ジエン社公演「アドバタイズドタイラント」

◎言葉と音楽の立体交差点で
 梅田 径

「アドバタイズドタイラント」公演チラシ
公演チラシ

 観劇を愛する人なら誰でも、ひいきの劇団がひとつやふたつあるはずだ。とはいっても、その劇団の旗揚げから観続けているというのは稀なケースに入るだろう。名も知らぬ劇団の旗揚げを観に行くには動機がいるだろうし、その劇団がずっと見続けたくなるようになるほど魅力的でなければならない。

 僕が旗揚げからすべての公演を見ている劇団はまだジエン社しかない。僕がジエン社を見続けているのは、単純にジエン社や作者本介のファンである、ということだけではなくてもう少し屈折した理由がある。早稲田大学で凡庸な学生としてすごしていた僕はジエン社を、その前身である自作自演団ハッキネンと重ねてしまうのだ。そもそも「ハッキネンの劇団」という肩書がなければジエン社を観に行くこともなかっただろう。

 けれどもすでに七回を数えるジエン社の公演を見るたびに違和感にも似た感傷を抱く。今の多くの大学生がそうであるようにほとんど観劇をしなかった大学生時代の僕にとっては「演劇」の文脈で語られるジエン社の偶像と、面白パフォーマーだった自作自演団ハッキネンの記憶との間にはどう埋めればよいのか分からない溝がある。

 この溝は、作者本介にとっても葛藤を抱える部分なのかもしれないとすら思う。ジエン社第七回公演「アドバタイズトタイラント」の当パンにはこんな言葉が記されている。

 4年前の、旗揚げ当時の自分がもしこの公演を見たら、どう思うか。
 もっといえば、19歳の、才気っぽいものにあふれまくっていて他人をまったく敬ったりしなかったあのころの僕が見たら、どう思うだろう。

 もちろん「19歳」だった「「あのころの僕」とは、自作自演団ハッキネンだった頃の彼なのだろう。
 もともとは漫画雑誌『ガロ』の投稿職人だったハッキネンが、早稲田最後のパフォーマーになり、ジエン社の主宰になる。そのふらついた足跡を、作者本介自身が振り返っていたのだ。

 この劇評は、ジエン社第七回公演「アドバタイズドタイラント」についての評であると同時に、ほんの四年前に早稲田大学を卒業し、七年前に自作自演団ハッキネンにひそかに熱狂した演劇ファンである僕の精神史なのかもしれない。

 ジエン社の内省的で難解でどうしようもないほどに目が離せない演劇に惹かれている人たちのなかには、ジエン社以前の話を聞きたい人もいるかもしれない。だから、この劇評には「アドバタイズドタイラント」に、自作自演団ハッキネンの思い出話を織り交ぜて語りたい。

現在-「アドバタイズドタイラント」をめぐって

 ジエン社第七回公演「アドバタイズドタイラント」は複雑な物語だ。いくつかの評価を下す前に、予備的な作業として少しストーリーを整理しておこう。

 舞台の時間は現代(2011年)から二年後。東日本大震災の被災地域のみならず東京も崩壊してしまったらしい。観客席に入ればいつもの通りにすでに芝居は始まっている。崩壊した東京のとあるビルの一室で雑談に明け暮れる数人の男たちの会話の端々から、観客はこの設定を理解していく。

 物語はまず三つの大きな流れによって構築されるが、それぞれの物語が交差しあいながら進んでいく。時系列も空間も違う場所にいるはずの人同士が突然会話を始めながら進むため、それは必ずしも直線的な「物語」にはなっていない。それぞれの物語の交差や切り替えは恐ろしく唐突でわかりにくいものの、僕なりに整理してみると、このようになる。

 1)海彦という広告代理店の下請けに勤める男の話。
 1-1)海彦はネリという造形美術家と共に「箱庭をプールに沈ませる」コマーシャルを製作したが、それが不謹慎であると(おそらく震災と津波の影響で)非難を浴び、崩壊した東京で上司のフカゾノとネリと共に謝罪会見にのぞむことになっている。しかし、震災で破滅した東京の謝罪会見会場には誰も来ないことが示唆されている。

