ピンク地底人「明日を落としても」(クロスレビュー佐藤佐吉演劇祭編 7)

 2006年から活動を始めたピンク地底人。拠点の京都や大阪近辺で活動していたが、今回は東京での初公演。作品は「混沌としたサイケデリックなイメージが漂い」「観客の想像力を喚起するような芝居を企む」という。色川武大やランボーの影響があるとも。王子小劇場が京都から招聘した注目劇団の登場です。レビューは★印による5段階の採点と400字のコメント。レビュー末尾の括弧内は観劇日時です。掲載は到着順。(編集部)

丸山卓也(学生)
 ★★★★
 とても抽象的で、不思議な物語だった。行方不明になった息子を探す女優の「母」を除いて、他に全場面に一貫して出てくる人物はいない。ゆえに、人と人がぶつかって起こるドラマは少なく、エンターテイメント性はあまり感じられなかった。しかし、私には最後まで飽きが来ることはなかった。それは「フラッシュバック」と「時間の飛躍」によるところが大きかったと思う。物語の最中に唐突に暗転し、爆音でザラザラした音楽が流れる。照明つくと母と息子の断片的なシーンが一瞬現れ、また唐突に暗転し音楽も切れる。このフラッシュバックが終わり照明つくと、暗転するよりも過去の物語が始まる。この手法が劇中に何度も使われ、それが私にはとても新鮮だった。また、各フラッシュバックの内容がとても印象的だった。母は息子と楽しげに何かをしているのに、急に息子を殺してしまうのだ。あるときはナイフで、あるときは展望台や、電車のホームに突き落として。これらのフラッシュバックが何なのか、私の想像は最後まで尽きることはなかった。母と息子と言う物語の核を、セリフで説明するのではなく、観客の想像力を信じて表現しようとする姿勢が、私はとてもいいと思った。
(8月17日 19:30の回)

黒川陽子(劇作家)
 ★★★☆(3.5)
 建物を出た瞬間に吹きつける熱風、エレベーターに乗った瞬間に忍び寄る静けさ、家で靴を脱いだ瞬間に素足に伝わってくる床の質感……そんな個人的な肌触りが随所に感じられる作品だった。舞台を取り囲むように10本ほどのスタンドマイクが置かれ、脇役を演じる俳優たちが随時そこで効果音を出していく。蝉の声や雨音、エレベーターのモーター音まですべて口頭で演じる。そうした人間であり人間でない存在が脇を固めることで、主役の女性の極めてプライベートな感覚の世界が美しく浮かび上がっていたと思う。かつて妊娠した子供を堕ろさねばならず、それ以来、その子供を「生んで育てている」という妄想を抱き続ける女性の物語。しかし、彼女が「その子供」にそこまで拘る理由が不鮮明で、妄想の子供に振り回され続けた彼女の数十年間はいまいち肌触りを持たなかった。彼女の人物像をさらに具体的にすることで、より広がりを持つ作品になるのではないかと思う。
(8月17日 19:30の回)

大和田龍夫(大学非常勤講師・メディア論)
 ★★★★
 京都発の劇団、いや、劇団という括りでいいのかどうか自信がない。京都というとそとばこまち、ダムタイプ、ヨーロッパ企画などは東京でもそれなりに馴染みがあり、期待と評価が一致している集団なんだと思う。どれも東京に住む者からすると「勝手な京都観」を舞台と交錯させてみてしまい、劇団の「オリジナリティ」と「京都らしさ」の区別がつかなくなってしまうのは劇団に失礼だということは今回知った。
 音響も団員自らの手で作り出し(団員の数だけのマイク・マイクスタンドが舞台の周囲に配置されている)、正方体(キューブ)と7本の柱、蛍光灯が舞台に配置され、シーンは団員の群衆としての動きによって表現するといういわゆる演劇の枠を越えた表現にびっくりした。登場シーン以外は、舞台袖からその演技を見守るという演出手法を時折みかけるが、観客にとって不思議なものであった。この舞台のこの演出には「必然」があってとても心地いい。細かな違和感、冗長感、分かりづらさは多少あったけれど、ピンク地底人オリジナルの舞台表現要素としてはほぼ「出そろった」のではないのだろうか?
 勝手な思いを言うと、せっかくの女優さんをもっと魅力ある演出で輝かせて欲しいし、群衆としての役者さんに1シーンくらい光るシーンを用意してほしいなんていうのは見る側の勝手な思いではあるのだろう。年に1回は東京公演を続けて、より研ぎ澄まされていく舞台の行く末を見てみたいと強く感じた。
(8月17日 19:30の回)

