Port B 「Referendum – 国民投票プロジェクト」

2.それは魂鎮めなのか
  大泉尚子

 御茶ノ水駅聖橋口を降りて、会場の神田明神の駐車場に向かう。そう遠くはないはずなのに、明神下の信号の辺りから、うろうろと迷い出す。参道の急な階段を上ってようやくたどり着くと、そこはいくつかの建物を持つ立派な神社だった。

 神田明神といえば、映画にもなった荒俣宏の長編小説『帝都物語』を思い浮かべる。日本最大級(!?)とされる平将門の怨霊に憑依された加藤保憲という男が、帝都を破壊すべく暗躍を繰り広げるという、明治から昭和に跨る壮大な物語。その後ブームになる“風水”を取り上げた先駆的な伝奇ロマンでもある。将門の祀られているこの神社は、映画にも登場した。物語の中で、加藤は関東大震災を起こしているのだが、地震つながりでもないだろうし、怨霊も関係ないよなあ、何でここなんだろう…とちょっとばかり?マークを頭に浮かべながら駐車場を目指すと、いかにも唐突にキャラバンカーが目の前に現れた。その白い冷凍車のような姿は、ところどころに雪洞(ぼんぼり)なんぞが吊るされているのどかな神社の境内に、実に似つかわしくない。

 ともあれ車の中へ。ドアは、一瞬どうやって入るの? と戸惑うくらい小さく、体をかがめて通り抜けると、ごくごく簡単に仕切られたブースがある。特に説明はないのだが、すでに座っている人の様子から、そこに据え付けられたモニターでDVDの映像を見るらしいと気付く。

車中の投票所
【写真は、「Referendum - 国民投票プロジェクト」から、車中の投票所。撮影=ワンダーランド 禁無断掲載】

 中身は、福島と東京に住む中学生へのインタビュー。そっけないくらいの早口で矢継ぎ早に繰り出される問いに、ややあおられ気味なのか、短い答えが返ってくる。
 質問には、「今日の朝食」「友人から何と呼ばれているか」など身近な話題から、「お気に入りの景色」「守るべきものはあるか」といった大切にしているものについて、また「今、一番会いたい人」「あなたの夢は」など希望のありよう、さらに「総理大臣になったら何をするか」「この先戦争が起きると思うか」という、現状認識や未来への展望までが含まれている。

 回答の中で、会いたい人、守るべきもの、宝物、そして憧れの人にまで家族を挙げ、お気に入りの景色にも自分の家の周りを挙げる子がいるのは、いかにも時代の気分を映しているようだし、今の中学生らしいとも思う。同時に「祖国のために戦えますか」に「無理!」という即答もあり、何とも正直だ。ただ「この先、福島はどうなると思いますか」という問いに、復興に向けての希望的な答えが多かったのには、逆に、否定的なことは言い難いという願望や配慮が透けて見えているのかもしれないと感じる。
 映像を見た後には、紙に記された同じようないくつかの質問に、観客自らが答えて箱に投じるという“模擬投票”を行った。

 ところでこの手法は、一昨年のF/T09の演目『個室都市東京』に共通するものだ。あの時は、池袋西口公園周辺にいる人々のインタビュー映像を、個室ビデオショップに見立てたプレハブ小屋で見せるというものだった。インタビューされたうちには、公園に常駐するホームレスの人々もいたし、そういう人にオプションツアーで実際に会って話す機会もあり得るという設定。私自身、コンセプトも全く知らずに参加したこの作品で、彼らの存在を改めて体感し、大きく心が動かされた。だが、あの生々しいまでの体験に比べると、いかに福島の中学生が現れるとはいえ、映像も投票も、いかにも味が薄い印象が否めない。

 さて通常の舞台公演などとは大きく形を異にするPort Bの作品、今回はというと、キャラバンカーは、東京→横浜→郡山→いわき→福島→会津若松→東京を巡回し、私の行った神田明神を含めた15か所に停泊。そのうちの多くの場所でゲストを招いて11回ものフォーラムを行い、会期は1か月にも及んだ。私が参加したのは、豊島公会堂でのクロージング集会だけだが、構成・演出の高山明がパネリストの1人であるF/Tシンポジウム「アート/ジャーナリズム/アクティビズムの新地平」にも出向いた。

 その中で、印象的だった高山の発言―。敢えて政治的な手法をとることなく、そこからこぼれ落ちてしまうような死者やまだ生まれていない者の声に耳を傾けたい。それにはむしろ非政治的なやり方、演劇の仕組みがふさわしいのではないかと考えた。世界に生じた亀裂をどう残すか、記憶装置としての劇場でありたい。小さき者―小中学生は時代の亀裂を鏡のように映す存在であり、その言葉を拾い集め、今後も5年10年と活動を続けたいなどなど。