 1-2)海彦はウスイという女性と同棲しているが、ウスイのまったく靡かない心を閉ざした態度に嫌気がさし、中山リカという34歳の女性と浮気をしようとする。

 2)リュウセイとハルエの話。映像撮影の仕事をしているリュウセイと、カメラをもって被災地の写真をとろうとするハルエの二人は福島か東京か、どちらかの道中にいて、被災地を撮影することの無意味さを問いかけ続け、ただひたすらに歩き続けている。

 3)夕張という魚屋で働いていたが震災をきっかけにフリーライターになろうとしている男が、ずっと中山リカを探している藤井という男と知り合い、崩壊した東京で事件を探していて、その手始めに海彦とネリの謝罪会見に行こうしている。
 3-1)夕張はウスイの紹介でリリーと恋人になり、リリーもライターとして仕事しているが、ぼんやりした性格のためうまくいかない。

 さらに藤井悟が中山リカを探している物語や、リリーがハルエと親友だったという過去、ウスイの紹介で夕張とリリーが付き合い始めたことといった小さな物語が並走し、それぞれのストーリーを相互に関連させている。

 これら三つの大きな物語のラインは、時間も空間もばらばらなまま舞台上で同時に進められる。これらの物語によって構築されるシーケンスの中心を担うのが、三人の海彦だ。

 海彦1を三嶋義信、海彦2を岡野康弘、海彦3を菊沢将憲が演じる。三人の役割はそれぞれに置換可能で交代するが、舞台袖に引っ込むことは少ない。三人の海彦は同じ時間、同じ空間にも舞台上に存在しているし、別々の時間軸にも同時に現れる。それぞれにタイプの違う俳優たちが同一人物を同じ舞台上に存在する光景はシュールながら面白い仕掛けだ。

 三人にして一人の海彦が別の物語に同時に介入することで、海彦自身が多くの物語の結節点になっている。その結節点があることで物語におけるそれぞれのシーケンスはさらに複雑な様相を呈してくるし、同時に進んでいく会話はますます観客から物語への没入を奪って、まるで異なる種類の音楽をばらばらに演奏されているかのようになっていく。
 この作劇法がジエン社のメソッドだ。

 同じタイミングで二重に進む会話や、同じ舞台上にはいるものの違う時空間軸上にいるはずの人物に話しかけるといった仕組みで、「アドバタイズドタイラント」の物語を直線的に理解させないようになっている。

 だからその舞台の上は、まるで物語が織りなされる場所というよりもまるで交差点に行き交う人々が、アトランダムにすれ違った人へと話しかけるパフォーマンスのようにもなっている。「交差」。これこそが「アドバタイズドタイラント」のモチーフだといっていい。

 舞台美術も徹底してこうした「交差」を象徴している。壊れかけたコンクリートを模した壁面がまず目を引くが、舞台全体は上下に三段、その三段がさらにそれぞれ左右にわかれた六ブロックによって構築されている。

 なにより目を引くのは舞台中央、客席の出入り口からまっすぐ舞台を貫通する直線のラインだ。中段にはそのラインを横切るように、大きな長机が設置される。まるで川を渡す巨大な橋のようでもあり、進路を阻む堤防のようでもある。人二人が通れる程度のこの線は、舞台上では川になり、道路になり、震災でできた地面に走る巨大な亀裂になるなど、無数の機能をもった抽象的な構造物にもなっている。

「アドバタイズドタイラント」公演の舞台写真1「アドバタイズドタイラント」公演の舞台写真2
【写真は、「アドバタイズドタイラント」公演から。撮影=金原美和子 提供=ジエン社 禁無断転載】

 ジエン社は今までも具象美術を使った一幕一場の演劇を構築してきたが、このラインが示すように、本作では具象美術の在り方を大幅に変更した。物を物としてつかうのではなく、具象美術として設置された物を抽象的に利用する方法に切り替えたのだ。抽象性への志向の一つとして、いままで好んで利用してきた映像美術を一切排していることも指摘しておきたい。観客は俳優と舞台だけを集中して観ることになるのである。

 また、演出においてもいままでジエン社にはない抽象的な動作が含まれている。従来の〈現代口語演劇〉然とした自然で素直な演出ばかりではなく、椅子の上で回転してみせたり、倒れたままで指を泳がせ、指遊びのようにセリフを語らせるなどの試みがなされている。しかし、これらの物語のコンテクストに依存しない動作が効果的であったかどうかといえば疑問が残った。いくつかの動作は正直にいって他の劇団のメソッドを想起せずには見られないものもあった。

