「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ構成・演出「わたくしという現象」、飴屋法水構成・演出「じ め ん」)
「無防備映画都市-ルール地方三部作・第二部」(作・演出:ルネ・ポレシュ)

◎青い光は放たれたのか?-「宮澤賢治/夢の島から」
 大泉尚子

 3月11日の震災の後、無事を確認し合った在日で韓国籍の友人から、You Tubeでこういうのがあるよと知らされました。「雨ニモマケズ 愛は国境を越える 311 ジャッキーチェン 」http://www.youtube.com/watch?v=_BJbIZCf2jk。3月末、被災地を応援したいというジャッキー・チェンの呼びかけで、アンディ・ラウやジュディ・オングほか、香港の100人もの有名アーティストが参加。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に曲を付け、日本語で1フレーズずつ歌い継いでいく。日本ではサントリーのCMとして、この方式で坂本九の「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」が流れましたが、どちらが先の発案かは定かではありません。

 このいかにもな企画に、気持ちを大きく揺さぶられたというわけではないのですが、意外にも数cmくらいは動かされてしまったような気がします。その理由には、日本人ならこれはないなというメロディーラインの意外性と演出の工夫があります。最初に全員が深々とするお辞儀、その日本人とは微妙に違うぎこちなさが、なぜか心に残りました。合掌した形から手を広げると、小さな折り鶴が入っているという繰り返しも、常套スレスレのところではありますが印象的です。何より、東北は岩手出身の童話作家・宮沢賢治の詩、そこに目をつけたのがポイント。

 日本人なら誰でも知っているこの詩の“…にも負けず”に表される決意の強さ、さまざまな行動とあるべき姿勢を重ね、最後に“そういうものに私はなりたい”とどんでん返す着地の爽快感。これを選んだコロンブスの卵ともいうべき着眼力は、なかなかのものだと思います。

 原詩を読み直すと「野原ノ松ノ林ノ/小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ/東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ/ヒドリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」と、方角や場所、行為などが列挙されています。人を慰めるとか励ますというのは、生半可なことではできないと思うのですが、スゥーっと他人の気持ちに寄り添っていく原型的なものが提示され、それが詩を成立させている。

 歌の力、詩の力、行為の力、具体性の力ですね。というわけで、ほかでもいろいろ言われていたのかもしれませんが、震災と賢治は、私の中でもある種の磁力を持って結びついていました。

 そして「宮澤賢治/夢の島から」。9月16日夕刻、新木場駅を降りると、この公演を見るのであろう人の群れ。それに交じって歩くこと約10数分。会場の多目的コロシアム前に着くと、すでに整理番号順にかなりの人が並んでいます。私は800番台で、800~1000と書かれたプレートの列ですが、まだ後ろにも人波は続いていく。時間になり、ぞろぞろと会場に入ります。そこは草地で、歩いていると、野外公演の注意というのを無視して履いてきたサンダルの足が次第に濡れてきます。

 受付ではチケットと交換で、大きな白い旗を渡されました。棹は2m以上あるのか、かなりの長さ、旗の部分は白いビニール素材でけっこう大きく、ずるずると地面につきそうになるのを、グッと持ち上げながらまわりの人とともに歩きます。大きな楕円形の広場の周囲をぐるりっと半周以上、けっこうな距離を粛々と列をなして。

 時刻は19時半、徐々に夕闇に包まれようとする頃。外周を大きな樹々に囲まれたその広場を照明がぼんやりと照らし出し、低空を蝙蝠が盛んに飛び交っている。空には、星が1つ2つと瞬き、その間を時折、ライトを煌かせた飛行機が飛んでいく。とこうするうち、観客はだいたい客席と思しき場所にたどりつき、お互いに前後左右を気遣いながら、旗を寝かせ、白いシート部分に腰を降ろします。ここは暗い森の中、ちょっと人数が多すぎるけど、白いとんがり帽子の覆面ならクー・クラックス・クラン、黒魔術の儀式―サバトなんていうのも、こんな雰囲気かしらん?…なんてあらぬ連想をしながら。

 観客席となった草地に囲まれた楕円形の地面には、白い樹脂製の椅子が、何百脚も整然と置かれています。ほの暗い中でも、樹々の緑と白のコントラストは、シンプルで美しい。こういう広い場所なので、相当な音量だろうと思われる電子音のようなノイズが鳴っています。

 白髪の男性(私の席からは、ちょっと判断がつきにくかったのですが、これは飴屋法水さんでした)に連れられた、黒っぽい服を着た子どもが出てきました。男性は、その子の体に白い布をまとわせてから後方に去り、子どもだけがぽつねんと残されます。ガッチャーンガッチャーンという重い金属が打ちつけられるような音。正面のあたりで細く煙が上がり、低音の男性合唱が流れてきます。

 突然、椅子が動き始め、何かに引っ張られるように、全体がずるずると後方へ下がっていく。その強い力に抗しきれずに、椅子同士が絡まったり折り重なったり、何脚かは倒れてしまったり。一瞬、人が隠れていて椅子を動かしているのかと思いましたが、人の姿は全く見えません。緑の中の白のグッシャグシャ。不意に、津波で打ち上げられた漂流物の映像が目に浮かびます。全然別物なのは、よくわかっているのに、どうしようもなくそれが重なってしまう。乾いて匂いもない、芝生にとびきり似合うただの白い椅子なのに。

