鴎座クレンズドプロジェクト02「浄化。」

◎「浄化。」されるわたし
關智子

「浄化。」公演チラシ

 「わたしは強烈な力であの人の中に投影されており、ひとたびあの人を欠くとなると、再び自分を捉えることも、とり戻すこともできなくなる。わたしは永遠に失われてしまうのだ。」

 この言葉はロラン・バルト(Roland Barthes)が『恋愛のディスクール・断章』(Fragments D’un Discours Amoureux, 1977. 三好郁朗訳、みすず書房、1980年)における「破局」の項で述べたものである。この本は、『浄化。』の戯曲である『洗い清められ』(Cleansed, 1998. 近藤弘幸翻訳。以下敬称略)を書いた際に作者のケイン(Sarah Kane)自身が影響を受けたと述べており、作品の主題である精神的限界状態としての愛を表象するために参照していたとされる。この『浄化。』では、このバルトの言葉にあるような状態が上演の中で描かれると同時に、それは作中の登場人物だけではなく観客までも巻き込もうとする力強い、挑発的な試みが見られた。

 『浄化。』は3年がかりで『洗い清められ』を作るという鴎座フリンジ企画の「クレンズド・プロジェクト」の第2作目にあたり、前回のリーディング作品とはまったく異なる趣向でもって上演された。恐らく、2012年5月に予定されている本公演も完全に別の作品になるのではないかと期待される。だが、前回に比べてより大胆な解釈や演出が見られていくら傾向が違っていても、戯曲に対する誠実な態度は相変わらずであり、それは以下の辻田暁(企画・振付)の言葉からも窺える。

 「サラ・ケインの言葉は肉体をもつ。川口智子と作業を共にすることで『身体が心地よくなってはいけない』と思わせられました。言葉よりも先に身体が誕生した。つまり身体は言葉以上の意味や情を放つ。それは身体に執着するあまり言葉から放れて(ママ)しまった現代のダンサーに対する挑戦状だと受け取りました。」(当日パンフレットより)

 言葉により表される戯曲というメディアをダンサーが扱う場合は常にある種の困難があると思うが、この『洗い清められ』の場合、戯曲の言葉自体が既に肉体を持つために、ダンサーの肉体をいわば言葉が追い詰める形式になっているので、より難しい状況に置かれるのではないだろうか。さらに言えば、追い詰められるのはダンサーだけではなく、他の出演者や演出に対してすら挑戦的である。演出・企画の川口と辻田は真っ向からその勝負に立ち向かい、川口はその突破口として「幽霊」「肉感」「同時多発身体」が見えたと述べている(当日パンフレットより)。この3つのキーワードはどれも人間の身体の問題であり、上演においてはそれが肉体を持つ者と持たない者の対比によって表されていた。

「浄化。」公演写真「浄化。」公演写真
【写真は、ともに「浄化。」公演から。 撮影=青木司 提供=鴎座クレンズドプロジェクト 禁無断転載】

 話の筋は複雑な恋愛関係(欲望関係という言葉の方が相応しいかもしれない)により構成されている。主人公グレイスは死んだ兄グレイアムを想い、自称医者のティンカーに監禁されているロビンはそんなグレイスを慕っている。このティンカーは、同性愛のカップルであるロッドとカールを虐待し、名のない<女>にグレイスの姿を求めている。この交差した関係はトランス・ジェンダーとトランス・アイデンティティをもって描かれている。ロビンは恋の対象であるグレイスの服を着させられ、グレイスは兄グレイアムの服を着てグレイアム本人になりたいと願い、<女>は医者ティンカーの前でグレイスとなる。また既に死んだはずのグレイアムが登場したり、グレイスを暴行するのが<声>という登場人物(?)だったりと、かなりリアリズムからは離れている。

 ここまでが戯曲の話である。『浄化。』ではこのような複雑な関係性とアイデンティティの問題が、出演者の肉体と声を用いてより複雑化されていた。まず、肉体を持たない、肉体が見えない者がいる。黒川モモ、鈴木光介と花佐和子である。役名で呼ぶとするならば<声>、ロッドとカール、<女>なのだが、この後述べるようにトランス・アイデンティティ的存在であるこの3人は役名で呼ぶのが相応しくないように思われる。

 鈴木は最初に現れる人物である。まず上演が始まる際に、クリスマスですから、と言い、両手に持ったアサラト(2つの木製の玉が縄で繋がれたカスタネットのような楽器)を鳴らしながらホーメイで『ジングルベル』を歌う。そのまま片手をロッド、他方をカールに見立て、ひとりで対話を行う。つまり、歌っていたのはロッドとカールなのである。後でロッドは殺され、カールは舌を切られて言葉を失うために、鈴木は音楽担当という印象が強い。このカールは戯曲においては舌だけではなく両足と両腕も切断され、性器をグレイスに移植され、かつその傷痕をネズミに齧られるという残酷極まりない目に遭うのだが、『浄化。』ではあえてそこを描写せず、声だけでカールを登場させている。

