地点「コリオレイナス」

◎Chiten to Globe-地点『コリオレイナス』@グローブ座観劇レポート-
 關智子

 ロンドンのグローブ座が地点を招聘した。
 シェイクスピアのグローブ座、京都を中心に活動している地点、その両方を知っている人がこのニュースを聞けば、「えっ」と思うに違いない。ほとんど想定できなかった組み合わせである。地点がシェイクスピア作品をやる、というだけの話ではない。それでも少し驚くくらいなのに、ロンドン、それもグローブ座という特殊な環境で地点がシェイクスピア作品をやるのだ。期待と当惑が入り混じった複雑な感情を覚えながら、チケットを購入した。

 ロンドンのグローブ座という劇場は、割と保守的なシェイクスピア作品を扱うところという認識が一般的だろう。詳しい歴史などはここでは省略するが、ここで上演されるエリザベス朝時代の戯曲を扱った演劇作品は、時に翻案作品や外部のプロダクションの上演もあるが、観光と教育の為という目的もあり、それほどラディカルな変更は行わない、比較的ストレートな作品を上演するというイメージがある(勿論、全部が全部そうであるという訳ではなく、特に2000年前後から現代的な演出のものも上演されるようにはなっているが、恐らく概して以上のように言うことができるだろう)。

 そこが、地点を呼ぶ。三浦基率いる地点は、そもそも戯曲を上演することすら最近では少なく、扱っても大胆な再構成を行って上演する団体である。音声で遊ぶかのような独特の台詞回しと、具体的な時代や場所を決定しないような衣装・舞台装置を用いる彼らは、日本における、いわゆる「ポストドラマ演劇」を上演する団体の筆頭として挙げられるのではないかと筆者は考えている。

 以上、非常に大雑把ではあるが、招聘側と被招聘側が真逆の性質を持っていたことの説明である。日本国内で例えるなら、歌舞伎座がアングラ演劇を招聘することを想像していただければ、この招聘が与えた驚きがお分かりいただけるだろうか。これだけ結果が想定できない組み合わせを選んだことは、グローブ座の挑戦でもあり、そして地点の新たな挑戦でもあったと考えられる。

 地点が招聘されたのは「グローブ・トゥ・グローブ(GLOBE TO GLOBE)」というフェスティバルである(※)。これは、2ヶ月弱でシェイクスピア劇と考えられている37作品を、国内だけではなく海外からも多くのプロダクションを招いて上演するという非常に大規模なフェスティバルであった。筆者が観たのはその一部だけだが、全体的に質の良い作品が揃い、異文化を取り入れているというだけでは説明できないような、興味深い演出や解釈が行われている作品が観られた。オーソドックスな演出および解釈ではない作品をグローブ座で上演するということは、まず1つの挑戦だっただろう。というのは、観客の質の問題があるからである。雑なまとめ方かもしれないが、しかしやはりイギリスの観客は日本などに比べて遙かにシェイクスピアを知っていると言えるだろう(もちろん観客個々人の話ではない)。そして、グローブ座での正統派と呼べるような上演にも慣れている。そのような場で、ラディカルな解釈や翻案、演出を行うことはある種の賭けである。意見がはっきり分かれることは目に見えている。それはフェスティバルの質が問われるという挑戦であり、劇場の新たな一面を開拓するという宣言である。また被招聘側にとっても、シェイクスピアという演劇史上最大の劇作家が活躍し、良くも悪くもその名が未だに大きな影響力を持っている場で彼の作品を上演することは、非常に恐ろしい挑戦だろう。結論から言ってしまえば、この挑戦に多くのプロダクションは成功し、最終的にフェスティバルは成功だったと言える。

 以上、大雑把な割には長い説明となったが、まだよく分からないという方は実際にグローブ座のHPをご参照いただきたい(英語)。

地点「コリオレイナス」公演から
【写真は「コリオレイナス」公演から。撮影=Simon Annand 提供=地点 禁無断転載】

 筆者が観劇したのはソワレ、1階の立見席だった。グローブ座には天井がなく、従って照明装置も舞台上を照らすだけの簡単なものである(夏のロンドンは日が長いので、9時過ぎにならないと暗くならない)。この天井がない構造は、シェイクスピアが生きていた時代のグローブ座を再現しようとした熱意の賜物であり、それだけで趣きがあった(だが、16~17世紀にはなかったものが現代にはある。ヘリコプターの騒音である。これには閉口した)。円形の劇場で客席に向って張り出した舞台を、三方から観客が取り囲み、しかも舞台上に肘をつく程度のことは許されている。観客との距離という意味では、ライブ会場などが近いかもしれない。この特異な劇場空間に入るだけで、少し気分が高揚する。と同時に、あまりに一般的な劇場とは異なるために、特殊な環境を計算に入れなければならないという、プロダクション側に突きつけられる挑戦の大変さも再認識した。

