維新派「風景画-東京・池袋」

4.維新派、池袋を呪う
  クリハラ ユミエ

 維新派の舞台を観るのは二回目だ。前回はにしすがも創造舎の体育館だったが、今回は野外劇。とはいっても、西武百貨店の池袋本店屋上が会場なので、どのような「風景」になるのだろうか。

 維新派は大掛かりな野外劇で知られる集団で、西日本の演劇界隈では大阪・南港や岡山県の瀬戸内海浮かぶ犬島・銅精練所跡地での公演が伝説として語られていた。犬島ではさらに昨年と、本作を先月上演している。

 池袋駅から西武百貨店へ向かい、4階まつりの広場へ。会場に入り、下手の上の方の席に座った。夕暮れのビル群を背景に小さなビルの装置たちが屋上の床に配置され、それと対面して客席が床を見下ろして囲む円形劇場のような作り。上手中央側の柵の向こう、遠くに西武池袋線とJRの電車が行き来する。時々雨粒が落ちてくる。

 テレビの砂嵐のようなノイズと低いうねりが電車の音もかき消して、開幕。おなじみの黒半ズボンに白いシャツ、白塗りの少年が二人、舞台を走って交錯する。下手から強く当たる夕日のような明かり。時折聞こえる高音は遠くの工事現場からのよう。チャンバラ遊びをしているような二人。そんなことをして遊んだ思い出はないのに懐かしいような風景。
轟音が消えると街の音が聞こえる。電車の音。下手脇を通る西武百貨店のお客さん、特に子どもの声が耳に入る。
犬島では波の音だったのだろうか?
二人が小さなビルの合間に伏せて隠れると轟音が再び大きくなる。日が沈み暗くなった下手風景の奥にある、メトロポリタン駐車場の最上階から白い車がぐるぐる回って降りて行く。舞台には何もないのに、都市の強烈な存在感に鳥肌が立つ。

 残りの少年が客席袖から走ってくる。舞台のポテンシャルが一気に上がる。全部で24人になった。4人、あるいは2人ずつ整列し、一部が舟を漕ぐ仕草をする。いくつもの川の名前が聞こえてくる。

 こちらとあちらを分ける川のことか? と思っていると、不意に、先月仙台の短篇映画祭で見たアニメーションのことを思い出した。41人の映像作家、映画監督が3分11秒で「明日」をテーマにした作品を製作し、一気に上映するというプロジェクト(http://www.shortpiece.com/311_asu.html)の一編。外山光男監督の「手」。精霊流しの小舟が水面を進んで、水中の会いたかった人たちに出会うというものだ。水は此岸と彼岸を分け、舟はその境界を繋ぐ乗り物だ。

 祭囃子にも聞こえるターンタタ、ターンタタというリズムが聞こえてくると、上手の何かを礼拝するように、見えない棒を縦に握りながら数人が手を上へ伸ばしていく。何かの儀式のように見える。盆踊りにも似ている。亡くなった人に出会うための祭り。
そして、ノアの方舟のことを語りながら全員が舟を漕ぎだす。世界の神々の名前を口にしながらどこかへ漕いで行く。

 これはやはりあの津波のことだろうか。
 維新派を初めて見たのは一昨年の秋「ろじ式」。港から港へ新しい世界を求めて旅をする。「西へ」という言葉が耳に残りながらも、ニライカナイを探している印象も持っていた。ニライカナイは日本列島の南の島に伝わる神様の国で、東の海の彼方にあるという。

 千年も昔から何度も大津波に襲われている東北地方。西の大陸から東の島国の東の果てにやってきた人々にとって、さらに東の大海には何があるのだろう?
 太陽、あるいは西方を模した極楽浄土、あるいは常世の国。津波は、生き物たちを神様の国へ運ぶ方舟であったのか。

 舟と水。犬島であれば瀬戸内海の水軍にも結びつく。日本列島に生きてきた人たちにとって、海も船も列島人のアイデンティティと言える。大雨や洪水、台風もずっと大昔から付き合ってきた神様ではないか。維新派の描く風景画には神様がいるのだ。

 さらに方舟は、ノアの方舟だけでなくギリシャやマヤ文明など世界各地に伝わる大洪水の神話も想起する。発声されるよその土地の神様の名前に加えて、海を越えて広がる人間の歴史の共通性を感じる。なんて壮大なのか。鎮魂のイメージと共に、人類は何度だって苦難を乗り越えてきたのだと思った。

