重力/Note「職業◎寺山修司(1935~1983/1983~2012)」

◎「テラヤマ」から今何マイル?―私たちの測られた距離/時間
 谷竜一

「職業◎寺山修司(1935~1983/1983~2012)」公演チラシ
【宣伝美術=青木祐輔 提供=重力/Note】

 随分間抜けな時間を経てしまった。論旨の九割は出来ているんだが、というのは書き手の常套句だが、敢えて言わせてもらおう。論旨の九割はできていた。けれども残りの一割は、《時間を経る》ということでしか、私は書けなかった。言葉から距離を取るということ。しかし、同時にそこに居あわせてしまうということ。そのふたつの状態を持ち合わせないでは、何を言うにも躊躇われる公演だったのだ。そしてこの遅さ/早さを、反省とともに捧げたい。


 寺山修司、という人物について特段の紹介を設ける必要はないだろう。劇作家であり、詩人であり、歌人であり、天井桟敷の主宰であり、競馬評論家であり、エッセイストであり、その他多様な顔を見せる、あのテラヤマさんだ。重力/Noteの公演『職業◎寺山修司(1935~1983/1983~2012)』は、この有名多彩でありながら、かつ謎めいた寺山修司像に新たな光を当てようという試みだった。
 本作では、原則として寺山修司の戯曲や詩を用いず、彼のエッセイや、北川登園『職業◎寺山修司』 に収められた、彼をめぐる述懐や評伝を発話テクストとする方法が採られていた。また、クリエイションスタッフは寺山修司の没後(1983年以降)に生まれたメンバーで構成されており、寺山修司と同時代を過ごしえなかったものたちによってこの作品は制作されている。これらの情報から、演出家・鹿島将介が寺山修司本人から注意深く距離を取り、むしろ、どういうわけだか現在まで伝達されている「テラヤマ的なもの」について取り組もうとしたことが伺える。

 さて、本作は重力/Note自身にとって初のSTスポット(横浜)公演であり、筆者にとっては2度目のSTスポットでの観劇であった。事前に丁寧な道案内メールは届いていたものの、方向音痴な私が道に迷うことは容易に予想された。注意深く案内を見つつ横浜の街を歩いていると、薄汚れたツナギに身を包み、チラシを手にした男が交差点に立っているのを見てしまった。
 その無言の俳優―彼とは初対面だが、その立居振舞は当該公演の出演者だ、と私に直感させるものであった―の脇を、「その辺のアパートに住んでてさっき起きてきたんですうー今からコンビニ行きますうー」というポーズで通り過ぎた後で、(うわあ、いきなりテラヤマ的なモノと遭遇してしまったぁ)と漠たる気分に襲われた。
 しかしここまで来て引き返すわけにはいかぬ、とSTビルに歩いてゆくと、運悪く出演者に再び遭遇してしまった。重力/Noteの瀧腰教寛であった。やはりあのツナギで。7月の真只中、猛烈に晴れているのに、赤い傘を差して。
 「ああー、谷さん!」「おー来たよー」「もしかして、わざわざ山口から!」筆者は彼とは既知である。彼とありがちなウェルカムトークを交わしながら、私は慄いていた(ああ、彼は、普通に、喋るんだ)。では、先程の俳優のテラヤマ的スタンディングはなんだったというのだろう? おそるおそる瀧腰に聞いてみる。「その傘はアレ、テラヤマ的演出とかそういう」「や、日傘です、暑いので。」愕然とした。

「職業◎寺山修司(1935~1983/1983~2012)」公演から
【写真は、「職業◎寺山修司(1935~1983/1983~2012)」公演から。
撮影=青木祐輔 提供=重力/Note】

 こんなのは劇評ではない、ただの横浜旅行記に成り下がっているではないか、とお怒りの方も居らっしゃるかもしれない。しかし、この劇場までの間の遣り取りは、まさしくこの公演を成立させるに必要な性格の、ひとつの顕れに違いない。そのひとつは、私たち―1984年生まれの筆者も含めて―の抱く「テラヤマっぽさ」との距離について。もうひとつは、記された時間と、未だ記されえぬ時間との関係について。

