木ノ下歌舞伎「義経千本桜」(京都×横浜プロジェクト2012)

◎古典と現代の往来-カブク! 若い演劇人たち-
  田中綾乃

「義経千本桜」公演チラシ
「義経千本桜」公演チラシ

 木ノ下歌舞伎は、京都造形大学出身の木ノ下裕一と杉原邦生を中心にして、歌舞伎の古典作品を、現代的視点で多角的に捉え直す試みを行っている若手の劇団である。歌舞伎作品の現代化というのは、いまに始まったことではなく、例えば、花組芝居や山の手事情社、さらに言えばコクーン歌舞伎も古典作品を現代の感覚で再構築する作業を行っている。

 しかしながら、木ノ下歌舞伎において、特筆すべき点は、作品ごとに演出家やキャストが異なるという点である。主宰の木ノ下裕一が演出する作品もあるのだが、大抵は木ノ下自身が台本の補綴と全体の監修にあたり、杉原や外部演出家による演出によって、歌舞伎作品を現代的な舞台に変容させるというスタイルを取ってきた。また、2010年から始まった「京都×横浜プロジェクト」では、新たに外部演出家を招き、オーディションで選んだキャストと滞在型製作を行いながら、京都と横浜で上演を重ねてきた。2010年は杉原演出による『勧進帳』、2011年は白神ももこ演出の『夏祭浪花鑑』、そして三年目の今年、集大成として選ばれた作品は『義経千本桜』の通し上演!しかも演出は、多田淳之介、杉原邦生、白神ももこという、いわば異色の組み合わせ。

 私はこの三人の演出家による『義経千本桜』の上演の話を聞いた時、不安と期待が入り交じりながらも、そのチャレンジ精神に興奮をしたことを覚えている。『義経千本桜』と言えば、古典芸能に造詣が深い方なら御存知だろうが、いわずと知れたわが国が誇る三大名作のひとつである。全五段からなる作品で、全ての段を通し上演しようとすると八時間以上もかかるため、歌舞伎においても全段の上演はなされず、通しの場合、二段目から四段目までの上演となるが、それでも六時間以上かかる大作である。

 今回の木ノ下歌舞伎では、ほぼ歌舞伎の通し上演にならい、二段目の『渡海屋』、『大物浦』、三段目の『椎の木』、『小金吾討ち死』、『鮓屋』、四段目の『吉野山』、『河連法眼館の場』の上演。これらは、見取り狂言であっても、それぞれの段が古典中の古典であり、大曲の作品。それ故、古典芸能を少しでもかじっていれば、二段目から四段目の通しと聞いただけでクラクラしてしまうほどだが、木ノ下歌舞伎は果敢にも通し上演に挑むという。しかも、二段目が多田演出、三段目が杉原演出、四段目の『吉野山』が白神演出、『河連法眼(四の切)』は、三人の演出家による共同演出。

 オーディションで選ばれたキャストは、男女含めて総勢22名の小劇場出身者で、歌舞伎もほとんど観たことがないような若い役者たち。さらに総合演出の多田も、古典芸能からは遠くかけ離れた前衛的な小劇場がフィールドであり、歌舞伎作品の演出は当然のことながら初めてである。一体、どうなってしまうのだろう……という老婆心ながらの心配と同時に、若い彼らが古典の大曲にどうやって取り組むのか、その期待にも胸を膨らませた。

 トータルで五時間近くの上演となったが、以下、それぞれの演出の場面を順に追いながら、今回の上演を振り返ってみたい。

多田淳之介演出『渡海屋』、『大物浦』
 主宰者・木ノ下裕一の口上から始まる幕開きに続いて、最初は多田演出による二段目の上演である。平家の官女たちの自害と知盛の入水シーンという象徴的な場面から始まる二段目。エレキ的なビートに乗った大音量の音楽と静寂。多田演出は、パフュームの音楽やテクノを自在に用いながら、動と静のイメージを紡ぎだしていく。それは浜辺が舞台の二段目においては、荒れ狂う海と静寂な海を表しているかのようだ。しかし、舞台全体の色彩は、赤と白で統一されている。衣装は、平家が赤い着物、源氏が白い着物という基本的な記号を用いながらも、この赤と白の色彩のイメージを舞台上で重ねていくことで、物語が進んでいく。舞台上に散乱した赤い着物は流血を思わせるし、白の襦袢は死装束となる。また、平家の赤は、源氏への復讐に心かき立てられる熱情の赤でもある。そして赤と白のイメージは、いつしか日の丸へと繋がっていく。