 そして、この舞台に立つ俳優たちはその混乱と秩序の間の立ち方を心得ていた。ふらついたようでしっかりと立ち、無気力なのに叫びだしたい衝動に駆られ続けているような不安定さと絶望が漂う俳優たちの空気感は、俳優たちの努力やジエン社の演劇に対する深い理解を感じさせた。

 例えば、上演台本にも海彦の説明に「俳優は、特に海彦1,2,3を演じる俳優は、演じてはいるが、どこかのめりこめないもどかしい、気持ち悪くいる。しっかりしようとすればするほど、尻に力が入らない、そんな感じだ」とある。ここで言い表されている「そんな感じ」を舞台を見たものは適切に理解できるだろう。海彦以外の俳優たちもよかった。とりわけ、ウスイ役を演じた北川未来の演技はむっつりと恋人の海彦を敵対視しながら、海彦がなければ経済的にも精神的にも支えを失ってしまう不安定な立場にいる存在で、敵愾心にも似た無視や暴言を吐くのにそれが闇へと吸い込まれてしまうような、恐ろしいほどの悲劇性を湛えている。豊かな表現力でみごとに演じていた。

 とは言うものの、僕は高評価を出すことにはためらいを感じる。
 脚本が複雑すぎて混乱している。演出がうまくいっていない。だが、いままでにない抽象性をもたせた舞台美術がその混乱に一定の秩序をもたらしている。作品全体のトーンはひどく暗くて地味だ。あらゆる部分で震災を意識しすぎていて、時系列も空間も縦横無尽に行き来する物語がどれも震災の話にしか思えない。大胆な時空間の構想展開が十分に生きていない。震災の恐怖と東京の破滅への絶望が観客をとても悲しませる。それにいつもと同じで難解でかつ会話は同時に行われて聞き取れず、しばしば眠けにも誘われる。

 「アドバタイズドタイラント」では、ジエン社の「わかりにくい演劇」の方法が、いままでにないほど強烈に全面に押し出されていた。それをさらに複雑化させる演出がほどこされてもいた。

 この意味では、明らかにジエン社は進化している。だが、正直にいえばこの方法はいままできちんと成功したことがない、と僕は思う。ジエン社はしばしば社会問題とされること(労働や震災、恋愛や福祉)をテーマに据えてきたが、ジエン社のやり方ではそれらがただ単に、解決されることのない個人の問題として内面に潜ってしまう。そして、潜ってしまった問題は演技としては表出されるものの、結局解決はしない。でも、だからこそ、だからこそジエン社の演劇は、ある人々を、まるで根拠のない救いを与える祈りのように熱くさせるだろう。

 それはジエン社が迷い込んでいる道は実はみんなが迷い込む道だからだ。そこで迷走しないで済むような答えは誰も持っていない。

近過去-「アドバタイズドタイラント」の周辺と同時多発的な会話をめぐって

 ジエン社はかつて「ベタ」と戦うことを旗印に掲げていた時期があった(「第二回公演「大怪獣サヨナラ」)。「泣ける物語」が極度に流行していたそのころ、ジエン社はベタな物語が不可避にもってしまう欲望や差別を暴きだそうとしていたように思う。人々はひとつになれないことを徹底して描き、会話のなかに大量の「無視」を挿入するといった、単純ではあるが物語を遅らせる技法を追求していたように思われる。

 それは会話をしたい相手の言葉を無視して他者の過去にアクセスしないことであったり、他の誰とも通じることのない祈りを捧げることでもあった(第五回公演『クセナキスキス』)。これが今のジエン社の特徴である「同時多発的な会話」へとつながっていったのだろう。

 「同時多発的な会話」は初期ジエン社においては相手の物語が「無視」されてしまうことの当たり前さ、ひいては誰もが持っているであろう内面やそれに伴う物語を不発にさせるための技法だった。

 言い方が悪いが、いじめっ子の技術なのである。
 だから、公演を始めたばかりの頃のジエン社には、独白(告白)にかぶせて会話が始まるというケースが多かったし、公演回数を重ねるたびに、独白は伏線的な役割をほとんど持たないまるで祈りと変わらないものに変わっていく。