木俣冬(フリーライター)
 ★★★☆(3.5)
 中央、6、7本の蛍光灯付きの鉄柱が斜めに立ったサイバーな装置は並行世界の表れか。劇場に入った瞬間、主人公の多元宇宙へと旅する準備完了だ。
 密着取材されているアイドル女性が中年、老女となっていく様を時間を反転させて見せていく構造で、一貫しているのは彼女が心配する引きこもりの息子のこと。息子はいるのかいないのか、女が殺したのか? 殺されたのか?
 観客は翻弄されていく。舞台三方に散った俳優たちがを俳優たちが声で効果音を出しているが、その音は嘘くさく、女も観客も追いつめていくよう。最後の最後、無音の時間があって、一度だけリアルな音がしたような気がしたが錯覚だったろうか。いずれにしても、音にとても自覚的であることを含め、作、演出家のピンク地底人3号は鋭敏な人だと感じた。断片の連続で飽きそうになるとパッと場面を切り替える。その時の照明の使い方も鮮やか。タレントネタだけ俗っぽ過ぎて驚いたが(ネタが古いし)、高尚ぶらないハイブリッド感覚に可能性を感じた。
(8月18日 14:00の回)

小林重幸(放送エンジニア)
 ★★★
 シンプルな物語をスタイリッシュなステージ構成で組み立てていく。マイムにちょっとした科白、SEは役者の口三味線という構成は、とてもシャープな印象の仕上がりである。
 最初はよくわからない状況が、芝居が進むにつれ時間軸を遡る流れとなっていて徐々に明らかになっていくという凝った構成も効果的。情景を描くのも上手く、街や乗り物や建物や景色が、舞台上、そして舞台の向こうにありありと浮かぶのは気持ちいい。舞台というよりも映像の表現のように思えてくる。
 物語自体は、分かってしまうと、想像通りの地点に着地してしまった感があり、あと一押しが欲しい気がする。しかし、この「騒々しい無言劇」とでも呼ぶべき、映像表現のような演劇手法は、もっと繊細な心情も、もっと大胆な情景も描けそうで、さらなる進化を期待してしまうのである。
(8月19日 11:30の回)

大泉尚子(ワンダーランド)
 ★★
 舞台の周囲の壁際には、マイクが何本も置かれ、出番でない俳優がその前に立っていたりする。病院の呼び出しに始まる屋内外のさまざまな音・ノイズが流れ、それは(一部かもしれないが)マイクを通した肉声によっても作られている。静かなざわめき・巻き起こる喧騒…立ち現れる音の世界がまずは印象的だ。
 主役らしき「母」は老婆から徐々に若い女性へと変貌していくようで、物語の時間は遡行しているのかもしれない。母が登場するいろいろなシーンが繰り広げられる。たとえばアイドルだった母の息子は引きこもりから立ち直り、イギリス留学へと赴くが飛行機事故にあう。かと思えば、身ごもった若い彼女は、子どもを産むのを諦めようとするが、これはアイドルという職業上の理由からなのだろうか。そんなふうに母の人生における可能性が次々に提示される。かくして、複数の時間軸と選択肢が泡のように浮かんでは消えて、私の中では確たる焦点を結ぶこともなかった。
 セリフもほとんどなく、奇妙に縮こまった姿勢で、ずっと母に付きまとっていた人物は、胎児である息子の残像だったのか。音響効果をはじめ、いくつもの実験的試みが含みを堪えていたが、その効果はやや疑問。最後まで“ピンク地底人”と視点を共有できない歯がゆさが残った。
(8月17日 19:30の回)