 黒川はいかにも目を惹きそうな容姿をしていながら、この上演では敢えてその肉体が消され、見えないものとなっている。実際にダンサーとしても活躍しており作中で踊りもするのだが、その動きは整えられたものであり「肉感」はあまり感じられない。彼女はロビンの声や<女>の声、<声>そのものになったりするが常に肉体は別にあり、登場人物のアイデンティティの間を彷徨う者として存在していた。

「浄化。」公演写真「浄化。」公演写真
【写真は、ともに「浄化。」公演から。 撮影=青木司 提供=鴎座クレンズドプロジェクト 禁無断転載】

 同じように「見えない」存在として花佐和子がいる。彼女はほとんどを舞台奥の倉庫にある椅子に座っており、観客の半分以上は恐らくその姿が物理的に見えない。<女>を演じるのは通常、グレイスと同じくらいの年齢の女性だが(というのも、この<女>は覗き小屋のダンサーという設定だからである)、この上演ではあえてグレイスよりも年齢が高い女性であることが強調されていた。ティンカーは白髪交じりの彼女にグレイスを見ており、やはり彼女の肉体は見えないものとして提示されているのである。筆者は倉庫の奥が見える位置に座っていたため推測でしかないが、恐らく見えない位置に座った場合にはティンカーと同じ状態に置かれたのではないだろうか。つまり、見えないことによりそこにグレイスを見るのである。上演において観客は、具体的に提示しないことによってそこにないものを想像力で補い、見るという行為を要求されている。例えばぶら下げられた白い布に黄色いペンキを塗るという行為は、床からひまわりが咲く様子でもあり、ロビンが読み書きを習うための本でもある。このような演出は、あえて見せない、あえて見ないという行為による「見る」ことの可能性を増幅させているのである。戯曲の中でも、ティンカーは最初の内はあえて<女>の顔を見ないでいる。作品の最後で花は倉庫から出て舞台上を歩く。彼女はティンカーに名を聞かれ、「グレイス」と答える。その時彼女はグレイスとして初めて肉体を獲得し、見える者として現れるのである。

 これらの肉体を持たない者に対して、肉体を持つ者、人間の肉体がそこにあるという感覚をもたらす者がいる。グレイスを演じる辻田は常にその身体が強調されており、作中で最も強い「肉感」を放っていた。椅子に座って前を見ている姿は、倉庫の奥で椅子に座る花=<女>のパラレルのようになっているのだが、その肉体の在り方が明らかに異なっている。辻田の体は、グレイスが作中でたびたび訴えるように何かが不自然な状態、つまり辻田自身が語るように「身体が心地よくなって」いない状態を描き出していた。それはグレイスがグレイアムになりたいと願っている原因である。辻田の座る椅子の後ろにはグレイアムを演じる武田幹也が立っている。グレイアムはグレイスの兄の幽霊として見ることもできるが、武田の傍で辻田がその肉体の異質感を表し続けていることから、むしろグレイアムとはグレイスのアイデンティティの一部、彼女の精神的側面の具現化として見られた。客席の方を向いて立つ武田、体を持て余すように椅子に座る辻田、倉庫の椅子に座り「グレイス」と呼ばれる花、この三者の間に<グレイス>というアイデンティティが存在しており、つまりグレイスは「同時多発身体」を持っていたのである。

 肉体の強調は、観る者の肉体をも巻き込む。井上大輔が演じるロビンはグレイスを慕っており、チョコレートを渡そうとするのだが自称医者であるティンカーに見つかってしまう。ティンカーはその箱のチョコレートを全部、無理矢理ロビンに食べさせる。このシーンは実際に上演で行われた。ティンカーは次々にチョコレートを投げつけ、ロビンはそれを片っ端から(まるでティンカーには一つも与えまいとするかのように)食べる。つまりチョコレートが表す愛をティンカーが過剰に投げ与え、それを消化し切れないままロビンは貪り食うのである。甘い匂いが伝わり、食べ切れず吐きそうになっている井上の姿は見るに耐えず、このシーン故にこの作品が好きではないと思う人もいるだろう。だが、繰り返される暴力とその暴力に晒される身体が強調されることによって生まれる嫌悪感は、感情移入の一種とも考えられる。その様子から眉を顰めて目を背け、不快感を覚えるのはその井上の肉体に自分の一部を入れ込んでいるからではないだろうか。ロビンに与えられる虐待を拒絶する瞬間、同時に自分がロビンであることにも気付かされるのである。上演で、やっと箱が空になったと思った次の瞬間、ティンカーはその底紙をむしり取ってもう一段あることを表し、客席からは驚愕を含んだ笑いが漏れた。ロンドンの初演では一段であったのを、ケインは後から二段重ねに変更しており、恐らくこの繰り返すという行為そのものに含まれる暴力性が、観る者を巻き込むことに必要だと感じたのではないだろうか。客席から漏れた息を呑む音と笑いは、ロビンと共に感じる絶望と、ティンカーと共に感じるサディスティックな悦楽をも含んでいたように感じられた。