 だから、ジエン社がF/Tへの応募PVでも主張している「同時多発的な会話」とは、「無視」を演劇的な技法へと転換させたものであるように思う。無視にせよ会話を重ねることにせよ、多数の物語がそれぞれに交差せずに進んでしまうことである。この方法が無視から同時多発的な会話へと変わったのは第五回公演「クセナキスキス」からだろう。現代音楽作曲家の「クセナキス」をモチーフにしたこの作品から、それこそまるでクセナキスの作曲するオーケストラのように、会話に会話が重なるスタイルが確立してくる。

ジエン社のカンパニー紹介には「すでに敷かれている現代口語演劇の轍を(いやいやながら仕方なく)踏みながら、いつかそこから逸脱して「やる気なく存在し続ける現在」を、失敗した写真をじっと見続けるようなやり方で出現させてみようと目論んでいる。」とある。この「やる気のない」存在たちに対する視線の注ぎかたを、ややひねくれた方法で舞台に載せるのがこの方法論だったのではないだろうか。

 第三回公演ぐらいまで、ニートやフリーター、「死にたい」とずっと言い続ける人などを描き続けてきたジエン社にとって、やる気がない、ということは端的にいって自分の人生やストーリーに興味をもたないこと、それと同じぐらい他者にも興味をもたない、あるいは他者の目にさらされた瞬間に溶けてしまうような弱い物語しかもたない人々を指し示す。そこには不満や絶望が大きく強く渦巻いていて、だからその渦は強い人々(強い内面や物語をもつ人々。例えば英雄や神)には決して覗くことができないものだった。
 ホームページのaboutにはさらにこう続けられている。

 が、あれだ、そうは言ってもそこは「社」なので、「会社」なので、「演劇に就職した」ので、自分のポリシーやら演劇観とか、それはそれで置いておいて、わりきって利潤というか、エンターテインメント性も(いやいやながら仕方なく)追求しなければならない、というジレンマを持とうとしている。

 最初の三作ほどまでのジエン社において「無視」は道化に対して行われるギャグであったし、演劇は物語性/ドラマ性が強かった。この初期路線におけるエンターテイメント性やドラマ性の志向が頂点に達したのは、第四回公演「コンプレックスドラゴンズ」であった。つまり、ジエン社にとって悲劇的な物語のなさは笑えるものであったのだ。

 それ以降、ジエン社からエンターテイメント性とみなせる要素は徐々に消えていき、物語は暗く悲しく、刹那的に変わっていく。現代口語演劇2.0のようなキャッチコピーもほとんどみることができなくなっていく。「同時多発的な会話」はだんだん会話というより音楽に近づいていく。第六回公演「スーサイドエルフ/インフレ世界」では、時空間も現在地もまったく異なる人物同士が脈絡なく話し始め、物語の直線性はほとんど崩壊していた。なによりも、物語の前提たる設定が崩壊していた。しかし、設定や物語に忠実な形で人の生がありうるわけではない。

 この後にショーケース企画の「20年安泰」に出て、そして「アドバイズトタイラント」へと続くジエン社の演劇の中心は、ほぼ地震一色に染まっていった。ジエン社の演劇的興味も大きく変わってしまった。いままでは無視と無関心から発生してきた演劇的技法を、誰かの言葉と思いを受け取るための方法になるのではないかと模索するようになった。

 初期作品群に現れていたニートやフリーターは後景にしりぞき、クリエイターや会社員といった、働く人びとの葛藤が描かれるようになり、破滅後の世界でどう生きるか、自分と関係ないはずの悲劇をどのように受け止めるべきなのかを、ほとんど成功する見込みのない方法で探し続けている。たぶん、これからもそうしていくのではないだろうか。

過去-ハッキネンとジエン社と

 
 すでに述べたとおり、ジエン社の主宰である作者本介は、かつて早稲田大学戸山キャンパス及び新学生会館などで自作自演団ハッキネンというソロパフォーマンスを行っていた。現在でも、ややもすれば伝説的に語られることもある(とある文化構想学部の学生から、そんなことを聞いた)らしい。

 自作自演団ハッキネン自体はすでに解散してしまったが、その活動は過去の活動倉庫から見ることができるし、またmixiコミュニティ「自作自演団ハッキネン」にも2005年頃の活動が残っている。
>> 自作自演団ハッキネン

