ジェローム・ベルとテアター・ホラ「不自由な劇場」

◎拍手は誰に贈るのか
 よこたたかお

はじめに

 去年の11月にフェスティバル・トーキョーと彩の国さいたま芸術劇場の共催により、『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』を上演してから、日本のダンス愛好家だけではなく、演劇愛好家や現代美術愛好家にも名前を知られ、既に一定数のファンを獲得しているジェローム・ベルの新作『不自由な劇場Disabled Theater』が今年の5月、チューリッヒのクンステン演劇祭で上演された。この作品はドイツ、スイス、フランスを巡回し、筆者が見たのはアヴィニョン演劇祭(フランス)での7月14日15時の回だ。この作品は既に11月まで上演が決まっている。

 アートイットのウェブサイトに掲載されたインタビュー(聞き手:大舘奈津子)の中で既に本作のテアター・ホラとの共同作業のことが述べられていたので、ベルがどんな新作を作るのかという私の期待は大いに高まっていた。(※ART-iTに掲載されているインタビューの中で、「私はイタリアの劇場も非常に好きです。」(『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』の写真のすぐ上の二段落目)という一文があるが、「イタリアの劇場」ではなく「イタリア式劇場」の訳し間違いだろう。)

 彼の仕事は「国境を越える」。しかしそれは、「ダンスは国境を越える」というありがちな売り文句のそれではない。彼が取り扱う問題は必ずしもヨーロッパ圏には限定されず、日本にも共通しうる問題を扱っている。それは資本主義、著作権、文化産業といった世界を席巻する新しいタイプの権力構造、世界を貨幣の名の下に統一しようとする運動、つまりグローバリゼーションである。

 まず彼が「国境を越える」ために行うこと。それは決して、言語以前の自然状態に頼ること、未分化の身体を舞台の上に乗せることではない。

その方法はいたってシンプルだ。それは英語をタイトルに選ぶことである。『Disabled Theater』は必ずしも全ての演目が英訳されたり、英語字幕が出るわけではないアヴィニョン演劇祭のプログラムの中で我々に違和感を与える。フランス人である彼がフランスという国で英語のタイトルを付けること。そこには確実に意図的な理由を感じ取ることができる。そう、「国境を越える」ためには、英語を使う必要がある。言い換えれば、英語を使えば「国境を越えた」ことになるのである。

 もちろん、アヴィニョン演劇祭(オフも含め)は既にヨーロッパ圏から多くの観客を呼び込む「世界で一番の演劇祭」(オフのパンフレットからの拙訳)である。必ずしも全ての観客がフランス語を理解できるわけではないだろう。しかし、演劇祭の魅力、作品の魅力が世界から人を呼び込む。英語を喋れば世界に情報や文化を発信しているということにはならない。さらに言えば、彼が共同制作をした劇場は決して英語圏の劇場ではない。ドイツのブリュッセルに拠点を構えるテアター・ホラであり、彼が英語を使う必要性はあまり感じられない。

 では何故、彼は英語をタイトルに冠するのか。この質問は一見馬鹿げているが必ずしも無視することはできないだろう。何故ならこの問い掛けから二つの流れを私たちは読み取ることができるからである。一つにはフランスのコンテンポラリー・ダンス・シーンが、マース・カニングハムから始め、ブラック・マウンテン・カレッジやジャドソン・ダンス・シアターなどのアメリカの「前衛」芸術運動を積極的に取り入れているという流れを指摘できる。ベル自身もカニングハムに影響を受けたことは認めており(講演会「ジェローム・ベルによるジェローム・ベル」2010年11月4日@早 稲田大学による)、アメリカからフランスへというダンスの流れを垣間見ることができる。もう一つには前作の『ショー・マスト・ゴー・オン』がそうだったように、文化産業とヨーロッパの伝統的な「文化」との間に亀裂が走り、私たちの生が少しずつ変容してきている、ないし私たちの生を保障する制度が少しずつ変わり始めているということを気付かせる重要な流れをそこに見ることができるだろう。本論では特に二つ目の点に触れていきたい。

