三浦基/地点「かもめ」、Baobab「Relax★」、ヤニス・マンダリス/ファブリス・マズリア「P.A.D」

◎そして祭は終わる-KYOTO EXPERIMENT 報告 最終回
 水牛健太郎

 秋分の日(9月23日(金))から始まった京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT)は10月16日(日)、全日程を終了した。したがってこのリポートも4回目の今回が最終回となる。13日(木)以降に見た作品について報告したい。

 三浦基/地点の『かもめ』を13日に三条通のART COMPLEX1928で見た。もとは新聞社の建物だったといい、上演が行われたのはそのうち、奥に小さな演壇のある講堂である。演壇には丸い額縁のようなものがついている。この部分を含め、壁から天井にかけての左官屋さんの仕事が丁寧で美しい。1928とは昭和3年の意味であろう。昭和初期の京都の職人の技術の素晴らしさ、それを支えた京都の豊かさがしのばれる。

 今回地点は京都芸術センターの和室「明倫」でも『かもめ』茶室版と称した上演を行った。私はそれを10月2日に見た。床の間にトレープレフ(小林洋平)が立ってセリフを独白で言い、他のキャストもいるもののセリフと動きが少なかった。ART COMPLEX1928での上演と比べると、茶室版はトレープレフに焦点を当てた簡略版と考えられるものだったので、ここでは主にART COMPLEX1928版について書く。

「かもめ」公演チラシ
【photo: Yujiro Sagami 提供=京都国際舞台芸術祭 禁無断転載】

 「トレープレフがなぜ死ぬのかは、(中略)わからない」と三浦は茶室版の当日パンフレットに書いている。茶室版の演出はまさにこの謎に焦点を絞り、謎のまま差し出した上演だった。ART COMPLEX版ではそれに、他の主要人物にまつわる謎も加わる。なぜアルカージナは息子を愛せず、わずかな金さえ彼のために使うのを拒むのか。なぜトリゴーリンは、最後の場面で、湖に小説の取材をしに来ているのに、その小説に深いかかわりがある鴎のはく製のことを覚えていないのか。

 この戯曲の登場人物は「変わらない」のが特徴だ。トレープレフは小説家になっても、遂に最後まで混迷から抜け出せない。アルカージナは息子に対する理不尽なネグレクトをどうしてもやめられない。この上演には登場しないが、ソーリンもドールンもシャムラーエフも最後まで行動も言うことも変わらない。マーシャに至っては、トレープレフへの恋を断ち切ろうと結婚までしたのに、思い切ることができずに彼の周囲をうろうろしている。今回の上演ではアルカージナ、トレープレフ、ニーナ、トリゴーリンの主要登場人物4人以外でただ1人マーシャだけが舞台上に登場するが、それはこの見事なまでの「変わらなさ」と、いつも喪服を着たその姿が、この作品の象徴と見られたからであろう。

 シェークスピアの登場人物たちは、自分の運命と戦う。運命は自然現象や政敵、戦場での敵の形を取って現れる。「リア王」も「ハムレット」も「マクベス」も性格悲劇と言われ、彼らの独特な性格が運命を呼び寄せているのは明らかだが、それでも彼らを滅ぼす敵は、あくまで彼らの外に現れる。

 約300年後、「かもめ」の登場人物には、敵は現れない。彼らが恐ろしい運命の魔手から逃れられているのは、3世紀の間の経済と科学と医療の発展のおかげであり、また当時の比較的安定した社会のせいでもある。だから彼らは、思うように生きられてもいいはずなのだが、その時、自分自身が彼らの最大の敵として現れて、結局彼らを滅ぼしてしまう。どうしても変われない自分とじたばた戦い、やっぱり変われないおかしさ。

 三浦は、彼らを徐々に蝕み、滅ぼしていくその「変わらなさ」を、セリフの内容をしっかり聞かせることに意を用いた演出で、観客に伝えることに成功していた。アクセントや発音を意図的にずらした地点独自のセリフ術は、もっともらしいドラマの流れにではなく、言われていることそのものに観客の注意を促す効果があった。日本人の感覚を超えた長ゼリフの多い翻訳劇では、ことに効果的なセリフ術であることに気付かされた。上演はタップあり、歌ありと盛りだくさんの内容だが、焦点はセリフの内容にぴたりと合わされていた。