 自作自演団ハッキネンの主な活動は学内のサークル用掲示板にわけのわからない標語というか格言というかコメントを書いた紙を貼りまくることだった。2002年ごろから活動を開始し、映像・出版・演劇の三部門をもっていたが、どれも一人でやっていたのでようするにそういう範囲でうごめいていたというわけである。

 ハッキネンに対する当時の早稲田生の熱狂を語ることは難しい。というか、熱狂してたかどうかも今となっては曖昧ではあるが、「早稲田最後のパフォーマー」という自称と並んで目が離せない存在であった。というより自然と目にしてしまうものだった、と言ったほうがよいかもしれない。
 参考までに2005年頃の作品をいくつか掲載しておこう。

 無理な体位で/レッツもの乞い

 幼ち園で/もっとがんばれば/よかったのだ。

 ごはんを噛むのもやめたよ

 こんな具合に、ほとんど意味のない戯言が壁一面に貼られていた光景の、謎めいた興奮はいまでもまざまざと思い出せる。その光景の不気味さというか、わけのわからなさに惹かれた人は少なくなかった。他にもダンボールに入って戸山キャンパスのスロープを行き来するとか、看板に貼り付けになっていたとか『柿喰う客』が早稲田で公演をしたときにネガティブキャンペーンという名の、実際には広告をしていたりとか、パフォーマーとしての活動は枚挙に暇がない。ただ、こうした活動には当然いくつもの困難があったのだろう。

 印象に残っているのはこういう出来事だ。いつもどおり(?)自作自演団ハッキネンはいつもどおりにダンボールをかぶってスロープを降りたり登ったりしていた。そこに警備員がやってきて、ダンボールをがぼっと取ったのである。ハッキネンの動きはすばやかった。転倒せんばかりの勢いで地面を這いずりまわると、開口一番「すみませんでした!」と謝ったのである。周りにいた学生たちは一同爆笑、さすがはハッキネンと小さな語り草になっている。

 そのころ「警備員」といういままであまり見ることができなかった存在が、早稲田大学の中で大きな意味をもちつつあった。

今から十年ほど前、各学部の自治会がなくなり、大規模なデモも実施されなくなるようになる時期である。

この時の、大学の空気感を伝えることは今でも難しい。何も変わらなかったような気がするが、何もかもが変わってしまったような気もする。そう思った人たちも多かったはずだ。新旧の学生会館をめぐる争いや、自治会の存在をめぐるあれこれ。学部名もどんどん変わっていった。

 そんなことに関係があるのかないのかは知らないけれど、僕が三年生か四年生にあがるころ、ハッキネンの張り紙には労働やニート、恋愛やセックスをめぐる「政治性」が芽生えてきたように記憶する。そして、作者本介が大学を卒業してから、ジエン社を立ち上げると同時にハッキネンは解散してしまう。そのずっと後で、作者本介に聞いたことがある。なんでハッキネンやめたんですか、と。

 答えはこうだ。「ダメだと思った。一人でやっていることに限界を感じた。自分の声小さいぞ、と。木々のそよめきにすら、負けてるぞ。と思って」。

 当時からハッキネンが劇団「森」の所属で、早稲田祭でジャニーズと早稲田が一緒にやるイベントで微妙極まりない演劇をやらせたことや、授業から生まれた団体に脚本を提供していたり、演劇公演であちこちに出没していたことはコアなハッキネンファンには知られていたことではある。けれども、当時のハッキネンの「パフォーマンス」は意味不明であるよりは朗らかであることを志向していたし、同時多発的に複雑であるよりはループ構造のストーリー展開や俳優の身体を自覚させるようなメタシアトリカルな技法を好んでいた。小説も書いていた。作者本介名義で何度も『文藝』に応募していたし、大学内の学内誌にも小説などを応募していた。それはむしろ単線的なストーリーのものを好んで書いていたように僕には思えたし、ジエン社を立ち上げてからも映画や書き物の仕事をしていることを知っている人は多いかもしれない。

