ミナモザ「ホットパーティクル」

◎あなたが立つ場所
 宮本起代子

「ホットパーティクル」公演チラシ
「ホットパーティクル」公演チラシ
撮影=服部貴康

【311と瀬戸山美咲】
 ミナモザにしては珍しい、写真による新作公演のチラシ。
 道路のまんなかに少しからだを斜めにして立ち、強い視線を向けているのは作・演出の瀬戸山美咲その人である。空はひろく、木々の緑が美しい。ノースリーブのワンピースにヒールの高いサンダル姿はリゾート気分いっぱいだが、両脇には「立入禁止 福島県」の立て看板が、絶対的な権威のごとく行く手を阻む。彼女がすっくと立つその地は、東京電力福島第一原子力発電所から何キロの場所なのか。
 裏面には3月11日の東日本大震災で劇場の中より外がはるかに劇的になり、新作の台本が書けなくなってしまった劇作家の告白がぎっしりと記されている。

 瀬戸山がたどりついたのはフィクションを放棄し、311以降の「私」自身の現実そのものを舞台にのせる「ドキュメンタリー演劇」だという。「私」=瀬戸山美咲を演じるのは、こゆび侍の佐藤みゆき。
 チラシの文章は「すべて実話です」と、とどめのひと言で閉じられている。
 熱烈で饒舌、しかも直截なメッセージである。

 これまで瀬戸山は現実に起こった事件を題材にした作品を上演し続けている。
 振り込め詐欺に関わる青年たちの群像劇『エモーショナルレイバー』が2009年夏にサンモールスタジオで初演ののち、今年1月シアタートラムのネクスト・ジェネレーションにおいて再演され、瀬戸山の出世作となったことは記憶に新しい。
 大震災と原発事故は、多くの創造者に困惑と苦悩を与えた。演劇に何ができるのか、演劇が人を救うことは可能か。作り手がいまほど追い込まれたことはないのではないか。受ける側も「演劇どころではないのでは」と後ろめたく思いながら、「劇場に行きたい」という気持ちは消せなかった。
 『ホットパーティクル』は、作り手と受け手双方の気持ちにどう応えてくれるのか。

 劇場に入った観客は、舞台奥に設置されたスクリーンに当日の日付が映されているのをみる。
 芝居がはじまると、その場面ごとの日付や場所、メールのやりとりや佐藤みゆきの声で同時に読まれる「私」の独白などが映し出され、観客は文字を見ながら台詞を聞きながらの観劇となる。
 対面式の客席にはさまれた狭い演技空間の奥側に車のシートが置かれ、「私」が仲間を募って第一原発に向かう5月初旬の場面にはじまり、ガイガーカウンターに表示される高い放射線量に大騒ぎして、時間はいったん3月11日にもどる。

「ホットパーティクル」公演の写真1
【写真は、「ホットパーティクル」公演から。撮影=服部貴康 提供=ミナモザ 禁無断提供】

 震災後、台本は書けず恋愛は大波乱、原発について書くために福島へ向かうが結局そこまでたどり着けなかった。それからも俳優に出演オファーを断られたり、原発推進派のおっさんライターにセクハラを受けたり、あげく自暴自棄になって金属バットを振りまわす「私」の姿を、ドラマターグの顕史郎さん(中田顕史郎本人が演じる)とのやりとりをはさみながら描く2時間である。

【エンターテインメントとドキュメンタリー演劇】
 「私」はこれまで社会派だと言っていた劇団が震災や原発のことを演劇にしていないと批判し、「やっているところもあるよ」と言うドラマターグの顕史郎さんに、「エンタメはいいんです」と反論する。
 自分が作りたいのは震災と原発事故を題材にして、なおかつエンタメではない演劇なのだと。
 それを作るために、瀬戸山は自分自身の現実を舞台にのせることを選択した。
 観客にみえるのは目の前の舞台だけであり、そこに至る劇作家の私生活や右往左往は、劇中に効果的に表現されていればこそであろう。
 自身を舞台にのせるには、現実と舞台、舞台に立つ俳優の現実、それをみている観客の現実等々の距離感を冷静にとらえ、慎重にも慎重を重ねる必要がある。
 また「つくりもの」、「フィクション」である演劇に「これは私自身です」「すべて実話です」と公演チラシで表明すること、つまり芝居をみる前の段階で観客に明かしてしまうのはいわば裏技であり、禁じ手ではないか。