2012年6月20日の著作権法の改正

 ベルの作品に触れる前に、この上演が含みうる問題について少し述べておきたい。
 今年6月20日に著作権法が改正され、いわゆる「違法ダウンロード」が禁止になった。今回の改正がこれまでのものと異質なのは私的な複製(「自動複製機器」による複製、著作権法、第二章、第三節、第三十条)までも違法の対象となった点である。この法律は元々、ある種の「複製」を禁じていた。それは営利を目的とするもの、公衆に著作物を頒布する行為。つまり経済的に不利益な「複製」であった。それは、家庭内や友人間など、より「私的な」空間にまでは法の手が入ることはなかった。しかし、情報技術の発達、携帯端末の普及から「私的な」領域にまで法の手が入ることになったのである。

 この著作権の厳密化の流れは、ある危険性を含んでいる。文化を享受するためには、貨幣を介さなければならないという倫理を作り出すこと、ないし貨幣を支払うことなく文化を享受することは倫理的に罪であるという価値観を作り出すこと。経済システムが文化活動に侵入し始めているという流れである。
 ジェローム・ベルは、まさにこうした問題に取り組んでいるのである。
 上演を振り返ってみよう。

作品概要1(開幕)

 劇場に入ると、舞台の上に11脚の赤い椅子が半円上に配置されているのを確認することができる。舞台脇(上手)には電子ピアノと一脚のマイクが設置されている。

「Disabled Theater」公演から
【写真は、「Disabled Theater」公演から。提供=(c) Jérôme Bel et Theater HORA 禁無断転載】

 上演開始のアナウンスの後、一人の若い女性(アジア人らしい)が舞台上手に登場し、自分が(フランス語とスイス・ドイツ語の)通訳であることを告げる。何故ならこの作品がスイス・ドイツ語とフランス語による上演だから、俳優にドイツ語で会話し、観客にフランス語で会話する必要があるというのである。

 彼女はまず「ジェローム・ベルが、11人の俳優に問いかけました。俳優たちは自分の名前と職業を名乗ります」(筆者によるメモを参照、以下の引用も同じ)と言う。通訳が俳優の名前を呼ぶと、下手から俳優が登場する。何かが始まるという感じを、この時点で感じることができる。

 11人の俳優は自分の名前を名乗る(俳優は実名を名乗る。俳優の名前はテアター・ホラのウェブサイトに顔写真付きで確認することができる。ウェブサイト:http://www.hora.ch/)。俳優は全員、「俳優です」と名乗る。当然と言えば当然である。彼らはチューリッヒの劇場で働き、舞台上で観客に作品を見せるわけだから、彼らの職業は俳優である。しかし私はここで少しの違和感を覚えた。それは私だけではないだろう。彼らは本当に俳優なのかどうか。私が予測していた「俳優像」とはまるで違う俳優たちが壇上に登場し、各々の椅子に座っていく。流暢に台詞を朗誦する俳優もいなければ、プリエをこなすダンサーもいない。伝統芸能の型を模倣する役者もいない。いや、私の感じたところを素直に言わせてもらえれば、私たちが街中で見るようにスタスタと歩いている「人間」すらもいなければ、私たちが普段会話をしたり議論をしたりするように言語を操る「人間」すらもいない。ある意味では奇妙な挙動をする俳優たちを目の前に、観客は笑ったり、ヒソヒソ話をしたり、驚嘆のため息をこぼしたりした。私たちはその俳優たちを客席から見ていたわけだが、それは楽しむために見ていたというよりも、お金を払い安全な場所から「動物」を見下すという動物園のような見る‐見られる空間を作り出していた。ベルの言葉を借りれば、彼らは単なる俳優ではなく「精神障害の俳優たちles acteurs handicapés mentaux」(当日パンフレットより)であった。

作品概要2(自己紹介)