 受付を済ませ、怪しげな男がマイクで誰だかを呼んでいるのを聞きつつ会場に入ると、正面上方にPAブースが見える。どうやら通常STスポットで組まれる方向とは真反対にセッティングがなされている。通常、客席である空間が舞台に、舞台である空間が客席に。とはいえSTスポットは元々フラットなスペースなので、こうした転倒を“転倒”らしく見せているのは、PAブースくらいのものだ。客席の年齢層は多様。若年から、寺山修司と時代を共にしたであろう年配の方まで。
 客席に座り、パンフレットやチラシ束に目を通していると、スピーカーから「谷さ~ん」と。薄々予想はしていたが、これは本日の来場者の点呼のようだ。

 やがて上演が始まる。「バツ月バツ日、、」と寺山修司の情感豊かなテクストが語られる。俳優たちの身体はなにか特定の物語展開を持つものではないようだ。それは遊戯的であり、またそのルールを知り得ない我々には呪術的とも感じられる。舞台上で寺山修司にまつわる小道具を遊び/に遊ばれながら、妙な抑揚でテクストは音声化されていく。語りの音高と間は脱日常的であり、脱物語的であり、しかし、その文章が日本語としての体裁を保つギリギリのラインを探るように謡い遊ばれていく。
 詩でも劇でもなく、けれども果てしなくテラヤマ的な言葉の雨を浴びながら、やがて舞台上で語られている言葉が(パンフレットで既に確認していた通り)寺山修司自身のものだけでないことに、やがて観客は気付く。
 それにしても、寺山修司“以外”の人物によって書かれたこれらの文章の、「テラヤマっぽさ」はなんなのだろう? 複数の人間に書かれたテクストであるにもかかわらず、こうして並べられたテクスト群はひとつの共通した視座を感じさせる。それはあたかもひとつの方言、「テラヤマ弁」、とでも言うべきような。

 私は舞台を見ながら、スティーヴ・ライヒの『ディファレント・トレインズ』について考えていた。この曲においては、インタビューの録音から音高を取り出し、弦楽四重奏によってそのメロディーが反復されてゆくことが大きなアイディアとなっている。この方法は『WTC 9/11』でも用いられており、いずれの作品も、ドキュメンタリー性の強い音声素材から、現実の出来事と、有り得たはずの別の物語を読み出し、音楽として再構成しているという点で共通している。
 ライヒがインタビューから音楽を取り出したように、鹿島はエッセイやそのほかの述懐からテラヤマ的な語法を取り出そうと試みたのだろう。韻律の変化は、時にはそれを引き継いで「うた」化する。あるいは青森弁(?)と標準語の同時通訳。また時にはハンドマイクによるピックアップを用いて身体と声の距離感をズラしながら。
 この「テラヤマ弁」への接近はきわめて慎重に、多角的に行われた。俳優一人ひとりの容貌、声は個性的でありながら、自身の惰性的な部分を廃し、文章に内在する「テラヤマ弁」を一滴ずつ抽出するような精密さ。

「職業◎寺山修司(1935~1983/1983~2012)」公演から
【写真は、「職業◎寺山修司(1935~1983/1983~2012)」公演から。撮影=青木祐輔 提供=重力/Note】

 鹿島と重力/Noteのこうした積み立ては、作品中盤に結実する。唐突とも言える暗転の後、溶融するようにテクストは声にされる。その音は皮膚から解き放たれ、テクストの持つ音律だけが闇に置き去られていく。
 私にはこの時間/この音律が、観客全体の持ちうる声の可能性のように聞かれた。複数の声でありながら同時にひとつの声でもある。言葉にすれば矛盾でしかないが、寺山修司を知る(と、言ってもいいのだろうか? しかし)私たちがイメージする(できてしまう)その語り口は、現在の我々にはもはや共通言語として存在する、しかし決してそのようには話さない、その声、は、他人のように冷たく、しかしどうしてか懐かしく思い出されてしまう、この闇、を、あっさりと通過して暗転は終わる。
 ひとりの人物は、その存在によって歴史を書き換える。書き手の中には、その語法でもって言語そのものを拡張してしまったものが存在する。その言葉の違和感を抱きつつ、しかし私たちはその発明を経た地平に、居る。作品に寄せた前文に、「どうも、寺山修司を知らない」と記した鹿島は、注意深い距離を以って、この言語の書き換えを表出させた。

 しかし、この上演は決してスリリングとは言いがたいものでもあった。鹿島の「テラヤマ」から注意深い手つきは「テラヤマ」を浮かび上がらせるものではあったが、「鹿島将介」を、あるいは個としての俳優を浮かび上がらせるものとは感じられなかった。
 私は上演後、考えていた。考え続けている。「テラヤマをやっている」と言うにはあまりに丁寧であったのは(私の寺山修司という人物を思った時の、粗野さへの思い込み!)、このクリエイションにとって幸運なことだったのだろうか? 「テラヤマから距離を取る」ということの中には、“敢えて接する”という方法は取りえないことだっただろうか?

