Produce lab 89 presents 「官能教育 藤田貴大×中勘助」

◎受苦と繋がれるわたしたちの回路
 鈴木励滋

 藤田貴大は間違いなくこの国において現在最も演劇に愛されている青年のひとりであろう。彼が主宰する「マームとジプシー」は昨年、ほぼふた月に1本という何かに憑かれたかのようなペースで作品を世に送り出した。どれもが多くの人たちから高く評価をされ、演劇評論家の扇田昭彦は『塩ふる世界。』を朝日新聞の年末恒例「私の3点」に選出したほどであった。(註1)

 今年もますます演劇界においてもて囃され、彼もまた期待に十二分に応えていくのであろう。この点において疑義を呈する気は毛頭ないのであるけれども、だがしかし、どうもその辺りにわたしはあまり興味がない。それは、わたしが彼の行為を演劇という枠に納まらないものなのではないかと考えていることとも関係している。とはいえ、ここではダンスや映像という別ジャンルの表現への越境という話ではなくて、思想とか生きざまといった方への広がりのことを思い浮かべている。そして、そういう物言いをする際に、わたしの中で劇評家というよりも日々地域作業所で障害がある人たちとの活動という“実践”をする者としての自分を意識せざるをえない。

 この『犬』という作品は「マームとジプシー」としての公演ではなく、彼らのよき理解者のひとり徳永京子が、元は自由劇場のアトリエだったライブハウス「新世界」で仕掛ける「官能教育」の第4弾として上演された。昨今の演劇のエロス不足に欲求不満な徳永のお眼鏡に適った「マスター・オブ・エロス」に、深遠な世界をご教授願う名物企画として、松井周、江本純子、倉持裕という稀代の変態たちに続いての藤田貴大の登場であった。

 「生の底にくっついた性の醜さとたくましさを簡潔な文体でえぐり出す勘助は、強力な一撃になるかもしれない」と「官能教育」のサイトに徳永は『犬』というお題を選んだ理由を記している。一撃がもたらした爆発的な展開は徳永の期待を凌いだのではないか。藤田たちが走り抜けた驚異の一年を締め括るのに、そして次へと歩を進めるために、まことにふさわしい作品となった。

「官能教育 藤田貴大×中勘助」公演の舞台写真1「官能教育 藤田貴大×中勘助」公演の舞台写真2
【写真は、「官能教育 藤田貴大×中勘助」公演から。撮影=飯田浩一 提供=マームとジプシー 禁無断転載】

 この創作を始めた当初、藤田は「(『犬』という)話自体に、まだ、なんの希望も抱けていない。」と上述のサイトに書いている。昨年4月に扱ったカミュ『異邦人』よりも難敵であった印象を受ける言葉なのだが、藤田の『犬』に対してどのように応えたのかを見て行くなかで、彼の行為が演劇という枠に納まらないという意味も、おぼろげながらも伝えられるのではないかと思っている。

 それまでのほとんどの作品で14歳の少年少女たちの世界を扱っていた藤田がこの作品で「性的」なモチーフを描いていたことは評価をさらに高めたのだが、わたしは「絶対的な他者」を、しかも救いようのない者たちの存在を諦めることなく描いてみせたことに、この上ない希望を看取したのである。

 そもそも、わたしたちはきちんと世界に立ち向かえているのだろうか。他者と関わることができているだろうか。残念ながらオトナになるというだけで無条件に技能が備わるわけではないし、コドモだって充分に多様で重層的な世界を生きていることは徳永京子藤原ちからの「マームとジプシー」評をお読みいただければお判りかと思う。もしかしたら、オトナになる際にわたしたちの身につくのは、せいぜい世の中のしがらみを「本音/建前」的な「テクニック」を駆使して渡る技術に過ぎないのではないか、などと思うこともある。

 わたしは、藤田貴大という人は世界を対象として描くだけでなく、世界を真摯に生きている人だと感じている。つまり、世渡り上手にうわべの関係を積み重ねるのではなく、自分と異なる他者と共に生きるのに真摯であるということである。初めて観た彼の作品『しゃぼんのころ』の中で、女の子に幼稚な罵声を浴びせつづけた男の子(尾野島慎太朗)が「でも死なないで」と叫んだのを聴いたときから、他者へのそのような想いがどの作品にも貫かれていると見受けている。自分と異なる他者をどのようにみなし、ひとつひとつの関わりをいかに紡ぐかという、世界に生きることの基盤となる営みをいかに丁寧にするのか。それは、わたしが日々の実践の中で根源的に問いつづけていることでもある。