 ドキュメンタリー演劇をどう定義するかはむずかしいが、現実に起こった事件、実在の人物を題材にしても、最終的に劇作家のオリジナルの劇世界が構築されているという手ごたえの得られるものと筆者は認識している。作り手自身を舞台にのせても構わないが、現実と虚構、主観と客観に肉薄する劇作家の確かな視点が必要であろう。
 フィクションを放棄し、自身を舞台にのせることをドキュメンタリー演劇とする瀬戸山の認識に、自分はまず違和感をもった。

 さらに本作には、瀬戸山がこれまで培ってきた劇作家・演出家としての力量や経験値までも放棄したかのような点が散見している。
 たとえば原発ツアーに同行する友人たちの言動は、地元の老人のなまりを笑ったり、服装ひとつとっても軽薄で騒々しい。ほんとうにこの通りだったのか、創作上の意図や意味があっての演出なのかはわからないが、少なくとも筆者は、これが直接被災していない側の現実の描写とは受けとめられず、「何と不謹慎で行儀の悪いことか」と苛立ち、舞台に集中できなくなった。妊娠中の友だちのエピソードも、「だんなが落ち着いているからだいじょうぶ」と朗らかな彼女への羨望や、「私」の現状との距離をリアルにみせるには、友だちの造形があまりにけたたましく、興を削ぐ。

 そのいっぽうで、メールと電話だけで進行する元カレのじゅんちゃんとのやりとりには劇作家・瀬戸山美咲の力量がみえる。狭い舞台空間でふたりの俳優のからだはすぐそこにあるのに、じっさいの場所は離れているのだ。
 ともすれば暴走しがちな舞台を、演じる平山寛人(鵺的)の飄々とした雰囲気がほどよく緩ませているのだが、後半になるにしたがってじゅんちゃんの存在が希薄になり、結果的に舞台における彼の立ち位置があいまいになったことが残念であった。

 つぎに「私」を演じる佐藤みゆきについて。佐藤は福島県出身であり、実家は葉タバコ農家とのこと。その佐藤が東京出身の瀬戸山を演じる。
 被災地と東京。農業と演劇。相反するものをひとりの女優の肉体を通して描くわけである。佐藤の誠実な熱演は好ましく、彼女の存在なくしてこの舞台は成立しなかったといっても過言ではない。しかしその設定の多重性が、舞台の展開や人物の造形においてじゅうぶんに活かせているとはいいがたい。

 劇作家が分裂し、混乱するさまをみせるなら、たとえば瀬戸山を演じている佐藤みゆきが佐藤みゆき自身にもどり、「みさぴー(瀬戸山の愛称)の芝居は甘いよ」と批判するくらいの破壊的展開があってもよかったのではないか。

【「原発は私だ」と「私は男が嫌いだ」】
 気になる台詞がふたつある。
 まず前半の「原発は私だ」。周囲に迷惑をかけ、嫌なものを撒きちらしてめちゃくちゃになっている原発はまさに自分だ。その自分に会うために福島へ行くと「私」は顕史郎さんに宣言する。

「ホットパーティクル」公演の写真2
【写真は、「ホットパーティクル」公演から。撮影=服部貴康 提供=ミナモザ 禁無断提供】

 そして後半は、混乱の極みにおいて「私は男が嫌いなんです」と叫ぶ。やや唐突で乱暴な印象があるが、原発を作り、推進したもの、すなわち東電や原子力保安院、政治家、官僚、マスコミを牛耳る男社会、「私」はそれが嫌いなのだと読みとることもできる。
 しかしそうすると、「原発は私だ」という発言とくいちがう。
 ここに本作のキーポイント、瀬戸山美咲の核があるのではないか。