 他人に自分を投影することは演劇を観るという行為の一部でもあり、この作品における主題の愛するという行為でもある。久保恒雄演じるティンカーは、作中でも最も歪んだ形で投影を行っていた。ティンカーはロッドとカール、ロビンの愛を次々と破壊させ、グレイアムを麻薬で殺し、一方ではグレイスを暴行させておきながら他方でグレイスを愛している。だが、その愛が直接本人へ向けられることはなく、常に<女>を通したグレイスを愛するのである。上演において久保は巨大なハサミをずっと持っており、傘の骨を折り穴を開け、カールの舌を切り、黄色い布を引き裂く。『シザーハンズ』というティム・バートン監督の映画があるが、ここではティンカーはいわば裏・エドワード(両手がハサミになっている人造人間)である。手がハサミであるが故に愛せないのではなく、手をハサミにし、傷つけなければ愛することができない。この屈折した愛は、自らへと回帰する。作品の最後でティンカーはグレイスに手術を施し、グレイアムの体へと変えた後に<女>の元へ行く。戯曲では2人が愛し合うという(歪んだ)ハッピーエンドだが、この上演の演出においてティンカーはかつて<女>がいた倉庫の椅子に腰掛けた状態で台詞だけがハッピーエンドである。倉庫から出て舞台上を歩く<女>=花と椅子に座るティンカー=久保の対比は、立場の逆転を表すようでもあり、ティンカーが最も求めていたのは自らがグレイスとなることだったのではないかとすら思わせる。グレイスをグレイアムにすることで、グレイス=<女>=自分を愛することが可能になったのである。

 かくして冒頭のバルトの言葉に戻ってくる。作中にある様々なトランス・アイデンティティは愛するという行為の投影の結果であり、グレイアムを失ったグレイスはグレイアムになり、グレイスを失ったティンカーはグレイスになる。そして描かれる暴力によって観客もまたある種の投影をそこに行う。『浄化。』は戯曲に描かれている交錯する愛をさらに複雑化することでその幅を広げ、観客までそこに巻き込もうとしていた。

 細かい演出は挙げ出すとキリがないが、もっとも印象に残ったのは靴である。舞台のほとんど中央に水の入った銀の盆が置かれており、作品冒頭でグレイアムはそこに裸足で入ってティンカーから薬を貰い、作品の最後には手術を受けたグレイス(/グレイアム)がやはり裸足でそこにいる。ロビンが監禁の残り日数を数えている間、黒川(この時は恐らく誰でもない。言うなれば「幽霊」である)がもう一方の倉庫から靴を次々に取り出し、舞台上に並べていく。恐らく、グレイスとグレイアムのように、それは盆に入って「浄化」された人達の墓標である。ロビンは残り日数があまりに長いことに絶望し、吊り下げられたバーにストッキングを巻き、紐を作る。そこにグレイアムが靴を引っ掛け、ロビンは「浄化」される(作者のケインは靴紐で首を吊って自殺している。演出がその事実を意図的に示唆したかは定かではないが、この上演で言うならばケインもまた「浄化」されたことになるだろう)。そして「浄化」されるのは作品における登場人物だけではない。筆者はこの上演の帰り道、クリスマスイヴの渋谷、カップルが愛を囁きまくり若い女の子たちがヒールをカツカツ言わせている中を、裸足で歩いているような気がした。
(観劇日時:2011年12月24日15時の回)

【筆者略歴】
 關智子(せき・ともこ)
 大学院演劇学西洋演劇専攻。現代英演劇が主ですが基本的に雑食です。テクストと上演の関係が気になるので、暇さえあればテクストを読んでいます。ドラマトゥルクとか文芸部員とかいう存在にとても心惹かれています。

【上演記録】
鴎座クレンズドプロジェクト02『浄化。』―サラ・ケイン「洗い清められ」(近藤弘幸訳)より―
渋谷・space EDGE(2011年12月22日-25日)

作:サラ・ケイン
訳:近藤弘幸
演出:川口智子
振付:辻田暁
音楽:鈴木光介(時々自動)
音響:島猛、勝見友理
照明:横原由祐
舞台監督:伊東龍彦
演出助手:佐々木琢
協力:佐々木琢
宣伝美術:太田裕介
鴎座主宰:佐藤 信
出演:久保恒雄(黒テント)、鈴木光介(時々自動)、武田幹也、井上大輔、辻田暁、黒川モモ、花佐和子
予約:2500円/当日:3000円
助成:一般社団法人 私的録音補償金管理協会(sarah)

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