マルセロ・エヴェリン他「マタドウロ(屠場)」
ヤニス・マンダフニス/ファブリス・マズリア「P.A.D.」

◎屠られるもの、眼差し、そして壁
 高嶋慈

KYOTO EXPERIMENT 2011チラシ 今年、第2回目の開催となった「KYOTO EXPERIMENT 2011 京都国際舞台芸術祭」。本評では、獣性の表出と削ぎ落とされた洗練さという点は対照的ながら、身体表現の強度を差し出すとともに、観客が「見ること」の意味をもえぐり出すような2作品-マルセロ・エヴェリン/デモリションInc.+ヌークレオ・ド・ディルソル『マタドウロ(屠場)』とヤニス・マンダフニス/ファブリス・マズリア『P.A.D.』について、クロスする形で取り上げる。

 ブラジルの振付家・パフォーマーであるマルセロ・エヴェリンによる『マタドウロ(屠場)』には、自身のカンパニー「デモリションInc.」と、ブラジルに拠点を置くパフォーマンス集団「ヌークレオ・ド・ディルソル」が参加している。会場に入ると、コの字型の観客席に囲まれた舞台の上では、山猫のマスクをすっぽりと被って顔を隠した男が一人、抱えた太鼓をうち鳴らしながらぐるぐると歩き回っていた。太鼓で股間は隠れているものの、マスクの他は何も身に着けず、これから何かの儀式か祭りを始めるかのように太鼓を響かせながら、客席の方を見回している。こうして穏やかならぬ雰囲気とともに『マタドウロ(屠場)』は始まった。

 上演開始とともに舞台は暗転、太鼓と犬の吠え声が響き渡る中、もう7人の男女のパフォーマーが登場する。彼らもまた、鳥を象ったような呪術的な仮面、骸骨の仮面、プロレスラーの覆面、目出し帽などを被って顔を隠している。蛍光灯を樹木の形に組み合わせた、ブリコラージュ的な照明装置が、人間/動物、現世/異界、生者/死者の狭間にあるような彼らの姿を照らし出す。そして8人は壁際に一列に整列し、山猫のマスクの男以外は観客に背を向けたまま服を脱ぎ、全裸になる。彼らが身に着けているのは、素顔を隠す被り物と、腕や背中にくくり付けたノコギリだけだ。やがて場違いなまでに優雅なクラシックの器楽曲が鳴り響く中、山猫の叩く太鼓の音と犬の吠え声に加え、両手に持った刃物を摺り合わせて耳障りな金属音を立てる者、警笛のような音の笛を吹く者、ブタの鳴き声のような音を立てる者が加わり、喧騒が優雅な調べをかき消していく。

「マタドウロ(屠場)」公演写真
【写真は、「マタドウロ(屠場)」公演写真から。photo: Layane Holanda costumes: Joao Pimenta 
提供=京都国際舞台芸術祭 禁無断転載】

 このように西欧/非西欧、文明/未開、中心/周縁といった対立構造を音響的に現前させるパフォーマンスがなされた後、観客の度肝を抜くとともに困惑させるような展開が待ち受けていた。相変わらずクラシック音楽と犬の吠え声が鳴り響く中、被り物とノコギリだけを身に着けた、ほぼ全裸の8人のパフォーマー(うち1人は女性)が、残り40~50分の上演時間の間、下半身も露に、ひたすらステージ上を輪になって走り続けるのだ。だが、ただ走るだけではない。人指し指を立てて片手を挙げる、カーニバルの道化師よろしく側転をする、おどけるように小刻みなステップを踏む、メロディに合わせて優雅に手をくねらせる、手をつないで走る、といった様々な身振りが時折挿入され、単調さと各パフォーマーの身振りへの注視がせめぎ合う。したたる汗と体臭、強烈な音響的対比、肉体の酷使とカーニバル的な身体的高揚の交錯。生々しい身体の現前に観客が過剰なまでに晒されること-終盤になり、このパフォーマンスの意味をそのように了解した時だ。音楽が鳴り止み、走り終えた8人は舞台中央に整列すると、被り物を取って素顔をさらし、観客席を挑発的に見つめ続けたのである。マイクから聞こえるのは、彼らの息の音だけだ。息を詰めるようなその対峙が5分ほど続いた後、彼らは一言も発しないまま退場し、幕が下りた。

