維新派「風景画-東京・池袋」

2.たった一歩。それが永遠に遠かった。
  よこたたかお

 アヴィニョン演劇祭、エジンバラ演劇祭、ベルリン演劇祭(シアタートレッフェン)、クンステン演劇祭など、ヨーロッパには魅力的な演劇祭がいくつかある。フェスティバル・トーキョーも「アジア」の中でその煌めきを発揮しようと、招聘作品やテーマを「国際化」している。彼等が参考とするのは、鈴木忠志が1982年に開催した国際演劇祭、利賀フェスティバルである。

 こうした演劇フェスティバルの国際化の流れの中で、私たちは世界認識に関する、ある混乱の中に巻き込まれている。何故私たちは演劇を通じて「世界」を知ろうとしているのか。一上演、一演目を超えて、何故言説の国際性を獲得しようとしているのか。演劇が各国の文化を(同一化するわけではないにせよ)つないでいく(もしくは並行的に存在可能だ)と考えているのか。「演劇祭」という見えないリヴァイアサンを何故ここまで大きくしようとしているのか。

 とはいえ、フェスティバル・トーキョーが単純な理由から「世界」を獲得することを良しとしているわけではないことは知っている。それは招聘作家も同様である。松本雄吉はむしろ、矮小化された「世界」を演劇が代表することに対して抵抗感を示している。

 「世界を認識することはまず無理やと。偶発的な部分の集合が全体的な世界像として成立してるとしたら、世界像というのは常に風に揺らされてるようで、固定したイメージではない。」(『維新派大全』、p. 21より引用)

 松本雄吉が目指す「野外」とは、固定された「世界」の中に留まる劇場から脱却することであり、物質的な意味で「劇場」から出ることではない。だからこそ、彼らは劇場をその手で、つまり人工的(artificial)に作っていくのである。維新派の芝居の中で欠かせない作業工程である劇場の建て込みは、作家や俳優が自らのうちに世界を獲得するための手段であり、方法である。この上演に意味があるとすれば、それは作品が単に観客の目に触れるということではなく、彼等が自らの手で劇場を組み立て、そこに世界を作るからである。「野外」とは、言い換えれば(作家や俳優、スタッフを含めた)作り手の痕跡が潜在する劇場のことなのである。私はこれを一つの存在論的な作業だと考えているし、またそのような理由から維新派の活動はもっと評価されるべきだと考えている。

 松本雄吉の「野外」をパラフレーズしていくと、それはあまりに常識的なことだということに気づかされる。そもそも生きた人間の痕跡のない空間は劇場ではないし、ただ単に出来上がった作品を上演し、消費される場が劇場なのではない。もしも私たちに少しでもギリシア演劇について語るつもりがあれば、それが生活や政治と密接に結びついているということはごく当たり前のこととして受け止められなければならない。(蛇足のようだが、スクリーンやブラウン管、液晶画面を通した体験と演劇は、生の直接性という観点から差異化されているということは、あくまで前提の話として進めたい。)

 松本雄吉が「モノ」にこだわり続けるのも、また観客との相互交流にこだわり続けるのも、この痕跡を追ってのことである。痕跡がなければ、痕跡を作ってしまえばいい。例えそれがどんなに大変だったとしても、彼等はそこにこだわり続ける…批評の上で一言では言い切ることのできないこうした苦労の上に、彼等の作品は成立している。もしも維新派愛好家が『風景画』に「やっぱり維新派は大阪で見なきゃ」とか「前の方が良かった」「あの時は時代の雰囲気もあったし」という感想を抱いたならば、かつて味わったあの苦労=生の体験(観客は新幹線を利用して維新派を見に行く。俳優やスタッフが命懸けで作った芝居の生の体験を、彼等と同じ目線で味わう)の痕跡を西武池袋本店4階屋上に探し出さなければならない。

「風景画」公演写真
【写真は、「風景画-東京・池袋」公演から。 撮影=井上嘉和
提供=維新派 禁無断転載】

 東京・池袋。地理的な意味で、それは全く正しい。西武池袋本店4階。それは東京の中にあり、池袋の中にある。間違いなくそれは、「世界」の中にあった。彼等(フェスティバル・トーキョー)は、決して「世界」という単語を口に出すことなく、世界を語ろうとした。身近な体験、自分自身の経験から(いわば存在論的に)世界の認識へと至ろうとした。恐らくそれは一つも間違っていなかっただろう。私はその時確かに、池袋にいたのだ。