 次に通訳は、11人の俳優たちに自分の障害について語らせる。各々の俳優が自分自身を説明するために病名を用いたり、家族との会話を引用してみたり、何でもないと言ったり、ジェローム・ベルとの共同作業の過程を述べたりする。この11人の自己紹介は極めてスリリングであった。私たちは既に見るという暴力を彼らに働いており、沈黙を余儀なくされていた(筆者が観劇をした回では、この時一人の女性を除いて誰一人として笑ってはいなかった。その女性が何故笑っていたのかは定かではない)。しかし、ダミアンDamianが「自分は特に障害を感じていないけど、時々ママを怒らせる」と言うと、観客は笑うことができたのだった。彼だけではない。時折俳優たちがジョークを交えると、ようやく私たちは笑うことができた。しかしその笑いは全く気楽なものではなかった。私にはそれがまるで、観客同士が目配せをしながらどこで笑っていいのかを確認しながら、他の人が笑っているところで笑う、といったような始末だったように思う(付け加えておけば、劇場には300人ほどの観客で客席が埋まっていたが、そのうち笑っていたのは1割程度であった。残りの観客は音を立てなかったので、会場は始終静かであった)。

 この緊張状態での笑いは、ある倫理的な価値観が(この価値観の“多様化”した社会の中でさえも)いまだに根強く機能しているということを思い出させてくれる。観客は俳優がジョークを言うことを待ち望んでいたのであり、誰一人として自分が見る行為を働く加害者になることを望んではいなかった。というのは、娯楽を目的にしていようと、文化的な営みを目的にしていようと、観客はダンスを見るためにお金を払い、客席から舞台を見る権利を主張したいがためである。仮に問題劇や叙事演劇を鑑賞する時のように自分が加害者である可能性を突きつけられようとも、今まさに劇場の中で自分が加害者になることまでは観客は望んでいないのである。お金を払ってまでも犯罪者にはなりたくはない。だからどうにかして見る‐見られるという関係をフラットな状態にまでもっていきたい。だから俳優にはジョークを言ってもらわなければ困るのである。

 従って、ダミアンの一言は観客にとっては救いであった。そして誰しもが小さい頃に被害者だった「ママを怒らせる」というシチュエーションが観客と俳優を“平等な”関係に置いた。

作品概要3(ダンス場面)

 次に通訳は、「ジェローム・ベルは7つのダンスを選びました」と言って、俳優たちは順々にダンスを披露する。

 このダンスシーンは先の場面とは一転して、客席は笑いの渦であった。それはさきほどまでの緊張状態とは異なり、単純に身振りやダンスが滑稽だから笑っていたとも言える。7つのダンスは多種多様ではあったが、ヒップホップから有名ポップス、民族音楽のようなもの、ヒーリングミュージックなど誰もが知っている(知っていそうな)ものを用いていた。

 有名ポップスが流れると、観客も自ら体を揺らし、歌詞を口ずさむというような状況も起きていた。私も自分が知っている曲が流れている時には、(客席に座ってはいるが)リズムを取って音楽を楽しんだりもした。ここでは素直に音楽を楽しむという可能性も充分に有り得たわけである。

「Disabled Theater」公演から
【写真は、「Disabled Theater」公演から。提供=(c) Jérôme Bel et Theater HORA 禁無断転載】

 そして、7人のダンスが終わると、通訳が「最後に今回の作品の感想を述べてもらいます」と言って、俳優たちにプロダクション全体の感想を述べさせる。その途中、一人の俳優、マチアスMattiasが自分のダンスが選ばれなかった不満を述べた。「自分のダンスはこの中で一番だ。」そう言うと観客は大いに湧いた。全員の俳優が意見を述べ終わると、通訳は「そしてベルは残りの4人の俳優にも踊ってもらうことを決めました」と述べる。観客は迎えるように拍手をし、そして音楽がかかる。先に踊らなかった4人の俳優たちも自身の振り付けたダンスを披露することになる。この時も、俳優が踊っている間、観客は手拍子をしたり、リズムに乗ったり、歌詞を口ずさんだり。会場全体は大きくうねり、湧いていた。