 「変わらない」登場人物の中で、ひとり敢然と変わろうとしたのがニーナだ。三浦は彼女を演壇の机の上にすっくと立った姿として描いた。安部聡子の演技は素晴らしく、劇中劇の場面の朗誦は見ごたえ、聞きごたえがあった。頭でっかちの青年が書いた、退屈でちょっと変な作品、であるはずが、この場面は全然そうでないのに驚いた。その後改めて戯曲を読んでみると、この劇中劇の評価自体が両義的であることに気づいた。
 しかし、ニーナは本当に変わったのか。トレープレフがドールンに説明する惨憺たるニーナの現状と、ニーナが語る女優としての自画像と、どちらが本当のニーナなのか。深い謎が残る。その謎もまた、観客に向かって真っすぐに差し出されていた。

 Baobabの『Relax★』で一番に感じたのは、言葉と身体の近さであった。セリフも多く、演劇的な要素も多く取り入れたダンス作品である。話しながら踊る場面が多いのだが、それが実に自然でかっこよかった。10日(月)に見たKIKIKIKIKIKI『ちっさいのん、おっきいのん、ふっといのん』にも共通する感じだが、Baobabの方がスタイリッシュである。いずれにせよ、若い人の身体が変わり、同時に言葉も変わり、両者が近づいてきているのかもしれないと思った。

 日本人は言葉と身体の距離がちょっと遠い。日常と踊りの距離も遠い。歴史的にどうだったのかは、不勉強で分からない。しかし現代において、嬉しい時に踊る日本人はあまりいないことは確かだ。総選挙の時テレビを見ていると、沖縄で当選した候補の事務所ではみんな踊っている。沖縄が異文化であることを、あれほど思い知らされる場面はない。理屈ではなくて、ヤマトではありえない光景だからだ。「理屈ではない」というところが文化だ。たとえば私が親戚や友人の披露宴で立ち上がり、踊れるものかどうか。本当に厳しい。

 BaobabやKIKIKIKIKIKIの問いかけは、「嬉しい時や悲しい時に、さらに毎日の営みとして、踊ってもいいんじゃないか」というところにあると感じた。要は、「もうちょっと、言葉と、日常と近いところで踊ってみよう」ということだ。決してファッションではなく、根源的な問いかけだと思う。ただBaobabにはちょっと啓蒙臭があるところが、受け止め方を難しくしていた。

 例えばこんな場面がある。今回の出演者の中に一人、太目の女性がいる。踊る練習をしているが、なかなかうまくいかない。そこへほかの出演者が現れて、アイドルみたいに踊ってみようと持ちかける。「無理だ」とためらう彼女。しかしそこでみんながアイドルのように踊り出すと、だんだん身体が動きだし、遂にはその一員となってはつらつとした笑顔で踊り出す。

 何だかコカ・コーラのCMにありそうな場面である(ちなみに主宰の北尾亘はアフタートークで本当にコカ・コーラを飲んでいた)。「別に踊らなくていいんじゃないか」と私は思った。これはダンス公演なので、踊るのが正義になることはわかるが、それでもなお抵抗は残る。ダンサーが「踊れる人」「踊るのをよしとする人」であることは当然のこととして、「踊らない人」「踊れない人」に対する想像力をほんのちょっと要求しても、不当ではないと思う。「がんばって一緒に踊ろう!」という以外の答えだってあるんじゃないか、ということだ。
 全体的には大変面白く、刺激的な公演だったことは強調しておきたい。

 ヤニス・マンダフニスとファブリス・マズリアという2人の男性ダンサーによる作品『P.A.D』。会場である京都芸術センターのフリースペースに入ると、高さ約1.5メートルの木の壁で囲まれた7~8メートル四方の正方形のスペースがあり、そこにトレパン・トレシャツ(フード付き)姿の2人がいる。プロレスのデスマッチを連想させる状況で、度胆を抜かれる。観客は木の壁の周囲に座り、ちょっと下を覗き込むようにして鑑賞することになる。

 そして作品は、ある意味デスマッチそのものであった。もちろん殴り合ったりはしないが、それでも床を絡まり合って転げまわるレスリングのような動きがある。また相手の身体を木の壁に押し付ける動作が多く、その度に「ガコッ」とかなり痛そうな音がする。相手の頭を隅に押し込むような場面もあり、気を付けないと首をやられるだろう。またすごいのは、2人がビリヤードの球のように壁にぶつかっては跳ね返る場面。ぶつかるごとに壁が大きく揺れる。途中でお互いまともにぶつかって、方向を変える。胸と胸を合わせるように注意しているのに気付いたが、それでも痛いはずだ。

