時避難所として指定されています。火災や水害があれば、住民が当然避難してきます。ただそれは一時避難所で、長期の避難所には想定されていないのだと思います。アリオスの目の前に平中央公園があって、震災当日アリオスに来ていた市民の方々をスタッフが誘導してその公園に避難してもらいました。その日のいわきは小雨でした。公園にいては雨に打たれてしまうので、目視で安全を確認できたアリオス本館の1階と2階、大ホールと中劇場のホワイエ部分に入ってもらって、そのまま避難所化してしまったわけです。

-避難所は24時間体制でしょう。大変だったのではありませんか。

大石 アリオスは(指定管理者ではなく)いわき市直営ですから、館長以下市職員が10人いて、さらに市役所がそばにあります。災害対策本部が立ち上がったあと、すぐに連携を密にして対処できました。まず、避難してきた市民の世話は、正規の市職員10人で担当することにして、勤務シフトを組み直しました。専門職の嘱託スタッフは私以下34人いますが、全員でその態勢をフォローすることにしました。建物の被害状況の把握と管理、水や電気、食糧の確保とか。避難所の運営は市職員、バックヤードの仕事は嘱託スタッフという任務分担です。その後間もなく、被災地には全国各地の地方自治体職員が応援に来てくれました。アリオスには長崎市から職員が来てくださいました。

-大石さんは震災当時、仙台にいたと聞きましたが。

大石 そうなんです。私は3月11日に仙台で震災に遭い、翌日からは指定の小学校に避難しました。しかし仙台市の職員は一人もいなくて、水と食料を運んでくる自衛隊と学校の先生たちが世話をしていました。市内全域が被害に遭ったので、市職員はそれどころじゃなかったんでしょうね。
 直後の避難所は、校庭に並んで水と食料の配給を受けて、なくなればそれっきりでした。しかし神戸市職員2人が応援に来てから変わりました。阪神淡路大震災の経験から得たノウハウがあるんですね。まず全員にアンケート用紙を配って、名前、住所をはじめ、どうして仙台にやって来て今何が必要か、何がどうなればここから出られるかを調べました。避難している人の人数と状況の把握ですね。その後は避難している教室ごとに班長を決めて食料などは朝夕一定の時間に班長が取りに来ることにした。その際に班長が人数の増減を報告する。こうしてそれまでの無秩序状態から、一定の秩序が生まれました。私は行きがかりで班長を引き受けましたが、この変化は印象的でした。

-いわき市の避難所はどうでしたか。

大石 アリオスは市役所のそばにあるし、完成してまだ3年しかたっていない新しい建物だったので建物自体の被害はそれほどありませんでしたから、避難した市民にとって比較的環境はよかったのではないでしょうか。水もトイレも十分ではありませんが完備していたし、建物はきれいで、救援物資もすぐに届くので、市内では最も安心感のある避難所だったと思います。

いわきアリオス(いわき芸術文化交流館)
【写真は、広い庭に開けているいわきアリオス(いわき芸術文化交流館)。禁無断転載】

-仙台にはどれほどいたんですか。

大石 ほぼ10日間です。たまたまそのあいだに、九州に住んでいた父親が危篤状態になりました。仙台から脱出できずにいたのですが、一日にわずか2便だけ再開した、仙台から新潟行きの高速バスを東京にいる演劇仲間が夜中にネットで予約してくれたので、そのバスでいったん新潟に行き、そこから上越新幹線で東京に戻り、大阪に避難していた私の家族をピックアップしてすぐに九州に駆けつけました。しかし到着した時は父の意識はすでになく、私が仙台の避難所を脱出して会いに来たことを知ることもなく、夜に父は息を引き取りました。葬儀を終えて、いわきに戻ったのは3月31日です。戻って間もない4月11日に震度6弱の余震がありました。仙台で3月11日に体験したのは震度7でしたが、当日のいわきは震度6弱。それと同じ揺れの余震が翌12日にもありました。でも震度7と6は相当違いますね。

-どんなふうに違いましたか。

大石 震度6はいわきの自宅で体験しました。ひどい揺れで物が倒れたり散乱したりしました。確かに大変でしたが、仙台の震度7のときは、仙台市青年文化センターの小さなホールで会議中でした。物が倒れるのはもちろん、天井から壁やらなにやらがバンバン落ちてきました。

-アリオスの被害はどうでしたか。

大石 アリオスを建設した清水建設の現場監督、電気、設備の責任者一行が4月8日にやってきました。遅いのではと考えるかもしれませんが、岩手や宮城など被害がもっと大きな現場に優先的に派遣されていたようです。丸1日全体をチェックした報告をその日の夕方に聞きました。それでやっと、被害の全体状況がつかめたわけです。
 被害は大きく分けて二つありました。市街地は地盤沈下が起きているので、外溝は隆起して、建物の中や地下の配管類が傷んでいた。これが一つ。もう一つは建物内部で、大ホールの音響反響板は総重量で約100トンあるのですが、他の物にぶつかって大きな破片が客席の前方と舞台に落ちていました。中劇場は演劇専用のため、天井には照明バトン、美術バトンなどが所狭しと並んでます。それがお互いにぶつかって、折れたり曲がったりしていました。移動可能な舞台面や客席装置が壊れることを一番恐れていたのですが、それは大丈夫でした。海外の特注品ですから、壊れていたら部品を輸入して再度組み立てる必要があるので、再開まで1年以上かかっていたでしょうね。舞台や設備の高度な部分に被害が集中したのと、あとは地盤隆起の関連ですね。

-なるほど。

大石 いわき市は合唱と吹奏楽で全国的に知られた土地柄なので、音楽の稽古に使われる練習室がアリオスの別館にあるんですが、そこはボックス型の建物です。四角の箱に四角の部屋があるだけのきわめてシンプルな構造です。配管類は多少傷みましたが、建物自体は地震でびくともしませんでした。4月11日、12日の余震で市役所1階が波打ってしまったため、市民課などがここに引っ越して業務を継続しています。市役所の分庁舎ですね。組織と建物はシンプルなほど強いと言われますが、それは本当だとこの震災で実感しました。(>>

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