▽堀里美(主婦)
★★★
「フリル」は恋人を含むすべての物を所有したいという気力を失くした男と、その恋人だった女の、現在の同性の恋人との破綻の話だ。
アマヤドリの(広田淳一の)作品にはいつも、失われてゆく、或いは失われてしまった愛への、深く静かな悲しみと、それからやはり同じくらい深い諦観とを感じる。「フリル」の登場人物も、全員普通に見えながら、個々に深い孤独とどうしようもない分かり合えなさを抱え、もどかしく切ない気持ちにさせられる。しかしながら、共感するには少々細切れに感じられたし、「このあとどうなっていくのだろう」という、物語としての牽引力に欠けていたように思う。
また、天井から床に長く垂れた何本もの糸で、舞台全面を前後に切り分けるという試みは、面白いとは思うが、効果的には感じられなかった。登場人物の着るフリルの服や、男がフィギュア愛好者だったという設定も、上手く生かしきれていないように感じたので、★三つ。
(9月8日 プレビュー公演)
▽林あまり(歌人、演劇評論家)
★★★
白く細く長い糸。―ソウメンのような糸が一直線にぎっしり吊るされ、舞台中央辺りを横切っている。
現在の自分や、みじめな記憶、リアルな日常と妄想。あるいは、死なないセミ(!)の会話なんかが、ぶら下がった白い糸の幕をかいくぐっては現れ、消える。なかでも心ひかれたのは、恋愛と単純に名付けられないような男女の関係。女(根岸絵美)が男に、きみを所有したいという意欲がない、と告げられるシーンは、胸にズン、と来た。
男と別れた女が、恋人になった女性(小角まや)と、また別れを迎える切なさも、相手の女性のやりきれなさも、しみいってきた。
なのに、星が3つ止まりの理由は―。
海を渡りたいと語るセミに、渡ってみればいい、きっとうまくやれるよ、と励ますようなセリフがあり、幼く、興醒めだった。
こういう場面は、いまの私には遠く感じられるばかりだ。
(9月12日 19:30の回)
▽竹内孝宏(青山学院大学総合文化政策学部教員)
★★★★
「2人でいること」の難儀さとでもいうべきエピソードが、オムニバス的に展開する。といっても、ドラマをひとつに束ねる「中心」など、どこを探しても見つからない。時間と空間の、あるいは役者と役の「因習的」な分節は、いたるところで侵犯されていく。この目もくらむような記号の乱反射を、細部の隅々にいたるまで冷静に操作して、ふたたび破綻のない像を結ばせるテクニック―場合によってはビビっているのではないかと思わせるほどまでの―は、装置や群舞のヴィジュアル的な洗練ともあいまって、さすがに手慣れたものだ。しかし、それにも増して重要なのは、むしろ「夏の思い出」というフレームだったかもしれない。夏だから、もちろん海があり、そしてなにより蝉がいる。しかもこの蝉は、日々の倦怠に耐えきれず、ひとり海辺から「世界」にむかって出発しようとしているのだ。実際、このシーンがもっとも「感動的」であった。
(9月13日 14:00の回)
▽小林重幸(放送エンジニア)
★★★
一対一の会話シーンが、一つ、また一つと提示され続けていく。会話の中身を聞くと、その二人の間には、必ず何らかの問題が横たわっているようで。お互い胸の内に抱える相手への不満やら違和感やらを言葉にしたり、口をつぐんだり。そういった二人の間に流れる微妙な空気をキャッチコピーのようにシャープな台詞を交えながら描き、時として背後の情景が映像のように浮かぶことすらあって、とても上手い。僅かに不安定感のある舞台美術や常に陰のある照明で、どこか鬱屈とした時空を上品に創り出すのにも成功している。
にもかかわらず、全シーンを見渡したとき、全体を貫く街や世界や時間が、やたら朧で存在感が薄いのはもったいない。全体像を描こうとしていないのは判る。しかし、各々のシーンがクリアーであるか故に「芝居のように」見えてしまうのは、そのシーンの外側に「世界がある」という確信が、舞台から見出せないからのような気がするのである。
(9月16日 19時の回)
▽宮武葉子(会社員)
★★★★
