パパ・タラフマラ ファイナルフェスティバル

◎舞台は続く
 志賀信夫

ファイナルフェスティバル公演チラシ
ファイナルフェスティバル公演チラシ

 第三世代
 この1月、第三舞台が解散した。活動休止(封印と称す)していたが、10年ぶりに最終公演『深呼吸する惑星』を行って、遂に解散に至った。そして今回、パパ・タラフマラが解散するという。
 唐十郎、寺山修司、佐藤信、鈴木忠志、瓜生良介(発見の会)などのアングラ(前衛)第一世代、つかこうへい、太田省吾など団塊の第二世代に続き、「第三世代」といわれ、小劇場の旗手ともてはやされたのが、野田秀樹の夢の遊眠社、川村毅の第三エロチカ、鴻上尚史の第三舞台だった。筆者と同じ昭和30年代始めに生まれ、当時「遅れてきた世代」、「三無世代」ともいわれたのは、70年代安保、新左翼闘争にのめり込んだ団塊の次の世代だからだ。

 パパ・タラフマラを主宰する小池博史も同様に昭和31(1956)年生まれで、大学卒業後TVディレクターを経て、1982年にタラフマラ劇場(当時)を立ち上げた。しかしこれら3人ほど早くから注目されなかったのは、活動が大学卒業後と遅かったこと、野田が東大、川村が明治、鴻上が早稲田といういずれも学生劇団が有名な大学だったのに対して、小池は一橋大学と学生数・規模も小さく、立地も山手線の外側だったこともあるだろう。

 さらに、小池が志向したのは、せりふ劇ではなくパフォーマンス的な身体表現だったという理由もある。言葉による舞台は観客が入りやすく、岸田戯曲賞のように評価もされやすい。おそらく、こういったさまざまな点から、小池が高く評価されるようになったのは、同世代の小劇場組より遅いのだ。そして、野田秀樹は92年に夢の遊眠社解散、川村毅も第三エロチカを2010年に解散し、今年、第三舞台、そしてパパ・タラフマラと、第三世代にあたる主だった劇団・グループは解散した。なお、同世代の宮城聡が小池より遅く90年に立ち上げたク・ナウカも2007年、宮城の静岡芸術劇場芸術監督就任に伴い、休眠状態にある。

 解散へ
 今年、小池博史は、パパ・タラフマラ30周年として大々的に舞台を展開する予定だった。しかし、3.11の東日本大震災が起こったことを契機に、「解散」へ百八十度方向転換した。それはなぜだろうか。多くのアーティストがこの災害に直面して、自分の舞台や表現の無力さを感じ、そのことを表明している。それもあるだろう。また、小池は、2010年12月の試演会で奇しくも、災害を予言するような作品を作っていた。そして、小池の出身は茨城県日立市。茨城は関東だが津波の影響も受け、何より日立は原発製造メーカーでもある日立製作所の地元である。

 小池の述べるところによれば、日本の芸術助成制度の貧困も一因だという。小池の作品は海外で多く上演され、オファーも多い。それを実現するには、助成金は不可欠だ。しかし、近年、助成の枠がなくなったり、制度が変わったりして、受けられないことが増えてきた。この先の公演の見通しが暗くなっている。

 確かに、欧州では実績のある劇団やダンサーは優遇され、組合もあり、守られている。それに対して日本は、わずかな助成でも、特に海外公演に対する場合、古典など伝統的なものや経歴の長い有名団体などが、どんどん多くなっている。

 しかし、見るところ、パパ・タラフマラの国内公演も勢いが衰えてきたことは否めない。近年の作品は、「おもちゃ箱をひっくり返したような」という形容詞がふさわしく、それ以上に感じさせる「何か」が薄れている。それは一つには、以前はヴォイスとダンス、声と動きがあいまって独自の空間と時間を生みだしていたのが、ヴォイスがなくなった、あるいは弱まったからではないか。これはやはり小川摩利子の存在不在が大きい。小川は海外に渡り、過去の作品には出演するが、近年の作品には出ていない。そして、ダンスが主体となって、音楽や美術も外部とのコラボレーションが多くなった。外のアーティストの部分は面白くても、本体ともいうべきダンスなどの表現には、鮮度を感じにくいのが正直なところだ。