 『犬』から2ヶ月余り経ち、いわき総合高校での『ハロースクール、バイバイ』を観て、藤田の技量を再確認した。一昨年の暮れ、F/Tで「マームとジプシー」によって上演された作品を、高校の授業の一環で特別講師として招かれた彼が、高校生たちと一ヶ月ほどで作り上げたという。女子バレー部の高校生の最後の試合を軸に、ハセピーと呼ばれる女の子の転入とバレーとの出会いと成長、そして彼女の転校による別れが、まさに等身大に描かれた。上演中にも地震による大きな揺れがあったが、まったく怯むことなく演じきられた文字通りの熱演、よくある成果発表会の域は軽々と超え、多くの観客を唸らせた。

 わたしも動揺にも近い感情を生じさせられたのだが、それは、ハセピーがバレー部のキャプテンに転校を告げる場面であった。それまでのシーンは、いつもの藤田作品と同様に執拗に言葉と動きの高速な繰り返しを用いていたのだが、ここだけはゆったりと穏やかに語られ、くり返すこともなく、たった一度のわずかなシーンだった。高度なことを要求され、ギリギリの緊張の中で繰り広げられていたそれまでの展開とは一転した、リラックスした空気のもと、あたかも彼女たちの日常の一部が差し込まれたかのようであった。その他のシーンが全編「共通語」で演じられていたのに対し、そこだけ、かすかに福島の地の言葉が顔をのぞかせた。

 終演後、藤田に尋ねたところ、あのシーンは彼が作りこんだのではなく、彼女たちと創作する中で自ずとできあがったものなのだということだった。卒業の先にそれぞれの道を行く彼/女たちは、近い将来に訪れるであろう実際の別れを想っていたのかもしれない。彼女たちの機微を見逃さず、大切に扱い、ヘンな自意識を発揮したあざとい“演出”などすることもなく、気づかれることがないくらいささやかなシーンとして結実させたところに、藤田の実践家としての豊かな資質を見たのだ。

 それは、決して充分に長い創作期間でなかったのにも関わらず、そこまでの関係を築けた藤田の他者との関わり方が、やはり「世渡りテクニック」などとは一線を画していることの証しであった。と同時に、実は換言に過ぎないのだが、それは藤田の自我の在り方が閉じていないことをも意味していると思っている。
 藤田が、『犬』に現れる救いがたく極端に異物な他者と関係を、いかに築けたのかということの詮索を通して、この辺りをさらに見て行きたいと思う。

「官能教育 藤田貴大×中勘助」公演の舞台写真3「官能教育 藤田貴大×中勘助」公演の舞台写真4
【写真は、「官能教育 藤田貴大×中勘助」公演から。撮影=飯田浩一 提供=マームとジプシー 禁無断転載】

 『犬』は同じ作者中勘助が綴り近年ブームにもなった『銀の匙』とはまったく趣を異にしている。1千年ほど前のインドを舞台に、卑しい身分の少女と、彼女を強姦し身籠らせた異教徒軍の若い隊長、彼女を欲するバラモン僧の、ほぼ3人を巡る物語である。僧は少女が自分には見向きもせず、それどころか陵辱を受けた相手を慕う様を見て、激しく嫉妬を燃やした末に、若い騎士を呪い殺す。それでも変わりそうもない少女の気持ちを手に入れるため、少女と自らを犬に化身させる。なんとも無茶苦茶な物語である。

 この話自体に希望を見出せなかったという藤田は、つづけて「変身、という、言葉を、変態、という、言葉に、置き換えるところから、作品づくりを始めてみようと思った」と書いている。さらに、役者の身体、物語や表現のみならず、生活とか日常までもが、「常に、形状を変えながら、変態、しているように感じている」ともいうのだ。

原作を忠実に舞台化するような作品ではなかったのだが、上述のホームページの文章で藤田が「勘助の『犬』と対面」したと表現しているように、彼が『犬』という作品、さらにはそれを書いた中勘助と、向き合った作品となっていたのは確かであった。 

