渡辺美帆子企画展「点にまつわるあらゆる線」(青年団若手自主企画)

◎彼女のすべてを見尽くすことはできない-展示空間を食い破る演劇のトリガー
 藤原ちから/プルサーマル・フジコ

「点にまつわるあらゆる線」チラシ
企画展チラシ

■「記憶/記録」の罠

 今この瞬間にもたくさんの作品が生み出されているが、たとえ優れたものであっても、たまたま良き理解者に恵まれなかったがゆえに埋もれてしまうことはある。タイムラインは今や、消費と忘却のストリームを形成している。それが果たして、作り手たちの渾身の作品の味方をしてくれるのかどうか、定かではない。だがそれでも「それ」は確かにあったのだ!、と思うからこそ、その存在証明をアーカイブとして書き残すこと。それが劇評の主たる使命だと考えてきた。

 渡辺美帆子企画展『点にまつわるあらゆる線』を観た時、これはすぐに何かを書きたいと思ってワンダーランド編集部にお願いして書く約束をした。だけど日々の仕事を優先していくうちに時間ばかりがズルズルと経過してしまい、公演の記憶もだんだん薄ぼんやりとしてきた。ヤバい。もともと記憶力は良いほうではない。何かの刺激によるイメージの再起動が必要だ。そこで、手元に残った写真や紙片を眺めていたところ、ふと、こんな言葉が目にとまる。

どうすれば、「記憶」や「記録」に残っていない事柄が、確かにそこにあったことを、証明できるのだろうか。それがわかれば、生きることはもっと多彩で美しいものになるような気がする。

 会場内に設置されたガシャポンの中には紙片がクシャクシャに丸められて入っていて、この言葉はそこにワープロで印字されていた文章からの抜粋だ。コインを投入すればランダムにガシャガシャポンと吐き出されるこの紙片には、印象的なキーワードと文章が記されている。全部でいったい何種類のパターンがあるのか分からないが(*1)、この企画展の作・演出である「渡辺美帆子」の署名も刻印されていて、おそらくこれらの文章がこの公演のコンセプトを表しているのだろう。わたしの場合、まずガシャポンを回してみると、転がり出てきたのは「運命」だった。

企画展「点にまつわるあらゆる線」から
置かれていた「ガシャポン」
撮影・提供=筆者

当館では「運命」を展示しています。(略) 当館では、様々なことが起きます。おそらく、すべてを見尽くすことはできないでしょう。/見たいものを見たいように、移動してください。でも、移動した結果、見えなくなるものもたくさんあります。/人間は、今のところ、同時に複数の個所にはいられません。/手に取ったものをあるがままに認めて、起きたことを起きたままに、お楽しみください。渡辺美帆子

 「すべてを見尽くすことはできない」。それはこの『点にまつわるあらゆる線』の中核を成す命題だとわたしは感じる。実際ここに書かれているように、観客は好きに場所を移動しながらこの公演を観る。奥に設置された小部屋の中や、会場入口や、舞台の隅といった死角で俳優たちがアクトするので、例えばある地点に立てば、その瞬間、死角において生じた出来事を見逃すという設計になっている。全体を俯瞰できるポイントは存在しないのだ。仮にすべてを網羅したいコンプリート癖のある人がいたら、もはや泣くしかない(演劇の観客にはそんな人はいないだろうけど)。つまり観客は、ある何かを選択することで、別の何かを捨てる。しかも次にどこで何が起きるかなんて知らないのだから、何に遭遇するかは運任せであり、起きたことを事実として受け入れるほかないのである。『点にまつわるあらゆる線』では、観客たちのこうした「運命的な取捨選択のバリエーション」が無数に集積されている。

 ところで、すべてを見尽くすことができない以上、すべてを論じ尽くすこともできない。例えば仮に資料を借り受けて、上演台本を読んだり記録映像を観たりすれば、その全貌に近似値的に接近することはできるのかもしれない。というわけで、実は記録映像も送ってもらったのだが、結局わたしはそれを観ないことにした。それはもはや、わたし自身があの日(2月12日マチネ)観たのとは別のものだった(*2)。今から記録映像を「確認」したところで、渡辺の言う「記憶や記録に残っていない事柄の存在」を立証できるとも思えない。では、いったい何を書けば?