 舞台上の身体を信じられるのか? という問いと、政治的・文化的闘争の場としての身体の提示。その拮抗が、構造としてはシンプルな『マタドウロ(屠場)』における身体表現の強度を支えている。

 クラシック音楽(シューベルトの五重奏)と対比的に用いられるブラジル楽器や動物の吠え声、ブリコラージュ的な照明装置、呪術的・儀式的な仮面、狩猟民族を思わせる出で立ち、そして全裸といった諸要素は、西欧/非西欧、文明/未開、中心/周縁といった二項対立を容易く想起させ、クラシック音楽をバックに全裸で走る行為に従事させられるパフォーマーの姿は、西洋近代が「周縁、未開、他者」を抑圧してきたことへの批判として、また彼らが被る仮面は、抑圧された様々な「他者たち」の代理=表象としての機能を担うものとして解釈可能である。

 だが、そうした音響的・視覚的な装置が喚起する二項対立的な読みに終始・拘泥するべきではないだろう。むしろ『マタドウロ(屠場)』では、動物が殺される屠殺場という意味のタイトルが示唆するように、一方的に人間らしさを剥奪されて動物的な隷属状態に置かれた、極限状態での「剥き出しの生」をパフォーマーの身体の中に表出させ、観客をその現前に立ち合わせることが賭けられている。そのためにパフォーマーたちは上演時間の大半を、過酷な闘技場と化したステージをひたすら駆け回り、自らの肉体に負荷をかけ続けるのである。それは巨大な「収容所」と化した世界のメタファーであり、過酷な労働と疎外と搾取にひたすら耐え、耐えることが既に惰性となって目的なき没入の空虚さの中に埋没した肉体の、人称を剥がれた「肉」が提示されている。

 そして、走りながら断続的に挿入される各パフォーマーの身振りは、彼らに未開や野生のイメージを一様に貼り付けるのではなく、むしろ二項対立的な読み取りを混乱させるもののように思われた。肩を落として両腕をだらりと垂らし、がに股で類人猿のような走り方をする者もいるが、異議申し立てのように人指し指を立てる者、音楽に陶酔し恍惚的に手を踊らせる者、一時的な快楽に浸ってはしゃぐ者、スプレーで香水を振りまく者、デジカメを構えツーリスト然に振舞う者、無関心に髪の毛をいじる者、胸と性器を手で隠して羞恥心をあらわにする者…。異議、陶酔、高揚感、飼い慣らされた生への従属、麻痺した無感覚、羞恥など、様々な含意を持つ身振りが一時的に現れては、闘争の渦の中に消えていく。そして、被り物以外は全裸の男女が走り回るという異様で困惑する光景を、身振りへの注視とともに好奇の眼差しで見つめている自分に気がつく。

 ここで興味深いのは、被り物・仮面という装置が、見る側の位相に従って複数の機能を果している点である。第一に、抑圧された「他者たち」を記号的に表すペルソナであること。と同時に、動物的な隷属状態に置かれて人間らしさを剥奪された存在は、既に固有の顔貌を奪われ、「顔」が消されていることの示唆。そして、そのように匿名化され、眼差しの直接的な交差をなくすることで、恥辱的で無防備な状態に置かれた彼らを一方的に眼差すことへの抵抗感や罪悪感は和らげられる。つまり仮面の第三の役割として、観客が彼らを「安全に」眺める権利を保証し、両者の共犯関係を取り持つ装置として機能することが挙げられる。そして、動物的な隷属状態に置かれた彼らの「剥き出しの生」を「見せ物」のように眺めていた観客の眼差しが決してニュートラルで透明なものではないことが、最後に仮面を取って対峙する行為によって露呈させられる。そこで、これまで一方的に見つめることができた存在から、同等に見つめ返されるという経験が観客に突きつけるのは、我々の眼差しの持つ政治性や暴力性についての、倫理的な問いかけである。