 ともあれ、こうだ。あの、どうしようもなく魅力的でわけのわからない芝居は「ジエン社」だけで行われるものなのだ。他の仕事ではむしろ直線的で感傷的な作風をこのむ(ように思う)作者本介は、「ジエン社」でだけまるでノイズと楽音の境界がつかめない現代音楽のように複雑で曖昧で薄暗い場所の深いものを取り出しにいこうとしているのだった。

 だから、演劇というものを知らずにハッキネンからジエン社を追いかけてきた僕にとって、ジエン社の関係でもう一つ大きな出会いがあった。白鳥のメガネというブログに掲載された「[演劇]神の裁きと決別するために/管見『コンプレックスドラゴンズ』++-」というエントリーである。

 初めてこのブログを読んだ時には、まだ全然演劇に造詣が浅くて、何を述べているのかはよく理解できなかった。けれども今思えば、僕はこのブログで初めて「演劇の内側」を見たのかもしれない。ハッキネンを知らない人が、ジエン社を見るとこう見えるのか。僕が見ている光景とこんなにも違うのか。このエントリーの問題設定はこうだ。

 この舞台作品にもまた、東京を中心とした現代演劇において今起きているひとつの大きな転回と屈曲の一面が先鋭に示されているだろう。それは、まさしく「現代口語演劇」とは何であったのか、そして何をもたらしたのか、という問いに触れる事柄だ。そういう観点から、ちょっとばかり注解してみたい。

 このブログを読んだ時に感じた、靄に包まれたような気分は、いまでもうまく説明できない。嫉妬と羨望が入り混じったような、何か自分だけが知っていたことが全くの間違いであったかのような気分。自分がみていたのは、もう自作自演団ハッキネンではなく、演劇史に連なる課題を背負ったジエン社という劇団だったのだ。

 だからこそ僕が観ていた「ハッキネン」は「ジエン社」はなんでこうも異なるものなのだろう。そして、それはどこでつながるものだったのだろう、という問いかけをなんども自分にしてしまうのだろうなぁ。

現在―「アドバタイズドタイラント」の暗さの奥で

 「アドバタイズドタイラント」は、ほとんど唐突に終わる。謝罪会見の会場にはきっと誰もこないし、海彦は浮気をしたけれどそれが大きな意味を持つことはないし、ウスイはずっと海彦にまとわりつくだろう。東京が崩壊したせいで、多くの人は「正気」を失ってしまうにせよ。福島が大変なことになってしまったからといって、何も変わらないし変えられないことがあるのと一緒だ。この作品では何にもどれにも答えが提示されず、そもそも状況もほとんど変わっていない。ベタな物語の軌道を避けて通るように動いていた初期ジエン社とすら異なって、今のジエン社は完全に物語を「進める」ことすらやめているように思えた。ジエン社の目指すこの暗さはいったいどこにつながっているのだろうか。

 くり返すが、自作自演団ハッキネンは逆だった。たしかにほんのりと暗さを抱えてはいたけれど、僕らにとっていつも明るく朗らかな笑いをもたらす清涼剤だった。今日は新しい張り紙がないかと休み時間にキャンパスをうろうろと徘徊するのも楽しかったし、新しい張り紙があればほんのり嬉しかった。

 ジエン社のもつ暗闇は、きっとハッキネンの軽やかな明るさでは照らすことができなかった部分だったのだろう。

 でも、パフォーマンスとしての自作自演団ハッキネンと、演劇集団としてのジエン社の最大の違いはたぶんもっとシンプルな所にある。それは、一人なのか、複数人なのか、だ。

 そう、会話も聞こえず、物語の把握も難しいジエン社の演劇は物語や人物の造詣を楽しむ作品ではない。「ただそこに誰かがいて何かをしている」ことの明るさを模索している作品群なのだ。

 この後ろ向きな明るさを思うにあたって、村上裕一著『ゴーストの条件』を思い出す。村上裕一はこう問いかける。「僕達はあらゆる人の痛みを共有することはできない。どうすればいいのだろう」と。

 そこで彼が参考にするのは福本伸行『賭博黙示録カイジ』という漫画の第八十七話「希望」という回だ。鉄骨渡りという過酷なゲームに臨んだカイジの状況をこのように解説する。