 3人の俳優にそれぞれ三態を与えたのは、1千年も前の荒唐無稽な昔話を藤田がわが身に引き寄せて考えるための手立てだったのではないかと思う。(註2) たとえば「このお芝居の中には、三人、わたし、青柳いづみ、が、います。一人目は、25歳のわたし。二人目は、17歳のわたし、三人目は、わたしがこれから、語らなくちゃいけない、この、可哀想な感じの、女の子」というように。同様に、山内は青年団所属の俳優歴27年の山内健司と、17歳の青柳をじっとり見つめる公園の浮浪者、そして原作にあるバラモン僧を。尾野島は27歳の俳優尾野島慎太朗と、17歳の青柳の処女を奪う男と、こちらも原作にある若い回教徒の隊長を。それぞれが三態のわたし=自我の役を担わされていた。そのことで『犬』というはるか昔の遠い国の物語が、グッと身近になったといえる。だがそれは、わかりやすくするためではなく、あくまでも関係を結びやすくするための試みであったと思うのである。

 17歳の青柳は尾野島の部屋に連れ込まれて彼に無理矢理に処女を破られ、浮浪者の山内にも犯されるというふうに、原作とシンクロしていくけれども、理解への補助線とはなっていない。男たちはどの態であっても「山内さん」「尾野島くん」と呼ばれるため(註3)むしろ混乱へ向かう助けとなっていた。

 一人目の青柳たちは『犬』の楽屋にいる設定で、実際に山内が掛け持ちしていた吉祥寺シアターの青年団公演『ソウル市民』のことなど語っているのだが、やがてこの「わたしたち」も『犬』の世界へと混ざり合っていく。楽屋で青柳は尾野島に犯され妊娠したことを山内に相談し、山内は青柳と付き合っているという衝撃の事実が浮かび上がってくる。

 三つの時間と空間を高速で行ったり来たり、3人はミニマルダンスのような動きをつづけながら、執拗に言葉を繰り返していく。そのイメージの断片が自らのうちに積み重なっていくと、虚実など判ずる余裕もなくなるのだけれど、さらに容赦なく揺らぎとうねりと渦が合わさったかのごとき立体的に波状なイメージが襲ってくる。時間も空間も曖昧となり、「本当」も「嘘」も、「わたし」も「あなた」も混然としていき、わたしたち観客も目眩にも似た感覚に飲み込まれていく。

 「3人三態」も「執拗な繰り返し」も、藤田にとっては斬新な演劇的手法などではなく、バラモン僧や回教徒の騎士や彼らに犯された少女の、それぞれの救われなさと対面する/対面させるための手段だったに違いない。誰のことも切り捨てないための切実さの顕れではなかったか、とも思う。観客という安全地帯から『犬』の登場人物を眺めていては、彼/女たちの受苦は決して解かれることがない。同情や憐憫のような揺るがない他者からの視線ではなく、藤田によってもたらされた眩暈の中で「ちむぐりさ」のような感覚で彼/女たちの受苦と繋がれるわたしたちの回路が、目覚めはしなかっただろうか。

 「ちむぐりさ」とは、沖縄の人たちが他人の痛みに出会った際に用いる、自らの胸が痛い=肝が苦しいという意味を含んだ「きもぐるしさ」の転じた言葉である。(註4)「かわいそう」という同情や憐れみではなく、「ちむぐりさ」のような「間身体的」な感覚を、たとえ混沌のなかの誤作動であったとしても観客に生じさせられないかという藤田の試みとわたしには思えた。

 まさに終盤、古代インドの少女のことを最初は“可哀想な感じ”と他人事のように評していた25歳の青柳は「このお芝居の中には、三人、わたし、青柳いづみ、が、います、でも、どれが、本物のわたし、なのでしょうか、わからないんだよなぁ」と呟くのであった。

 執拗に繰り返されたシーンのうち、事実わたしの中での印象が移り変わったものがある。それは、空き缶を山積みした自転車で走る浮浪者に、若者が車から唾を吐きかけるシーンだ。最初は「なんてことするんだ」という嫌悪に似た感情が咄嗟に浮かんだのだけれど、次第に「わたし」が不確かになりゆく間に、時に、きつい仕事を終えて銭湯に向かう若者の満たされなさを想ったり、はたまた、唾を顔にかけられたかのような心持にされたりもした。

