山田うん「ディクテ」

◎「踊る女(danseuse)」の終わりなき練習-境界線上に立つ身体
 高嶋慈

「ディクテ」公演チラシ テクストと身体表現は、どのような関係を切り結ぶのか?

 山田うんの新作ソロダンス「ディクテ」のベースとなったのは、テレサ・ハッキョン・チャが1982年に著した『ディクテ』である。『ディクテ』は、文学・ジェンダー・ポストコロニアルなどの研究者のみならず、表現者をも深く惹き付けずにはおかない磁場を持つ、魅力的なテクストだ。1951年に韓国で生まれたテレサ・ハッキョン・チャは、冷戦構造下で強まる韓国の軍国主義的体制から逃れるために、少女時代の60年代前半に両親とともにアメリカ合衆国へ移住した経歴を持つアーティストであり、82年に亡くなるまで、パフォーマンスやインスタレーション、映像作品、メール・アートなど、様々な表現手段で作品を制作している。

『ディクテ』は、母語の外への移動と異言語の学習(カトリック系の学校で英語とフランス語を学ぶ)を強いられたチャ自身の経験に、日本の植民地支配により母語を剥奪された母の世代の記憶が重ねられ、自伝的要素と世界史的な地平とが交錯する。母―娘という個人的な軸線に加え、慣れない発話に伴う身体的苦痛/母語を禁じられた抑圧による苦痛は、「語る女(diseuse)」という抽象化された存在の経験として克明に描写される。さらに『ディクテ』には複数の歴史的な女性の名前―1919年の三・一独立運動を闘って獄死したユ・グァンスン(柳寛順)、ジャンヌ・ダルク、19世紀のカルメル会修道女である聖女テレーズ・マルタン―が召喚され、様々に交錯する。そしてそれらは統一的な文体ではなく、チャが断片的に綴る詩的言語や、通常の句読法を逸脱した文体に加え、フランス語の書き取り練習や翻訳問題、カトリックの教義問答、映画の台本など、様々な文体のコラージュとして表現される。また『ディクテ』を特徴づけるのは、こうした文体の混淆性に加え、英語とフランス語の併記、ハングルや漢字の挿入など、多言語使用のテクストの多層性であり、さらに写真や図版、手書きの草稿やタイプ打ちの原稿も挿入される。こうしたテクスト自体の異種混淆性は、チャ自身と母の置かれたディアスポラの状況を指し示すとともに、多様な「読み」へと開くことを誘うものでもある。このように多層的な響きに満ちたテクストを、山田はどのようにしてダンス―身体表現へと接続させるのだろうか?

「ディクテ」公演の舞台写真1
【写真は、「ディクテ」公演から。撮影=草本利枝 提供=Co.山田うん 禁無断転載】

 山田のパフォーマンスは、『ディクテ』冒頭に示された、「フランス語の練習問題」を再現するようにして始まる。舞台上に設置された学習机で『ディクテ』を広げ、黙々とノートに書き取りを行う山田。沈黙が破られるのは、『ディクテ』を手に持った彼女の声が発せられた時だ。本を指差しながら、しきりに何ごとかを語り続ける山田。だが明らかに日本語でない、何語かも不明な言語による発話内容は、観客の耳にはノイズとしてしか響かず、理解を拒む。理解できない観客の戸惑いや苛立ちを反映するかのように、山田の発話は次第に感情的な色を帯びていき、泣き叫ぶような嗚咽交じりの声へと変貌する。仰向けに倒れざまに、何度も何度も床に叩きつけられる身体。怒り、苛立ち、絶望、苦痛。そのどれでもなく、どれもが含まれている。意味は理解不可能で、だが感情だけが裸形で剥き出しになった声に晒されるとき、観客の中でも何かが反転する。母語という安全な殻の中にいた状態から。身体を引き裂こうとする嵐の凶暴さの中へ。チャの身体の中で起こっていたことが、今、目の前で山田の身体の中に起こっている。「語る女(diseuse)」の身体ではなく、「踊る女(danseuse)」の身体の中で。冒頭の10分ほどのパフォーマンスの間で私たちはそれをただただ目撃し、その強度に震撼する。

「ディクテ」公演の舞台写真2

「ディクテ」公演の舞台写真3
【写真は、「ディクテ」公演から。撮影=草本利枝 提供=Co.山田うん 禁無断転載】

 このように衝撃的な幕開けの後、山田は、マタイ受難曲、コントラバスの刻むジャズのリズム、朝鮮半島の民俗芸能であるパンソリの語り、そして唱歌の「ふるさと」と、様々に異なる文化的背景を持つ音楽の中へ、踊る身体を接続させていく。

