TRASHMASTERS「背水の孤島」

◎言葉もたない命よりも
 岡野宏文

「背水の孤島」公演チラシ
「背水の孤島」公演チラシ

 まず最初に、「背水の陣」という言葉の意味を確認しようではないか。
 この言葉は中国の史記による故事をもとにした成語で、絶体絶命の状況においてあえて川を背にした陣を敷き、決死の覚悟で全力を出し切って戦に臨むやり方で勝利を目指す戦略をいう。
 つまり「背水の陣」とは、十中一の望みもない立ち位置で、絶望に溺れるでもなく希望をかきたてるでもなく、もはや希望以外のなにものも持てぬがんじがらめの前のめりの姿をさすのである。

 その意味ではこの言葉はパンドラの筺の双子である。あらゆる災厄が広大な地上に飛び散ったあと、人々がその胸に抱けるのは筺の底に残ったわずかな希望だけなのだから。
 それではトラッシュマスターズ上演になる作品「背水の孤島」はなにをさしただろう。

 私の尊敬する歌手の一人中島みゆきが世界を観る時、その身は見晴るかす彼方の虚空にただよいながらも、視線だけはさながら猛禽類の絞りきられた波のような鋭さを携え、地上を虫の目となって舐めやって削ぐ。

 うらぶれた町角に傷を負ってうずくまる影や、風の強い路地をよろめいてうめく足取りをなにひとつとして見逃さず、その低さに寄り添って、共に歩いてみせる。つぶさに、人の形とつり合って。
 共に歩いてくれているものを時として我々は見落としがちだが、ふと気づいた時、彼はささやかで唯一の希望である。あのエマオの旅人のように。

 「背水の孤島」を私は本多劇場で観た。
 これも希望の物語だと私は読んだ。
 2011年3月に起きた東日本大震災と、それにともなって引き起こった福島第一原子力発電所の惨劇をあつかい、ありとあらゆる絶望と落胆と窮地と無情と憤怒を描き尽くして、そこからこぼれ落ちたまだ見えぬ希望をそそのかそうという物語だと。

 上演時間3時間20分という長丁場の本作の全体は三部に別れている。第一部はほぼこの劇に立ち会う我々が過ごす現在を反映したプロローグ的な意味合いをにない、二部は原発事故直後に被災し避難所に逃れた人々のありさまを、三部では時間軸を未来に滑らせて政治経済によって左右される原発問題をいささかパニックSF物語風に、それぞれ粘着的な筆づかいで描きこんでいくのであった。

 幕が上がると、永田町の記者クラブ。国営テレビ局の局員・甲本が、懇意にする国会議員・小田切と議論をしている。この会話は次第に、国債市場を守るため東電をつぶせないこと、また東電は巨大なスポンサーであるためマスコミは正当な報道がしづらいこと、などなどの深刻な問題をジワジワとあぶり出していく。客席に座るものに、リアルで、刺激的な知識を与え、あるいは想起させ、すこぶる刺激に満ちた数十分ではある。

 しかし、ここで提出されるあまたの情報には内実がない。ドラマがないのである。もっといえば、情報に意味だけがあり、価値がないのである。私たちは、観劇しながら大きく眉を開かれるものの、胸をえぐられはしない。もどかしく悶えながら椅子に張り付いている。こうした劇構造が、実はこの芝居体のもろさではないだろうか。

 第二幕では、震災の経験から報道そのものに疑問を感じドキュメンタリー制作の部署に変わった甲本が、片岡一家に張り付いて撮影をしている。被災して知り合いの納屋で日を過ごす片岡家は、父と長男と長女、の三人暮らしだ。母は津波で亡くなっている。

 長女・夕は津波に襲われいまにも命を落とす瀬戸際に、ともに逃げた野崎によって強姦同様の関係を強いられ、家族には内緒で堕胎の費用を野崎に掛け合っているところだ。

 金策に窮した野崎は、原発の後始末という危険な仕事に出かけ被爆する。だがその見舞金を夕へ手渡すという皮肉な結果になる。

 また太陽は缶詰工場から缶詰を盗んで売っており、それに気づいた社長から売り上げの返済を求められる。工場は震災の被害で倒産しようとしていた。ところが、太陽の稼いだ金はほんの数千円。失意の社長は納屋を出てすぐの場所で自衛隊のトラックにはねられて死亡する。事故死か自殺か、作品の中では明確にされていない。