 通訳がこれで終演であるということを告げると私たちは俳優たちに大いに拍手を送った。ダミアンが私たちを笑わせてから、一気にこの作品は、カーテンコールまで劇場を沸かせ続け終演することとなった。上演は大好評の内に幕を閉じた、といったような塩梅であった。

「Disabled Theater」公演から
【写真は、「Disabled Theater」公演から。提供=(c) Jérôme Bel et Theater HORA 禁無断転載】

ジェローム・ベルだけが作者か

 芝居の終わった数日後、ある友人が私に「あの作品はズルかった」と述べた。なぜズルいのかと言うと、ベルは舞台上に全く姿を現さないし、通訳として舞台上にいた女性は結果的には俳優に指示を与えるコンダクターの役割を果たしていた。俳優はあくまで指示されて舞台上にいたのであって、ドキュメント的演劇でもなければ、彼らの実名での登場も決して「リアル」な彼ら自身を映し出していたわけではない。その通りである。

 確かに、この作品はジェローム・ベルの作品であって、彼がいなければ実現もしていなければ、彼の知性がなければこの作品がこのような形で観客の拍手を得た、ということもなかっただろう。

 しかしベルは当日パンフレットの中で「演出を付けるということは、パフォーマーとの曖昧さのないコミュニケーション次第なんです。だから私が俳優を操ったりはしません。L’exercice de la mise en scène repose sur l’instauration d’une communication limpide avec les performeurs : je ne manipule pas les interprètes.」と述べる。

 彼がこの作品において俳優たちの特性を利用していた、と非難する声があれば、恐らくベルはそれを認めざるを得ないだろう。何故なら、仮に私たちがダンスシーンで踊ったのがテアター・ホラの俳優ではなく、音楽の要求する水準の振り付けを踊りきることができるダンサーであったならば、劇場は湧かなかっただろうし、シアターゴーアーの関心を一切惹かなかっただろうからだ。そして私の関心も恐らく惹かなかったであろう。(何故なら音楽は極めて平凡であったから)

 舞台上で踊っていたのがテアター・ホラの俳優であったからこそ、私たちは彼らの踊りに熱中することができたし、楽しむことができた。つまり、テアター・ホラの俳優でなければ、この作品は極めて退屈なものになったであろうということである。その意味で、確かにベルは彼らを利用したと言える。

 しかし、この事実は極めて伝統的な問題を含んでいると言えるだろう。何故彼らの踊りが私たちを魅了したのか。たとえそこで流れる音楽が通俗的なものであったとしても。
そう、そこには距離があった。

 だから私たちは音楽を楽しむこともできたし、一歩引いて物事を考えることもできた。ブレヒト的な距離の効果が確かにそこに働いていたと、私たちは言うことができるだろう。
しかし、それは一体どんな距離だったのか。この点にこそ、日本人の観客にとっても無視することができない問題をこの作品が孕んでいると言えるのである。

何故彼らに創造性があるのか

 理解を促すために、ディドロの『ラモーの甥』(1762)から一節を引用してみよう。

 俺が徳と言う時、それはあんたたちの言葉として話すんだよ。もし説明しようというなら、あんたたちの言う悪徳ってのは時折俺の言う徳で、あんたたちの言う徳が時折俺の言う悪徳なんだよ。(『ラモーの甥』、拙訳)
Quand je dis vicieux, c’est pour parler votre langue; car si nous venions à nous expliquer, il pourrait arriver que vous appelassiez vice ce que j’appelle vertu, et vertu ce que j’appelle vice.