 続いて、24人が整列したままメトロノームのようなリズム音に合わせ「1秒で膝を折る」「1秒で首を曲げる」などと言いながら身体の部位を指示していく。しつこいくらいに「1秒」が繰り返し示される。先ほどの津波に繋がる印象と余りに違う軽い単調さ。そういえば秒という単位は特別だ。国際基本単位での時間の単位は秒。物理学で放射性物質の半減期を計算するときは秒を使う。分でも年でもない。コミカルな動きなのに、イメージがフクシマに繋がっていく。

 シーンは変わり、オレンジの明かりの中で4人が腕を肩の高さに上げて四角く囲んでいる。その囲みが5つ。間を少年が戸惑いながら彷徨っていく。急に不安な気持ちが迫ってくる。

「風景画」公演写真
【写真は、「風景画-東京・池袋」公演から。 撮影=©Yoshikazu Inoue 提供=フェスティバルトーキョー
禁無断転載】

 次いで横一直線に並んだ24人が身体を揺らしながら、白熱灯、水銀灯と、電気を匂わす言葉を口にする。ついには白い少年たちは電信柱にもなった。「ろじ式」では、後ろ髪を引かれながらも進もうとする人類の前向きさや文明を肯定している雰囲気が好きだった。一直線に並んだ様子は笑いも誘うが、今回はどうも違う。ささやかだった「電気」の印象が段々無垢ではなくなる。演出家は怒っているのだろうか? 煌煌と灯りの輝く首都・東京の池袋で、電気たちが呪われていく。

 1、9、4、5。1、9、4、6と数字がカウントされていく。年号だ。2011のあと、どうなるのか?
 実はこのシーン、舞台で起こっていることを絵としてあまり憶えていない。カウントを聞きながら、西武百貨店の屋上から見える周りのビルを見回していた。客席の上手向こうに見える東武百貨店(?不確か)が一番高いだろうか。ビルの窓からこの作品を観ることもできそうだが、ビルから見下ろした人たちはここで池袋を呪う儀式が行われているなんて思いもしないだろう。

 少し前のシーンでは、JRの駅のアナウンス、電車の音がスピーカーから響き、ぎゅうぎゅう詰めの車両に乗っている都会人のような描写があった。池袋の前に犬島で公演されていることを考えると、犬島の海の風景にこのシーンは相応しくない。この場所のために用意されたように感じる。後でパンフレットを見てみると東京で追加された11番目のシーンだ。毎日こんなところでしか生活できない、舞台もこんなところでしか見れないなんてかわいそうだねと、哀れまれている気がする。

 結局、カウントは2011では終わらなかった。終わらずに、少年たちが四方に走って退場していき終幕。終幕の印象もあまり残っていない。まったく清々しさを感じない。
3/11の津波による福島の原発事故について、「地方」が「都会」のために犠牲を強いられているという構図を強調する人たちがいたことが頭に浮かぶ。そして、犬島公演の主催者に関連して、次のインタビューを思い出した。

 この芸術祭は、行き過ぎた都市化へのアンチテーゼです。近代化によって傷付いた島々を、ある種、怨念を持って再生しようと。
 直島や犬島は、精錬所によって環境が傷付けられてきた。豊島は産業廃棄物の不法投棄。そして若者がどんどんいなくなっていく。日本が誇る美しい地域なのに。日本そのものが崩れていっている、と思いました。
(略)
 東京にいる人は、あなたたちも含めて、幸せそうに見えない。物質的には豊かで、情報もいっぱいあるし、娯楽も多い。しかし、みんな孤独ではないですか。
 街並みも、30年後にはゴミになるような建物だらけ。それなりに面白い形をしているかもしれないけれど、どういう具合に目立つ建物にするかという、個々の最適解の積み重ねに過ぎません。周囲の環境との調和は全くない。
 東京の、雪だるまのように欲が広がっていく様が嫌いなのです。私は東京に住んでいないから、そういうのがよく見えるのです。
 もちろん都市には、良い面もありますよ。でも、今の都市化は偏り過ぎている。田舎と都市がうまく連携し合えるように是正しなければなりません。
(「日経アーキテクチュア」2010年11月8日号 編集長インタビュー ベネッセホールディングス会長・福武總一郎「過疎地にこそ宝がある」)

 池袋が犬島の海を背負った維新派に呪われてしまったように思えて仕方なかった。

「維新派「風景画-東京・池袋」」への5件のフィードバック

  1. ピンバック: 井上嘉和
  2. ピンバック: おとうた通信
  3. ピンバック: やまだ
  4. ピンバック: Imai Miho

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