小澤英実(東京学芸大学准教授)
 ★★★★
 キャストが壁沿いをぐるっと取り囲み、スタンドマイクで劇中の効果音を乗せていくという、ありそうでなかった技で一本勝ち。サラウンドな音に浸る愉悦がありつつ、デフォルメされた喧噪が、わたしたちひとりひとりの記憶にある生々しい街のイメージと合体して、どこにもない街を立ち上げる(京都と新宿の伊勢丹が混じり合うような)。漫画的な擬音・直喩的な身ぶりも演劇的なフレームづくりとして面白く、この手法はまだまだ色んな可能性がありそう(ただ暗転の入り方とその間に流れる音楽はそれを損なっている気がした)。
 その一方、物語には内容面(エディプスや「狂気と正常の反転」や並列世界、個人的には『千年女優』をはじめとする今敏の映画やままごと『あゆみ』などを想起した)にも、それを提示する手法(時系列を操作したり、同じ場面を反復したり、同じ役を別の女優が演じたり)にも、多彩な要素がこれでもかとばかり詰め込まれている。演劇という器を信じるその意気やよし、と思うものの、これだけの要素を詰めて解釈の誘導をしないなら、やっぱり何かしらカオスをカオスとして魅力的にみせることへの意識的な眼差しや自覚的な処理がほしい。この辺りはもう何歩か詰められるはず。というわけで今後の期待を込めて星四つ。「演劇のリアル」があるとすれば、ここに見えたのは劇場のなかにしか現れない街のリアル。東京というシーンをガンガン侵略しまくって、いつか見たことのない場所の景色を見せてほしい。
(8月17日 19:30の回)

福田夏樹(演劇ウォッチャー)
 ★★★
 記憶のフックっていうのはひょんなところにあって、いつ何に何を思い出させられるかわからないのが、怖さでもあり、その切なさの要素でもある。その中でも何気ない音っていうのは、記憶を強く呼び起こすもののひとつであると思う。
 認知症のおばあさんの、息子をめぐる記憶なのか妄想なのか、虚実ない交ぜの物語。登場人物の一つ一つの行動が生み出す音、ドアを開ける音、電気をつける音、街の喧騒、すべてが細かく(最後の1シーンを除いて)擬音で表現される。演劇というメディアにおいて、あえて環境音を細かく描写し、物語と並行した記憶と感情のフックを設けるという演出はなるほどと思わせられた。観客の想像力に委ねたというのはそれはそれとして一つの論理ではあるが、ただ、奇しくも同じ演劇祭のひとつ前で、同じく虚実ない交ぜの記憶の問題を扱ったロロが到達していた感情の淡いや、例えば、メディアは異なるが、同じく環境音を扱って記憶にアクセスしながら、強く感情に訴える作品として仕上げた口ロロのアルバム「everydey is a symphony」、を思い起こすと、舞台上で構成される物語の強度に物足りなさを感じてしまった(思い起こすお前が悪いと言われればそうかもしれない)。
演出のあり方の面白さを評価して星3つ。なんだかこの作品だけで評価しにくい部分もあるし、この先が見てみたい劇団であるので、ぜひまた東京に来てほしい。
(8月19日 15:00の回)