 ここでは、ラモーという社会のアウトサイダーが、当時のブルジョワ社会の倫理規範を転覆させるという構造を取っている。簡略化すれば、ラモーにとって「徳」は自分には関係のないブルジョワ社会の利益につながるので「悪徳」であって、彼の言う「悪徳」は、ブルジョワ社会の利益を生み出しはしないので、営利を目的としないために「徳」であるとされる。つまり、ある社会にとっての「徳」は時として、その社会を形成する道徳規範として機能し、アウトサイダーを排除する極めて経済的に有利な装置として機能するということである。

 まず第一に、彼らが俳優を「職業」としている点を考える必要がある。たとえ彼らが劇場の収入だけで生活をしていなかったとしても、彼らは仕事として舞台上に上がっている。従って、それは営利を目的としている活動であると法律的には考えられることになる。

 作品中でかかっていた音楽の大半は誰しもが知っているような有名ポップスであり、この音楽を使用するためには、著作権料を著作権管理団体に支払わなければならないことになる。私はアヴィニョン演劇祭が著作権料を支払ったのかどうかは分からない。いずれにせよ、テアター・ホラの俳優たちはお世辞にも音楽の要求する再現性を忠実に守ったとは言えないわけだから、この劣化した模倣行為を見て著作権者が憤りを感じたとしてもそれはおかしな話ではない。

 しかし私たちが彼らのダンスに再現性を超える創造性を見出したのだとすれば、それは彼らの音楽の利用が「複製」ではなく「引用」であると言うこともできる。当然、ここの線引きはグレーゾーンであって、意見が二つに分かれることは必須であろう。しかし、彼らのダンスが素晴らしいと言う人がいれば、それは音楽の公に対する「複製」以上に創造性を感じていた、ということになる。

 では一体私たちは彼らの踊りのどこに創造性を感じていたのだろうか。もちろんそれは、技術の卓越さではなかった。それは振り付けの独創性だろうか。またはジェローム・ベルの演出の知性だろうか。または彼らの身体の特性だろうか。

 この問題は一つの観点に絞ることはできない。作品中で踊られていた身振りは文化社会的な文脈の中で正当化されていたからである。つまり、私たちの彼らを見る視線がその正当性を作り出していたからである。

 ラモーの例から構造を抽出してみよう。ラモーは人に認められたがっているし、お金も欲しい。地位も名誉も欲しい。極めて人間的な欲求が彼を支配している。しかし、彼はブルジョワ社会の中に入れないために、全ての価値観は転倒する。ブルジョワ的な意味での「徳」は彼にとっては非経済なので「悪徳」であり、ブルジョワ的な意味での「悪徳」が彼にとって経済的に機能するので、「徳」になる。ブルジョワ社会の中で流通する価値観を「人間」のものだとすれば、ラモーのそれは「動物」のものである。従って私たち「人間」は「動物」であるラモーを「笑いたがる」のである。ラモーは「動物」であるがゆえに、「人間」たちの気晴らしになるのである。

資本主義下の排除の構造

 どの俳優が言ったのかは忘れてしまったが(マチアスかダミアン、ジャンニGianniであったと思う)、「(自分のことを)妹が動物みたいだと言うんだ」と言った。その一言はあまりに衝撃的ではあったが、私たちは彼らの身振りを「動物」的であるとみなしていることは認めざるを得ないだろう。障害のない私たちを「人間」と呼び、障害と名指した彼等を「動物」と見なす。

 さらに強調すべきは、こうした構造は日頃隠されており、私たちは頻繁に(たとえ街中であっても)経験することはなくなってしまったということである。ベルはこう述べる。

 問題は、観客に社会的に締め出されたマイノリティを向かい合わせることです。精神障害者たちは表象する場所を持っていませんし、彼らに関する言説もほとんど作られていません。結果的に、彼らは公共の領域の中には存在していないのです。(拙訳、当日パンフレットより)
Il s’agit de mettre le public face à une minorité qui est socialement rejetée. Les handicapés mentaux n’ont pas d’esapce de représentation et très peu de discours sont produits sur eux. Par conséquent, ils n’existent pas dans la sphère publique.

