遊園地再生事業団「トータル・リビング 1986-2011」

◎幽霊と記号あるいは没入と忘却
 木村覚

幽霊と記号

「トータル・リビング」公演チラシ
「トータル・リビング」公演チラシ

 死者が自分を死者と認識せぬまま現世の夢を見続けたお話、ということだけは分かった。主人公であるドキュメンタリー作家が「あの日」に福島県の塩屋崎灯台下にいたこと。その岬で津波に遭遇し、死に至ったこと。死の事実に気づかぬまま「南の島」にいると思いこんでいたこと。これらのことが終幕直前に突然、彼の仕事先の映像学校の生徒たちによって彼に告げ知らされる。だから、このことは間違いない。

 そうとなれば、天使のような存在感で不思議な問答を繰り返してきた二人の女「欠落の女」と「忘却の女=灯台守の女」は、彼の死後の魂の内を漂うなにかで、彼が自分の死を忘却していたこと(また塩屋崎灯台がその灯を消してしまっていること)のメタファーであり忘却が招いた欠落のメタファーである、ということも分かってくる。

 東日本大震災と原発事故をめぐるお話が、25年前のチェルノブイリ事故と重ね合わされる。チェルノブイリ事故との対比でその三週前に飛び降り自殺した(岡田有希子を連想させる)アイドルのエピソードがとりあげられる。さらに、今年の5月に首つり自殺した「5月の女」が25年前のアイドルとの対比で話題にされる。「5月の女」とは上原美優のことだろう。となれば、ドキュメンタリー作家が「南の島」にいたのは彼女の故郷が奄美大島だからだ、と分かってくるし、自分の死を忘れている男の忘却がさらに他者(上原美優)の死をすぐに忘却してしまう人間の批判へと転がされていることも分かってくる。

 いや、しかし、分かったことの多くは『悲劇喜劇』(11月号)に所載された戯曲を、観劇後に読んだことによるものだ。正直言って、観劇直後のぼくは、脈絡が判然としないほどに細かく切り刻まれた断片的イメージを紙吹雪のように大量に浴びせかけられたような気持ちで、「おそらくは、こういうことか、、、」と頼りない憶測だけが心に浮かんでは消える、かなり情けない状態だった。

「トータル・リビング」公演の写真1
【写真は、「トータル・リビング 1986-2011」公演から。提供=フェスティバル/トーキョー 禁無断転載】

 「断片的イメージ」の例をいくつか。舞台上に置かれた三台のカメラは位置が低く(戯曲で宮沢本人が記しているように)「小津」的だ。と思っていると舞台の中心にある塀で前半はひたすら飛び降りる者がおり、後半になるとよじ上ってくる者が出てくる感じ、つまり「飛び降りる/よじ上る」という表象にこだわるあたりは「蓮實」的映画論を読んでいるかのようだ。最初の方でスクリーンに用いた白い壁には数種のファストファッションの白いシャツが掛かっていて、カメラがブランドタグをブラウズしている間、突然舞台は「現代消費社会論」の様相を呈してくる。

 舞台上にさまざまな思考とそれを意識させる記号が、戯曲の内容との直接的な関連が明示されることなく、散りばめられている。それらが組み合わされて生まれるはずのひとつの像を求めて舞台を注視するのだが、像はなかなか結ばない。ひとつ言えるのは、こうした散乱した状態にある記号たちが、どれも「宮沢章夫的」であるということだ。宮沢の興味関心に引っ掛かったものたちが彼の本棚をひっくり返したように舞台上に散らばっている。80年代文化が言及されるところでも、あたかも『東京大学「80年代地下文化論」講義』を読んでいるかのような風で、「六本木のインクスティック」など本書で繰り返しあらわれる固有名詞とともに語られる。そこから、これは宮沢の思考空間の内部で漂う幽霊たちが徘徊する舞台なのだ、と思うと少し納得できる。「宮沢章夫的」なものを求めてやってきているファンには、そうした記号のひとつひとつは、全体として何かの像を結ぶものではないとしても、それ自体で十分魅力的なものなのだろう。

 「宮沢章夫的」であることをもって本作を批判するのは不適当だ。作家の個人的な考えがむき出しになったからといって、そのことが観客を置いてきぼりにするところが多少あるとしても、むしろその振る舞いが評価の対象になる場合もあるからだ。いや、そもそもこの「断片的イメージ」たちは一貫した宮沢の「考え」なのだろうか。むしろ、ぼくの抱いた気持ちは、何かが掴めると思って手を突っ込んだ箱のなかに何にも入っていなくて戸惑うといった事態に似ている。劇の半ばに、パーティーのなかで人々がビンゴを楽しみ景品を手にするシーンがある。景品はテレビのリモコンだけなど「本体なしの付属品」ばかり、といったひねりが施されていた。そう、まるでそんな気持ちになったのだ。登場人物に並んで観客のぼくも「リモコン」に似た断片的イメージを手にするが、どんなボタンを押してもあらわれるはずの像が舞台上に出現しないのである。

没入と忘却

 さて、これは問題だ。このままでは、筆者は「宮沢演劇との相性の悪い者」あるいは「宮沢演劇を見るセンスのない者」になりかねない。どうにかしてその結論は避けたい。そこで、本作とぼくの接点を探そう。本作でぼくが一番面白いと思ったところがあったはずだ。

 それは、登場人物たちがカメラを強く意識するあまり、カメラのフレームから外れたところでおかしな動作をしてしまう瞬間だ。映像学校の学生たちは、現実を演じたり、86年のあるパーティーを演じたりする。その度に、カメラに正面を向ける分、観客席には横顔をさらす役者たちの無防備さが滑稽で引きつけられた。カメラの撮った映像は、スクリーン上にライブで発信されており、映画的でもテレビ番組的でもない、その奇妙な舞台-映像も面白かった。