 場内は、日本人はそれほど多くなかったがあらゆる国の言語が飛び交っていた。ヨーロッパだけではなく、中東やアジアの言語も聞こえた。ロンドンの劇場の多くは場内での飲食が許可されており、多くの人が手にビールの入ったプラスチックカップを持っている。偶然隣りになった人に話しかけるような気軽さも、日本とは全く異なる。日本人であると気づかれ、地点の日本での評価を聞かれたのだが、上手く答えられず返事に詰まっている時、舞台上に青い作業着のようなアジア風の服を着た、顔にお面(ひょっとこのような、日本の田舎神楽を彷彿とさせる)を着けた俳優達が現れた。腰に差しているのは剣ではなく、フランスパンである。既に周りからはくすくすと笑い声が聞こえた。その俳優の一人が、虚無僧の深編み笠をかぶっている別の俳優を背に担ぎ、他の俳優達がその虚無僧の彼の手足を支えている。この虚無僧の彼が、この作品の主人公であるケイアス・マーシアス・コリオレイナスである。彼は舞台中央に立ち、編み笠をかぶったまま長いモノローグを語り出した。そこからインターバルまでは、くすくす笑いが事あるごとに聞こえる、およそシェイクスピアの悲劇作品とは思えない上演だった。

 『コリオレイナス』という作品は、悲劇の英雄を描いた作品である。主人公ケイアス・マーシアス・コリオレイナスは戦争における活躍ぶりから英雄と呼ばれ、ローマの執政官にまで推薦されるが、人に好かれようという意思を良しとせず、そのことから市民の反感を買い、遂にローマを追われる。その後かつての敵と手を結んでローマに復讐しようとするが、母と妻に泣きつかれ、その計画を中止する。この決断が仇となり、最終的には市民達に殺されてしまう。自らの内にある英雄としての自意識が、母、妻の思いや市民の期待などとの軋轢を生み出し、最終的には板ばさみの犠牲者となってしまうコリオレイナスは、多少傲岸不遜な部分もあるが、高潔な人物として描かれることが多いように思う。

 だが、地点が描き出すコリオレイナスは常にくすくす笑いの対象であった。例えば彼の最初の台詞は市民に対する罵倒の言葉だが、途中何度も「畜生めら」という言葉が出てくる。これを地点の上演では、普通に「畜生めら!」と言うのではなく「ちっ(↑)、くしょう(→)、めらぅ(↓)」(矢印は音の高低を表す)という、いかにも地点独特の不思議な発音をしていた。日本人ですら、瞬時に「畜生めら」という言葉だとは認識し難いような発声であるため、恐らく外国人は分からないだろうと思う。だが、この音感が面白いのか、この言葉が発せられるたびに笑いが漏れた。地点の演出としてまず思い浮かぶ、このような独特の発声・発音方法は、この他のシーンでも度々笑いを誘発しており、言っていることを理解されなくても言葉で遊ぶことの面白さを伝えることは可能であることを示していたように思う。

 この他にも、地点の演出は笑いの対象となった。それは当然嘲笑や失笑ではなく、極端な演出による滑稽さに向けられた温かいものだった。俳優達が腰に帯びていたフランスパンを振りかざし、剣にも一瞬見えるのだが、やがてそれはあまりに当然のように齧られるために当惑した笑いが起きる。フランスパンはどんどん短くなるが、追放されたコリオレイナスが背中の籠に長いフランスパンを入れて現れ(かつての敵、オーフィディアスと再会を果たすシーン)、それを他の俳優が後ろからこっそり近寄って自分の短いものとすり替え、またそれを齧り出す時にも笑いが起きる(もちろん、その後自分のパンがどれも短いことにがっかりするコリオレイナスに対しても笑う)。

 先にも述べたが、『コリオレイナス』とは市民に裏切られる英雄の話だと言える。市民はコリオレイナスに対して手の平を返すようにころころとその態度を変え、周辺の人物はコリオレイナスを犠牲にして良い目を見ようとする(先に述べたフランスパンのシーンはその表象である)。過去に観たことのある別のプロダクションでは、その市民の移ろいやすさがコリオレイナスの不器用なまでの英雄観と対照的なものとして描かれ、観客をコリオレイナスの目線に近づけることで憤慨の対象となって表現されていたが、地点の公演においてはむしろそのようなコリオレイナスを笑いの対象とすることで、観客を市民や周辺人物の視点に近づけていると言える。執政官の候補となったコリオレイナスは、市民に対してものすごく嫌々ながら票を集めるための挨拶をして回る。その台詞は、いわば「外国人訛り」という形でそのぎこちなさ、本当の感情との相違が表現されている。舞台中央に立ち、観客に向ってカタコトで「シッセイカンニー、ナーラセーテクーレ…」(正確にこの台詞だったかは曖昧だが、このような内容と口ぶりであった)と言う時、それを聞いている観客は市民である。いかにも嘘であるかのようなその嫌々っぷりが透けて見え、また、そんなに嫌な思いをしながら行った努力が裏切られる様は哀れでもあるが、その哀れさすら滑稽である(ただ、この外国人訛りが外国人訛りであるということが日本人ではない観客にどの程度認識されたかは疑問である。筆者が観劇後にそのことについて聞いた数名は、分からなかったと答えていた)。

 この笑いの演出は、作品の終わりに近づくと悲壮感すら漂ってくる。ローマに攻め込もうとするコリオレイナスに対して母、妻、そしてさらには息子のマーシアスが止めるよう懇願しに行くシーンで、3人の俳優が床に膝をつき、その膝でちょこちょこ進みながら懇願の台詞を口にするのはいかにも奇妙かつ滑稽である。だが、そんな3人にコリオレイナスは説得され、さらにはまたもや裏切られ、最終的には市民に殺される。哀れとしか言いようのない転落ぶりに、観客の表情は次第に強張り、最後には悲劇に対する表情に相応しいものに変わっていった。だが、そんな観客の変化すら、市民のころころと変わる態度として作品は扱っていると考えられる。これは、途中までその滑稽さに笑いながら最後には彼の悲劇的運命を嘆く観客は、原作において、それこそ殺してしまうまでにコリオレイナスを虚仮にしておきながら、最後はその悲劇を嘆き英雄として葬る市民や周囲の人間の姿そのものである。

 作品の冒頭でコリオレイナスを正に「担ぎ上げて」いた俳優達は、インターバルの直前で彼をやはり「担いで」ローマから追放し、最後には誰も担いでいないが、しかし担いでいるかのような身ぶりをする。これは、かつて彼らが担いでいたのはコリオレイナスという人物だったが、実はコリオレイナス個人ではなく、英雄というイメージそのものであったことを表している。筆者が日本人であったせいかもしれないが、この市民と観客の重ね合わせには、上演作品そのものからの非常に冷たい目線を感じた。そもそも日本人である地点が『コリオレイナス』を上演するという企画からしてシニカルではないだろうか。日本では国のトップが任期を満了することなく退陣するのは、ほとんど常であり、ジョークのネタにされる程である。外国人からすれば、その変わり身の速さが『コリオレイナス』を彷彿とさせても仕方ない気がする。もちろん、劇場の芸術監督がどのような意図をもってこの作品を地点に依頼したかは分からないし、ここで日本の政治のあり方に対して不満を述べるつもりなどない。大体、内閣総理大臣を決めるのは国会であって筆者のような一般人ではないし、選挙には行くがたった一票が国を動かすようなことに対してあまり期待はしていないし……と思っていると、俳優達が演じる市民の、政治に対して関心があるのか無関心なのかよく分からない態度にハッとさせられる。「どうせ多数決で決まるんだ」という内容の台詞が、耳に痛かった。