「P.A.D」公演の写真
【写真は、「P.A.D」公演から。photo:Evie Filaktou
提供=京都国際舞台芸術祭 禁無断転載】

 そして、これはゲイの性的な感覚をベースにした作品であることは、最初から明らかであった(この2人が「ゲイだ」とか「ゲイでない」ということを言いたいのではない。この2人はゲイではないかと私には思われるけども、それは推測の域を出ないし、そうでなかったとしてもこういう作品は作れるのかもしれない。それは私には分からない。念のため)。男性2人のがっしりした肉体の激しいぶつかり合いは、信頼関係を前提にしていることはもちろんだが、それだけでは説明のつかない暴力性を秘めている。めまぐるしく入れ替わる支配と被支配、憎しみと愛情の際どい境目。性愛そのものずばりの姿態も多く取り入れられている。

 ただそれを、人間にとって普遍的なものとして取り出し、差し出す手つきが確かだった。核心をぎゅっとつかんで余計な装飾なしにごろりと投げ出す。そんなハードな感触は、いまだに日本の作品では(分野を問わず)なかなか見られない特色となっている。フェスティバルで外国作品に触れる意義はまさにそこにあるだろう。

 これで私のKYOTO EXPERIMENT報告を終わる。他にも見た作品はあったが、体調もあれば作品との相性もあり、自信がないまま不当な評価を下してしまうのを恐れる。特にフリンジの作品は見方次第で評価が大きく変わってしまうものが多かった。そこに若手作品の魅力もあるのだが、この報告の形態で評価を並べると、成績一覧表みたいになってしまう。それは本意ではない。

 それにしても、会場となった建物の素晴らしさなど、京都の文化遺産の厚みを思い知らされる機会が多かった。また、町の大きさを考えると、演目数でF/Tにほぼ匹敵する規模の舞台芸術祭を実施することの大変さ、そして貴重さを思わないわけにはいかない。関係各位のご努力に敬意と感謝を記して、報告の締めくくりとしたい。

【筆者略歴】
 水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2011年4月より京都在住。元演劇ユニットG.com文芸部員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
KYOTO EXPERIMENT2011(京都国際舞台芸術祭)
▽三浦基/地点『かもめ
公演日時
【京都芸術センター 和室「明倫」】9月28日(水)~10月10日(月・祝)
【ART COMPLEX 1928】10月13日(木)~16日(日)

ポスト・パフォーマンストーク
★9月29日(木)終演後

上演時間
・和室「明倫」公演: 60分
・ART COMPLEX 1928公演: 115分
※当初、両会場とも85分の上演時間を予定していましたが、作品の仕上がりに伴い上演時間が異なることとなりました。

チケット
【京都芸術センター 和室 「明倫」】
2,000円(一般/ユース[25歳以下]・学生)
1,000円(高校生以下)
※各回20席限定
※未就学児入場不可
※一般/ユース・学生券は、当日500円増。
【ART COMPLEX 1928】
3,000円(一般)
2,500円(ユース[25歳以下]・学生)
1,000円(高校生以下)
※未就学児入場不可
※一般/ユース・学生券は、当日500円増。

原作:アントン・チェーホフ
演出:三浦基
翻訳:神西清
出演:安部聡子、石田大、窪田史恵、河野早紀、小林洋平
舞台監督:大鹿展明/美術:杉山至+鴉屋/特殊装置:石黒猛/音響:堂岡俊弘/
照明:宮島靖和(RYU)/衣裳:堂本教子/テクニカル・コーディネーター:關
秀哉(RYU)/宣伝美術:相模友士郎/制作:田嶋結菜
製作:地点/共同製作:KYOTO EXPERIMENT
助成:芸術文化振興基金、EU・ジャパンフェスト日本委員会
京都芸術センター制作支援事業
共催:KYOTO EXPERIMENT/主催:合同会社地点

▽Baobab 『Relax★
構成・演出・振付 北尾亘
出演 目澤芙裕子、米田沙織、北尾亘(以上、Baobab)
   内海正考、大石憲、田中美希恵(贅沢な妥協策)、古木将也、古屋恭平、渡邊ありさ

舞台監督:石川佳澄
照明:水田歩美
音響:杉山碧(La Sens)
宣伝美術:岡本優
制作:萩谷早枝子

公演
10/14(金)~10/16(日)
全4ステージ
チケット料金
前売り 2,000円 当日 2,300円

▽ヤニス・マンダフニス/ファブリス・マズリア『P.A.D
公演日時
10月14日(金)~16日(日)
ポスト・パフォーマンストーク
★10月16日(日)終演後
上演時間:60分
会場:京都芸術センター フリースペース
チケット
3,000円(一般)
2,500円(ユース[25歳以下]・学生)
1,000円(高校生以下)
※一般/ユース・学生券は、当日500円増。

構成・演出・出演:ヤニス・マンダフニス、ファブリス・マズリア
舞台監督:マックス・シューベルト
製作:アテネ&エピダウロス・フェスティバル2007

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