 パフォーマンスと劇場法
 小池はまた、自分の作品がジャンルを特定できないこともマイナスとなっていると述べている。パパ・タラフマラは確かに、劇団といわれたり、ダンスグループ、パフォーマンスなど、色々と書かれている。コンテンポラリーダンスグループという表現まであって、それは明らかに違うだろうと思うのだが、身体表現集団であり、広義のパフォーマンス集団といっていい。そして、この分類しにくさは、助成金申請にも絡む。演劇、舞踊、美術と分かれている場合は、どこにでも当てはまらない。しかし、見方を変えれば、実はそれはどこにでもあてはまるということだ。

 これまで多くの劇団やダンスグループなどが海外公演を行っている。演劇界の事情には詳しくはないが、ダンスを例にとれば、舞踏家たちは海外で高く評価されているが、日本では公演のたびに持ち出し、つまり赤字公演を続けている。つまり、海外と国内では評価にギャップがあるということだ。パパ・タラフマラのように、海外公演を多くこなしてきた劇団も同様ではないか。一つの作品を各地で上演することができ、それは何年も続く。一方、国内では新作が求められ、それは前作よりもより高い何かが求められる。そうなると、表現者はギャップに悩み、創作に対しても疲弊していく。コンテンポラリーダンスの伊藤キムが一時、活動を停止したのも、そこに理由の一つがあるだろう。

 日本の舞台芸術は海外でも評価が高く、文化的貢献度は高いはずだ。ただ、舞踊一つとっても、バレエ人口40万人、フラメンコ、ハワイアン、バリ、インドなどあらゆる国のダンスが学ばれ、もちろん日本舞踊もある日本。海外では能・歌舞伎・日舞がエキゾチズムで受けるため、助成金がそちらに比重がかかるのもわからないではない。舞踏が海外で受けるのもそんなエキゾチズムの要素は大きいだろう。

 現在、「劇場法」が提唱されている。よりよい舞台環境を願っての発案だろうが、これは劇団や舞台の「評価」にもつながり、法律というのはいったん制定すると人間を縛ることにもなるため、疑問も呈されている。そしてこれは、助成金の問題とも関わってくるため、今後、大手以外の演劇人の意見をどの程度生かせるかが課題だろう。

 そういうなか、小池はどこに向かうのか。先日のアフタートークなどでは、もっと発言していくと述べている。実際には、ブログなどで以前から盛んに発言しているのだが、社会的・政治的な発言をもっと行うという意味だろうか。「フクシマ」が契機で、さらにそう思ったということだろうか。ともあれ今回、解散公演として、『三人姉妹』、『島~Island』、『Ship in a View』、『白雪姫』が1月から3月にかけて、上演日程が組まれた。そのうち2つを中心に述べる。

 『島~Island』
 小川摩利子、松島誠というたった2人だけの舞台。黒い背景の中に緩やかな衣装をまとい登場する2人。小川は語り出す。老婆の声で、民話・寓話的な物語。さらに、「声」を発する。しかし、そこにはメロディがある。歌詞がない歌でもある小川の「ヴォイス」。いわゆる西洋的な歌でもない。まさに「身体表現そのもの」としての発声。その声が空間に広がっていく。メロディはどこかアジアの田舎の歌のような、懐かしさを伴うもの。それは時にデタラメ言語の歌にもなる。そして小川は動く。ダンスではない動き。しかし、きっちりと決められた、振り付けられた動きが繰り返され、続く。

 松島は一方、その動きが中心。踊り、パフォーマンスのどちらでもない動き。鳥のように両腕を羽ばたかせながら、動く。烏か怪鳥のように。そして時折高い声を発する。構造としては、小川が舞台の主であり、松島は従である。小川は、おそらく母系的な女性の存在を象徴して舞台にいる。2001年に見たときは、小川も若く、動きにはもっとキレや勢いがあったといえる。しかし、老婆の語りを中心に演じるというこの設定では、むしろ、いまのほうがいい。それは松島も同様だ。怪鳥のような、奇妙な老人を演じているらしい松島。パパ・タラフマラで他の作品では、圧倒的なエネルギーを見せて、跳ね回っていた。この舞台では、その激しさ、エネルギーよりも、静かな存在、静かな力を感じさせる。

「島~island」公演の舞台写真1「島~island」公演の舞台写真2
【写真は、「島~island」公演から。撮影=小池博史 提供=パパ・タラフマラ 禁無断転載】