 このようにまるで「ちむぐりさ」を感覚できるような、「あなた」と峻別できない「わたし」という視座からは、また違った景色が広がる。観る者にそんな感覚をもたらせたとしたら、これほどまでに実践的な働きかけはないように思う。世界に生きることの基盤となる、自分とは異なる他者との関わりをいかに紡ぐかという段において、「わたし」が開かれていて他者との垣根を意識することがなかったならば、人々は繋がりやすくなるはずである。ひいては、「あなた」に「でも死なないで」と叫ぶこと、あなたになんとしてでも生きてほしいと思うことは、「わたし」が生きたいと願うことと峻別つかなくなる。差別や暴力の問題に対して、きわめて効果的であるとさえ言えるのではないか。

 ラストシーン。それまで節目ごとに挟み込んできていた「始めまーす、犬」というタイトルコールを、2人の男が倒れている傍らで青柳はたったひとり、あたかも宣言のように「でも、わたしは、始めなくてはいけません。何故かってそうなっているからです。始めるべきことを、始めましょう。それでは、始めまーす、犬!」と言う。

 この“宣言”によって、変態した物語もライブハウス「新世界」から外へ、世界へと拡がっていった。わたしたちの生活や日常を変態させるかのように。

(註1)その『塩ふる世界。』は岸田國士戯曲賞の最終候補にも挙げられ、今年2月17日-18日にTPAM(国際舞台芸術ミーティング)においてSTスポット館長の大平勝弘ディレクションとして早くも再演された。
(註2)ことさら新しくはない、つまり既出の手法であるということは藤田も重々承知のことであろう。同様に、繰り返しの多用も、とうとう京都の「We dance」において同じ曲を10回(!)繰り返してみせた多田淳之介を引き合いに出すまでもなく、単に奇をてらった新手として試行しているのではない。ちなみに藤田は多田淳之介の『再/生』(多田フラ版)を観た上で、アフタートークにも登壇している。この経験は『塩ふる世界。』に影響を与えていると思う。もちろんふたりとも「斬新な手法」を一義としているわけではないのだから、方法としての影響ではなく、表現に向かう切実さとして共鳴していたようにみえた。
(註3)原作が引用されたのは4ヶ所。「少女の紹介」「回教徒軍の隊長の少女への暴行」「犬になった僧による犬になった少女への陵辱」「少女が僧犬の喉笛を喰いちぎり、人間の姿に戻り、奈落へ堕ちる」シーンなのだが、原文を現代口語へ直したものを、いずれも青柳によって朗読がなされた。その際にも「僧犬」が「山内さん」に、「若い隊長」が「尾野島くん」と変換して呼ばれていたということ。「山内さんは満身獣慾にもえたって私の背中にのしあがりました/尾野島くんの陵辱よりも遥かに醜悪」というように。
(註4)わたしは灰谷健次郎の著書『わたしの出会った子どもたち』でこの言葉を知った。数多の痛みを経てきた沖縄の人たちの懐の深さに敬意を抱く灰谷の鍵概念ともいえる「やさしさ」という言葉を、ロマンチシズムに留めずしなやかで逞しくしたのはこの概念であったのかと、変に納得した憶えがある。

【筆者略歴】
 鈴木励滋(すずき・れいじ)
 1973年3月群馬県高崎市生まれ。舞台表現批評。地域作業所カプカプ所長を務めつつ、演劇やダンスの批評も書く。『生きるための試行 エイブル・アートの実験』(フィルムアート社)や劇団ハイバイのツアーパンフに寄稿。ウェブサイトBricolaQにてお薦めの舞台紹介(ブリコメンド)もしている。

【上演記録】
Produce lab 89 presents 「官能教育-官能をめぐるリーディング-第4回 藤田貴大×中勘助」
新世界(東京・西麻布)(2011年11月23日-27日 全6ステージ)
テキスト:中勘助『犬』より
構成・演出:藤田貴大

出演:山内健司(青年団) 青柳いづみ 尾野島慎太朗
照明:明石伶子
音響:角田里枝
記録写真:曳野若菜、飯田浩一
WEB:斎藤拓
制作:林香菜 召田実子
責任者:徳永京子

料金:自由席 2,500円+ドリンク代(当日・予約共に)


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