維新派「風景画-東京・池袋」

6.意味を考えることには、あまり意味がないのかもしれない
  宮武葉子

 さて困った。
 維新派「風景画―東京・池袋」を見終わっての、正直な感想である。
 維新派という団体、名前は知っていたが、実際見るのは初めてである。「普段からどういうことをしている人たちなのか」を知っているのとそうでないのとでは、論じやすさがずいぶん異なる。加えて、身体表現について考えるのは正直なところ不得手で、野外パフォーマンスは見ること自体がほぼ初めて、つまりは「これまでの経験から何かしらの批評を引き出す」ことが出来そうにない。

 完全にアウェーである。西武池袋本店四階・まつりの広場に着いた時点で、負け戦を覚悟せざるを得なかった。

 とはいえ、屋外の舞台というのは解放感があって気持ちのいいもので、それだけでも心慰められた。季節がよく、天気にも恵まれたお陰である。日頃の行いが良かったのだろうか。そんなわけはないか。

 会場はデパートの屋上である。当然、柵の向こうには本物の池袋の街が広がっている。本物の、とわざわざ書くのは、会場の床にビルの模型が並べられていたからで、これが現実の風景と重なるのが面白かった。模型は、着席時には適当な造形かと思ったが、近くで見たら結構リアルに作られているのだということも分かった。もっとも、これらの模型が何のために置かれていたのかは、今に至るまでよく分からないのだが、分からなくても面白がる事は出来るのだということが、逆に分かった。

 席に着いた時点では空はまだ明るかった。日の入りと共に辺りが暗くなり、だんだん照明の効果がより高まっていったと思う。その日の天候にもよるのだろうが、こういう仕掛けにはワクワクさせられる。

 今となっては限りなく読めない代物ではあるが、観劇中にメモを取った。途中で、自分が出演者の動きを言葉で表現しきれないことに気づいたが、それでも書ける部分は書いた。二時間弱の間に起こったのは、おおよそこういったことである。

 白塗り+白いシャツ+黒いパンツ(膝丈)の男性二人が現れて、奇妙な仕草で会場を動き回る。基本は歩き、飛んで方向転換するだけなのだが、日常的な動きとはかけ離れている。一人が一人を刺す仕草を繰り返す。何度も行われるところをみると、これはただの振りであって、「公演の間の現実」ではないらしい。

「風景画」公演写真
【写真は、「風景画-東京・池袋」公演から。 撮影= ©Yoshikazu Inoue 提供=フェスティバルトーキョー
禁無断転載】

 三人目の男性が登場した、と思ったら人が増え、男女あわせて二四人が会場に並んだ。皆白塗りで、だいたい同じ格好をしている。多少違って見えた人も、体型や身長が周りと違うだけで、本当は同じ服を着ていたのかもしれない。四、五人の列が五列、運動会のような布陣である。動いたり揺れたりする。皆が同じ動きをしている時と、一列おきに二パターンの動きをしている時があった、ように思う。何をしているのかはよく分からない。

 一般的なダンス公演のような形で、つまり踊りのBGMとして音楽が流れることはない。耳にした音といえば、飛行機のような爆音、JR山手線池袋駅のアナウンス、出演者たちがラップのように呪文のように呟く言葉などである。地名や国名が聞こえたような気がするが、あまり自信はない。スピーカーからの音が消える場面もあった。とはいえ、会場が屋外なので風の音や街の喧噪は聞こえ、全くの無音状態にはならない。ほとんどの音は聞き取ることが出来ず、聞き取ろうという努力もあまりする気にはなれなかったが、仮に何を言っているのかが理解出来たとしても、それがパフォーマンスの理解に繋がるとは思えなかったためである。

 いったん人がはけ、程なく戻ってきた。今回は四人ずつ六つの四角形を作る。しばらく動いた後、全員が横一列に並んだ。食事のマイムなどがあったように記憶する。スモークがたかれていたようであったが、自分の席(上手側)からは遠く、あまりよく見えなかった。

 さて。
 同じような姿の出演者を識別するのは難しい。もちろん初見の人間には不可能である。おそらく「この人は誰か」ということはあまり重要ではないのだと思う。配置や動きによって何かを表現するために存在するのであって、会場をゲーム盤とすれば、彼らはその上に並ぶ駒であるように見えた。

 では、彼らは何を表現していたのだろうか。出演者の動作には「何をしているのか」が分かりやすいものとそうでないものがあり、彼らが口にする言葉、あるいはスピーカーを通して聞かされる音と関連しているわけでもないようだった。人を刺す、身体のパーツに触れるなどの分かりやすい動きもあるにはあったが、「今の動きが何を表しているのか」を考えることにはそれほど意味がないように思われた。つまり、自分が何を見ているのかが掴めない。これは、意外にも不快なことではなかったが、「見る」ことにずっと集中していられるほどの強い引力も感じなかった。夕焼けきれいだなあ、日が落ちたら結構寒くなってきたぞ、などと思ったり、周りに迷惑を掛けずに鞄から上着を取り出すにはどうしたらいいんだろう、などと考えたりしている間に、場面はどんどん進んでいく。再び集中力を取り戻すためには、多少の時間と努力が必要だった。出演者の動きが幾何学的なこともあり、メトロノームを眺めているような単調さに意識が遠のいてしまったというのが正直なところである。

 とはいえ、照明と、それによって形成される出演者の影の形は面白く、美しかった。人体によって舞台美術が作られているようにも思われた。やや上方からの観劇だったので、人よりもむしろ床に落ちた影を見ていたように思う。

 それとは別に、公演を見ていて連想したのは、ハトの群れである。
 ハトが一箇所に大勢いる時、大体同じような動きをしているが、だからといってそれらはまったく同じというわけではない。細かく見ると、例えば二歩歩いてまた戻って、といった動きを、ある一羽は西に向かい、ある一羽は東へ向かって行っている、その横にまったく動かない個体、別の動きをしている個体がいたりする。ただ、全体としては「ハトが固まって、うろうろしている」ように見える。

 「維新派」のパフォーマンスはきちんと設計され、振り付けられ、出演者の肉体的な訓練を経て披露されているのであって、ハトの適当な動きと同列に並べるのは失礼千万である。それはよく分かっているのだが、出演者の動きが揃っていなかったことと、動きに意味があるようでないようなところが似ていると思ってしまったのだった。

 もちろん、どのような動きも、やっているハトにしてみればそれなりの意義があるのだろうが、だからといって、ハトに「今どうして右を向いたのか」「なぜ二歩ではなく三歩歩いたのか」を問うのは多分、いや、間違いなく意味がないだろう。表現活動に解説を求め、頭で理解しようとするのも同じぐらい野暮なことであり、「何だかよく分からなかった」「何だかすごかった」と独りごちながら帰る以外、自分に出来ることはないのだと思った

「維新派「風景画-東京・池袋」」への5件のフィードバック

  1. ピンバック: 井上嘉和
  2. ピンバック: おとうた通信
  3. ピンバック: やまだ
  4. ピンバック: Imai Miho

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