 隔離すること、それは社会的な意味で消滅することである。
 それは名指すことから始まる。私たちは日頃から芸人やコメディ俳優の奇妙な身振りを笑っているが、彼らが病院に収容されることは決してない。何故なら彼らは、病名を持たないからだ。しかし、病名を得て社会的に非経済であると判断されれば、彼らは隔離され、街中から姿を消す。彼らは社会的な意味で「人間」ではなくなってしまう。凶暴性、非論理性、非経済性、挙動不審な行動、奇妙な表情などの特性は「動物」性を帯びる‐帯びさせられることになる。

 この作品が皮肉なのは、彼ら「動物」性を帯びた俳優が有名ポップスを踊るという点にある。もし仮に踊ったのが「人間」的であるとされる俳優だとすれば、そこには価値は見出されなかった。また、もし上演側が著作権者に無許可で曲を使用していたとすれば、彼らは訴えられてしまうだろう。テアター・ホラの俳優たちに私たちが正当性を見出してしまうのは、彼らが「自然」性を身に付けているからであり、「自然」が「人間」の創造物たる「ポップス」を模倣することに私たちは喜びを感じているのである。文化産業の作り出す感性は私たちの生活の中で既に大きな位置を占めているが、私たちは自分たちの文化(産業)を素直に心から楽しむことはできないでいる。何故なら、「人間」が「人間」を模倣するというのは、縮小再生産に向かう非経済的な行為だからである。ステークホルダー(利害関係者)の外側から価値を引き出さなければならないという価値基準が、私たちの経済の中にあるのだ。

文化産業の疎外から抜け出すことはできるか

 従って、「人間」である利害関係者の間では、貨幣を媒介にしなければ文化産業を享受してはならないという道徳基準が生まれることになる。それはいつの時代にも同じことだけれども、情報化社会の中で生まれた新たな価値基準は、著作権法の改正に象徴されるように、たとえ個人の使用であったとしても音楽に対する対価を支払わなければ歌を歌うこと、踊りを踊ることすらも非合法的であるという倫理なのである。

 もちろんそれは、全ての音楽が禁じられているということではない。経済的な価値を持つ「ポップス」がその対象だ。しかし、その当の「ポップス」は、時として私たちの踊る欲求にまで漬け込み、我が物顔で踊りを踊る権利が「ポップス」の側にあるということを主張する。これは決して、比喩的な話ではない。事実、曲の使用を巡っての劇場やクラブハウスと著作権管理団体との小競り合いは少なくない。私たちの生は対価を支払わなければ歌い、踊ることすらできないというよう状況に置かれているのである。踊りは(かつてそうであったような)精神的な価値を失い、経済的な価値の中でしか機能しなくなってしまった。踊りが禁止されているのは、何も宗教的に特異な国だけではない。全ての資本主義国家が踊りを禁止しているのである。

 従って、私たちはこの社会にあって、いかに生に踊りを取り戻すかということを考えなくてはならない。劇中でピーターPeterは三度ほど「公共劇場、メルシー(ありがとう)」と述べる。(これは時として脈絡なく発言され、観客の笑いを誘ったり、みんなの前で踊れて嬉しいというような意味で「パブリック」という言葉を発言しているように取れる場面もあったりするので、翻訳することは難しい。また、これは日本語の問題だが、「パブリック」という語は「公的な」という意味だけではなく「だれでも利用できる」(小学館ロベール仏和辞典)も含んでおり、複数以上の人がいる場を指すこともできる。従って、「みんなが見てくれる劇場。ありがとう」程度の意味にも取れる。メルシーというのはフランス語で「ありがとう」という意味だが、11人の俳優の中でピーターだけがメルシーと発語し、観客の笑いを誘う。また、カタコトのフランス語が一層滑稽さを生み出す。)