 彼らの取った「距離」のあらわれのひとつとして、俳優の身体を挙げることができるだろう。既に記したように、彼らの身体は遊戯的/呪術的であった。しかし「コドモ身体(※1)」と呼ばれたりする、フォルムから逸脱して選び取られる種類のそれとは距離があるように思われた。
 それはこうした身体へと、彼ら自身が没頭できないことからくるものだったのではないだろうか。身体と発話や、身体と目的が乖離することはままあることだが、この発話/目的が批評という極度に客観性を要求するものであったがゆえだとするならば、この没頭できなさは必然だ。
 距離を取る、それを《時間を経る》ことと書き換えるならば、それは寺山修司から切り離された時間に生きるということだ。「ただ遊戯する」には彼らはあまりにオトナの思考で、各々の運動と向き合っていた。

 以上のように、遊戯しながらそのルール自体を遊ぶ、重力/Noteの批評のための丁寧さ、誠実さは、結果として演劇になった/演劇にならなかった。ただ、作中に活路とも思えた違和感―そのいくつかについて記し、本稿を終える。
 作品終盤、有馬記念のワンシーンを語るシーン。これを語る瀧腰は壁面と地面を行きかいつつ、子どもとして興奮していた。馬であり、実況者であり、ひとりの子どもであった。
 また、時折客席最前列に座り、客席を視る俳優たち。彼らの視線は観客の批評を促すものでありながら、それ以前に、ただ視るためにそこに座っているだけなのである、あたかもそれは、はじめてヒトに出会った赤子のように。

 上演からこれだけの《時間を経て》、相変わらず私は「テラヤマ」は解らないままだ。語ろうとすればするほど、煙にまかれていくように、語り落とした経験があったのではないかと疑心暗鬼になる。こうして書き記しながらも、私はおぼろげになっていく記憶と付き合っている。
 寺山企画は今後も継続していく、と重力/Noteは宣言している。彼らの/私たちの時代は、寺山修司たちの時代と、正面から遊べる「時代」になるだろうか、あるいは既に育ちすぎてしまったのか。行く先は見えない。演劇を、重力/Noteの言うように「《喪われた経験》へ向けられた追悼行為である」と捉えるならば、《喪われている》という意味において、触れ得なかった過去と、未だ見ない時間は、私(たち)の記憶の中で、等価だ。

 彼らの次回公演はフェスティバル/トーキョー12公募プログラムでの『雲。家。』(原作:エルフリーデ・イェリネク )である。同日程、同じくシアターグリーンで、私も公演をすることになっている。そのとき、今は喪われているが、時間を経て、得られる経験もあるだろうか。いつかは分からなかった句が、今は妙に響いてきたりするように。

      秋風やひとさし指は誰の墓
                        ― 寺山修司

※1.「コドモ身体」については、桜井圭介氏のwebサイトの文章にその例を見ることができる。(http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomobody.html

【筆者略歴】
 谷竜一(たに・りゅういち)
 1984年4月11日福井県生まれ、山口県在住。集団:歩行訓練代表。詩人、演劇作家。山口大学教育学部卒。スタジオイマイチ登録アーティスト。現在、10月よりスタートする全国ツアー『不変の価値』(えだみつ演劇フェスティバル2012、フェスティバル/トーキョー12公募プログラム参加作品)の準備中。
集団:歩行訓練 http://walkintrainin.net/

【上演記録】
重力/Note「職業◎寺山修司(1935~1983/1983~2012)
STスポット横浜(2012年7月20日-23日)

原作: 寺山 修司(『ある男、ある夏』ほか)
北川 登園(『職業◎寺山修司』)
構成・演出: 鹿島 将介

出演:
石田 晶子、稲垣 干城、井上 美香、瀧腰 教寛、立本 雄一郎、邸木 夕佳、山田 宗一郎

照明:井坂 浩
音響:安藤 達朗
美術:青木 祐輔
衣裳:富永 美夏
運営:福田 英城 増永 紋美 重力/Note制作部
主催:重力/Note
協力:長谷川事務所 アマヤドリ

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