かもめマシーン「パブリックイメージリミテッド」

◎ポリフォニーの意味
 志賀信夫

かもめマシーン「パブリックイメージリミテッド」公演チラシ
公演チラシ

他人が台詞を語る

 登場人物に対して、他の人がその台詞を語る。これが、近年、萩原雄太がこだわっている手法。今回の舞台、物語としての登場人物は男女それぞれ1人。それを男3人、女2人が演じる。というか、その台詞を喋る。

 冒頭、立ち並んだ5人が一言ずつ、作品のタイトル「パブリックイメージリミテッド」と発声するところから、舞台が始まる。そして中心に立った1人の女性の顔や首周辺を、もう1人の女性が整えるように押さえると、彼女の台詞を他の人たちが交互に、時には重なるようにして、語り出す。

 その語り口は、岡田利規のチェルフィッチュで有名になったともいえる、緩い日常的なもの。いってみれば独り言、あるいは「つぶやき」的だ。しかし、その「つぶやき」も、数人が入れ替わり、重層的に発声されると、違う様相を呈してくる。女の台詞を男や女が次々と語り、男の台詞も同様に男女問わず語られる。もちろん虚心に見て、聞いていれば、どちらの台詞かは、推測できる。ただ、登場人物がやたら多かったら、難しいだろう。だから、語りはじめなどで、「どちらの台詞だろう?」という混乱もあり、観客はそれを楽しむこともできる。一方で、登場人物をとことん増やして、可読性、理解可能性に挑戦するのも、面白いかもしれない。

2人の物語

 「彼女」の物語は、新宿南東口で女友だちと待ち合わせをしていたが、ドタキャンされて、どうしようと、喫煙スペースで煙草を吸っている状況で語られる。実は喘息が持病でその喘息話を交えて、自分のことを語る。

 「彼」の物語は、同じ新宿南東口で、「貧しい子を助けよう」というボランティアの募金活動をしていて、募金も集まらず盛り上がらずに、何本目かの缶入コーンスープを飲んでいる状況の話。そして、小学生時代に障害を持つ友だちを殴ってしまったことを追想する。

 同じ場所にいて、決して接触しない男女のそれぞれを描くことで、2つの生を描写する。しかし、この場所の意味はそれだけではない。設定は2011年2月10日。翌11日に、この場所で、2008年の秋葉原無差別殺人のような、何か事件を起こすという、ネットの書き込みが話題になっているという話だ。そのため、彼女はそれをちょっと意識しながら語る。そして、2人それぞれが、周囲の人々、ホームレスや親子連れ、募金する人、しない人などの情景を2人の目から描写する。

かもめマシーン「パブリックイメージリミテッド」公演から
【写真は「パブリックイメージリミテッド」公演から。撮影=島倉英嗣
提供=かもめマシーン 禁無断転載】

 また、女は待ち合わせの相手や先輩の出産祝いの話、男はボランティアの先輩の話など、それぞれの友人や知人の話が出てくる。すると、何気なく、人間の生、生活と生命がリアルに浮かび上がる。

 やがて、その対話の中に、さらっと、「翌月には2人は存在しない」という一言が発せられ、さらに物語は続く。待ち合わせの相手の性格、子ども時代のいじめなど、語り手が入れ替わることで、どこか「謎を追う」ような感覚が観客に芽生えて、その謎が徐々に解明され、物語が見えてくると、次第にリアリティが高まっていく。この、「わからなさ」が、「謎」として追求する「欲望」を観客に喚起することで、目の前にあるのは、人とその語る言葉だけだが、情景がリアルに見えてくるのが、何とも不思議な体験だ。もちろん、新宿駅東南口をまったく知らない人には、その情景は完全には浮かびにくいかもしれないが、それでも、人の多い駅のそばの雑踏でボランティア、募金活動をする若者と、人を待つ女性というイメージは形作られるだろう。