 この「公共劇場、メルシー」は、確かにアヴィニョン演劇祭の標榜する文化産業と文化政治の戦いの問題にも通じるが、毛色が少し違うのは、文化産業の提供する「ライフスタイル」を必ずしも拒絶せず、それを認めた上で生の形式を求めようとするところにあるだろう。ピーターの発言は、必ずしも資本主義の生を拒絶しない。それはまるでこの作品のタイトルが(振付家がフランス人で、俳優がドイツ人であるにも関わらず)英語で表記されているということに似ている。あっけらかんと、彼らは文化産業を受容する。私たちが嫉妬してしまうほどあっけらかんと。

 そう、私たちの生が皮肉なのは若い頃に熱狂した、あの「ポップス」に熱中できないところにある。年代はいつの年代でもいいだろう。ビートルズにせよ、ABBAにせよ、作り出されては消費されていく「ポップス」に私たちが没入できないことが皮肉なのだ。何故私たちは「ポップス」に没入できないか。それは私たちの倫理が感性を食い止めているからである。そう、対価を支払わなければ歌うことも踊ることもできないこの「ライフスタイル」が、私たちの生の形式を惨めなものにしているのだ。

 「公共劇場」が私たちの生を豊かなものにしてくれるのだとすれば、それは隠されたステークホルダーの外側の存在を垣間見せる作業にあると言えるだろう。それは決して彼らを私たちの利害関係の中に置き直すということではない。それは私たちが生きている世界の内側だけに生を見るのではなく、私たちが生きている世界の外側に生を見出すということである。作品に即してに言えば、障害を隔離するのではなく、障害に共生できるような感性を見出させることが我々のテーマである。

 非経済的な社会構成員が「病気」であり、隔離されるという傾向はここ数年でさらに強まってきている。非経済的であることがさも「悪徳」であり、「人間」ではないという傾向が。そして裏を返せば、利害でつながる関係(ステークホルダー)だけが「人間」であり、倫理基準を満たしているという人間観が強まってきている。その代表的な例として、先月の著作権法の改正を挙げることは決して的外れなことではないだろう。

 私たち観客が、拍手を送ったのはジェローム・ベルやテアター・ホラの俳優たちだけではない。私たちは、彼らを通じて私たちの来るべき生に向けて、拍手を送っていたのである。

※タイトルの邦題について
 Disabled Theaterは直訳しようと思えば、「障害者の演劇」となる。
disabledは、「障害のある」という形容詞だが、handicappedのPC語である。「障害」は、放送禁止用語というわけではないが、「障害者の演劇」という訳では少しキツイと感じた。原義的にもable「可能」の対義語であるので「不自由」という語を選んだ。
また、theaterの訳語は「演劇」として問題はなかったが、ピーターが「公共劇場、メルシー」という時のtheaterと合わせて、「劇場」と訳した。これは日本語の問題だが、例えば「theaterに行く」とは言えても「theaterを見る」とは言えないのであって、演劇よりも劇場の方が日本語の使い方としては合致している。「不自由な演劇」でも問題はないが、観客自身もまた劇場の中で必ずしも自由ではないので、「不自由な劇場」とした。

【著者略歴】
 よこたたかお
「演じることの楽しさ、美しさ、喜びを伝える」をモットーに演劇活動を展開。2005年に劇団NUDOを立ち上げ、現在に至る。劇場での作品上演だけでなく、路上などでのパフォーマンス活動も活発。日本劇作家協会会員。
ウェブサイト:yokotatakao.blogspot.com/
* youtube映像>> http://www.youtube.com/user/yokotatakao

【上演記録】(当日パンフレットからの転載)
ジェローム・ベルとテアター・ホラ『不自由な劇場』(Jérôme Bel & theater HORA)
(初演:2012年5月10日、クンステン芸術祭、ブリュッセル)
上演:7月9-15日(11日を除く)
会場:ベネディクツス12世ホール
(8月23日・25日:エッセン、8月29日から9月1日:チューリッヒ、7日・8日:ジュネーブ、12日から16日:カッセル、18日・19日:マインツ、10月3日から6日:チューリッヒ、10日から13日:パリ、11月1日から3日、ベルリンを回る予定)


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