 劇中、この紅白の着物の脱着を効果的に用いることで、二段目は奥行きを増すことになる。例えば、真っ赤な日の丸をバックに、君が代が流れる中で登場した幼き安徳帝。この安徳帝に、脱ぎ捨てられた着物を何枚も重ね着させていくのだが、このシーンだけで、源平合戦の物語が突如として「日本の歴史」として彩りを帯びることになる。それ故、その後、典の局が安徳帝に「この国は色んなことがありすぎて、安心して暮らせない恐ろしい国になってしまった」と嘆き、海の下にこそ平和な国があると語る台詞が、単に源平の世の盛衰だけでなく、現代の私たちの世界においても、様々な側面でリアリティを持って迫ってくることになるのだ。

 さらに、衝撃的だったのはラストの知盛の入水シーンである。この入水シーンは、歌舞伎の中でも「碇知盛」と呼ばれる有名な場面で、碇を担いだ知盛の壮絶な最期が最大の見どころとなる。この伝統的な手法に対して、多田演出では、いくつもの脱ぎ捨てられた紅白の着物をひとつにまとめ、その上に日の丸を載せ、それを碇に見立てて海に投げ込む、という手法が採られた。寄せ集められた着物は、死者たちを、そしてこの国の過去を表しているかのようである。それらと共に海の底へ沈んでいく知盛の決意は、歌舞伎演出とはまた異なる壮絶さを描いていて、観終わった後にもボディブローのようにじわじわと効いてくるラストだった。

 このように多田演出では、イメージの連鎖を重ねていくことで、二段目の世界を新たに描出した。他方で、多田演出では、歌舞伎風と現代口語を織り混ぜた台詞が語られるのだが、現代口語の台詞は、物語の説明としては有効だが、歌舞伎の台詞については、単なる音であって、意図的だと思うが、意味を成す台詞ではなかった。しかも、歌舞伎の調子をあえてズラして発声するため、普段、浄瑠璃や歌舞伎の台詞を聞き慣れている私にとっては、音として聴き心地が悪かったということは事実である。だが、この聴き心地の悪さが次の三段目では、思わぬ効果に繋がっていくことになる。いずれにしろ、言葉よりもイメージの先行という演出で古典に立ち向かった二段目だった。

杉原邦生演出『椎の木』、『小金吾討ち死』、『鮓屋』
 さて、休憩を挟んで杉原邦生演出の三段目である。二段目のエレキ的な舞台とは異なり、三段目は杉原演出らしく、装置も舞台も照明も音響も全体的にポップな舞台である。衣装について言えば、二段目の衣装は赤と白に統一された着物姿だったが、三段目はカラフルな色彩の現代人の恰好で、例えば若葉の内侍の供をする維盛の家臣・小金吾は、メットを被り、リュックを背負った出で立ちである。同様にいがみの権太は、チンピラの恰好、鮓屋の手代・弥助に身を窶した維盛は、チープな回転寿司の店員のような恰好。舞台だけを見れば、現代劇と何ら変わらない。