 憎むものや忌むもの、敵に対して、彼女は自分でも明確に説明できないシンパシイを感じている。
 それは前作『エモーショナルレイバー』が、振り込め詐欺犯罪を続ける青年たちを糾弾する視点で作られていないことにも表れている。
 瀬戸山は、原発を悪だとひとくくりにできない。確固たる意志を持って「しない」のではなく、どうしても「できない」のだ。対象と自己とを同一視するほど強く惹かれながら、そこから生まれる微妙な違和感から猛烈な反発まで、揺れ動く自分の心を登場人物に託してぎりぎりまで描く。
 今回はそこに瀬戸山美咲自身を劇中の人物として出してしまった(しまった、と敢えて言う)ということであろう。

 原発に象徴される男社会に関わらずには、仕事人としても女として生きていけない。
 あるときは男が嫌いだと必死で抗い、あるときは地にひれ伏してみじめに機嫌をとる。
 男に組み敷かれながら次々に恋をしては破れていく「私」。
 未曾有の大震災と同時代に生きる劇作家として、2011年のいま、瀬戸山美咲はその「私」をさらけだす必要があったのだ。

 台風15号襲来の夜に開幕してから終幕後もしばらくのあいだ、ツイッターはじめインターネットの書き込みには、瀬戸山美咲に共感する熱いメッセージが続々と寄せられており、本作がまさに嵐のように多くの観客の関心を掻きたて、注目を集めたことがわかる。

 舞台の「私」を普遍的な存在としてとらえ、みる側に瀬戸山的なものが自分にもあるという手ごたえを持たせるには、もっと戯曲の書き込みや削ぎ落とし、演出の工夫や辛抱が必要であったし、原発を題材にした社会派的な作品と見せて、結局は自分探しだと断罪される可能性もあり、そのぎりぎりの地点で成立している。

 超私的なことを描きながら、そこに社会的な面をあぶりだしていたなら、本作は大成功だっただろう。しかし筆者はそういう舞台を見たかったのかといえば、違うのである。
 どの媒体であったかは記憶にないが、瀬戸山美咲は「観る方を遠くへ遠くへいざなっていけるような作品を作っていきたい」と語っていた。それはまさに今回の『ホットパーティクル』に対する筆者の実感であり、見苦しいまでに自己をさらし、作品の完成度という点からは非常にあやうい面を持ちながらも、作者は本作において、みずからの意図を果たし得たとも言えるのである。

 2011年夏、瀬戸山美咲は福島の地に降り立った。いまはもう違う場所に立っているはず。
 彼女がどこに立ち、これからどこに向かって、どのように歩もうとしているのか。
 自分はあの車のシートに座ることはないが、演劇をみる側で彼女と同時代に生きる者として、ともに歩みつづけたい。

【著者略歴】
宮本起代子(みやもと・きよこ)
 1964年山口県生まれ 明治大学文学部演劇学専攻卒 1998年晩秋、劇評かわら版「因幡屋通信」を創刊、2005年初夏、「因幡屋ぶろぐ」を開設。・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ma/miyamoto-kiyoko/

【上演記録】
ミナモザ#12『ホットパーティクル』
SPACE雑遊(2011年9月21日-27日)
作・演出 瀬戸山美咲
*出演
私…佐藤みゆき(こゆび侍)
中場くん…浅倉洋介
りょうたくん…西尾友樹
ぱにゃ…外山弥生
山地くん…大川大輔(しもっかれ!)
サワちゃん…秋澤弥里
じゅんちゃん…平山寛人(鵺的)
顕史郎さん…中田顕史郎

*スタッフ
舞台監督/伊藤智史
照明/上川真由美
音響/前田規寛
ドラマターグ/中田顕史郎
演出助手/中尾知代(蜂寅企画)
宣伝写真/服部貴康
宣伝デザイン/高田唯(ALL RIGHT GRAPHICS )
当日運営/野﨑恵 塩田友克
制作/印宮伸二
企画・制作/ミナモザ
ポストパフォーマンストークゲスト/谷岡健彦(東京工業大学外国語研究教育センター准教授)
*前売3000円 当日3500円 学生2500円 高校生以下2000円 初日のみ2500円 

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