「P.A.D」公演の写真
【写真は、「P.A.D」公演から。photo:Evie Filaktou
提供=京都国際舞台芸術祭 禁無断転載】

 一方、『P.A.D.』は、フランクフルトに拠点を置く「フォーサイス・カンパニー」に共に所属するヤニス・マンダフニスとファブリス・マズリアによるデュエット作品。『P.A.D.』では、静寂と緊張感の中、二人のパフォーマーの身体が静と動、接触と反発、支配と服従、共有と侵犯の間を目まぐるしく揺れ動きながら、身体と自/他の境界や、そこに発生する権力関係をめぐる思考を促す、濃密なパフォーマンスが展開された。

 まず本作において特徴的なのは、その舞台装置/観客の鑑賞スタイルである。ちょうどパフォーマーの目線の高さのベニヤ板で四方を囲まれた、正方形のスペース。箱のような、水のない水槽のようなその空間を取り囲んで設置された観客席に座り、上から覗き込むようにして鑑賞するのである。箱の中には、フード付きのスウェットにトレパン姿というラフな格好の男性二人が座っている。一人がおもむろに立ち上がり、スウェットを前後ろ反対に着直すと、ポケットに手を突っ込む、壁に身体を接触させる、壁を隔てて観客と至近距離で向き合う(ただしフードで顔が覆われているため、観客と視線は交わらない)、さらに尻や性器を露にする、などのいくつかの動作が無言のまま淡々と行われる。前と後、上と下、内と外といった境界の反転、見ることと見られること、「モノ」と生身の身体、そして性的な含意があることなどが示される、象徴的な導入部分だ。

 その後、二人による緊張感に満ちたパフォーマンスは、互いの身体の占める領域を共有/侵犯し合い、限りなく親密に接近しながらも超えがたい距離を測ろうとするような、身体による対話が繰り広げられた。例えば、相手の服の袖やズボンの中に手足を入れたまま、身体を動かす動作。そこでは、服と身体の〈間〉のパーソナルな領域を共有/侵犯しようとする動きが、相手の身体の連鎖的反応を引き起こし、絶え間なく反転する受容と拒絶の動きは、融合/分離/再結合の間で揺らぐ自/他の境界を複雑に引き直す。また、互いのフードの中に頭を突っ込んだまま動く二人は、一つの頭部を共有しながらも胴体は二つに引き裂かれた双子のようにも、首筋に接吻し合い抱擁を交わしながらも反発する恋人同士のようにも見えてくる。

 さらに、組み合った相手の身体の一部をモノか道具のように動かそうとする動作も繰り返し見られた。手足をテコのように使って相手の身体を動かす、壁に押し当てた相手の身体と壁との隙間に入ろうとする、相手の身体を障害物のように見立てて乗り越えようとする…。これらの動作は、通常とは異なる身体の動かし方を追求する遊戯的で発見に満ちた動きであるとともに、動かす/動かされる、使う/使われるといった主/客の主導権が絶えず入れ替わり、能動と受動、支配と従属をめぐっての身体による考察のドラマでもある。それは、互いの信頼関係に基づくこの上ない親密さを匂わせながらも、根源的な暴力性を秘めた危うい均衡の上に成り立っている。性愛的な場面のメタファーとしても読めるが、床や壁に身体が叩きつけられる激しいクラッシュの音、「モノ」に還元されたかのような身体の動き、さらに愛撫や眼差しの交差といった情動的な要素が排除されているため、エロティックであるというよりもストイックな禁欲性の方が際立つ。