恋人のフィギュアを無断で捨てた女と、それによって所有欲を失ってしまった男を軸に、様々な人たちの様々な会話の断片を示す芝居……「フリル」の内容を説明するのは難しい。姉を励ます妹という、まぁそれなりにリアルなものから、死なない蝉のような非現実的なものまで、バラエティ豊かな場面が展開されるが、「フリルって何」という根本的な問いに対する答えは最後まで示されない。一つ一つの会話は特に難解ではないが、説明はされないので、今何が起きているのか推測できる時とそうでない時がある。観客による物語化を拒む作りなのだろう。早い時点で疎外された観客は楽しめない類いの舞台だと思う。敢えて間口を狭くすることの意義は何なのだろうか。
「変わった人だと思われたい」等、ちょっと印象的な箇所もあり、訳が分からないながら面白かったのだが、個人的に楽しめたことイコール作品が面白かったということなのかは判断しにくいと感じた。
(9月10日 19:30の回)
▽増田景子(学生)
★★★
公演チラシに挟んであった主宰の広田氏による挨拶「で?なにがいいたいの?」がまさに言い得て妙。動きや口調、人物などひとつひとつの断片をとってみれば同じなのだが、かつてのひょっとこ乱舞ではありえなかったこの感触にとまどいを覚える。まさに大爆発してバラバラになった欠片で新しいモザイクを作ったかのよう。同じなのにまったく違うのだ。
一番変わったのは透明度だろう。それは舞台美術にも表れている。かつては奥行きや高さを引き立てたものが多かったが、今回は無数の白いテープがすだれのように舞台中央を曖昧に仕切っているため、奥は見えるようで見えない。舞台で行われている物語も情報不足でわかるようでわからない。その混濁が故意であることは明らかで、物語の外から客席になにかを求めている。それが想像力による補完なのか、濁りへの寛容さなのか―。星はつけたが、この舞台の評価を決めるのはこの先の公演。今は次を待つしかない。
(9月15日 19:30の回)
▽大泉尚子(ワンダーランド)
★★★
最初に、この作品で美術を担当している大泉七奈子は、筆者の娘だということをお断りしておきたい。
で、意味不明だけど、極めてはっきりした手触りはあるっていうのが夢の世界。その感じ。どういうのかというと少女の。フリルやレースが散りばめてある。フィギュアの役を生身の女優がやるという倒錯。そして「顔面にカナブンがびっしりたかる」のは、きっと分泌する乙女汁に吸い寄せられるのに違いない。
極め付けが、舞台の前後を斜めに仕切る紗のカーテンのようなもの。白くてごく細い紐が、いっぱいの幅に天井から床まで下がり、繊細に揺れます。虚実の皮膜というか、時や空間を融通無碍に超える道具立て。そうだ! これってリリアンのイメージ。女の子ならみんなやったことがある。チラシからは“所有”についての話ともうかがえるのだけど、少女は、リリアンを編みながらはじめて“所有”を意識する、とか?
そんな中で、男同士の会話が妙にリアルだったりして、現実とをつなぐ弾力も持っている。ストーリーもあるにはあるんだけど、こんなにもくっきりとした触感を手渡されたら、もういいや。
(9月7日19:30の回)
▽齋藤理一郎(会社員 個人ブログrclub annex)
★★★☆(3.5)
冒頭に全体を包括するようなシーンが置かれ、そこにひとつずつエピソードが重ねられていく。語られる台詞や会話は、難解ではないのだけれど、どこか抽象的でなにかから切り取られたようで全容を掴み取れない感じがして。それでも、キャラクターたちとそれを眺め続ける女性の位置や相互の距離に心に留めつつシーンを追っていると、やがて世界はルーズにつながりはじめ、ロールたちが様々に描き出す感覚が膨らみや滅失のありように束ねられ、記憶の重なりとなり、生と死の普遍がループ感に裏打ちされつつ削ぎだされていく。気がつけば、舞台は慰安にも諦観にも踏み出しの高揚にも思える独特のテイストに染められていて浸潤される。ただ、作品全体に対して観る側としてフォーカスを定めきれないような感覚は最後まで霧散することなく残った。
舞台に前後を作る白い糸状のすだれが内外を舞台上につくる仕切りとしてしっかりと機能、必要な絵面のみを観る側に渡すが如くに絞られた照明や心の根っこを揺さぶるような音楽には場ごとの色を観る側にしっかりと焼き付ける力があって。役者達の明確でしなやかなロールの纏い方にも切れや洗練を感じた。
(9月10日 19:30の回)
▽中野雄斗(学生)
★★★☆(3.5)
フリンジカーテンが舞台を前後に区切っただけの簡素な舞台で、登場人物それぞれの物語が断片的に語られていく。それぞれの断章は印象的に語られるものの、それが作品としてまとまっているという実感はもてなかった。個々の物語がただ存在しているだけのように感じてしまった。