 しかし「記憶/記録」という区分けも怪しいもので、例えば「記憶の長嶋茂雄、記録の王貞治」といった伝説として長らく語り継がれてきただけかもしれない(*3)。「記憶/記録」というものへの過剰な信頼によって、その両者のいずれの形にも残らないものを、わたし(たち)が見逃している可能性はないだろうか? 個体の記憶にも、記録データにも残らないような事柄を証明することで、渡辺が言うように、生きることを「もっと多彩で美しいもの」にすることはできないだろうか?

企画展「点にまつわるあらゆる線」写真
【写真は、企画展「点にまつわるあらゆる線」から。撮影=正金彩
提供=渡辺美帆子事務所 禁無断転載】

 俯瞰を捨て去るのだ。劇評として何が重要であり、何がそうでないかといった判断もいったんは括弧に入れて宙吊りにしよう。起きたこと、見たもの、感じたものについての記述と思考。とにかく書いてみることだ。まずは、ある点にまつわる、あらゆる線に向けて感覚をひらいてみること-!

■《死角》と《過剰》がもたらす演劇のポジティブな不可能性

 そんなわけで迷子になった気分で宛てもなく書き進めていきたいのだが、ところでこの「すべてを見尽くすことはできない」という一種の諦念は、演劇には常々付いて回る命題である。映画や小説のようにメディアにパッケージできる複製芸術と違って、演劇は根本的に《一回性》の芸術であらざるをえない。公演期間中のどの回を観るのか? 客席のどこに陣取るか? 見えるものは微妙に(時には大幅に)異なってくる。

 「作品」を確定したものとしてパッケージして提示し、観客もそれを俯瞰できる地点から観る/評する/消費するという旧来のやり方では、演劇の《一回性》はあまり活かせない。そうではなくて、公演内で起きうる出来事の数々を、多数の観客たちが目撃していく、その証言の総体として「作品」を捉えたいといった欲求は、今では作り手側と観客側の双方に生まれつつあるように見える。「すべてを見尽くすことはできない」という演劇特有の不可能性は、決してネガティブなものではなく、今やポジティヴな付加価値になりつつあるのだ。

 現代の舞台芸術における様々な例を見てみよう。《死角》と《過剰》の2つの要素に着目したい。まず《死角》の要素でいえば、Co.山田うん『季節のない街』(東京公演)は変則コの字型の客席で、位置によっては見えない壁面に衣服のコラージュがあったり、台車の裏側が見えたり見えなかったりしたはずで、この作品全体を「支配者不在」のものにするための効果をもたらしていた。またクリウィムバアニー『がムだムどムどム』は、客席がない遊覧型パフォーマンスであり、観客は場内を自由に移動するのだが、どこに立っても常に死角が存在する上に、妖精みたいなダンサーたちが緩急つけて時には勢いよく駆け抜けていくので、動きのすべてを把握するのは難しい。あるいはマレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市の展覧会』も同様に客席がなく、同時多発的に各所でインスタレーション=パフォーマンスが勃発するので、そのすべてを観ることはやはり困難だった(*4)。さらにマームとジプシーの最新作『LEM-on/RE:mum-ON!!』も、小学校の校舎内を移動しながら観ることになるらしく、一度の観劇で全貌を網羅するのは不可能な設計になると聞いている(*5)

 一方、《過剰》の要素でいえば、サンプル『ゲヘナにて』や『女王の器』は、基本的にはプロセニアム(額縁舞台)だが、光源や音源が無数にあり、ゴミやオモチャのような物体が舞台上に散乱し、そして出番でない俳優までもがノイズフルな挙動をしているため、集中と気散じのさせ方が通常の演劇公演とはかなり異なっていた(*6)。あるいはミクニヤナイハラプロジェクト『前向き!タイモン』ほかでは、セリフが高速で語られていくために、それらのすべてを「意味」として聴き取ることは難しい。例は枚挙にいとまがないが、これらの公演では、どこに焦点を合わせて観るかは、(もちろんある程度は演出によって操作されるとはいえ)それを受け取る観客の目や耳に多くが委ねられることになる。

 渡辺美帆子は、この《死角》と《過剰》という要素をうまく使って、全体を俯瞰できないインスタレーション空間を作りあげていた。ある地点を選べば、何かを見逃してしまう。そして同時多発的に見るべきものはたくさんある。それがこの『点にまつわるあらゆる線』である。

■展示されているものたち

 『点にまつわるあらゆる線』の会場(アトリエ春風舎)はまるで美術館として見立てられていて、場内では「写真撮影OK」「飲食自由」「途中入退場自由」「お好きな場所からご覧ください」とのプラカードとアナウンスがあり、ソフトドリンクが1杯サービスされる。客席は存在せず、好きに使っていい座布団が用意されているが、時折、俳優によって一時的に椅子が設置されることがあり、しかしそれもすぐに撤収されたりして、一箇所に留まるのが難しい設計(アーキテクチャ)になっている。観客は好きな場所に陣取ったり、会場内に散りばめられた数多くの展示物を歩きながら見たりして、その居場所を次々と変えていく。観客たちの分布もまた、このインスタレーション空間におけるアモルフな構成要素のひとつなのだ。なかなか自由で、居心地の良い空間である。

企画展「点にまつわるあらゆる線」写真
【写真は、企画展「点にまつわるあらゆる線」から。撮影=正金彩 提供=渡辺美帆子事務所
禁無断転載】

 メインの展示は「彼女」と呼ばれる女(村田牧子)。その周辺には、「彼女」を数値で表した無数のメモが天井からぶら下がり、その他、「彼女」に関する地図、手形、福笑い、日記、録音された声、レゴで作った理想の家、最近見た信号の色、キーワードの入ったガシャポン、そして公演のボツ台本などなど……。注意深く見ないと発見できないものもある。

 上演(開場)時間中、何度か「遠き山に日は落ちて」の牧歌的なインストゥルメンタルが流れる。すると「彼女」の生活している部屋のカーテンが引かれて、その一日(2月3日)が終わる、といったルールで「彼女」は展示されている。ところが次の日もまた2月3日であるらしいことが、カレンダー(日めくり式)によって示される。延々と、2月3日の「彼女」の生活が反復されるわけだ。

 だが同じ一日のように見えながらも、少しずつ現実はズレていく。次第に別の事実が挿入され、物語は動いていくのだった(*7)(*8)(*9)。『点にまつわるあらゆる線』は全体的にはインスタレーション空間として作られているが、この「彼女」の生活をめぐる部分に関しては、芝居らしきものが用意されていた。それはいったい、どんな物語だったのか?

■渡辺美帆子の理系的想像力

 と、物語の内容に踏み込む前に、『点にまつわるあらゆる線』における俳優と観客との関係について少し記しておきたい。展示物とも言える俳優たちは、完全なる劇中人物として振る舞っているわけではない。時には観客に干渉したり(椅子を勧めたり)、観客を見つめたりすることもある。いったい彼らは観客とのあいだに、どういったルールを設けているのかな?と思って展示を見ていたら、会場内の壁面に貼られた「ボツ台本」の中にこんな記述を見つけた。「観客意識度10%」「観客意識度40%」……。

「点にまつわるあらゆる線」の写真「点にまつわるあらゆる線」写真
【写真は、企画展「点にまつわるあらゆる線」から。撮影・提供=筆者 禁無断転載】

 要するに渡辺美帆子は、観客との距離感を数値で示しているのだ。「彼女」にまつわるデータを数値で表しているのもそうだし、彼女には理系的なセンスがあるのだろうと感じる。彼女の所属する青年団主宰・平田オリザもまた、戯曲の中に科学者を登場させたり、ロボット演劇やアンドロイド演劇の研究を推進していることで知られているが、彼女はそうした平田オリザの科学への興味関心をダイレクトに受け継いだ人物と言えるのかもしれない(あるいは全然関係ないのかもしれないが)。人間について考察することと、世界の自然法則について考察することは地続きである。物語というと得てして文学部的な感性を想像しがちだが、こうした理系的な想像力には、まだまだ未知の領域が眠っているような気がする(まあ、だからこそSFというジャンルがあるわけですね)。

 残念ながらわたしは、渡辺美帆子が構成・演出した量子力学演劇『光子の裁判』を不覚にも見逃しているのだが、そのサイトをひらいてみると、次のような言葉が書きつけられてある。

光子はひとつの粒でありながら、同時に、二カ所に存在することができます(*10)

 冒頭で引用した「人間は、今のところ、同時に複数の個所にはいられません」というフレーズにも通底するメッセージだ。裏を返せば彼女は「人間は、いつか、同時に複数の個所にいられるようになるかもしれない」と言明していることになる。まるで夢物語のような発想に思われるかもしれないが、近未来SFでは決して珍しい現象ではない(*11)。時間と空間の三次元的な法則は、人間存在や世界を存立させるための最も強固で揺るぎないルールだと日常的には信じられているが、原理的に突き詰めて研究していけば、案外、その前提は脆くも崩れ去る日が来るかもしれない。

 特に今の小劇場演劇では現代口語演劇が主流になっていることもあり、自然主義的なリアリズムを前提として物語が構想されることが多いと感じる。一般的な物語演劇はもちろんそうだが、たとえメタフィクション的な作りの場合であっても、人間といえば、基本的に赤い血が流れていて、頭と胴体と四肢があって、身長や体重は大体これくらいで、言語を喋って……とおおよそのスペックは一定である。しかしフィクションメイカーは、想像力にそうした常識的な枷をはめなくてもいいはずだ(*12)。単に荒唐無稽なアイデアを書いても稚拙になるだけかもしれないが、とはいえ物語は、もっと自由であってもよろしいのではないか?

■演劇の逆襲

 では、話を『点にまつわるあらゆる線』の物語に移したい。渡辺美帆子はどのようなストーリーテリングを試みたのか? まず展示されている「彼女」の部屋に妹らしき人物(菊池佳南)が訪ねてくる。最初は話の筋がほとんど掴めず何を言ってるのか分からないが、何度もシーン(2月3日)が反復されていく中で、次第に姉妹の関係性が浮かび上がってくる。どうやら妹はアイドルになりたいらしく、姉である「彼女」にあれこれ相談するが、話をろくに聴いてもらえないことを不満に感じているらしい。そして姉は引越しの準備をしており、その部屋での最後の日を終える。そしてまた、同じ朝がやってくる……。

企画展「点にまつわるあらゆる線」写真
【写真は、企画展「点にまつわるあらゆる線」から。撮影・提供=筆者 禁無断転載】

 しかしどうもここには、一筋縄ではいかない、幾つかの次元や時制が錯綜しているように感じられてならない。例えば妹が、「あの時、お姉ちゃん、うどん茹でてたよね? あたしも食べたかったなー、うどん。なのにお姉ちゃんひとりぶんしか作らなかったもん。ねえ、あたしのぶんも作ってよ!」などと喋るのだが、それは目の前にいる姉に対してではなく、過去の姉(幻影)に対して語りかけているような調子だ。「あの時」というのは、反復される2月3日、引越し前の最後の日のことだろう。いったい妹はどこの誰に向けて喋っているのか? そんな妹は、ヴォーカロイド・初音ミクの「ストロボナイツ」が流れるやいなや、マイクを握って歌うように指示(プログラミング)されていて、これもまた現実感から遊離している。

 さらにこの部屋に、無表情の謎の女が侵入してくる。女は「彼女」のダミーのようにも見えるし、「彼女」の命を奪いに来た死神みたいな不穏な気配も漂わせている。「彼女」の実体がどうやらこの部屋に不在であるらしいことは分かった。では、「彼女」は果たしてまだ生きているのだろうか?

 これだけならまだしも、「社会に巻き取られてるんですよ!」と狂人のように叫びながら地面を転がる男がいたり、追いかけっこがあったりして、物語はさらに混濁した様相を呈してくる。「彼女」と直接関係のないサイドストーリーなのか、姉妹のどちらかによる妄想の産物なのか、真偽のほどはよく分からない。正直なところ、何度も反復されて様々なバリエーションが語られていく中にあっても、この物語の流れを汲み取ることはわたしには不可能だった。とにかく様々なファクターが混沌としている。

 そんなふうにして、物語はハッキリとした輪郭を持たないまま、全体のインスタレーション空間の中に埋没していた。展示自体よく出来ていたし、それはそれで満足するものがあったのだが、ここには何かが足りないな、とわたしは感じていて、欠けているのは何だろうか? もしかするとそれが「演劇」ではないだろうか? やはり演劇が見たいのだ、とか思っていたところ……。

 突然現れた「うどん」のシーンにハッと思わされた。というのも、妹は確か「お姉ちゃんはひとりぶんのうどんしか作らなかった」と言っていたはずだ。それが反復されるうちに、姉はついにふたりぶんのうどんを作ってきて、妹と一緒に仲良く食べ始めたのである。ありえなかったはずの「和解」が反復の中で生まれた。現実が書き換えられたのだ。

「点にまつわるあらゆる線」写真
写真は、企画展「点にまつわるあらゆる線」から。撮影=正金彩 提供=渡辺美帆子事務所
禁無断転載】

 それだけではない。その最初の「うどん」はあくまで架空のそれを食べているフリでしかなかった。驚いたのは、さらにもう一度2月3日が反復された時、今度は本物の(熱や匂いを持った)うどんが運ばれてきたことである。これには意表を突かれて鮮烈な衝撃が走った。感動した理由としては、単純に食べ物の(嗅覚や視覚に対する)力にやられたこともある。しかしもっと言うならば、フィクション(うどんを食べるという嘘)の中に突如として現実(本物のうどん)が挿入されたことで、現実がフィクションを貫いて食い破ったような気がしたのだ。「だって、嘘でしょ?」と思っていたところに、本物が現れることの不意を突く衝撃。そしてその不意の一撃は、この会場全体を包み込んでいたインスタレーション空間の虚構性をも、バリバリと破っていくように思えた。

 つまりそれまでは、インスタレーションの中に演劇が閉じ込められている、と見えていたのだ。しかしそうではなかった。閉じ込められていたのは「彼女」をめぐる嘘の物語、だけであり、「うどん」はその外からやってきて空間を一気に串刺しにしたのである。要するに「当館はインスタレーション空間として展示をしています」といった体でなされているこの精巧な美術館のイミテーションも、「うどん」の一撃によってすっかり本性を現してしまったのである。そうだった、ここはアトリエ春風舎であり、劇場だった……! あまりにもよく出来た展示だったから欺されていたけども、ここは確かに劇場であり、目の前で起きていることは(実はそのすべてが)演劇だったのだ。

当館では、「嘘」を展示しています。/中央の小部屋には“彼女”が暮らしています。しかし、実際は、“彼女”なんてどこにもいません。“彼女”は、一体、誰なのでしょうか。/私たちは、架空の“彼女”を展示しています。しかし、なぜ、架空の“彼女”が必要なんでしょうか。/現実にはたくさんの女性がいます。わざわざ、架空の“彼女”なんか見に来なくても、現実の女性を見ているだけで充分たのしい。なぜ、架空のものが必要なんでしょうか。/架空のもの、嘘のものごとは、トリガーです。架空のものを引き金に、現実は、色を変えることがあります。それは、私たちの解釈が変わったということなのでしょう。/当館で展示されている、架空の“彼女”が、あなたの現実の、何かのトリガーになったらうれしいです。渡辺美帆子

 この串刺し感、食い破り感こそ、演劇が持ちうるダイナミズムのように思えた。一見すると、脱劇場・脱物語・脱演劇を志向しているようにも見えた『点にまつわるあらゆる線』だが、そうではなく、演劇のトリガーは常に握られており、そして「うどん」によってそれは引かれたのである。これはインスタレーションという手法に対する、演劇の完全なる勝利宣言だというふうにわたしは受け取った。演劇には、虚構を生み出す力も、虚構を食い破る力もあるのだ。

 そしてこの「うどん」がもたらした「和解」によって成仏したのか(成仏したのは果たして妹か? 姉か?)、ついに反復は終わり、2月4日の朝がやってくる。無限ループから抜け出した新しい一日だ。「彼女」は引越しを果たし、教会のベルが鳴り、婚姻届を夜間窓口に提出して男と去っていく。幸福感に満ちた爽やかなシーンだ。だが、これも結局はすべて嘘であり、真実は用意されてはいない。実際の「彼女」はすでにバッドエンドで死んでいるのかもしれなかった。しかしひとつ言えることは、演劇には、この虚構のラストシーンを描き出すことができるということ。そして、そうなった以上、たとえこれが嘘の話であっても、それは確かに存在し、誰かの心の中に入り込んでしまうのである。

■記憶でも記録でもないもの、《ニュアンス》

 渡辺美帆子は実験精神に溢れた人であり、毎回、既成の「演劇」の枠に囚われない新たな試みに挑んでいると思う。例えば『渡辺美帆子一人芝居シリーズvol.1「小瀧ソロ」』は、マリリン・モンローの生涯を青年団の女優・小瀧万梨子が実際のギャラリーで演じるというもので、空間や音の使い方や観客との関係の取り方こそ面白かったものの、人物の描き方が単調に思えた。人生をどこか俯瞰的な視点から回想して眺めている感じがして、わたしはうまく入り込めなかったのだ。しかし今回の『点にまつわるあらゆる線』は、誰かの人生を俯瞰的に語り尽くすことを最初から放棄した潔さを感じた。まさに「すべてを語り尽くすことはできない」。どんなに数値で測ったところで、「彼女」の人生の総体を表現することなんてできないと分かっているからこそ、あれだけの数字を(すべて嘘なのに)あえて並べ立てたのだろう。

 ひとつの揺るぎない物語やメッセージを提示して渡すのではなく、観る人によって様々な解釈や出口のありうる空間の設計。それが今作の最大の狙いではないかと思う。

当館では「物語」を展示しています。/私たちは「物語」の刺激に慣れすぎており、与えられた「物語」の陳腐さを信じることは難しくなっている。何者かの作為でつくられた「物語」よりも、無作為なものの方が良い。何者かの解釈が介入した「物語」よりも、ありのままを見たい。そういう欲求の方が強いのはなぜなのでしょう。/子どもは童話にはしゃぎ、忙しい大人も、ちょっとした空想力で仕事の疲れを癒す。そういう「物語」の力は認めるけれど、でも、押し付けられるのは嫌だ。自分勝手な、自分一人の「物語」を得て楽しみたい。しかし、各々が自分勝手な「物語」を信じていたら、人が人と出会うことは起こり得ないし、それはとても寂しい。/なので、各々が自分勝手でありながら、なおかつ同じ場所にいられる空間をつくりたいと考え、本企画を立ち上げました。/どうぞお気軽にお楽しみください。渡辺美帆子

 渡辺美帆子はこの作品の支配者として君臨するのではなく、この「インスタレーション×演劇」空間の設計者として、人々が好きに遊べる《器》を作ることを選択したのだと思う。

 ただし、この公演を果たしてどれだけの人が楽しめたかというと疑問に残るのは、やはり注意深く観るほうが様々なことを発見できるし、「途中入退場自由」とはいえ、反復されるシーンを最初から最後まで観たほうが汲み取れるものもあったように思うからだ。自由をとるか、集中をとるか……。

当館では、「自由」を展示しています。(中略)当館は、途中入退場「自由」です。どこから見ても「自由」です。/でも、きっと、全然「自由」じゃありません。/そもそも、「自由にして良い」と言われた時点で、創り手の意志に反した行動をすることができなくなるんだから、観客が本当に自由であることなんてありえないんじゃないかしら。/だけど、そんな中ででも、あなただけの「自由」を見つけながら、お楽しみいただけたら嬉しいです。渡辺美帆子

 その昔、とある精神障害者の描いた絵で、人間が操り人形のようにアンテナに電波を受信して動かされている、というものを見て衝撃を受けたが、結局のところ人間は未だに「自由からの逃走」をし続けているのかもしれない。与えられることに慣れすぎたら、きっと人間は、「自由」を手にすることはできないのだろう。

 実際問題、来場者たちはどんな感想を抱いたのだろうか? ネットで検索してみたら、twitterの感想のまとめサイトを見つけた(*13)。あらためて読んでみて、ふむふむ、と思いつつ、なんだかそれ以上に、公演からすでに長い時間が経過した今、なおもあの空間について思いを馳せていられることにちょっとした贅沢を感じた。一瞬にして通り過ぎて忘れてしまうよりも、これは、遙かに幸福なことではないだろうか-?

 そうだ! と他人たちの感想を読んでいて思い当たる。記憶でも記録でもないような、それでも存在していたはずのもの、それはきっと《ニュアンス》ではないか(*14)。いろんな人々の言葉はあるけれども、その言葉の埒外に追いやられてしまったもの(つまり、記録として残っていない)。そしてもうすっかり忘却されてしまったもの(つまり、記憶として残っていない)。だが時間をかけて、手元にある資料や手がかりからイメージを再構築していく時に、わたしひとりの記憶や記録を超えて、なぜかじわじわと蘇ってくるもの……。それを《ニュアンス》と呼ぶことはできないだろうか?

 カーテンを開ける「彼女」の姿。ヴォーカロイドに扮して歌うその妹。無表情な女と、その足のひれ。俳優たちの走りや叫び。あるいは様々な展示物。そして、床面に一円玉で描かれていった不確かな形状の何か。音楽。時間。風景。アトリエ春風舎までの道のり。太陽は出ていただろうか?(いや、たしかあの日は雨だった……?) そうした朧気なイメージのひとつひとつを、確たる痕跡として残すことは難しいのだが、漠然とした《ニュアンス》としてわたし(たち)が捉えているものは確かにあるのだ。そして各人の証言を再検証して何かに書きつけていこうとする時、《ニュアンス》は、それらの霧散し林立するイメージのあいだからゆっくりと立ち上がってくる。それは、ある点にまつわるあらゆる線が漠然と形成している、境界のない、面のようなものかもしれない。

(観劇日:2012年2月12日マチネ)

(*1)渡辺美帆子本人から送付されたデータファイルを後で参照してみたところ、「見る」「物語」「記憶と記録」「運命」「克服と儀式」「自由」「嘘」の7種類があるらしい。

(*2)ただしDVDの冒頭のみ確認したところ、2枚ある記録映像のうちの1つにわたしの姿が映っていた。つまり撮影と同じ回に観ていたことになるが、固定されたカメラアイが映し出すものと、動き回っていたわたしが見たものとは、やっぱり別物だと思う。

(*3)1959年6月25日の天覧試合・巨人vs阪神戦、長嶋茂雄の劇的なサヨナラホームランに端を発したこの伝説は、例えばちょうど36年後の1995年6月24日、野茂英雄が日本人選手として初のメジャーリーグ完全試合を成し遂げた、あの記憶にも記録にも残る瞬間に更新されてもよかったはずだ。

(*4)マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市の展覧会』については、その「全体を統合的に見渡すことが不可能」な会場の構造を鋭く捉えた江口正登の劇評「なぜ彼/女らが行うのは報告ではなくその表象なのか-「晒される」ものとしての俳優達」(2010)がある。

(*5)@ぴあ「今週のこの人」藤田貴大インタビュー

(*6)@ぴあ「今週のこの人」松井周インタビュー

(*7)このシーンに、柴幸男の『反復かつ連続』を思い起こした観客もいたはずである。あの作品は、ある家族の朝の風景における「声」を、シーンの反復によってオーケストラに仕立て上げていくという驚くべき仕掛けを施していたが、この渡辺美帆子『点にまつわるあらゆる線』はそうやって多層に重ねていくのではなく、むしろ単調に繰り返されるように見える日々の反復の中で、少しずつ事実をズラしていくところに狙いがあったと感じる。

(*8)「彼女」が紙にグルグルと円を書き続けている場面がある。Twitterで批評家・佐々木敦が指摘していたので気づいたが、これはチェルフィッチュ『フリータイム』において、ファミレスで「日記」と称してノートにただグルグルと線を描き続けていた女へのオマージュではないだろうか。