 4種類が使用されるそれらは、だが、耳に心地よいBGMとして流れるのではなく、ダンスの強度と拮抗する強さを持って山田の身体と対峙する。音楽が切り替わる度に山田の身体は、その都度、別の言語の中に放り出されたかのような異なる身体表現を見せる。バッハの作曲したマタイ受難曲の冒頭を飾る荘厳な合唱とともに、激しく高揚し、時に官能的な動きを見せるダンス。受難の苦しみと、神の王国の到来への歓喜と恍惚感は、踊る行為のエクスタシーとともに、『ディクテ』中で言及されるジャンヌ・ダルクやユ・グァンスンなど殉教するヒロインの悲劇的なイメージとも呼応する。一転して、コントラバスの低く太い音が刻む緊張感に満ちたリズムは、山田の身体を極限まで緊張させ、四肢に力をみなぎらせて四つん這いで地を這うような動きは、手に持ったチョークが引きずるように描くストロークとして床に刻印される。そして、こぶしの効いた女性の力強い声で朗々と語られるパンソリ。にぎやかに打ち鳴らされる鐘や太鼓の響きとともに、どっしりと腰を低く落とした山田は、大地のエネルギーをふんばった両脚から吸い上げ、胴体に溜め、両手の先からゆらゆらと放出し、自らの身体を使って天へと昇華させていくかのようだ。アフタートークで山田自身、「パンソリの語りは、意味は全く分からないが、音声的には母語である日本語と最も近く、音楽と言語の中間にある感じ」と語ったように、コンテンポラリー・ダンスとパンソリという異色に思える組み合わせは、山田の身体の中で呼応し合っていた。

 一方、音楽とダンスとの不協和音において最も強烈な印象を残したのが、後半で用いられた唱歌「ふるさと」のパートである。「兔追ひし かの山 小鮒釣りし かの川」という清澄な調べにのせて、身体をのけぞらせ、声にならない叫びを上げながら、全身を硬直させ、痙攣したように床を這う山田。観客に向けられた彼女の顔には、照明の効果も相まって、死にゆく断末魔の形相/赤ん坊を産み落とそうとする母親という二つの像が重なって見え、その生と死が二重化された相貌に思わず戦慄を覚えた。それはまた、東日本大震災で壊滅した「ふるさと」に対する叶わぬ希求を想起させるとともに、「分断された『祖国』の名をたった一つのものとして口にすること」への希求を綴ったチャ自身の引き裂かれた状況とも重なり合い、様々な解釈の可能性を引き起こす。

「ディクテ」公演の舞台写真4
【写真は、「ディクテ」公演から。撮影=草本利枝 提供=Co.山田うん 禁無断転載】

 このように様々な音楽との(半ば強引で暴力的ですらある)ダンスとの接続は、山田による本作「ディクテ」を特徴づける一つ目の要素である。それは、コンテンポラリー・ダンスという「母語」の外へと、次々に身体を接続させていこうとする試みに他ならない。そこでダンス/ダンス以外のものとの境界線上に立とうとする山田の身体は、はたしてダンスの成立は可能なのかと問いつつ、奇妙なねじれや齟齬をはらみ、増幅させ、時に暴力的なものとしての身体表現を出現させる。

 本作の二つ目の特徴的要素は、その反復構造にある。マタイ受難曲のパートは(振り付けは異なるが)序盤と中盤で二回繰り返され、各音楽のパートの間には、「書き取り練習」の身振りや朗読と、観客への語りかけが度々差し挟まれ、全体の流れを中断する。「Aller à la ligne /Open paragraph /新しい段落/C’était le premier jour point /It was the first day period /最初の日だった まる」。『ディクテ』の冒頭に示されたこの「書き取り練習(ディクテーション)」は、教師がフランス語で発話するセンテンスを生徒が「書き取る」練習問題を模したものであり、タイトルの由来ともなっている。だが『ディクテ』においてそれは、「まる」「てん」「かぎかっこ」等の句読点にいたるまで文字通りに「書き取る」過剰な身振りとして示され、さらに山田はオリジナルのフランス語、翻訳された英語・日本語の3つの言語で交互に朗読し、手話をも交えて反復し続けてみせる。ここに露呈しているのは、反復による身体訓練であり、それは『ディクテ』に登場する「語る女(diseuse)」の苦渋に満ちた経験として記述されるように、異言語の発話の学習過程における身体的な苦痛をもたらすものである。慣れない舌や唇の動き、意味をもった言葉には未だならず、喘ぎやうめきにしかならない声。内部に溜まっていき、膿みうずく苦痛。その苦しみと重圧は、異言語の発話に伴う身体的苦痛のみならず、母語を話すことを禁じられた身体の苦痛をも示しているのだろう。母語と異言語との狭間で引き裂かれた身体、他者の言葉で話すこと/母語の禁止に抗おうと抵抗を試みる身体。母―娘という肉親関係で結ばれた女たち、歴史的な存在として召喚される女たち、架空で匿名的な存在として登場する女たち、「祖国」の代名詞として登場するSHE/Herなど、様々な女たちによって紡がれる『ディクテ』という書物は、「話すことをどう獲得するか」、つまり「話す行為の主体をどう回復するか」という困難な試みへと差し向けられている。