 しかし、台詞は基本的に歌舞伎の台詞のままで、現代人の恰好をしながら、歌舞伎風の語り方で物語を展開していくのが特徴的だ。そして、これが驚くことに違和感がない。先述したように、二段目の歌舞伎風の語りがズレを意識した発声法だったためか、逆に三段目の台詞は、歌舞伎の台詞としてすんなりと聴くことができる。それもそのはずで、聞くところによれば、杉原演出の最初の稽古では、歌舞伎の完コピ(完全コピー)から始めるという。完コピの稽古の時は、役者たちは浴衣を着て、歌舞伎の名優たちの台詞廻しや動きをそれぞれ真似ていく。ある意味、古典芸能の方法論にならいながら、小劇場の役者たちの身体に歌舞伎の台詞や動きを完コピさせていくのである。そして、完コピをした後に初めて崩すことで、舞台がどんなにポップで、身体の使い方が現代的であっても、役者たちから発せられる歌舞伎風の台詞は、それなりに、違和感なく聞こえてくるから不思議だ。これは、これまで木ノ下歌舞伎において、数多くの歌舞伎作品を演出してきた杉原の手腕であろう。

 しかしながら、ただ現代的でポップな歌舞伎というだけでは、三段目の古典の世界に立ち向かうことはできない。特に三段目の切の『鮓屋』は、歌舞伎においても、お里のクドキや首実検、権太の戻りと述懐など実に多くの見せ場がある。これらの見せ場に対して、杉原演出では、ある意味、現代人の感覚を採り入れた方法で見せていく。

 例えば、それはお里のクドキの場面で現れる。歌舞伎においては、名場面と称されるお里のクドキを、杉原はラップで表現してみせた。しかも、この場面では、杉原自身が登場し、自らが作詞したお里の心情を切なく唱っていく。この直感的なセンスは、杉原特有のものであり、誰もが真似できるものではないが、ラップでクドキを見せるという手法に感心させられた。

 さらに、杉原演出では、維盛の描き方も特異的である。杉原は、古典の見せ場にさしかかると維盛に本心を語らせる。ここでの維盛のキャラクターは、高貴な平家の武将ではなく、完全に自己中心的で浅薄なお坊ちゃんである。それ故、自分に恋するお里や、自分のために命を落として犠牲を払う権太とその家族に対して、「マジで意味わかんねえし!」と現代口語で蔑みの目を向ける。

 維盛のこの台詞は、一方では現代の私たちの代弁でもある。古典作品、特に時代物の義太夫狂言で描かれる封建社会や忠義という世界観は、一見、現代の私たちからすれば、相容れない価値観なのかもしれない。なぜ他人のために、命を賭けてまでそこまで一生懸命になれるのか? しかも『鮓屋』で描かれた権太の死は、はっきり言えば「無駄死に」である。

 「意味わかんねえし!」と語る維盛のスタンスには、そんな現代人の古典世界に対する素朴な批判が込められている。しかし、他方でこの台詞を吐き捨てるように語る維盛の姿に、私たちは自己中心主義のなれの果ての虚無感を感じ取ってしまう。意味がわからないことに逆ギレし、その場で簡単に斬り捨ててしまう維盛の姿は孤独に映る。杉原演出は、ここで維盛に「気づき」を与える。すなわち、権太家族に対する維盛の蔑みは、次第に自らに返ってくるように演出したのである。自分のために犠牲を払う権太家族に直面した維盛の戸惑い。それを、維盛の不気味とも言うべき「泣き笑い」によって表現をした。そして、孤独な維盛の前に、冒頭の『椎の木』で見せた権太家族の日常の光景がリフレインされることによって、『鮓屋』はこれまでの歌舞伎作品にはない新たな物語で幕を閉じることになる。このような余韻が残る三段目のラストを観て、従来の物語の方向性とはまた別の物語を読み込みんだ杉原の発想の豊かさと、そのような新たな物語を読み込む余地がある古典作品の豊かさを感じた。

白神ももこ演出『吉野山』
 続いては、白神ももこ演出による『吉野山』。これは静御前と狐忠信の道行きの場面で、歌舞伎では所作事である。白神演出では、この道行きを「パヴァーヌ」の曲を使いながら、見事とも言うべき舞踊のアレンジで見せていく。「パヴァーヌ」とは、16世紀のヨーロッパで流行した、ゆったりとした行進の舞曲であり、ヨーロッパ版の道行きとも言える。