 鉄骨上は徹底的な孤独であり、互いに助け合うことは許されない。そんなとき、カイジは唐突にこの鉄骨渡りに人生の縮図を見出す。人生もまた、死へと向かう一本の鉄骨渡りであり、世界とはそもそもこのような、手助けできない五十七億人の孤独な旅だったと。ではそこに希望はないのか。いや、違う。「通信」がある。カイジはただ相手の背中が見えるというだけで、それが通信に、希望になることを認める。俺がここにいるぞ、と思うことが。

 村上は希望についてこう述べる。

 生きているということ。そこにいるということ。それがどれほどの希望なのか。失った後に人はいつもそれに気づく。代わり映えのない日常が大切だった、という意味ではない。

どれだけ落ちたとしても、自分が誰かの希望である可能性が世界には存在しているのだ。確かにそれは見えないものだ。(…)でも、絶望に落ちている人は、そもそもその見えない可能性があることそのものを見ないでいるのではないか。

 ジエン社で描かれる人々は、「その見えない可能性があることそのものを見ない」人々なのだ。人々は常に絶望していて、絶望が標準的な気分になっている。日常や平穏が失われてしまうその前に、自分が誰かの希望である可能性を信じることは難しい。だから、相手が聞いていなくても会話がつづけられるのではないか。

 「アドバタイズドタイラント」ではしばしば相手に自分のことをわかってほしいというセリフを聞く。だが、一見何かの甘えのようにも聞こえるこうした睦ごとが実ることはない。恋人同士であるはずの海彦とウスイも、夕張とリリーも、それぞれのコミュニケーションは円滑に進んでいない。ただお互いがいることを確認するだけだ。何度も何度も。

 逆説的にも聞こえるかもしれないけれど、これがジエン社の希望だ。ただ相手がいること、声が聞こえなくても、物語が進まなくても、それでもなお「一人ではない」ということが何者かへの通信である可能性についての、徹底的な挑戦がある。

 それは舞台上の「いまここ」で行われているのが「べつのだれか」に誤配される可能性についての演劇なのだろう。たとえ其れが「誤配先」で意味を持たなかったとしても、「ただ一人でいるわけではない」ということだけがわかる。それが、暗闇の中で、誰かを失う前にそれが「希望」であることを知らしめる。

 僕は先に「アドバタイズドタイラント」を交差という言葉で表した。「交差」とは、言い換えれば誰かとすれ違ったことがわかる通信のことだ。すれ違ったという事実以外の何事も理解できずとも、ただそれがわかればいい。

 ジエン社は一人ではない。ただそれだけのことが、ハッキネンの時と違う。だからジエン社は暗闇の中でさまよい続ける人たちに、ただそこにいることの希望を見せ続けようとしているのではないか。

 けれども、あのとき、19歳の、才気っぽいものにあふれまくっていて他人をまったく敬ったりしなかったあのころの、たった一人でいたときの強さもまた取り戻してほしい、という僕の願いは懐古趣味的で贅沢なのだろうか。今の冒険的で先鋭的な演出を生み出す以前の、かつてのハッキネンのような心にくいよろこびは、今のジエン社の作品とは完全に相容れないものなのだろうか。

【筆者略歴】
梅田径(うめだ・けい)
 1984年生。早稲田大学大学院日本語日本文学コースの博士後期課程に在籍中。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/a/umeda-kei/

【公演記録】
The end of company ジエン社第七回公演「アドバタイズドタイラント」
d-倉庫(2012年1月19日-22日)
脚本 作者本介
演出 作者本介

キャスト
伊神忠聡、大重わたる(夜ふかしの会)、岡野康弘(Mrs. fictions)、小見美幸、川田智美、菊沢将憲、北川未来、清水穂奈美、時田光洋、松原一郎、三嶋義信、善積元

スタッフ
舞台美術:泉真
舞台監督:桜井健太郎
照明:南 星(Quintet☆MYNYT)
音響:田中亮大
演出助手:吉田麻美、ブルー玲(blu-01 produce)
Web:きだあやめ(elegirl label)
宣伝美術:サノアヤコ
プリンティング・ディレクター:青山功(リトルウイング)
制作:大矢文
運営:塩田友克

スペシャル・サンクス:Mrs. fictions 夜ふかしの会 プロダクション・タンク

「ジエン社公演「アドバタイズドタイラント」」への3件のフィードバック

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  2. ピンバック: 冨坂 友
  3. ピンバック: andrew ando

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