 終盤、それまで組み合っていた二人は、バラバラの方向に歩き出すと、壁で区切られたスペースの外に出ようとするかのように、壁に激しく身体をぶつけ合う。跳ね返された反動で後ろ向きに直進すると、反対側の壁でまたもや抵抗に合い、跳ね返される身体。壁と壁の間で行ったり着たりを繰り返す二人の身体が途中でぶつかる度に、互いの進む方向が入れ替わる。最後に服を脱ぎ、服の上に乗って床を滑ったりして遊ぶシークエンスがなされた後、最初に互いが着ていた服を拾って着るという、「服の交換」という象徴的な形でパフォーマンスは終了した。

 四角い閉じた箱という舞台装置の中で繰り広げられる、自/他の境界、受動/能動、支配/従属をめぐる身体的探究。限りない近さの中で超えがたい遠さとして現れる自/他の境界と、文字通りの「壁」として立ち塞がる物理的存在としての囲い。通常の動きから解放された、身体の自由な使い方を模索しつつも、なお「壁」の中に囚われていること。そうした「箱」「壁」「囲い」はまた、観客の眼差しをパフォーマンス内部で繰り広げられる複雑な交替劇へと誘導する装置であるとともに、「見る」フレームを物理的に形作るものでもある。『マタドウロ(屠場)』が極限状態で剥き出しになった生と、それを眼差す観客の暴力性について問うものであるなら、『P.A.D.』は、身体と境界、「見ること」をめぐる入れ子構造を視覚的に浮かび上がらせる、優れた実験といえるだろう。

【筆者略歴】
 高嶋慈(たかしま・めぐみ)
 1983年大阪府生まれ。京都大学大学院在籍。美学、美術批評。ウェブマガジン PEELER、『明倫art』(京都芸術センター発行紙)にて隔月で展評を執筆。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ta/takashima-megumi/

【上演記録】
▽マルセロ・エヴェリン/デモリションInc.+ヌークレオ・ド・ディルソル『マタドウロ(屠場)
元・立誠小学校 講堂(2011年10月7日-8日)
上演時間65分

クリエーションメンバー:アレキサンドラ・サントス、アンドレ・リーン・ジッゼ、シポ・アルバレンガ、ファガオ、ファビオ・クレージー・ダ・シルヴァ、イザベル・フロタ、ジャープ・リンディジャー、ジェイコブ・アルヴス、ジョシュ S、ラヤネ・ホランダ、マルセロ・エヴェリン、レジーナ・ヴェロソ、セルジオ・カダー、シルヴィア・ソテ
助成: FUNARTE Grant(2008年)、SIEC/FUNDAC(ピアウイ州文化振興助成)
製作:ヌークレオ・ド・ディルソル・スタジオ(テレジナ、ピアウイ州)、アムステルダム・ヘットヴェーンシアター レジデンスプログラム、リオ・デ・ジャネイロ振付センター
共催:立誠・文化のまち運営委員会
主催:KYOTO EXPERIMENT
チケット 3,000円(一般)2,500円(ユース[25歳以下]・学生)1,000円(高校生以下)
※16歳未満入場不可、一般/ユース・学生券は、当日500円増。

関連イベント
ワークショップ
「マルセロ・エヴェリン ワークショップ」
日時:10月11日(火)・12日(水)
会場:京都芸術センター 講堂

レクチャー
「ブラジルパフォーミングアーツの現在」
日時:10月9日(日)13:30‐15:30
会場:flowing KARASUMA 2F

▽ヤニス・マンダフニス/ファブリス・マズリア『P.A.D
公演日時
10月14日(金)~16日(日)
ポスト・パフォーマンストーク
★10月16日(日)終演後
上演時間:60分
会場:京都芸術センター フリースペース
チケット
3,000円(一般)
2,500円(ユース[25歳以下]・学生)
1,000円(高校生以下)
※一般/ユース・学生券は、当日500円増。

構成・演出・出演:ヤニス・マンダフニス、ファブリス・マズリア
舞台監督:マックス・シューベルト
製作:アテネ&エピダウロス・フェスティバル2007

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