 では、本作「ディクテ」において、踊る山田の身体を二つに引き裂くものは何なのだろうか?終盤、観客に向けての山田の語りかけにおいてそれは判明する。「私は踊りながら、あなたたちの方も見ている。あなたたちには『見られている』という意識がないだろうけど、そちら側とこちら側、私には両方見えている。両方の境界線上にいる感じ」「動きの言葉は未来からやってきて、そっちへひっぱってくれるけど、しゃべっている言葉は過去からやってくる。だからこうやってしゃべりながら踊ろうとすると、言葉は過去の方からやってくるのに、ダンスは未来の方からやってきて、訳が分からなくなる」

 山田は実際に、しゃべりながらダンスを続けようとするが、発話は不明瞭になり、身体の動きとズレてしまう。発話とダンスを同時に行おうとすることは、身体表現の即興的な要素と言語化する作業との間のタイムラグを露呈させ、両極に山田の身体を引き裂き、混乱させ、収集がつかなくなってしまうのだ。従って山田は「まだ練習中」であること、もっとたくさんの練習が必要なことを告白し、舞台はやや唐突な感をもって幕切れとなる。

 未来から流出するものと、過去に係留されたもの。見ることと見られること。両極の間で引き裂かれ、境界線上で揺れ動きながら踊り続ける山田の身体は、『ディクテ』と共振・共鳴しつつ、テクストの単なる形象化ではなく、根底において通底し合っている。それは、チャの『ディクテ』に対する一つの豊かな応答でもある。「語る女(diseuse)」の苦渋に満ちた体験が語るように、「母語」の外部へと移行し異言語の共同体に参入することへの抵抗は、まず身体的な反応として生起するからである。

 最後に、本作の第三の要素として、そのメタ的な構造を指摘することができる。ダンスへの没入のみならず、演技的な要素の介在や、観客がその場に「いる」ことの承認が混在していること。それらはたびたび中断され、反復される構造の中で、互いの領域を侵犯し、照射し合っている。さらに、ダンスを提示しつつ、その自らのダンスについて自己言及し分析するというメタ構造によって、「ダンスとは何か」という問いは常に開かれ続け、終わりなき思索と練習の中に立ち現れる。それは、観客に「見せる」ための完成形というよりも、来るべきダンスの出来(しゅったい)に向けた、自身の身体との内省的な対話である。

 歓喜や恍惚、怒り、絶望、苦痛など様々な感情と一体になったダンス、演劇的な要素、内面の告白のような観客への語りかけ、「ダンス」について逡巡する言葉、など複数の要素から構成される本作はそれ自体、身体表現の強度の中に観客を巻き込みながら、「ダンス」の境界を問うものでもあると言えるだろう。
(8月12日・13日観劇)

※参考文献
 テレサ・ハッキョン・チャ『ディクテ』池内靖子訳、青土社、2003年
 池内靖子・西成彦編『異郷の身体 テレサ・ハッキョン・チャをめぐって』人文書院、2006年
 長畑明利「話す苦痛/話さぬ苦痛―テレサ・ハッキョン・チャの『ディクテ』を読む」、モダニズム研究会編『越境する想像力―モダニズムの越境Ⅰ』人文書院、2004年

【筆者略歴】
 高嶋慈(たかしま・めぐみ)
 1983年大阪府生まれ。京都大学大学院在籍。美学、美術批評。ウェブマガジン PEELER、『明倫art』(京都芸術センター発行紙)にて隔月で展評を執筆。

【上演記録】
山田うん新作ソロダンス「ディクテ
京都芸術センター 講堂(2011年8月12日-13日)

テキスト:「ディクテ」 (テレサ・ハッキョンチャ)
振付&出演:山田うん
アフタートーク:池内靖子(立命館大学教員)
日替りゲスト
7/12 松田正隆(劇作家・演出家)
7/13 レベッカ・ジェ二スン(京都精華大学教員)
料金:前売・予約 ¥2,300  当日¥2,500 学生¥1,500


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