 この発声と決められた動きは、繰り返されることで、一種の儀式性を生む。リフレインというのは、音楽でもダンスでも、重要な手法である。音楽ではリフレインが作用して興奮、トランス状態を生み出す。ヒットする曲は大半がそのリフレインに特徴があり、サビとして長く残る。あるいはロックなどのリフも同様、ディープ・パープルの『スモークオンザウォーター』を思い起こそう。ダンスでも、例えばトルコの回転舞踊を見ればわかるように、繰り返しによって踊り手のみならず、観客にもその陶酔状態を生み出す。これらが一体となっている顕著な例は、ラベルの『ボレロ』だろう。徐々に盛り上がるといった音の大きさはあるが、基本はリフレインだ。そして有名なモーリス・ベジャールの『ボレロ』を連想すれば、これが一つの儀式のように見えることはわかるだろう。

 つまり、音楽と舞踊と儀式はリフレインという要素でつながっている。そして繰り返しにより、言葉は意味を喪失していく。繰り返しにより聞き手はその意味を受容する必要がなくなる。これは経や念仏と共通する。パパ・タラフマラの舞台には、ダンス、ヴォイスともにこのリフレインが巧みに取り入れられており、それが儀式性を生む契機となっている。さらに、華美な衣装や装置を廃している点、そしてヴォイスとダンスというプリミティヴな表現自体も、儀式性を強めているといえるだろう。
 男女のダンス、舞台というと、西洋東洋を問わず、男女の愛や葛藤などを描くものが多い。しかし、この舞台にはそれがない。女性が母系的存在として、一つの基調を作り、男性はその周囲を巡り、一種愚かしい存在として描かれている。男も女も、女から人間すべてが生まれるという素朴な原理が、見えない形でここでは支配しているのかもしれない。

 『Ship in a View』
 舞台中央に一本の柱。上に何かがついている。舞台の暗い中に小さな光が、上手手前からゆっくりと下手奥に向かって進む。ほの明かりで、それが小さな船であることがわかる。暗転から女性の声、言葉のない声が響き、黒系の貫頭衣のようなものをまとった男女が少しずつ現れる。下手からは男女が組み合い、チークダンスのようにゆっくりと動き、踊っている。別の女声が舞台に伸びやかに響くと、呼応するように、男声が犬の遠吠えのように答える。

 祝祭的に楽しげに跳ねまわる女性がユニゾンで踊り、また、別々の動きで絡んだり、他方で、ホリゾントに並ぶ椅子の一つに腰かけ続ける男など、さまざま、ばらばらな個人が、時々絡み合う。そこに男女の愛憎の戯画であろうか、ナイフを持つ男と女などの人間模様が、さらっと挿入される。

 中央の柱に旗が上がると、上から扇風機が降りてくる。その風を受けて旗めく。その柱に上る男が片手、片足だけ捕まり宙に身を浮かす。あるいは、板や柱を持ち込み、長いテーブルを三列組み立てて、ホリゾントの椅子を運んできて、みんなで並んでポーズ。やがて上から人型の板が降りてくると、中心になって歌っていた小川摩利子がそこに横たわり、宙に上っていく。すると、呼応するように上から光の群が降りてくる。

「SHIP IN A VIEW」公演の舞台写真1「SHIP IN A VIEW」公演の舞台写真2
【写真は、「SHIP IN A VIEW」公演から。撮影=小池博史 提供=パパ・タラフマラ 禁無断転載】

 海のそばの小さな村の情景のようでもあり、船の中のできごとのようにも見える。柱は上の光が回り出すと、灯台のようになり、旗めくとマストのようにも見える。一つのコミュニティの人間たちの群像。その個人個人が声と動きだけになり、そこで小さな祭りや。一種の静かな儀式的営みを見せる。典型的な儀式的行為、祈る、捧げるなどの集団儀式が行われないのに、どこかそんな儀式性を感じさせるのは、言葉と物語を廃し、感情的な演出を拒絶して、抽象化をはかっているゆえだろうか。

 男女が組んでゆっくりと踊る場面、手を上に上げてくる群舞などでは、ピナ・バウシュを感じさせ、ロバート・ウィルソンやタデウシュ・カントールの作品との類似性もある。おそらく、無言劇、声と身体のみという作品も、世界の前衛劇にはいくつもあるだろう。しかし、このパパ・タラフマラの作品には、儀式ともつかない儀式性、神話性などが感じられ、独特の「間」や「余白」をもつ空間の意識が見てとれる。それは、ある意味では、日本的感性といってもいいのかもしれない。