 その発言を聞いてはじめて納得できたところもある。『国民投票プロジェクト』というタイトルから連想される極めて直接的な政治性から、あの映像・投票体験が遠くかけ離れていたわけ。そして、今回の映像に感じた希薄さや弱々しさは、観客がインタビュー対象に実際に出会う場がないということだけでなく、中学生という存在の不安定さ・曖昧さが影響しているのかもしれないと。彼らの言葉は、周囲の状況や与えられる情報の中で、相手が、社会がどういう答えを求めているかを敏感に察知しつつ揺らぎ動いている。その真意は、自分自身にさえも意識されていないものかもしれず、それを探り当てることは容易ではない。
 もしこの作品に可能性があるとすれば、その揺らぎに注視し、できるだけ価値判断を下すことなくそのままのニュートラルな形で記録しようという、迂遠なまでの姿勢にあるのかもしれない。

 また、停泊場所のいくつか、たとえば巣鴨プリズン跡地であるサンシャイン60や東京都戦没者霊園、第五福竜丸の展示されている夢の島などは、死者を想起できる場所ということで選ばれ、ナビゲーターとして、そこにまつわる詩や短歌を書いて発表した詩人の山田亮太と歌人の斉藤齋藤は、その“声なき声”を聞き取る役目をも担っていたという。神田明神は果たしてどうだったのかわからないが、将門の怨霊を連想したのも、あながち全くの的外れではなかったのかも。そうか、あの二人は憑坐(よりまし)だったのか!

  死者の声に耳を澄ませることは、
  死者の生前の声に耳を澄ませることと、同じだろうか?
遺書はこうなんかものすごい生きちゃってて死とは別物のような気がする

  しかし私には、絶望的に霊感がない。
  死ぬことが決まっていた人が、
  くりかえし、くりかえし歩いた空間を、
  くりかえし、くりかえし、漂うことしかできない。

中学生の東條英機に聞いてみる総理になったら何をしますか
サンシャイン60周辺のTRAVELOGUE 斉藤齋藤より一部抜粋)

 こうしてみると、いくつもの死者の眠る場所、ゆかりの地において、そこに気持ちを寄せながら、生者-中学生という未来に生きる者と詩人たちの声を聞くことは、荒ぶるものを慰撫する魂鎮めの行為なのかもしれない。それは、いみじくも「絶望的に霊感がない」と吐露した現代の憑坐とともに、「くりかえし、くりかえし、漂うことしかできない」実に非生産的で無力な行為かもしれないけれど、ここでは、その微かなものにしか、私は気持ちが寄せられないような気がする。

 さて、この作品では、どこまで参加すれば参加したことになるのだろうか?…と、そういう問い自体があまり意味をなさない。というのも、これはすべてを見終えて評価を下すというものではなく、観客がどうかかわるか、何を考えどう想いを馳せるかによって、それ自体が大きく姿を変えてしまう作品であり、会期が終わった今もなお、生成途中、プロセスであり続ける作品なのだろうから。

 であるならば、ひとつ疑問を呈しておきたい。キャラバンカーでの映像の見方については、特に口頭でも文書でも説明がなく、あまり事情に通じていない観客などは戸惑ったのではないだろうか。またそれ以前に、チラシには詳細が記されず、観客はほとんどの情報をHP上で得たはずだ。その意味で、一般の観客、ネットを使えない人、あるいは一定以上の年代の人にとって、これは間口の広い作品だとは言い難い。タイトルに「国民投票」と銘打ち、インタビュー対象を声の小さい者へと広げ、その眼差しをより遠くに向けようとしているにもかかわらず、観客が限られてしまうことへのこの無頓着さは、アンバランスと言わざるを得ない。

 シンポジウムでジャーナリストの津田大介が言っていた。普通のパソコン教室ではエクセルやパワーポイントについて教えるが、リタイアした人などにとってはそれらはもうあまり使い道がなく、むしろツイッター・ブログの使い方を学びネットワークをどう広げるかを伝授する方が有効と考え、そういうワークショップを開催していくと。
 そんなふうに、網の目からこぼれ落ちた部分をどれだけ掬い上げられるかという発想には共感を覚える。

 それは、高山が、新しい時代の訪れ、革命のビジョンには“広場”で多くの人が集まり、人と人が触れ合うというイメージがあると言っていたことにも、キャラバンカーに出入りした人たちが、そこに置かれたテーブルで会話を交わすことも大事なのではないかと話していたことにも通じると思う。

 瑣末ともいえるかもしれないが、そんな部分が強化されることを望みつつ、これが本当に5年10年と作り続けられる作品なのかどうか、その生成の過程を注視していきたい。
(了)

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