 冒頭にフォーレの「パヴァーヌ」の美しいメロディが流れ、白拍子の静御前と思われる女性が青いホリゾントをバックに静かに現れる。これが実に美しく幻想的な始まりである。やがて、ここへ旅人姿の忠信が登場する。奥からは桜色と水色の衣装を身に纏ったふたりのダンサーがゆっくりと行進してくる。このふたりのダンサーも、もう一組の静御前と忠信なのか、ふたりは連れだって美しい踊りを踊り始める。

 やがて、ジャズ風にアレンジされたラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れると、ホリゾントは桜色になり、ふたりのダンサーは軽快に踊り始める。このふたりのダンサーは、まるで吉野山そのものの景色を表しているかのようである。ある時は、吉野山に咲き乱れる草花になり、ある時は風になり、ある時は吉野山を照らす光となる。だが、次第にふたりのダンサーは、初音の鼓を巡って踊り始める。それを見つめる旅人姿の忠信。もしかすると、これは吉野山で静御前とはぐれた忠信の心風景なのではないか、とも思えてくる。白神が振り付けしたダンスは、決してイメージを固定化することはせず、あくまでポエティックな振りで展開されるので、こちらの想像力がかき立てられる楽しさがある。

 その後、実際に歌舞伎の『吉野山』で流れる邦楽の中、今度は鼓を手にした白拍子の静御前とふたりのダンサーが日本舞踊とコンテンポラリー・ダンスを融合した舞踊を踊り始める。ここは邦楽とコンテンポラリー・ダンサーの身体の融合が興味深い。やがて、再び「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れると、狐忠信は「初音の鼓」に両親を想い、静御前は「初音の鼓」を打つことで義経を想い、その想いを舞い始める。この演出を観て、静御前と忠信は同じ道行きにいながらも、ふたりが想い慕う相手は、全く別であることがわかり、はっとする。そして、何とも言えない切なさがこみ上げてくる。

 幻想的で美しい叙情詩とも言うべき『吉野山』。わずか20分ほどのシーンだったと思うが、ダンサーと役者たちによって繰り広げられる情景の中に<永遠性>を感じるほどの魅力があり、いつまでも観ていたいと感じた。さらに言えば、この場があったからこそ、三段目の『鮓屋』と次の『河連法眼館の場』が、実は太い幹で繋がることになるのである。歌舞伎舞踊に着想を得て創造されたと演出の白神は語るが、あらためて白神演出の力量と彼女の才能を感じることができた。

共同演出『河連法眼館の場』
 歌舞伎の『義経千本桜』の中でも、私が好きな場は、この『河連法眼館の場』、通称『四の切』と呼ばれる場である。『義経千本桜』は、源平合戦を背景にしながらも、源九郎狐の伝説を採り入れ、狐と人間との慈愛とファンタジーを描いたところが秀逸だと思っている。そして、この『四の切』では、狐忠信の本性が明らかになる場であり、歌舞伎では、有名なケレンで見せていく。

 今回は、多田を総合演出にしながらも、他のふたりも演出に加わって、現代劇には珍しい共同演出という形をとった。結果的に三人の演出家たちによる入魂の共同演出は、作品解釈としても、見せ方としても新たな『四の切』を産み出したと確信している。

 幻想的な『吉野山』の延長上で始まる『四の切』は、総勢22名のキャストたちが舞台上に勢揃いする。彼らはゆっくり歩きながら、これまでの台詞を各々語り始める。断片的に聞こえてくる台詞は、知盛や権太をはじめ、すでに死んでしまった者や敗れた者たちの言葉。それを慰めるかのように、義経がその間を歩いて回る。そうだそうだ、この物語は、歴史や権力の中で翻弄され続けた死者や敗者たちの物語だったのだ。四時間近くかけて聞いてきた登場人物たちの台詞が再び繰り返されることで、観客はあらためてこの『義経千本桜』の物語を振り返る。それと同時に、歴史の中に埋もれていく登場人物たちの声にならない台詞が切なく、自然と涙が溢れる。