 儀式性と神秘性
 このように、『島~Island』、『Ship in a View』、あるいは、2001年の『青/ao』などの作品には何か神秘性が感じられた。それはヴォイスとダンスが生み出す「わからない世界」ともいえる。「これは何だろう」と思わせるもの。そう自問させるところから、芸術性と呼ばれるものが生まれるのではないか。その「わからなさ」が見る者の心のどこかにひっかかってくる、解釈できない、名づけられないところに、「芸術」を感じる人がいて、そこに共感する人がいれば、芸術として評価されるといってもいい。それに対して、小池の近年の作品には、ひっかかるところが弱い。見ていると、「なるほど」とわかってしまう。

 『三人姉妹』を例にとると、チェーホフを題材としているが、物語を追うのではない。当時、チラシで「エロなチェーホフ」などと紹介されたように、3人の女性ダンサーがパンツを見せながら、エロティックな動きを交えてダンスしまくる。しかし、見る者の欲情をそそるのでもなく、いわゆるエロスはほとんど感じられない。3人の姉妹がエロな動きを交えて踊る、という一言に集約される。

 実際には、白井さち子、あらた真生、関口満紀枝のダンスはパワフルで楽しく、歌や台詞も入り、とても楽しく、圧倒される部分がある。しかし、ここにそれ以上の「何か」を感じるというのは、難しい。見て、終わって、楽しいダンスパフォーマンスだった、という感想だ。白井の動きは、小回りの利く、跳ねるような動きで、見る者を惹きつける。そして、楽しければいい、と考えれば十分満足できる舞台だ。しかし、かつての小池の作品と比べると、見応えや残り方が違う。

 それ以降の作品、『白雪姫』、『スウィフト』、『シンデレラ』などはいずれもそういう意味で、楽しく面白いのだが、残らない。ヤノベケンジのロボットや美術を使った大規模な『ガリバー&スウィフト~作家ジョナサン・スウィフトの猫・料理法』は、その美術との絡みで見応えがあり、少しひっかかってくるものがあった。しかし、美術作品自体の持つ魅力に負けていたと思う。

 前に述べたように、パパ・タラフマラはダンス、ヴォイス、演劇などを合わせたパフォーマンス、身体表現集団という解説があてはまる。そのなかで、白井さち子、あらた真生、関口満紀枝といったダンサーが目立っていた。なお、当初『三人姉妹』は白井、あらた、関口のキャストだったが、2007年の関口の妊娠によって白井、あらた、橋本礼で公演している。今回、関口は2人目の子どもを身ごもっており、それほど動きの激しくない『Ship in a View』には、大きいおなかで出演した。そういえば、2002年の『Ship in a View』の公演では、小川摩利子と野和田恵里花の2人が妊娠して舞台に上がっていたことを思い出す。野和田は個性的で優れたダンサーだったが、2007年、この世を去った。

 そして『Ship in a View』で一番気になったのは、松島誠だった。テンポよく飛び込んできて、舞台を勢いづける姿は魅力的だった。白井さち子は、後に他のダンスの舞台でも、達者さに圧倒された。近年のパパ・タラフマラの舞台でもクローズアップされることが多い存在で、ダンサーとしてクラシックの基本テクニックをしっかり持っている。また、小さく身軽で、動きのキレが衰えない。松島はそういったバレエ派ではなく、むしろストリート的、スポーツ感覚から入っていると思われる。そして身体とヴォイス、両方を武器にして独特の雰囲気を作り出している。松島誠のダンス作品を数度見たことがある。特に昨年8月、日暮里のd-倉庫で演じた『ハネジイ dueo ver』は、『island』『Ship』の影響の強いものだった。それはもう彼の体に染みついている。そこから新しい作品をどう作るかは、松島の課題だ。

 ロンググッドバイ?
 さて、再び問おう。解散によって小池博史はどこに向かうのか。劇場法によって、舞台芸術に関するこの国の方向は好転するのだろうか。国や自治体が運営する公共劇場については、美術館を巡る状況が参考になるかもしれない。公共事業の見直しによって、多くの美術館が独立行政法人化された。それによって、人気のある美術館には有名レストランが入り、リニューアルなども見られる一方、指定管理者制度によって、専門性のない管理が行われている。東京都現代美術館は知事の個人的裁量で大幅に予算が削られて、人気アニメ展を財源としている。目黒区美術館では展覧会予算が三分の一になり、いまこそ必要な原爆展が中止になった。不景気、予算削減、震災・原発によって、美術館、劇場と舞台芸術を取り巻く環境は決してよくはない。