「トータル・リビング」公演の写真2
【写真は、「トータル・リビング 1986-2011」公演から。提供=フェスティバル/トーキョー 禁無断転載】

 カメラの前の登場人物たちは、カメラを意識する分、カメラ以外のものへの意識が散漫になっている。没入すると、没入の対象以外には意識が向かなくなる。なるほど、それが人間というものだ。没入とは、注目している対象以外を忘却することである。没入と忘却。そう考えると、本作の主人公が陥った事態というのは、まさにこれだ。津波で溺れ、死してなお死を自覚できないほど前後不覚の「没入」の最中にある男。没入してしまっているが故に自分の死を忘却してしまう。本作が語っているのは、そんな男の喜劇なのかもしれない。

 いや、しかし本作を「愚かな1人の男の喜劇」と理解するだけでよいのだろうか。没入と忘却の愚かしさをめぐる非難は、例えば「5月の女」を忘却してしまうぼくたちにも向けられている。東日本大震災の話題(歴史的出来事)に没入して彼女(個人的出来事)を忘れてしまうぼくたち? そうならば、本作はまた「没入と忘却に陥る愚かなぼくたち」へ批評的まなざしを向けた芝居でもあるのだろう。

 ところで「5月の女」の死が、なぜとくに重要なのだろう。「上原美優」がとりあげられた。そのことで、ここで問題にされたのは、一個人の死(今年の5月に亡くなったのは上原だけではあるまい)よりもアイドルあるいはメディア的存在の死だったという解釈が生まれる。ならば、ここで責められているのは「一個人の死」よりも「アイドルの死」を忘却するぼくたちなのだろうか。そうなのか。もしそうだとしたら、本作において「死」とは、一体「何の死」のことなのだろう。

 死んだドキュメンタリー作家はなぜ南の島に、上原の故郷に行ったのか。作家の発言や振る舞いから見て、作家がとくべつ上原美優というアイドルに、また彼女の個人史に興味をもっているとは思えない。それなのに、なぜ行ったのか。戯曲を読んでも、ドキュメンタリー作家の思いに深さ(個人的背景)は見えない。むしろ浅い(現実感がない)。ならば、この浅さにこそ本作のメッセージがあるのではないか。そもそも「上原美優の死」という事柄自体、週刊誌的あるいはネット情報的ではないか。ドキュメンタリー作家の死後の魂は、ネット上に浮遊していたということか。憶測できるのは、週刊誌的/ネット情報的なひとの死の扱いの内に、宮沢の言う「5月の女」の「忘却」はあるということだ。

 なるほど、そうであるならば、本作の議論の焦点は、情報化社会のなかに生きる「ぼくたち」の「没入」と「忘却」にあるのかもしれない。本作は、先述したように、戯曲とはほとんど関係ない多様でノイジーな情報によって舞台が満たされていた。そうすることで、情報化社会における「没入」と「忘却」という内容(話)に、情報の紙吹雪の内に「没入」し「忘却」してしまう形式(語り方)を与えた作品、といえるのかもしれない。

 しかし、その内容と形式の一致は、いわば「ミイラ取りがミイラ」の状態に陥っているように思われる。本作それ自体が、「本体なしの付属品」の集積体なのだった。よく言えば、身をもって議論の核心を露呈させようとしたともとれるけれども、そうであるならば、舞台に置かれたすべてのものとことがすべて虚しいものとなってしまう。この虚空を掴む寄る辺ない気持ちこそ、宮沢が観客の内に喚起させようとしたものなのか。確かに、あの日の観劇体験として、ぼくが「没入」と「忘却」を経験したのは事実ではあるのだが。

【筆者略歴】

 木村覚(きむら・さとる)
 1971年千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)修了。現在、日本女子大学専任講師(人間社会学部文化学科)。専門は美学、ダンス研究。2003年、土方巽の舞踏論で第12回芸術評論募集佳作入選。「BT/美術手帖」「ワンダーランド」などにダンスを中心とした批評を執筆。著書に『未来のダンスを開発する―フィジカル・アート・セオリー入門』(2009年)。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ka/kimura-satoru/

【上演記録】
遊園地再生事業団「トータル・リビング 1986-2011
にしすがも創造舎(2011年10月14日-24日)
☆上演時間 :150分(第一部40分/休憩10分/第二部45分/休憩10分/第三部45分)

作・演出 宮沢章夫
出演:上村 聡 牛尾千聖 大場みなみ 上村 梓 今野裕一郎 時田光洋 野々山貴之 橋本和加子 矢沢 誠 永井秀樹

美術 林 巻子
音楽 杉本佳一(FourColor/FilFla)
衣裳 山本哲也(POTTO)
照明 齋藤茂男(シアタークリエイション)
音響 半田 充(MMS)
映像 今野裕一郎
ドラマトゥルク 桜井圭介
舞台監督 田中 翼、大友圭一郎
演出助手 山本健介、石原裕也

宣伝写真 小山泰介
デザイン 相馬 称
制作 ルアプル(金長隆子)
製作 遊園地再生事業団
共同製作 フェスティバル/トーキョー
主催 フェスティバル/トーキョー

★ポスト・パフォーマンストーク
10/14(金)宮沢章夫×高橋源一郎(作家・明治学院大学教授)
10/15(土)宮沢章夫×いとうせいこう(作家・クリエーター)
10/16(日)宮沢章夫×岡室美奈子(早稲田大学教授)
10/19(水)宮沢章夫×やついいちろう(エレキコミック)※10/17追加
10/20(木)宮沢章夫×出演者、スタッフ

料金:自由席 一般 前売 4,500円(当日 +500円) 学生 3,000円、高校生以下 1,000円(前売・当日共通、要学生証提示)

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