 劇場は緩やかなカーブを描いた客席によって形作られており、舞台奥に配置されているミニチュアの東京のビル群を眺めることになる。それは一つの風景であり、私たちはそこから東京のことを考えることができた。スモッグで見えづらかったとしても、都会の明かりで見えづらかったとしても、見上げればそこには空があり、月が輝いているのを確認することができる。右側から聞こえるJR山手線の喧騒は、まさにここが東京であることを意識させてくれる。閉じた劇場ではなく、開かれた劇場に私たちは入り込んだ。

 開演時、大音響が流れると二人の俳優が舞台上に駆け込んでくる。芝居はそこから始まり、私たちはあの白塗りの集団の演技を見ることになる。(作品それ自体の内容についてはここで触れないから、他の劇評を参考にしていただきたい)

 決して大きな舞台装置もなく、巨大人形も登場するわけでもなく、私たちは清貧な気持ちで「大掛かりな装置はない。足下を走る鉄道の響き、夜空に浮かび上がる高層ビル群、吹き抜ける風、そして俳優たちの声、身体。」(チラシの紹介文より引用)を見ていた。『風景画』は「俳優と観客が参加する三次元の絵画」(当日パンフレットの演出ノートより引用)であり、ここで提示される演技から私たち観客は思い思いのイメージを紡ぎ出していく。

 それは存在論的な問題である。私たちの暮らす日常生活から世界を敷衍し、獲得していく作業は口で言うほど優しいものではない。それは考えることを続け、いつまでも自分自身に問いを投げかけ続ける生活姿勢から生まれるものである。自らの身体感覚の内側から世界を知ろうとする作業は、ともすれば「日常生活」という歪曲化された「世界」像を作り出してしまいかねない。従って、ただ単に日常生活を扱えば存在論的な問題に取り組めるというわけではないのである。

 過去、維新派が好きだった人たちのほとんど多くは、失望させられただろう。しかしそこで失望せずに彼等の活動を見守ろうとすれば、チラシや当日パンフレットに書いてある文章を読んで納得せざるを得ない。そう、これは「風景画」なのだから、問題は受け手の想像力にあるのだ、と。

 このように納得することで、私たちは自分たちの経験から「世界」を想像し、獲得し、自らのものにしていく…。…私たちは大上段から「世界」を語るのではなく、自分たちの経験から世界を語るのだ…、と…。

 舞台から客席までの距離は、わずか一歩程度。1メートルもなかっただろう。そのあまりに親密な、あまりに謙虚なその距離に、私はとてつもない長さの距離を感じた。たった一歩。それが永遠に遠かった。つまり、私は全くもって、この上演が上手くいったとは思わなかった。

 ここは本来的な意味で劇場ではなかった。既に用意された地面の上を、既に用意された「風景」の中をただただしたり顔をして動き回っていただけである。彼等は劇場をつくらなかった。ここには生の痕跡は一つもなかった。ここには、モノの物質性も、世界を語る自己の経験も一切なかった。つまり、ここは「野外」ではなかった。

 先の松本雄吉の発言に立ち戻れば、「野外」は人間の活動の痕跡が残る場所であるべきだった。その努力こそが維新派の芝居を認識論に結びつけるのであり、本来的な意味で世界を獲得する手法になりえたのである。私は批評(批判)する、維新派は「劇場」を建て込まなくてはならなかったのである。「劇場」を立て込むという作業抜きに「国際フェスティバル」の範疇で作品を上演することは、維新派がフェスティバル・トーキョーという枠組みの中で、より小さな「世界」に収まることを許容してしまったのである。展望のある言い方をすれば、フェスティバル・トーキョーは、松本雄吉や維新派と一緒に「劇場」を作るべきだった。そうでなければ、フェスティバル・トーキョーが問題化している「国際」という視野が入ってくることはない。

 フェスティバル・トーキョーが抱える問題は、とてつもなく大きく、また同時にそれは人類の希望そのものであるとも言うことができる。どうやら、維新派の公演会期中、雨が降った日には不満の声も挙がったらしい。当然、観劇体験が退屈であったり、辛いものになれば不平不満も言いたくなるだろうが、フェスティバル・トーキョーの抱える問題の大きさを考えると、そうした小さな不満はぶつけるべきではないかもしれない。本来であれば私たちは、このカタカナで書かれた(そして英語の表記も兼用している)フェスティバル・トーキョーという「国際演劇祭」を応援しなくてはならないのだ。彼らは世界を変えようとしている。アジアの極東にある、この国の-そしてこの街(トーキョー)から世界を獲得できるような、そんなフェスティバルに育てていかなくてはならない。そのあまりの問題の大きさに、私はついついたじろいでしまうのであった。


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