 パパ・タラフマラ解散記念本『ロンググッドバイ―パパ・タラフマラとその時代』(青幻舎刊)でも、助成金に多く頁が割かれているが、その中の吉本光宏の分析によると、パパ・タラフマラは当初、西武やパナソニックなどの企業の助成から国の助成へと動いたという。そして総額一億以上の助成を得ている。つまりそれは、小池は、企業もメセナを唱えたバブル時代から巧みに公共予算へと動いたということだ。確かに助成がなければ何百万以上かかる舞台はつくれない。有名コンテンポラリーダンサーの予定を見たら、国内公演の数倍、海外でレパートリー作品を上演している。つまり国内公演では助成も限られ、集客も大変のため、どうしても海外公演中心になるのだ。制作者も出演者も海外公演のほうが収入になると話す。3.11以降、国内公演の厳しさはさらに増しているといえる。

 昨年見たベスト3に入れたフランスのジェローム・ベル作品、『ザ・ショー・マスト・ゴーオン』のタイトルのように、それでも、ショー(舞台)は続く。大駱駝艦公演の英語アナウンスでも、「プリーズエンジョイザショー」なのだが、普段、筆者が見ている舞台には、どうも日本語としての「ショー」は馴染みにくい。もちろん、単に「見せるもの」という意味なのだが、パパ・タラフマラのかつての舞台には馴染まなかった。パフォーマンスという言葉の意味も日本語と英語では異なるが、それが近年、「ショー」的になってきた舞台で、小池は悩む部分があったのではないか。つまり、平たくいえば、アートとエンターテイメントとの間の葛藤である。

 一方、小池の舞台は「明るさ」がよく指摘される。舞台の照明は暗く、心象的に一見暗めの舞台でも、必ず最後は明るさ、光を見せる。それが小池の核だった。3.11以降、小池にとって、その光が見えなくなったのか。助成金など公演を行うための状況の悪化が重なって、希望を持てなくなっているのか。しかし、それは多くの舞台人、アーティスト、表現者にとって同様、状況は同じ、平等である。だから敢えて繰り返し、小池博史にも向けて、言おう。「ザ・ショー・マスト・ゴーオン」と。

【筆者略歴】
 志賀信夫(しが・のぶお)
 1955年12月東京都杉並区生まれ。埼玉大学大学院修士課程修了。関東学院大学社会人講座講師。批評家。舞踊学会、舞踊批評家協会所属。身体表現批評誌『Corpus』編集代表。JTAN(Japan Theatre Arts Network)代表。編著『凛として、花として、舞踊の前衛、邦千谷の世界』。主宰サイト「舞踏批評-Critique de Butoh」。

【上演記録】
パパ・タラフマラ ファイナルフェスティバル
三人姉妹
下北沢タウンホール(2011年12月20日-22日)
※上演時間 60分
<出演>白井さち子、あらた真生、橋本礼
作・演出:小池博史
音楽/松本淳一
オブジェ/山口百合子
衣装/久保薗美鈴
照明/上川真由美
音響/小池博史
舞台監督/中原和樹

★終演後トーク
【20日(火)】中川俊郎 (作曲家)
【21日(火)】長谷川祐子(東京都現代美術館チーフキユレーター)
主催:パパタラ ファイナルフェスティバル実行委員会 SAI Inc.
協賛:有限会社あきゅらいず美養品、フィントレーディング株式会社、免許とるネット、株式会社ユーラシア旅行社「風の旅人」出版部、有限会社ぐれこはうす
助成:アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)
共催:北沢タウンホール(アクティオ株式会社)<三人姉妹、パパ・タラフマラの白雪姫>
協力:公益財団法人 セゾン文化財団、特定非営利活動法人武豊文化創造協会(NPOたけとよ)、アクティオ株式会社、株式会社サン・アド、有限会社ベジタブルマンスタジオ、株式会社アンクリエイティブ、パパ・タラフマラ舞台芸術研究所
企画・制作:SAI Inc.