 やがて、河連法眼の館に義経の後を追って来た静御前が現れるが、義経から命じられて、忠信の詮議となる。狐忠信が自分の本性を打ち明ける件になるのだが、ここを原作にはない形で、杉原が狐親子の物語を新たに創作してつけ加えた。『ライオンキング』を彷彿とさせるような狐親子の物語は、ミュージカル調に楽しく展開しながら、「初音の鼓」の由来を簡潔に説明する。雨乞いのために「初音の鼓」の皮にされた母狐と父狐だが、その親狐と子狐の家族の団欒が描かれる。実は、この狐親子のキャストだが、三段目の『椎の木』で登場した権太と女房小せん、息子の善太を勤めていた役者が兼ねているのである。このことによって、権太の家族と狐の家族がアナロジーの関係で浮き彫りになることになる。吉野の山奥にある鮓屋の倅・権太の家族の悲劇と大和の山奥に棲む狐親子の悲劇。三段目と四段目は、人間であれ、動物であれ、弱き者、小さき者たちの家族の犠牲という点で、繋がっているのである。私は、文楽でも歌舞伎でも、長年『四の切』を観ているが、このような解釈は今まで気づかなかったわけで、今回の演出によって、新たな視点を得ることができたのは大きな収穫であった。

 さらに、私が感銘を受けたのは、その後、子狐が親狐のことを400年間想い続けていたと独白する件である。これはひとえに子狐役のダンサーの演技力と身体能力によるのだと思うのだが、この独白が実に純粋で健気である。そして、白神振付による子狐のダンスがまた見事である。跳躍感や軽やかさと伸びが汚れなき子狐そのものである。

 最後は、子狐に「初音の鼓」を与えるため、人間の声で子狐を呼び戻す。鳴らなくなった鼓の音の代わりに、出演者全員が「ポン、ポン」と声をかけるが、それはまるで祈りにも似たかけ声である。その祈りが通じて、子狐が戻ってくると、舞台では歓喜の声があがり、祝祭的なムードの中、幕となる。

 実に、ファンタジーに満ちあふれた『四の切』だった。私は、この『四の切』に関して、ファンタジーという点では、文楽の狐人形に勝るものはないと思っていたのだが、今回の作品は狐人形を凌駕するような勢いを持っていた。これもひとえに、若い役者や演出家たちが重厚な歌舞伎作品に体当たりをしながら、挑んだからであろう。

 日本の小劇場は、その発生の歴史から、どうしても新作を創るという点に重点が置かれている。あるいは、古典作品でも海外戯曲に取り組むことが多いが、実は日本の古典にも優れた作品は数多くある。今回、五時間にも及ぶ名作『義経千本桜』に立ち向かった若い演劇人たちによる古典作品と現代の往来。その中で、日本の豊かな古典戯曲の再発見と、まだまだ現代の視点で新たな意味を読み込む余地があることをはからずも呈示することができた。

 さらに、今回の試みは、単に日本の古典作品の現代化というだけではなく、三人の演出家による合作という方法が成功した、という点でも意義がある。現代劇においては、戯曲であれ、演出であれ、合作という形態は珍しいが、江戸時代の浄瑠璃(戯曲)は、合作が主流であった。何を隠そうこの『義経千本桜』も、『菅原伝授手習鑑』、『仮名手本忠臣蔵』と並んで、二世竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作によって誕生している。個人的には、私は現代劇の中でも、もっと合作があっていいと思っている。合作というのは、ただ合同に仲良く作るというのではなく、それぞれが競い合い、批評し合うことで、そこから産み出される作品は、洗練された作品となり、名作も生まれるのである。今回の通し上演は、演出上での合作だったが、合作の可能性という点も十分呈示することができたと思う。

 そして、三人それぞれ古典作品との距離感は異なるものの、全体を通してみると、二段目は重厚な「過去」、三段目は向き合う「現代」、四段目は「ファンタジー」といった流れが自ずとできていたのが興味深い。もちろん、この流れは、三人の演出する三作品を支え、総合的に統括した主宰者・木ノ下裕一の力も大きい。その意味では、四人の若き演劇人による合作なのである。

