ジェローム・ベル 「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」

5.イエス、ヒズ・ショー・ゴーズ・オン
  都留由子

 F/T11の掉尾を飾るプログラム、ジェローム・ベルの「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」を見た。

 ダンスやパフォーマンス、インスタレーションの類は得意ではない。特にコンテンポラリーダンスなど、もしかしてこのダンサーは具合でも悪いんじゃないかと思うことさえあって、わざわざチケットを買って見に行こうという意欲には欠けていた。ダンスがきらいなわけではない。いいなあと思ったことだってある。まあ、それは、ずっと前に見た「ウェストサイドストーリー」や「コーラスライン」のダンスナンバーなのだから、我ながら保守的な観客だとは思う。だから、劇評を書くセミナーの課題作品にダンスが上がっていて困ったなと思ったのだ。しかし、F/T11のHPの写真を見たら、コーラスラインみたいかもしれない気がして、一縷の望みを抱いて彩の国さいたま芸術劇場へ出かけた。

 大ホールはほとんど満席のようだった。舞台すぐ手前、オーケストラピットがあれば指揮者のいるあたりに音響卓のようなものが据えてあり、男性がスタンバイしている。「コーラスライン」の演出家ザックを思い出した。

 開演。真っ暗になって、ウェストサイドストーリーの「トゥナイト」(歌つき)が聞こえ、ステージ上方に、「Tonight トゥナイト」という文字が映し出される。いよいよダンスが始まるぞと思ったのに、結局、誰も出てこないまま終わってしまう。こうしてずっと暗闇で音楽を聞くのだろうか? 暗い中で次の曲がかかる。今度は「Let the Sunshine In」だ。これもインストゥルメンタルではなくて、ボーカルが入っている。タイトルの文字が映し出されて、タイトル通り、舞台は明るくなる。でも誰も現れない。会場は音響卓でCDを入れ替える音が聞こえるくらいシーンとしている。そのCDが入れ替えられて聞こえてきたのは「Come Together」。

 舞台の上に人が現れ、ゆるいカーブを描いた一列に並んで、全員客席に正対して立つ。カジュアルな格好で、そこらへんを歩いていた人がそのまま舞台に上がったかのようだ。「何ということもなく立ってる」ふうにこっちを見ている。まだ誰も踊らない。

 次の曲は「Let’s Dance」。歌詞の「Let’s dance」をきっかけにみんな踊りだす。普通の人がその場で好きに踊っているといった趣で、ちょっとユニクロかauのCMみたい。曲が終わると、ペットボトルの水を飲む人もいるし、上着を脱ぐ人もいる。

 次の「I Like to Move」でどこかを激しく動かし(腕を振る人、舌を出す人、袖幕を揺らす人、おっぱいを出しちゃった人もいた。かなり激しくて、曲が終わるとみんな息が上がっていた)、「Ballerina Girl」では男性が退場、女性だけが残ってバレリーナっぽく踊る。

 毎回、タイトルの文字が映し出される。ここまでくれば私にもわかる。曲のタイトルとダンスが対応している。

 その後は「Private Dancer」で、音響卓の前にいた例のザックみたいなおじさんが舞台に上がって一人で踊り、「Into My Arms」ではみんな抱き合い、「My Heart Will Go On」で映画タイタニックのあの有名な舳先のシーンを再現し、それが沈んだ無人の舞台で奈落から射す黄色い照明の中「Yellow Submarine」が聞こえる。照明が無人の舞台から客席までピンクに照らして「La Vie En Rose」。「Sound of Silence」では、文字通り静寂を聞かせ(つまり無音)、「Killing Me Softly With His Song」で出演者たちはロバータ・フラックの美声に優しく殺されて舞台に倒れる。 倒れているところにフィナーレは「The Show Must Go On」。当然、ショウを続けるためにさっき殺された人たちは立ち上がるのだ。

 「(曲のタイトルで)言ってること」と「(舞台上で)やってること」が見事に対応している。私のような保守的な観客にもとてもわかりやすい。この場合、わからない方が難しいだろう。使っている曲もよく知られているポップスばかり、自慢ではないが私など歌詞まで知ってたくらいだ。

 やってることにしても、振付というほどの振付らしいものはなく(クレジットにも、構成・演出:ジェローム・ベルとあるが、「振付」という文字はない)、驚くような超絶技巧も、うっとりため息の出るような動きもない。ソロで踊ったおじさんもソロを任せてもらえるほどダンスが上手には見えない。その意味では、私がかつてウェストサイドストーリーやコーラスラインで感じたようなダンスを見る喜びはなかった。もちろんテクニックのある人もいたのだろうが、作品全体の印象は、年齢もダンサーとしての資質も性別もたぶん国籍もばらばらな人たちが、気持ちよさそうに舞台の上で踊っている、というものだった。音楽だけ流れて舞台上には誰もいない曲さえ何曲もあり、舞台上の人たちが踊らずに「歌う」、「客席を見る」場面もあった。

 で、面白かったのか? 私には楽しかった。理由はふたつ。ひとつは、知ってる曲ばかりだったこと。もうひとつは、最初の理由と不可分だと思うが、あれこれ考えずにただ楽しめばよかったこと。つまりレビューみたいな作品だったからだ。