 そうやって、徐々にリアリティを構築し続けていって、ラストシーンは、2人が中央に横たわっている。そして、そのそばに他の出演者たちが、並んで立っていく。こうして、2人は既に亡くなっていることが暗示される。なぜ、2人は死んでいるのか。

日付という問題

 この日付が問題だ。翌日の殺人予告は、一つの「目眩まし」ともいえる。2011年2月10日から、「約1カ月後、2人はこの世にいない」という言葉は、3月11日、東日本大震災で亡くなったことが暗示されている。しかし、それは想像させるに留める。ここに萩原の一つの視点がある。

 かもめマシーンは、震災から5カ月後、2011年8月6日、福島で『ゴドーを待ちながら』を上演した。第一原発を撮影し、原発から20キロのところ、福島県広野町の国道6号線路上で、『ゴドーを待ちながら』の公演を行った。観客は1人だけ。

 この震災で、多くの演出家、舞台人、表現者が混乱し、特に「自分のやっていることは、果たして意味があるのか。こういう自然の非日常に対して有効たりえるのか」という問いを自らに投げかけた。そしてそのショックから1年を経て落ち着き、多くの表現者が日常に戻ったかに見える。もちろん、直後、あるいはある時期から、震災を視野に入れた作品を発表している者もいる。そのなかで、萩原は、福島の野外で芝居を上演するという選択をした。誰も見ていないという想定で、『ゴドー』を上演した。

 そしてこの『パブリックイメージリミテッド』では、背景に震災を忍ばせた。
 この震災をどうとらえるかは、人それぞれだが、地震・津波という自然災害自体には、何ら防ぐ方法がない。僕は、3年前内閣府の『ぼうさい』という広報誌を作っていて、多くの地震学者などに会った。しかし、今回の災害後、しばらく彼らは沈黙していた。報道されているように、地震学者からは、原発地域への警告がなされていた。しかし、地震の規模は、彼らの推定を遥かに上回るものだった。それゆえに、発言できなかった。警告が無視されたことと、自分たちの推定を上回ったこと、いろんな意味での無力感を感じたのではないか。

かもめマシーン「パブリックイメージリミテッド」公演から
【写真は「パブリックイメージリミテッド」公演から。撮影=島倉英嗣 提供=かもめマシーン 禁無断転載】

 そしてまた、その無力感は、地震学者のみならず、多くの人に共通するものだった。特に、社会的発言を避けてきた芸術家、演劇人は、この事態に発言する術を持たなかった。

 しかし、この作品は、その災害を背景に持ちながらも、その無力感を描こうというのではない。うつろう僕たちの現在の「生」そのものを描くこと、それを、2人だけという登場人物に対する多くの「声」によって、試みようとしているのだ。
 萩原はこう書く。

 震災は、ほとんど純粋な絶望をもたらし、僕らが住む時代は「戦後」から「震災後」へと変わってしまった。だからこそ、僕らは新たな時代に向けての表現を生み出さなきゃならないと思っているし、現状、そこにしか希望を感じていない。そのためには、現在行われている「演劇」というフォーマットそのものに対して疑問を提示し続け、僕ら自身がこの状況に対応する方法から考えていかなければならないと思っている。
 だから、真摯であると同時に、ポジティブに、軽口も叩きながら、ゆっくりと、この時代について考える。(「かもめマシーン」サイトより)

台詞のポリフォニー

 男女、男1人女1人というのは、物語の基本ともいえる。その間に恋や愛、憎しみなど関係性が生まれ、多くの物語はそれを描いてきた。この作品では、敢えてその2人を絡み合わせない。そこに物語性に対する拒否、もしくは挑戦がある。それぞれが他の人の声を通して語る「生」はある時間、同じ場所を共有しているのみで、交わらない。そのために、2人の物語は始まらない。そして、1カ月後、福島でおそらく別々に、2人の生は終わる。いや、この語られた時間の後、2人の生は交わったのかもしれない。それで2人一緒に福島などで震災に巻き込まれたのかもしれない。いずれにせよ、語られない「生」がそこにある。