 甲本が社長の死体をみて「壮絶」と嘆ずるのに対し、太陽らは「綺麗だ」とつぶやく。あまりにも多くの死と屍を見てきてしまった彼らと、決定的な溝を感じた甲本はこう洩らす。
 「希望など、ない。それでも、人生は続く。そして私は、この背水の孤島で、独り、佇む」

 実によく取材されていると思った。それを台詞に練り込み客席に的確に伝えるテクニックにも長けている。終演後の拍手もあたたかいものであった。被災者をただ単なる被害者として普遍の中に描かず、群像のうちにうごめく怨嗟や屈折や無知やひがみなぞをきわめて具体的なエピソードとして塗りまぜ、立体的な絵柄にせんと企てた挑戦は、それが総体として2時間を越える窮屈を観るものに耐えさせたとしても、とりあえず評価できるように考える。けれど次回は、せめて2時間に圧縮して見せてもらいたいとシミジミと私は下北沢の空を仰いだのもほんとうだ。

 圧縮は常に善だ、と原稿を書いて食べている私は確信している。

 第三幕は十年後。つまり近未来だ。
 日本企業の海外移転は電力不足がたたって加速し、復興財源を捻出するための法人税増税により拍車をかけた。太陽光発電は微々たる電力しか生み出さず、政府は一転、原子力発電を誘致する方向へ向かう。おりから推進派の議員を襲うテロが発生。緊迫した空気が全土をおおっていた。

 ある警備会社のオフィス。いまは大臣となった小田切がテロを避けてこもっている。警備員に転職した甲本も同じ部屋に。太陽は小田切の秘書に。医師になった夕が少量被爆の危険性を訴えに小田切を訪れ、など前幕の人々はこの一部屋に一堂に会する。そこへ放射能爆弾をもったテロリストが都内へ侵入したというニュースが流れ、舞台は緊迫する。

 たまたま出会った数人の人物がすべて、十年後にまたたまたま接点をもつことになった。こうしたありえない偶然の一致を仕込んだプロットを、私は必ずしも非難しない。たとえばドストエフスキーの「白痴」において、冒頭に登場する鉄道の一車両にすべての主要人物が乗り合わせているなんて無茶が、手管によって実に読ませる場面であることを知っているからだ。うまく物語を継起させるご都合主義を、私はむしろ応援するものである。

 さて、これが希望の作品だとはじめにいった。それはラストに、爆弾騒ぎを首謀した太陽が連行される途中で、甲本が彼を奪還し逃亡させようとするからではない。改革を目指して活動するであろう逃亡する太陽に託した希望でもない。

 ほかでもない、一幕でも二幕でも、そして三幕の終幕まぎわまで、ただ「見る人」であった甲本を、最後の最後に「行動する人」に変えた作者の思いゆえである。いってみれば、本作を通すことで、「背水の陣」をほんとうの意味で敷いたのは、甲本なのである。

 このまるで蟻のようなたった一人が、虫の目をもって作者に捕らえられた大切な体なのだ。そう作者は考えている、と私は勝手に思っている。

【筆者略歴】
 岡野宏文(おかの・ひろふみ)
 1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に『百年の誤読』『百年の誤読 海外文学編』『読まずに小説書けますか 作家になるための必読ガイド』(いずれも豊崎由美と共著)『ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)』(扇田昭彦らと共著)『高校生のための上演作品ガイド』など。
・寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/




【上演記録】
TRASHMASTERS vol.17 「背水の孤島」
下北沢 本多劇場 (2012年8月30日- 9月2日)
作・演出 中津留章仁
出演:
カゴシマジロー
ひわだこういち
吹上タツヒロ
龍坐
阿部薫
星野卓誠
林田麻里
木下智恵
片山享
大友陸
山崎直樹

チケット:
全席指定 前売 4,000円
当日 4,500円
学生割引 3,000円(劇団取り扱いのみ)

スタッフ:
音楽/高畠洋
舞台美術/福田暢秀
照明/宮野和夫
音響/佐藤こうじ
ヘアメイク/西山香里
舞台監督/白石定
宣伝美術・映像/中塚健仁
イラスト/brakichi
制作/横内里穂
企画・製作 ラストクリエイターズプロダクション

【参考】
TRASHMASTERS vol.15 「背水の孤島」(初演
笹塚ファクトリー(2011年9月9日-19日)


「TRASHMASTERS「背水の孤島」」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜

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