齋藤理一郎(会社員 個人ブログrclub annex
 ★★★★
 冒頭の舞台に病院のロビーが立ち上がる。役者達の肉声と所作が場の空気を精緻に編み上げ生きた風景として観る側に置く。扉が開けば街の音が流れ込み、その先にはバスやエレベーターが描き出され、たどり着いた部屋の静寂までが伝わってくる。
 身体と共に音から空間を導くその手法は終演まで貫かれ、巻き戻る主人公の時間に背景を描き続けて。音の構成が実に秀逸、シーンごとの時間に血を通わせ、呼吸を与え、密着取材という態で常に彼女のそばにあるカメラへと描かれていく女性の想いにライブ感を醸し出していく。アルツハイマーの宣告、役者やアイドルとしての時間、中絶、そして息子のこと。認知症の混濁の中でも彼女の内に浮かぶ刹那のリアリティがその鮮やかさを失うことなく舞台に切り出され、一人の女性が抱く自らの半生のボリュームとして重なっていく。
 音から訪れるイメージのエッジが研がれすぎて、主人公の想いの奥行きを若干埋もれさせてしまう部分もあったが、独特の手法が織り上げるこれまでに体験したことがない舞台の質感に強く惹かれた。ロールを演じるにとどまらず、舞台全体の密度を切れ目なくしなやかに支え続けた役者たちの表現力に目をみはった。
(8月18日 14:00の回)

中野雄斗(学生)
 ★★★★
 病院で電話をかけている女性。息子と話しているらしく、「明日じゃ駄目なのよ」と言う。
 彼女がアルツハイマーである、ということが明かされ、病気の進行に合わせるかのように前日に、またその前日にと時間が巻き戻っていく。
 「明日を落としても」というタイトルほどには明日に想いを馳せているように感じられず、むしろ舞台上での一瞬一瞬を丁寧に魅せている姿が好印象だった。
 俳優陣がほぼすべての効果音を声で発していたのだが終盤、ほとんどすべてを忘れてしまったらしい女性が走るシーンからの無音状態が際立ち、観る者の想像力を掻き立てていたと思う。
(8月19日 11:30の回)

都留由子(ワンダーランド)
 ★★★★
 人気タレントが子どもを生み、その子は大きくなり、引きこもりになり、留学する。年をとってアルツハイマーになった母は、施設で暮らしている。らしいことが時間を巻き戻してだんだんに見えてくる。が、全てが母の妄想で、もともと息子を生むことはできなかったようにも思える。母は何度も息子を殺し、息子も母を殺す、らしい。舞台に斜めに立てられた金属製のパイプといくつかの立方体の箱だけを使い、それ以外は無対象(今もこの言葉は使われているのだろうか?)で演じられ、引っ込んだ役者たちは、舞台の周囲に立ててあるコンサートのコーラス隊が使うようなマイクの前に立ち、ボイスパーカッションみたいにすべての効果音を声で表現する。無対象の身体表現はとても的確かつ安定していて、ボイパの方も鮮やか。ドアが開いたとたんになだれ込む喧騒とか、しーんとした誰もいない部屋、蛍光灯が灯る音など目を見張った。これらの表現方法にちょっとココロを奪われてしまったので、★は多めになった。
(8月18日 14:00の回)