 この「2人の人物」が通りにいるという設定、何も起こらないという設定は、やはり「ゴドー」に通じるものということができる。「ゴドー」は「何も起こらない」という演劇における一つの革命であった。そして、初演された1953年の2年後に、日本で原子力基本法が制定された。萩原はそれも意識したという。「ゴドー」は2人の人物の背後に一本の木がある。自殺を試みようとするには頼りない木。そこに、画家松井冬子も描いた越前高田に残っていた「奇跡の一本松」を重ねてみることもできる。そして、この作品では、女の待ち人は「こない」し、予告された通り魔殺人も「起こらない」。しかし1年後、震災が「起こった」。そこには、萩原の「何かが起こること」という問いかけがあるのかもしれない。

 萩原雄太が『パブリックイメージリミテッド』で使った手法、それは2人の男女の台詞を多くの他の男女が、性別も超えて語り続けることだ。そこには多くの声が2人を語るというポリフォニー(多声化)がある。それはバフチンがドストエフスキーについていった、モノローグに対するポリフォニーではない。一つの語りや意識を多くの声が語るという物理的、音楽的、音声的な意味でのポリフォニーである。しかし、そこで語り手の声が変わることで台詞の舞台表現も変わってくる。言葉が重なりつつ、奇妙な効果ももたらす。そして、この作品では、既に存在しない2人について、多くの「声」のみが、それを成立させるのだ。

「パブリックイメージリミテッド」公演から
【写真は「パブリックイメージリミテッド」公演から。撮影=島倉英嗣 提供=かもめマシーン 禁無断転載】

 「パブリックイメージリミテッド」とは、直訳すれば、「限られた一般の人物像」だ。この2人の人物を「限られた」イメージとして描いているが、それは、この新宿南口という「限られた場」であるとともに、1年後は死んでいるという「限られた」存在でもある。それに対してポリフォニーという手法は、その存在を限られたものではなく、むしろ多様な存在として、解放しようとしているように見える。それは、定型の舞台からの解放であり、定式化されて描かれる存在としての人間からの解放でもある。萩原は、この作品で、震災の死者を登場させた。それは、死者に対する単なる鎮魂ではなく、演劇的実験という方法によって、死者を解放することを試みたのではないか。

 震災という大きな物語を肯定的に語ることは、むろんできない。しかし、それによって、「震災後」というところから、新たな作品が生まれた。それはまさに、「戦後」から「戦後文学」が生まれたようなものだ。震災後、生まれた新たな「反原発」のうねりは広く知られている。だが一方、芸術表現の中でも、震災後、いまという時代を新たに見つめる視点が生まれ始めているのかもしれない。

【筆者略歴】
志賀信夫(しが・のぶお)
 1955年12月東京都杉並区生まれ。埼玉大学大学院修士課程修了。批評家。舞踊学会、舞踊批評家協会所属。身体表現批評誌『Corpus』編集代表。JTAN(Japan Theatre Arts Network)代表。編著『凛として、花として、舞踊の前衛、邦千谷の世界』。主宰サイト「舞踏批評-Critique de Butoh」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shiga-nobuo/

【上演記録】
かもめマシーン「パブリック イメージ リミテッド」
下北沢・小劇場楽園(2012年4月4日-8日)
作/演出:萩原雄太

■CAST
清水穂奈美、井黒英明、林弥生(海ガメのゴサン)、横手慎太郎(シンクロ少女)、松原一郎

■STAFF
作/演出:萩原雄太
照明:千田実(CHIDA OFFICE)
舞台監督:西村耕之
宣伝写真:内堀義之
宣伝美術:藤井隆史

■チケット料金
前売=2,000円
当日=2,200円

脚本付き前売り券※=2,400円
学生割引※=1,800円
初日割引※=1,800円
初見割引※=1,800円


「かもめマシーン「パブリックイメージリミテッド」」への3件のフィードバック

  1. ピンバック: 林弥生
  2. ピンバック: 薙野信喜
  3. ピンバック: 志賀信夫

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