 木ノ下の古典作品に対する豊富な知識と三人の演出家たちのよるそれぞれのアイデア、そして22名のキャストたち、これらが相互に化学反応を起こして、誰もが予想もしなかった『義経千本桜』が誕生した。おそらく同じメンバーでの再演は、二度と観ることができないだろう。ここに演劇の贅沢さがあるが、古典作品を軸にしながら、現代に見事にカブいてみせた若者たちに熱いエールを送りたい。

【筆者略歴】
田中綾乃(たなか・あやの)
 愛知県・名古屋市生まれ。東京女子大学大学院博士課程修了。三重大学人文学部准教授。専門は、カント哲学と演劇論。古典芸能から小劇場まであらゆる舞台芸術を観続けている。
・wonderland 掲載劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tanaka-ayano/

【上演記録】
木ノ下歌舞伎「義経千本桜」(京都×横浜プロジェクト2012)

総合演出・演出|多田淳之介[東京デスロック]
演出|白神ももこ[モモンガ・コンプレックス]
   杉原邦生[KUNIO/木ノ下歌舞伎]
監修・補綴|木ノ下裕一
[京都公演]
 京都芸術劇場 春秋座(2012年7月7日-8日)
料金|一般 \3,300 U-25 \2,800 高校生以下 \1,500 ※当日券は各\200増し
[横浜公演]
 横浜にぎわい座 芸能ホール(7月20日-21日)
料金|一般 \3,500 U-25 \3,000 高校生以下 \1,500 ※当日券は各\200増し

出演|
明季
石本華江[妄人文明]
大寺亜矢子
大村わたる[柿喰う客]
小川敦子[夕暮れ社 弱男ユニット]
黒木夏海
佐藤誠[青年団/東京デスロック/渡辺源四郎商店]
佐山和泉[東京デスロック/青年団]
重岡漠[青年団]
清水さと
関亜弓
高橋ゆうこ[toi]
立蔵葉子[青年団]
史(Chika)
中島真央
中林舞 [快快]
南波早[なんばしすたーず]
深堀見帆
間野律子[東京デスロック]
宮崎晋太朗
森一生
山崎皓司[快快]

美術|杉原邦生
照明|伊藤泰行
音響|高橋真衣
衣装|臼井梨恵
演出助手|杉香苗/遠江愛/岩澤哲野
舞台監督|掛樋亮太

宣伝美術|外山央

制作協力|アトリエ劇研
制作|本郷麻衣/小山佳織

協力|舞台芸術研究センター
助成|公益財団法人アサヒビール芸術文化財団 芸術文化振興会
横浜公演共催|坂あがりスカラシップ(急な坂スタジオ/のげシャーレ・横浜にぎわい座/STスポット) ”坂あがりスカラシップ2012″対象公演/坂あがりスカラシップ5周年・にぎわい座10周年記念公演
京都公演主催|京都造形芸術大学大学院 博士課程三年次作品
企画・製作・主催|木ノ下歌舞伎

【配役】
『渡海屋・大物浦』
渡海屋銀平実は新中納言知盛         山崎皓司
九郎判官義経                関 亜弓
武蔵坊弁慶                 大寺亜矢子
相模五郎                  深堀見帆
入江丹蔵                  中島真央
安徳帝、片岡八郎、駿河次郎、伊勢三郎、女官 石本華江
典侍局、亀井六郎              黒木夏海
銀平女房実は乳人典侍局           高橋ゆうこ
娘お安実は安徳帝              立蔵葉子

『椎の木・小金吾討ち死・鮓屋』
いがみの権太            大村わたる
三位中将平維盛           重岡 漠
鮓屋弥左衛門            佐藤 誠
くら(弥左衛門の女房)       清水さと
里(弥左衛門の娘)         南波 早
小仙(権太の女房)・若葉の内侍   明季
善太(権太の息子)・六代君     小川敦子
主馬小金吾武里・梶原平三景時    森 一生
佐山さん              佐山和泉

『吉野山』
出演| 間野律子 中林 舞 史(Chika) 宮崎晋太郎

『河連法眼館の場』
狐忠信  間野律子
静御前  中林 舞
佐藤忠信 宮崎晋太郎
源義経  関亜弓

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