島~island
森下Cスタジオ(2012年1月13日-15日)
上演時間 約60分 (休憩なし)
<出演>小川摩利子、松島誠
作・演出:小池博史
音楽/リュウ・ソーラ、菅谷昌弘、小川摩利子、松島誠
衣装/浜井弘治
照明/関根有紀子(ぐれこはうす)
音響/大竹博
舞台監督/中原和樹
主催:パパタラ ファイナルフェスティバル実行委員会 SAI Inc.
企画・制作:SAI Inc.
協賛:有限会社あきゅらいず美養品、フィントレーディング株式会社、免許とるネット
助成:アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)
協力:公益財団法人 セゾン文化財団

★終演後トーク
【14日(土)】13:00 山下洋輔 (ジャズピアニスト) 18:00 佐伯 剛 (風の旅人 編集長)
【15日(日)】13:00 片山正夫 (公益財団法人セゾン文化財団 理事)
主催:パパタラ ファイナルフェスティバル実行委員会 SAI Inc.
協賛:有限会社あきゅらいず美養品、フィントレーディング株式会社、免許とるネット、株式会社ユーラシア旅行社「風の旅人」出版部、有限会社ぐれこはうす
助成:アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)
協力:公益財団法人 セゾン文化財団、特定非営利活動法人武豊文化創造協会(NPOたけとよ)、アクティオ株式会社、株式会社サン・アド、有限会社ベジタブルマンスタジオ、株式会社アンクリエイティブ、パパ・タラフマラ舞台芸術研究所
企画・制作:SAI Inc.

SHIP IN A VIEW
北千住・シアター1010(足立区芸術劇場)(2012年1月27日-29日)
上演時間 約90分 (休憩なし)
作・演出:小池博史
<出演>小川摩利子 松島誠 白井さち子 関口満紀枝 あらた真生 池野拓哉 
菊地理恵 橋本礼 南波冴 荒木亜矢子 / 縫原弘子 開 桂子 ヤン・ツィ・クック
※菊地理恵/荒木亜矢子はダブルキャスト

★終演後トーク
【28日(土)】13:00 葛西薫 (アートディレクター) 18:00 是枝裕和(映画監督)
【29日(日)】天童荒太 (作家)
主催:パパタラ ファイナルフェスティバル実行委員会 SAI Inc.
企画・制作:SAI Inc.
協賛:有限会社あきゅらいず美養品、フィントレーディング株式会社、免許とるネット
助成:アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)
協力:公益財団法人 セゾン文化財団

パパ・タラフマラの白雪姫
北沢タウンホール(2012年3月29日 – 31日)
※上演時間 75分(休憩無し)
<出演> あらた真生 白井さち子 菊地理恵 橋本礼 南波冴 荒木亜矢子 石原夏実 小谷野哲郎 アセップ・ヘンドラジャッド
作・演出:小池博史
音楽/藤井健介・三枝伸太郎
舞台美術オブジェ/田中真聡
オブジェ/松島誠、森聖一郎
仮面製作/イ・ワヤン・タングー、イ・マデ・スティアルカ、森聖一郎
衣装/久保薗美鈴
照明/中山奈美
音響/深澤秀一
舞台監督/阪野一郎
装置/松村望
★…終演後トーク
【30日(金)】19:30-:トラフ建築設計事務所
【31日(土)】13:00-:萩尾瞳(映画演劇評論家)

主催:パパタラ ファイナルフェスティバル実行委員会 SAI Inc.
協賛:有限会社あきゅらいず美養品、フィントレーディング株式会社、免許とるネット、株式会社ユーラシア旅行社「風の旅人」出版部、有限会社ぐれこはうす
助成:アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)
共催:北沢タウンホール(アクティオ株式会社)<三人姉妹、パパ・タラフマラの白雪姫>
協力:公益財団法人 セゾン文化財団、特定非営利活動法人武豊文化創造協会(NPOたけとよ)、アクティオ株式会社、株式会社サン・アド、有限会社ベジタブルマンスタジオ、株式会社アンクリエイティブ、パパ・タラフマラ舞台芸術研究所
企画・制作:SAI Inc.

「パパ・タラフマラ ファイナルフェスティバル」への11件のフィードバック

  1. ピンバック: 志賀信夫
  2. ピンバック: ぺいぺい
  3. ピンバック: ITO Kazunori 伊東和則
  4. ピンバック: 矢野靖人
  5. ピンバック: 薙野信喜
  6. ピンバック: shokoyamauchi
  7. ピンバック: codanoriaki
  8. ピンバック: パパ・タラフマラ
  9. ピンバック: パパ・タラフマラ
  10. ピンバック: 日置あつし
  11. ピンバック: Satoshi Ninomiya

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください