チェルフィッチュ「現在地」

◎見下ろせば透明
 林カヲル

「現在地」公演チラシ チェルフィッチュが四月に神奈川芸術劇場で新作『現在地』を上演した。作・演出は岡田利規。チェルフィッチュとはセルフィッシュを幼児語化した造語だが、本作はそのような意味ではまったくチェルフィッチュではない。岡田が若者言葉の多用をやめて久しいが、今回は口語ですらないともいえる。人物も話題もセルフィッシュではない。一種、巨匠と呼びたいような風格を備えた作品となった。

 設定は今あるいは近未来の日本のどこかの村。登場人物は全て女性で、いずれも村の住人だ。その中の一人が発光する雲を見た。それは悪いことの前兆だという噂があって、彼女は何か起こるのではないかと恐れる。他の村人もこの現象をめぐって、さまざまな意見を述べる。何かの徴かそうではないのか。兆しであれば凶兆か。いやその現象自体がすでに悪いことなのだ。災厄はもう始まっている。いやいやそもそも錯覚にすぎない。こうして全ての女性が順番に自らの考えを語る。その間、殺人など大事件も起きるのだが、そうした物語は主張と主張のつなぎで、災害に関する語りの連鎖が作品の中心だといってよい。

 舞台には、机とパイプ椅子が並べられていて会議室を思わせるが、どういう場所かは示されない。俳優たちは、最初にばらばらと登場してから最後まで退場することなく、話の順番でないときはおおむね椅子に座っている。しかしきちんと聴いているようには見えない。語り手もほとんど棒立ち、棒読み状態で、主張を伝えたい様子ではない。話が終わっても誰かが別の意見を述べることはなく議論はない。語りっ放し。というよりまず、彼女たちが同じ場所に集まっているというわけでもないようだ。語り手の立つ場所だけが狭い意味での舞台であって椅子は客席、だから他の女性たちは観客、前に出て語るときだけ登場人物になるということらしい。

 岡田によれば、今回は演劇が古来持っていたフィクションの力を活用する、ということだ。そして劇中劇の仕掛けをフィクションであることを強調するため取り入れた、しかし劇中劇自体が狙いではないと語っていた。そのためか俳優と観客の差をはっきりとはつけていない。劇中劇のような、そうでないような曖昧な感じだ。

 ここまで、語りという言葉を何度か使ってきたが、実は語り物の語りという意味を込めている。代表作である『三月の5日間』にしても、状況を説明するいわば地の文と台詞が連続する語り物として捉えることができるのではないか。ここではさらに触れる余裕がないが、今回、岡田は語り物の劇作家であることを改めて示したといってよいだろう。ただし『三月の5日間』が、物語を叙述するための語りであるとすれば、こちらは意見を発表するための語りである。といっても語り手の意志は感じ取れない。人々の前に立ってある時間をかけて一つの主張を語り続けるという形式の点では演説といってもよいほどだが、伝えたい、聞きたい、議論したいといった語ることの動力が伴っていないのだ。

 文体も不自然というしかない。先に口語ですらないと書いたのはそのことで、女性たちは韻を踏むように「だわ」という語尾を連発する。今ではあまり耳にしなくなった死語になりかけの言葉遣いだ。しかし書き言葉ではなく、話し言葉の符牒ではある。ここでも語りは話であるという形式だけを提示して、内容にはお話らしさがない。

 しかし、この作品に内容がないということではない。災害やそれが近づいているかもしれないという噂や恐怖は、明らかに東北の震災や原発の事故を思わせる。村からの脱出が主張される場面も原発に対する反応そのものだ。むしろ不自然で活力のない身体、語り方、文体は、語られる内容を状況や語り手から切り離して浮き立たせるための道具立てではないだろうか。作品には複数の人間が会話を交わす場面ももちろんあるが、彼女たちの主張に関する限り、それは会話でも独白でもなく語りなのであり、そのような語りによって語り手に味付けされたりすることなしに、なまの素材を観客に直送している。

 ここで新しい試みについて触れておこう。といっても珍しいことではない。一人一役。これはチェルフィッチュとして初めてではないだろうか。ただ、演じる人物と無名の観客の間を往復している以上、役柄として一貫しているわけではない。また役であるときでさえ、一人の生きた人間には見えない。役と俳優の結びつきを一通りに固定することは、フィクションであることと関係があるのだろうが、それぞれの人物が個性を持ち、台詞が各人の内面から発せられるというようには作られていない。語られる内容が先にあって、それを述べ伝えるための道具として俳優が求められたとさえ見える。

 つまり、西洋の近代以前の劇、愛や正義といった観念の化身が登場するような劇に似ているといえばよいだろうか。彼女たちは、その主張を体現するミューズたちなのかもしれない。あるいは受難を描く宗教劇ともいえる。災害とは何日も続く豪雨で、結局村は水没してしまったらしい。村から船に乗って脱出するという部分まで含めて、旧約聖書の大洪水に重ね合わせているのだから、この解釈もそれほど無理ではないはずだ。

 しかし彼女たちは自身の存在を強く押し出さず主張の背後に隠れてしまう。ここに議論はない。意見は、それぞれの相違を明らかにしたまま、ただ並列される。判断は下されない。たとえば、噂に対するさまざまな態度は、震災時、多くの人々が風評に惑わされたことへの批判とも考えられる。しかしそれにしては、主張しようとする圧力の弱さはどうだろう。その風圧の弱さはまた、観客に選択を迫っているという考えにも疑念を抱かせる。そもそも正解はあるのか。少なくとも個々人にとっては正解があるのか。

 このような作品を創る岡田はどこにいるのか。この作品で確かなことは少ない。発光する雲も、本当に見たのか錯覚なのか明らかではない。災害がすでに起きてしまい回想のように語られる一方で、今はまだその予兆が現われているだけのようにも見える。また、舞台奥の壁には大きな窓が開けられていて、さまざまな風景が映写される。初めのうちは雲のようなものだが、やがて星空になり、土星のような天体が現われ、銀河系のような星雲が見える。人々は宇宙船に乗っていて、それが地球を出発して太陽系の外へ出ようとしているところだとも見える。ノアの箱舟は宇宙船だったというわけだ。しかし村を脱して宇宙へ、というのは突飛だし、宇宙船内部のようには見えない。やはり村の集会所のような場所なのか。各部分が別の回答を暗示し、相互に食い違う。この未決定性は意図されたものだ。それが世界だ、ということか。やはり正解はないのだろう。

「現在地」公演の写真1
「現在地」公演の写真2
【写真は、「現在地」公演から。撮影=青木司 提供= precog 禁無断転載】

 銀河系の彼方ほど遠くはないが、小高い山から村を見下ろして女性たちが会話する場面がある。この作品では俯瞰する視線が重要だ。劇作家も作品世界の遥かな高みにいる。ほとんど神の視点といいたいくらいだ。といっても神という言葉に全知全能などの価値付けをするつもりはない。ただ下界の何かを救いもせず罰することもせず、静かに全てを見守っているような有様をそう呼ぶだけだ。岡田は震災を十分に意識しつつこの作品を書いた。あれから一年の時点で、この態度は恐ろしく冷静なものだ。もしかすると冷淡さとさえいえる。批判ではない。震災に対して十分な距離感を持って向き合えることが悪いはずもない。ただ表現者としては、と考える時、若干の留保をつけたくもなる。

 見守りは、この作品の場合、肯定といいかえられる。作品において災害は、傲慢な人間を罰する善いものではないし、理由なく不幸をもたらす禍でもない。かといって無責任に一つの世界を仮構して見せただけではない。さまざまな現象への解釈、意見、行動が並び立ち、正解はわからず、正解があるのかもわからず動いている世界、それが現在地なのだろう。そこで私たちは否応もなく生きざるをえないが、岡田は生を否とか、せざるをえない、といった否定形ではとらえることなしにこの世界を生きていこうと肯定しているように見える。その時、世界もまた肯定される。

 岡田利規は肯定する。自己を、自分が描く作品を、そこに反映されている世界を。それ自体は良くも悪くもない。肯定される対象がどう想定されているかによるからだ。そして岡田は変化する。豹変するといってもいいくらい、作品を発表するごとに演劇観が違う。今回、フィクションという言葉を突然持ち出したのもそうだ。この二点は現在の劇作家、演出家において岡田を際立たせる特徴といってよいだろう。おそらくそのつど本気で肯定するからそのたび鮮やかに変わるのだ。その二つの項をつなぐのは固執しないということ。肯定するが固執しないから変化へ開かれている。この肯定は貫徹することではない。つまりある考えを信じ続けるには、疑いが少し欠けているのだ。岡田はいつも何らかの方法を保持し、その方法を軸に作品は創られるが、それぞれの時点では方法に対する疑いがそれほど感じられず、むしろ確信されているように見える。

 肯定、変化、確信。こうした特徴は思考に浮力を与える。常にそうなるわけではないが、岡田の場合は、作品に地上を這いずり回らせず、この世の出来事を少し上から捉えさせる。その位置が今回、神の座にまで高まってしまったのかもしれない。肯定は世界を眺め下ろす視線として機能している。それは世界に不幸や悪がない、ということではない。彼女たちがいるこの場所の外では大雨が降り続いているのかもしれず、内では人が殺されもする。その世界を岡田は静かに見つめ、観客にそっと差し出す。あまりに優しくとも、あまりに冷たくともいえる、そのどちらでもあるようなやり方で。

「現在地」公演の写真3
【写真は、「現在地」公演から。撮影=青木司 提供= precog 禁無断転載】

 この作品世界の中では、観客もいわば地上にいながら、人々が砂粒のように小さく見えるような視点を持つ。そのような眼に映る世界は実に透明だ。対立や葛藤といった視界を濁らせる要素がほとんどない。異なる意見はお互いを攻撃せず並んでいる。人を殺す人間、災害を恐れる人間は登場しても、彼らはそれほど苦しんでいるようではない。しかし神ならぬ観客は、この透明さに耐えられるだろうか。それは退屈や単調や浅さと映るかもしれない。そうではない透明なのだといい直したとして、作品を擁護することになるとも限らないのだが。

 あるいは、さらに言い直してみよう。これほどの透明さは、巨匠の証であると。ここで巨匠とは、位取りを指すというより、作品の質を指している。もちろん岡田が将来、巨匠という地位を獲得しても驚きではない。ともかく、この透明で良く見える世界を、そのどこにも加担することなく、何かを否定することもなく丸ごと捉えること、しかも静かに行なうこと。それが実現しているとき、そこを巨匠の空間と呼びたい。そのような透明さに接して観客は賛嘆するしかないのだ。賛嘆すべき、ではなく。

[注] この劇評は筆者と掲載元の了解を得て「世田谷劇報」(2012年7月9日号、通巻126号)から転載しました。(編集部)

【筆者略歴】
林カヲル(はやし・かをる)
 中年会社員。つかこうへいにやられて以来、観客歴は何十年。劇評を書き合い演劇について語る「劇評の会」を結成し、劇評の一部を同じメンバーで発行するメルマガ『世田谷劇報』に掲載している。長い不景気の中、給料は減って仕事は増え、観劇本数は右肩下がりの一方。観客生活の未来は厳しい。

【上演記録】
チェルフィッチュ『現在地』
横浜公演 KAAT神奈川芸術劇場2012年4月20日-30日
福岡公演 イムズホール5月6日、7日
海外プレミア公演 エストニアのラクヴェレで開催される国際フェスティバルBaltoscandal 2012にて。7月6日、7日

作・演出 岡田利規
出演 山崎ルキノ、佐々木幸子、伊東沙保、南波圭、安藤真理、青柳いづみ、上村梓

美術 二村周作
音楽 サンガツ
舞台監督 鈴木康郎
音響 牛川紀政
照明 大平智己
映像 山田晋平
ドラマターグ・演出助手 セバスチャン・ブロイ
宣伝美術 松本弦人
撮影・編集 西野正将
助成 公益財団法人アサヒビール芸術文化財団
協力 急な坂スタジオ
企画・制作 KAAT神奈川芸術劇場、precog
主催 KAAT神奈川芸術劇場(指定管理者:公益財団法人神奈川芸術文化財団)


“チェルフィッチュ「現在地」” への 2 件のフィードバック

  1. ピンバック: 堀内まゆみ
  2. ピンバック: 薙野信喜

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