 以上が地点の『コリオレイナス』を観た際の、日本人である筆者の評である。最後は重い内容になってしまったが、作品全体は至って軽快であった。その軽快さは音楽の中に感じられた。筆者はちょうど音楽を奏でている所が見えない位置に立っていたので、何の楽器を使っていたかは分からない。だが、音からしてそれ程大型の楽器はなかったように思う。一つだけ、音だけで確実に分かった楽器がある。鍵盤ハーモニカである。独特の少し間の抜けた音が非常に良い味を出していた。公演が終了すると、1階席以外の座席の観客もスタンディングオベーションを送り、好評を博したと呼べるだろう。

 地点を何度か観たことのある筆者からすれば、少し手法の違う地点を観ることができたという満足感があった。これは制約の多さを逆手に取った結果ではないだろうか。コリオレイナスだけは固定だったが、それ以外の役は他の俳優が何役も兼ねる必要があり、言語は日本語で、字幕は出るのだが表示されるのは台詞の翻訳ではなくシーンの説明だけである。このような状況下で混乱を招かないためには、地点の魅力の一つである大胆な再構成を行う訳にはいかず、ストーリーラインは珍しくシンプルにほとんど原作のままだったと思われる。これはこれで、分かりやすい上に、最後にカタルシスを与えるためには効果的だったと思われる。また、これまでの作品において地点は概して、どこか遠くに投げかけるような、つまり宛先がよく分からないような台詞の発し方をしていたのだが、今回は観客の近さもあり、また既に述べたような演出の意図もあってか観客に対して直接語りかける試みが行われていた。俳優が観客に台詞を発した途端に劇場の一体感が増し、一気に観客は「市民」となったように感じた。このような熱気の篭った一体感を地点が持ちうることを、初めて知ることができた。

 同じ時期にロンドンのバービカン・センターでは蜷川幸雄演出の『シンベリン』の上演が行われていた。つまりこの時、ロンドンのシアターゴア達は、日本における全く毛色の異なるシェイクスピア演劇を比較して楽しむことができたのである。方やイギリスにおいてもメジャーとなった、豪華でダイナミックな蜷川演出、方やこれまでイギリスではほとんど知られていなかった、素朴だが大胆かつ示唆的な最先端と呼べる三浦演出。地点の公演はイギリスにおける日本現代演劇の新たな側面を印象づけたと言える。それはジャポニスム的でもなければ視覚的にインパクトがあるわけでもないが、しかし確かに現代日本における演劇の最先端としてのひとつの傾向とその可能性を世界に向けて発信するだけの力を持ったものであった。(2012年5月22日ソワレ観劇)

The Globe to Globe festival

GLOBE TO GLOBE(4/21-6/9)
世界シェイクスピア祭2012(World Shakespeare Festival 2012)の一環として行われた演劇祭。シェイクスピアのものと考えられている37作品を37の言語で上演した。この37の言語の内には音声言語だけではなく、ダンス(ヒップホップ)や手話も含まれる。

【筆者略歴】
關智子(せき・ともこ)
 大学院演劇学西洋演劇専攻。現代英演劇が主ですが基本的に雑食です。テクストと上演の関係が気になるので、暇さえあればテクストを読んでいます。ドラマトゥルクとか文芸部員とかいう存在にとても心惹かれています。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/seki-tomoko/

【上演記録】
地点「コリオレイナス」
ロンドン公演 *Globe to Globe参加 2012年5月21日、22日(全2回) 会場:グローブ座
■モスクワ公演 2012年5月26日、27日(全3回) 会場:舞台芸術学院 TAUホール
■サンクトペテルブルグ公演 *フェスティバル・ラドゥガ参加 2012年5月31日(全1回) 会場:ペテルブルグ青年劇場

原作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:福田恆存
演出:三浦基

出演:安部聡子、石田大、窪田史恵、河野早紀、小林洋平
演奏:桜井圭介、向島ゆり子
音楽監督:桜井圭介
音響:堂岡俊弘
衣裳:堂本教子
舞台監督:大鹿展明
制作:田嶋結菜

主催:合同会社地点
助成:平成24年度文化庁国際芸術交流支援事業、EU・ジャパンフェスト日本委員会、京都芸術センター制作支援事業

■地点『コリオレイナス』の日本初演は下記日程で開催予定
2013年1月25日(金)~29日(火)
会場:京都府立府民ホールアルティ


“地点「コリオレイナス」” への 12 件のフィードバック

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  3. ピンバック: T. Seki
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