藤原ちから/プルサーマル・フジコ(編集者、BricolaQ主宰)
 ★★★★
 ピンク地底人、東京初侵略!
 その名前から想像していたアヴァンギャルド風味の騒がしさとはまったく異なる舞台で、意外にちゃんとした(?)特異な才能を感じた。時間軸の操作は今の若い世代にはお馴染みの手法ではあるけど、行ったり来たりのスイッチバックのみならず、劇中劇という入れ子構造を加え、さらにそこから「代役」として分岐したはずの並行世界と時空を超えて繋がったりと、幾重にも手が込んでいる。悪夢のように主人公の立ち位置が変転し(やたら乗り物で移動するし)、何が真実かが分からなくなるのも面白かった(劇中劇が名探偵コナンというあたりも心憎い。なんせあれの決め台詞は「真実はいつもひとつ!」なのだから)。
 もうひとつ特徴的だったのは、信号機やドアの開閉といった環境音を、マイクを通した俳優の声(オノマトペ)で表現する手法。ただしここはもっと声質や演技の洗練や音響効果にもこだわれるのでは? 現状だとブラックボックスの劇空間に人間の情念やノイズが貼り付きすぎている気がする。それが物語の跳躍力を奪い、類型的な範疇に縛り付けてしまったのではないか。もっと母親の狂気の底が見たかったし、別に、母子の物語に閉じなくてもよかったのだ。周囲のユニフォームを来た匿名の人物たちをどう扱うかが、今後のカギにもなる気がする。とはいえこれだけの操作感覚を持つ作り手で、希望や肯定感をうたわないのは珍しい。「胎児」と「引きこもりの息子」を重ね合わせるなど、イメージの連関にも独特の(ユング的、春樹的、舞城的な?)暗いセンスがあった。
 終演後のアナウンスで、主演のピンク地底人2号(←誰?笑)がたどたどしくお礼の言葉を述べる。劇中でまったく笑顔を見せない彼女の、そこでだけこぼすハニカミを、なんだか、もう一度見たいなと思いました。
(8月19日 11:30の回)

北嶋孝(ワンダーランド)
 ★★★★
 京都からやって来たこの劇団は、ぼくらを引きつける独自のスタイルを見せてくれた。ステージの周囲にスタンドマイクを多数配置、中央から引けた役者たちが音響と効果音をヴォイスパフォーマンスで見せてくれる、聞かせてくれるのだ。ドアの開閉、レールの継ぎ目を走る電車の揺れ、車のエンジン音、蝉の声、街頭のざわめきも…。現代音楽の合唱作品では擬音、騒音を織り込んだ作品は珍しくないけれど、舞台芸術作品でお目にかかるのは初めての体験。この「人声サウンド」、地底人スタイルは特筆ものだろう。暗転で切断される空間にその人声が響くと、時系列を遡りつつ愛憎もつれ合う母と息子の関係が狂おしく浮かび上がる。リポーターとカメラが終始、母に付いてまわるメタシアターの仕掛けも「人声」と「サウンド」のブレンドされたあわいの空間にふさわしい。
 しかしながら、母子抱合の記号として「豚キムチ」を持ち出すのはどうだろう。最初に提出、最後に回収という円環も予定調和。折角の「人声サウンド」がキムチ漬けになってしまう。あまりに関西限定(?)風味ではないか。
(8月17日 19:30の回)

【上演記録】
ピンク地底人 暴虐の第10回公演「明日を落としても」(佐藤佐吉演劇祭参加作品
【大阪公演】インディペンデントシアター2nd(2012年6月30日-7月1日)
【東京公演】王子小劇場(2012年8月17日-19日)
*上演時間は約90分。

作・演出
ピンク地底人3号

キャスト
ピンク地底人2号
クリスティーナ竹子
ピンク地底人5号
ピンク地底人6号
大原渉平(劇団しようよ)
片桐慎和子
勝二繁(劇団テンケテンケテンケテンケ)
高山涼(第三劇場)
殿井歩
諸江翔大朗
脇田友

スタッフ
作・演出 ピンク地底人3号
舞台監督 若旦那家康(ropeman(33.5))
舞台美術 さかいまお(artcomplex)
照明 山本恭平
音響 森永キョロ
制作 5号 6号 martico(劇団ちゃうかちゃわん) 浅田麻衣
チラシとか 2号
宣伝写真 末山孝如(劇団酒呑童子/会華*開可)

料金
前売 2500円
当日 2800円
高校生以下前売り 500円
高校生以下当日 1000円

「ピンク地底人「明日を落としても」(クロスレビュー佐藤佐吉演劇祭編 7)」への8件のフィードバック

  1. ピンバック: ピンク地底人3号
  2. ピンバック: 待山佳成
  3. ピンバック: waca
  4. ピンバック: 木俣冬
  5. ピンバック: 王子小劇場
  6. ピンバック: suzukichi
  7. ピンバック: ピンク地底人5号

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