 本物のレビューを見たことがあるのかと言われると困るが、宝塚歌劇のなら見たことがある。最近のことは知らないけれど、子どものころよく見た宝塚歌劇は、たいてい二本立てで、一本はお芝居、一本はレビューだった。レビューには、全体として緩やかなストーリーがあるものの、場面と場面のお話としての結びつきはあまり強くなくて、歌のうまい人が歌い、ダンスのうまい人が踊り、群舞がつく、といった場面が、いろいろ趣を変えてつながっていた。ロマンチックな場面、コミカルな場面、賑やかな場面、静かな場面、ダンスナンバー、歌。華やかな、気持ちが高揚するフィナーレ。使われる曲のうち、その作品のオリジナル曲はどれも覚えやすくて最初の場面ですぐに「知ってる曲」になるし、それ以外には誰でも「知ってる曲」が使われていたように思う。シャンソンや、スタンダード曲、ビートルズの曲も聞いた記憶がある。登場人物も、お芝居とは違って、その場面での「役」でもあるが同時に人気の「役者」そのものでもあった。

 やっぱりレビューみたいだ。舞台の上にいるのが憧れのスターではないところは違うが、その代わり、まるで隣を歩いていたような人が舞台上にいるので、とても身近に感じられ、まるで知人が踊っているような気がして、また、気持ちよさそうに踊っている感じが客席の私にも感染したようで、気分よく舞台に引きつけられてしまった。

 この作品が2001年にパリ市立劇場で初演されたときには、賛否両論をまきおこし、チケット代を返せと怒る観客もいたという。F/T11のHPの解説にも、この作品は「ポップソングに表象される資本主義が生産し流通させる記号、画一化された身体や行動に対するベル自身のアンチテーゼの表れでもあり、また観客へのアイロニカルで真摯な問いかけにほかならない」とあった。

 そうだったのか。そういうとんがった作品をレビューみたいだと楽しんではいけなかったような気がしてきた。アイロニカルで真摯な問いかけをされていたとも知らず、作品をのんきに楽しく消費してしまったわけだ。げに恐ろしきは、無知で、無邪気で、娯楽に貪欲な一般人である。

 私はダンスやパフォーマンスの歴史や現在の状況については全く無知であるが、十分に一般人であるから、ポップナンバーを聞いてちゃんと心当たりがあり、その曲の内容も知っているし、曲にまつわる個人的な思い出もある。だからこの作品をベルが求めたのとはかなり違った方法だとは思うが、十分楽しめたと思う。しかし、「資本主義が生産し流通させる記号」にどっぷり浸かっている今の日本にはそんな人はいないだろうが、例えば使われた曲を知らない観客がこの作品を見たらどう感じるのだろうか。あ、知ってる曲だ! とか、なるほどSound of Silenceだから無音にしてるんだな、とかいう「それ知ってる感」、「なるほどそう来るか感」がなくてこの舞台を見たらどうだろう。英語を理解できない場合も、ちょっとハンディがありそうだ。

 あまりなじみのない「ダンス」を見るのでちょっと緊張していた私は、レビューみたいだと思ってちょっと安心し、すっかり楽しんでしまったが、冷静になってこの作品を見れば、ゴージャスな衣装も早変わりも、すてきな舞台装置も、驚くような装置の転換も、生演奏の音楽も、目を見張る超絶技巧のダンスもなかったのだから、レビュー作品として見るなら、率直に言って物足りない作品だ。この作品で音楽とそのタイトルや歌詞が担う物語を消去して、舞台の上で行われたことだけを見るのなら、与野本町のホールまで来なくてもよかったかもしれない。気の利いた駅前なら、夜中のコンビニの前でダンス少年ダンス少女が結構うまいダンスを踊っていたりするのだから。

 とすると、この作品を楽しむことができるのは、ここに使われた音楽を「ポップ」ミュージックだと認識できる時代の、認識できる人だけということになるのだろうか。音楽やダンスは、文化や国境を超えて、地球上のどこでも通じるとか楽しめるとかよく言われるが、この作品に限ってはその範囲が限定されるわけだ。少なくとも映画「タイタニック」とあの有名なシーンを知らなければ、少なくともひとつは全然意味のわからない場面もあるのだし。自覚もないまま、そういうハードルを乗り越えて楽しんで見た私は相当ラッキーだったに違いない。

 でも、素養がないのでよくわからないのだが、「資本主義が生産し流通させる記号、画一化された身体や行動に対するアンチテーゼ」としての作品が「資本主義が生産し流通させた」例えば「タイタニック」という記号や、バラ色の人生といえばピンクの照明、みたいな「画一化された行動」で成立していて、世界中のどこに行っても、出演者を入れ替えるだけでその国バージョンを作ることができ、しかも商業的に大成功を収めているというのは、なんだか騙されたような気がするのだけれど、それは構わないのだろうか? ベルが記号や画一化された行動を皮肉・あてこすりとして使っているのに、鈍感にもそれを感じないで面白いと喜んでしまう側に問題があると言われれば一言もないが。

 そう考えると、アンチテーゼとして作られた作品さえも記号として消費しつくしてしまう資本主義(なのか、市場経済なのか、やっぱり素養がないのでわからない)の底力も、その中にどっぷりと浸かっている一員として、改めて感心してしまう。お釈迦様の手のひらの上で世界の果てまで飛んだと思っていた孫悟空が、つい思い出される。

 おやおや、せっかくレビューみたいだと思って単純に楽しんで帰ってきたのに、後からこんなふうにあれこれ考えることになるなんて、結局ベルの思うつぼ、ベルの手のひらの上で一所懸命飛んでいるのは、どうも私だったらしい。
(了)

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