それぞれの断章はなにげない生活のワンシーンといった様相で、それだけにものごとの生き死に、という概念へのまなざしが浮かび上がってくるように感じた。成虫になって1週間で死ぬというセミが大きく取り上げられていたのも、死生観について語られている印象を強めていた。登場人物たちの人間くささに対し、物語自体は淡々と進行しているのがよかった。
(9月14日 19:30の回)
▽都留由子(ワンダーランド)
★★★
王子小劇場の2012年佐藤佐吉演劇祭の掉尾を飾るアマヤドリの「フリル」。人待ち顔で本を読む若い男に年長の男が話しかける。やや迷惑そうに適当に相手をしていた若い男はいつの間にか会話に巻き込まれてお芝居は始まる。当日パンフによれば「所有」することに興味がなくなったその年長の男と元彼女が再会するというのが筋らしくて、それらしいことはもちろんあるのだが、それとは特に関係なさそうな場面が積み重なっていく。舞台を手前と奥のふたつに分ける、天井から下がった白い巨大な縄のれん(!)が、とても印象的に使われて、登場人物がその縄のれんを割って行き来するところなど、とても美しい。抑えた照明や、セミの話、ゆらゆらとした動きなど、当日パンフにある作・演の広田の言葉のように、「で?なにがいいたいの?」なのだが、それがこうして集まると、どうすることもできず失われてしまうものが、ぼんやり感じられるのが面白かった。
佐藤佐吉演劇祭の参加作品を全部見終えて、粒ぞろいの、しかも、どれも互いに似ていない作品を10本揃えた王子小劇場の選球眼をすごい!と思う。終わったばかりなのに、今から次回が楽しみです。
(9月11日 14:00の回)
▽北嶋孝(ワンダーランド)
★★★
ひょっとこ乱舞からアマヤドリへ。「第0回」公演なのだが、表現方法は明らかに変わった。動きの激しい、言葉と身体が絡み合う舞台から、言葉とイメージが奥行きを造形するスタイルに。そのイメージを生み出す基が、細長いヒモがそろって吊された独特の紗幕だった。「フリンジカーテン」と呼ぶらしいが、これが舞台を前後に区切っている。だから俳優の姿は消えたり表れたり、ときには半身をのぞかせたり。過去と現在、夢と現実などの往還を象徴し、愛が「所有/非所有」で区分けできない半透明/半不透明なイメージも表している。
素足の俳優が多く、寝間着風の衣装を身に着けた女性も現れるためか、夢うつつで幽明の境が定かでない心象風景が呼び覚まされる。そこからは、見えない、触れられないが確かにあるもの、つまり生と死のあわい、空虚な隙間がほの見えてくる。しかしこれらのイメージは相互に結びつかない。おらく次回からの回収を待ちつつ、断片のまま投げ出されている。
(9月8日 19:30の回)
【上演記録】
アマヤドリ第0回公演「フリル」(佐藤佐吉演劇祭2012参加作品)
王子小劇場(2012年9月8日-17日)
【作・演出】広田淳一
【出演】
根岸絵美
松下仁
田中美甫
糸山和則
渡邉圭介
小角まや(以上、アマヤドリ)
榊菜津美
鈴木由里
伊比井香織
中村梨那(DULL-COLORED POP)
長瀬みなみ
【スタッフ】
作・演出 広田淳一
舞台監督 上野智(RBGene)
舞台美術 大泉七奈子
照明 木藤歩
音響 相馬麗(水中めがね∞)
衣装 矢野裕子(RBGene)
宣伝美術 山城政一、是永彩希
撮影 赤坂久美
Web 堀田弘明
制作 木村若菜、炭田桃子
【スペシャル・サンクス】
横井佑輔 蒲生みずき 津國うらら 佐々木千尋 ちゃお 会沢ナオト 杉村こずえ 細谷貴宏 山森信太郎 磯田浩一 吉田千尋 角張正雄 水天宮ピット 黒澤匠雅 鈴木アメリ ART CORE 中村早苗 笠井里見 稲垣干城 青柳偉知子
【協力】
DULL-COLORED -POP (株)ワーサル office LR 王子小劇場 CoRich Confetti
【チケット】
前売 / 一般:3200円 学生:2000円 平日昼間:2800円
当日 / 一般:3500円 学生:2300円 平日昼間:3000円
タダ観でゴー!0円(枚数限定・劇団予約のみ)
リピーター割引:1500円
プレビュー割引:2500円
高校生以下:1000円
「アマヤドリ「フリル」(クロスレビュー佐藤佐吉演劇祭編 10)」への5件のフィードバック