 男声合唱は続いています。宗教曲、レクイエムなのでしょうか。敢えて言葉にすれば「荘厳」とでもいうような、ある種の感情が喚起されます。ただし一抹の、これに身をゆだねてしまっていいのかという問いが、頭の隅っこに引っ掛かっていたのだけれど、やっぱりそういう感情の波に飲み込まれそうになったことは否定できません。遠く正面にある土手の上で煙が上がったかと思うと、その辺り一面は煙に包まれました。金属が軋むような低い音。

「わたくしという現象」公演の写真
【写真は、「わたくしという現象」公演から。撮影=片岡陽太©  提供=F/T2011 禁無断転載】

 その土手から白い衣装の人たちが、湧き出すように現れて、土手をごろごろと転がり落ちてくる。いや、そうではなく、ただ白いビニールが散乱しているだけかと見れば、やはり人。人が転がったり伸び上がったりしている。そうして、白い人の群れは立ち上がり、こちらに向かって歩いてきます。ギリシア悲劇のコロスのように。先頭は先ほどの白髪の男性。全員が後ろ向きになり、その男性1人がこちらに歩いてくる。残されていた子供は、白い布を脱ぎ捨て、黒い服に戻って、白い群れの中に入っていく。それは、可塑性のある巨大な物体の中に吸い込まれていく小動物のようでもあります。再び出てきた子供は、衣装を青いものに変えます。

 群れの中から何人かが観客に近付き、誘うかのように白い旗を振り、私も含めて観客の一部は、思わずそれに応えるかのように立ち上がって旗を振ります。すると、さっきまで全体を照らし出していた照明が光度を落とし、正面の木だけに青い光が当たる。そこから、青い1本のレーザービームが空を突っ切って右後方へ伸びていく。まもなく、その光も消えてしまう。その時仰ぎ見た暗い空に、真っ黒な切れ切れの細い雲のかなりの速さで流れていたのが、もちろん演出ではあり得ないのだけど、目の奥に焼き付いてしまいました。

 こうして「宮澤賢治/夢の島から『わたくしという現象』」(構成・演出:ロメオ・カステルッチ)は終わりました。

 ライトに照らし出された蝙蝠の飛び交う空間に、『春と修羅』序の冒頭「わたくしといふ現象は/假定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」を一瞬想起したものの、いったいどこが賢治だったのだろう? と、そんな素朴な疑問は、まあ、さておきましょうか。濡れた柔らかい草地の触感、黒ずんだ緑の樹々に包まれる空気感、暗い空の大きさと重量感を全身で体感させる、場を最大限に味方につけたこの演出力はすごい。無数の椅子が音もなく不規則的に動き崩れる様子には、瓦解・混乱・無秩序の圧倒的なイメージがありました。そしてその後に現れたものが孕んでいるのは、鎮魂と希望や再生のメッセージだったのか。いずれにしても、見事に完成されたパフォーマンスでした。

 昨年のフェスティバル/トーキョー10のカステルッチ作品「神曲」と比べても、より本領を発揮したように感じました。たとえば「神曲『地獄編』」の冒頭、カステルッチが防護服をつけて獰猛なシェパードに噛まれる場面。映像で見たアヴィニョンの古城の庭でのそのシーンに、鬼気迫る緊迫感が漲っていたのに比べて、東京芸術劇場中ホールでは、囲い込まれた場所での去勢されたものに見えてしまいました。やはり、今年の方が、夢の島という絶好のロケーションを得て、伸びやかにその真価を放ったのではないでしょうか。

 ただ上演中に感じた、この体験的な作品の醸し出す甘美ともいえるものに、そのまま手放しで浸ってしまっていいのかという微かな問いは、その後も尾を引いたのです。この西欧的にスタイリッシュでアーティスティックな、言い換えれば、巧みに仕組まれたどこにも瑕疵の感じられない作品。ほんの小さな違和感を言い立てることは、あんまりうまくでき過ぎてるじゃないといういちゃもん、ご託を並べているのと同じなのかもしれません。でも、ここに鎮魂の意味合いが少しでも籠められているとしたら、この華麗なまでにダイナミックな表現に“おろおろ歩く”以上の慰めの力があるのかという疑問は、自分の中にもう少し留めおいた方がいいと思っています。

 もちろん、震災以降の舞台作品に、必ず何らかのメッセージ性が籠められていなければいけないなどとは決して考えません。ただ、思わず知らずのうちに、それを見出してしまうということも否めません。作り手はそのことを、非常に強く意識しているでしょうが、観客である私は、たとえばそこにある絶望と希望の割合やありようといったことにも、どうしようもなくナーバスになってしまう。無根拠に楽観的なものにも、無意味に絶望的なものにも、距離感を感じてしらけてしまうのです。それは、美しく整い過ぎたものにも対しても同様です。先のジャッキー・チェンたちのお辞儀、日本人特有の動作を彼らがややぎこちなくなぞったことが、かえって胸に残ったのは、その裏返しなのかもしれません。そこではもう、商業主義だとかアートだとかいう枠組みもとっぱずされ、「大きな感動」のうねりに飲み込まれようとするのに、心の奥で警鐘が鳴るときもあれば、些細な仕草ひとつが琴線に触れることもあるのです。

 この間観客は、やや気難しくなったとも、ある種の選択眼を持つようになったとも言えるのかもしれません。そのフィルターを通した時に、完成され尽くしたかに見えるこの作品が、心にがっきと食い入るものになり得たかどうかには疑いが残ると言わないわけにはいかないのです。夜空を貫いたレーザービームも「假定された有機交流電燈のひとつの青い照明」に拮抗する光を放つことはできなかったように思います。
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