(*9)「反復」は現代演劇にとって極めて重要な手法となっている。この公演の場合は、延々と続く「終わりなき日常」のループを改変していくための、一種の《祈り》として機能しているようにも見える。それは例えば、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』における暁美ほむらの絶望的な《祈り》の反復が、因果の糸を結び合わせて最強の魔法少女を生み出した(つまり現実を変えた)ことにも一脈通じるものと思われる。例えば渡辺美帆子は《祈り》について次のように書いている。「当館では「克服」と「儀式」を展示しています。/人生には、不条理なこと・納得できないこと・悲しいこと・越えられないことが、たくさんある。儀式を行ったところで、それらがなくなる訳ではない。しかし、儀式を行って、きちんと祈れば、克服することができるのかもしれない。/とは言え、克服した後も、日常は続く。克服したと思ったことは、しばし、全く克服できておらず、再び姿を変えて自分の前にあらわれる。/ほとんどの演劇では、人が苦しみ、克服する様子を上演する。しかし、本当は、人間の生活はそこでは終わらない。/本企画では、「克服」と「儀式」を展示します。が、私たちの生活はそこでは終わりません。/なにかを持ち帰っていただけたら幸いです。渡辺美帆子」

(*10)量子力学演劇『光子の裁判』ウェブサイト

(*11)SFに詳しい猛者であれば幾らでも好例を列挙できることだろう。差しあたり思いつくところで、TVドラマ『新スタートレック』 第24話(時間に関する研究実験の結果、別次元が侵入してくる)や第27話(あらゆる既成概念が通用しない高度な知的生命体に宇宙船ごと呑み込まれる)を挙げておきたい。その他、ドッペルゲンガーやパラレルワールドものも、「同時に複数の個所に存在する」ことの変奏であるとも言える。

(*12)以前、ポツドール主宰の三浦大輔にインタビューした際に聞いたが、そのまさに超リアルな演劇を形成していくにあたってはギブス的な枷もあったようだ。「実は「リアル」にこだわりすぎて失ったものもあったんですよ。ほんとはもっと広がっていく可能性もあったのに、「リアル」に固執したばっかりにがんじがらめになる不自由さも感じていたので」と彼は語った。(「シアターガイド」2011年10月号)

(*13)トゥギャッター:渡辺美帆子企画展「点にまつわるあらゆる線」

(*14)《ニュアンス》という概念自体の重要性は、今年1月に北九州(小倉や枝光)を訪れた際に感じたものだが、今回、齋藤理一郎氏のブログの感想に「ニュアンス」という言葉があったので、アッと思って繋がった。

【筆者略歴】
藤原ちから /プルサーマル・フジコ (ふじわら・ちから)
 BricolaQ 主宰、フリーランサー、編集者。 雑誌 「エクス・ポ」 「エレキング」 『〈建築〉 としてのブックガイド』 (明月堂書店) その他ミニコミやZINE などにも寄稿。
・パーソナル・フリーメディアBricolaQ:http://bricolaq.com/
・ワンダーランド掲載一覧: http://www.wonderlands.jp/category/ha/pluthermal-fujiko/

【上演記録】
青年団若手自主企画vol.51
渡辺美帆子企画展『点にまつわるあらゆる線』-日仏若手演出家シリーズ
アトリエ春風舎(2012年2月5日-12日)
構成・演出:渡辺美帆子
展示物=human(woman)

出演
村田牧子 菊池佳南 本田けい 水野拓(以上、青年団)
菊川仁史 原麻理子 ほか
スタッフ
美術:乗峯香苗
衣裳:正金彩
舞台監督:殿岡紗衣子
照明:南星(Quintet☆MYNYT)
音響:森内美帆
演出助手:渡邊晴樹 北村友一
宣伝美術:原麻理子
制作:木村昭仁

料金
予約・当日共;2,000円(Previewは 1,000円)
*来場回指定・途中入退場自由

企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
総合プロデューサー:平田オリザ
助成:文化庁
平成23年度 文化庁文化芸術の海外発信拠点形成事業

「渡辺美帆子企画展「点にまつわるあらゆる線」(青年団若手自主企画)」への12件のフィードバック

  1. ピンバック: 渡辺美帆子
  2. ピンバック: 西田未希
  3. ピンバック: 横山 真
  4. ピンバック: 水牛健太郎
  5. ピンバック: masayukisakane
  6. ピンバック: 渡辺美帆子
  7. ピンバック: 渡辺美帆子
  8. ピンバック: Yutaka Shikano

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