シス・カンパニー/Bunkamura「ボクの四谷怪談」

◎あの頃のボクにとっての怪談
 吉田季実子

「ボクの四谷怪談」 公演チラシ
「ボクの四谷怪談」 公演チラシ

 橋本治が処女作『桃尻娘』を書く前に執筆していた「幻の戯曲」というふれこみで『ボクの四谷怪談』は創作後40年にして日の当たる場所へと登場した。演出は蜷川幸雄、音楽は鈴木慶一が手掛けており、麻実れい、瑳川哲朗といった出演者の顔ぶれからも、これは何やら大事に違いないという期待がいやがおうにも高まってしまう。
 劇場にかかっている幕は歌舞伎の定式幕であり、舞台の上下には電光掲示板がある。タイトルに騒音歌舞伎(ロック・ミュージカル)とあるのだから、歌舞伎の『四谷怪談』を意識した作品なのだろう。歌舞伎=ミュージカルで騒音=ロックなのか、あるいはいずれの訳語も二語で一つの意味をなしているので解体することには意味などないのだろうか、などと考えているうちに幕が上がった。

 舞台上にあふれかえるのは文字通り騒音と狂騒であり、曲のタイトル『ロックが俺を狂わせる』が電光掲示板に表示される。昭和の風俗街の電飾を思わせる吊り物の前でレヴューのように次から次へと役者が舞台上で踊り、歌舞伎のだんまりの型を見せたりするのだが、お岩役の尾上松也以外は誰がなんの役なのかわからないままプロローグが展開される。
 ロックに乗って突如始まるこのケバケバしい序幕は、実に奇怪としか言いようがないのだが、『東海道四谷怪談』で按摩宅悦が肝を冷やす鼠が猫を食い殺す怪異を考えると、この無秩序はある意味原作に忠実なのではとも思えてしまう。『東海道四谷怪談』は『忠臣蔵』の忠義の理に裏打ちされながらも、この世の条理をはなれ彼岸を垣間見るような不条理の世界なのだから、ここで展開される70年代後半のカオスは観客をいきなり彼岸へといざなっているのかもしれない。

 プロローグが終わると、佐藤隆太演じる伊右衛門が路上で傘を売る場面につながる。大小は挿していてもTシャツにジーンズ、金髪の70年代チンピラの風体である。どうやら東海道四谷怪談の舞台を70年代後半の浅草に移しているらしいということはすぐに理解できる。
 しかし、舞台の背景が移されているだけであって四谷怪談の背景にある赤穂浪士の仇討のテーマはこの戯曲にも常に付きまとっている。2012年の今、客席から舞台上で再現される30数年前の風俗を見たときに感じる古さは、70年代後半の若者たちにとっての仇討という言葉の古さと重ねあわされてしまうため、この劇での仇討はアナクロニズムにしかなりようがない。とにかくこれでもかと言わんばかりにキッチュな過去が再現されるのである。

 公演プログラムの橋本との対談の中で、蜷川はこの作品には凄まじい破壊力があるということ、そして賞はもらえないと断言できるほどに批評家迷惑な作品であるということを述べている。
 それを受けて橋本も、自分の作品にはそもそも批評が少なく、はじめから批評家が歯が立つ相手ではないと語っている。批評の対象はもう少しマシなものだという自虐をこめてではあるが。さらに橋本はかつてほぼ一日で書いたというこの戯曲に関して、「知性とか理性とは無縁な人間の作品」で勢いだけで書いたものだと述べている。

 このように端から創り手たちがある意味突き放してしまった芝居ではあるのだが、その奇妙な疎外感は70年代後半の登場人物たちの持つ低体温に上手くマッチしている。
 「七人の侍」と名付けられた伊右衛門の世代の登場人物たちにはみな通称(伊右衛門は当世蒼白青年、お岩は怪奇正体不明、与茂七は悲憤公害青年など)がついているが、これは橋本のヒット作である『桃尻娘』シリーズを連想させる。当時の「イマドキ」の若者の一人称の手記という形を取りながらも、語り手たちが実に冷めた目線で周囲を、そして自分自身を分析しつつ時代に流されていく様は、やはり読者という観客の視線にさらされることを予期しているような第三者的感覚を呼び覚ます小説であった。
 『桃尻娘』執筆の一年前に書かれたこの戯曲には『桃尻娘』の登場人物たちの影が色濃くにじみ出ているし、現に橋本はお梅が榊原玲奈の原型だと明言し、自分は芝居で考えていてそのスピンオフが小説だと語っている。

 一方蜷川は70年代に現代人劇場で演出した『四谷怪談』に言及し、「ラジカルな学生運動の理想に破れて転落していった若者たちを、『忠臣蔵』という大義から外れていく『四谷怪談』の主人公たちに重ねられると思っ」たと述べている。それならば、今回の『ボクの四谷怪談』は「ラジカルな学生運動」の理想をただ遠巻きに白けた目で見つつ流されるように生きている70年代後半の「イマドキの若者たち」の物語を、30数年後に観客が突きつけられる芝居であったのではないだろうか。

 小出恵介演じる与茂七は、高級そうな趣味の悪いスーツに身を包んだ嫌味なデキるサラリーマン然として登場する。仇討のために働いているとは言うものの、伊右衛門や直助、お袖といった下層階級に生きる人々を軽蔑し、自らを差別化するための方便としての仇討という題目を掲げている知的エリートとして描かれている。
 第二幕二場の隠亡掘では、伊右衛門と直助に持ち歌が1曲(『俺にとっての仇討ち』)しかないと馬鹿にされ、そこから歌合戦のようにブロードウェイ・ミュージカルのナンバーのコラージュが流される(『テーマ・ソング』)。一方、浅草裏田圃で与茂七を殺されたと思い込み、仇討を誓うお袖のナンバー(『私にとっての仇討』)は真にせまったシーンとして演出されている。
 『東海道四谷怪談』の大きなテーマであった仇討の比重は、この芝居の中では大義よりも市井の個人のものへと明らかに移し換えられているのである。しかし『東海道四谷怪談』に立ち返ると、観客は仇討の義に心を打たれるのではない。むしろ下層階級に暮らす人々のリアルな生活の中に突如訪れる怪異のすさまじさ、怨念の激しさ、そして伊右衛門の悪に熱狂しているのである。
 仇討は『東海道四谷怪談』の初演が『忠臣蔵』との組み合わせであり、『忠臣蔵』のパロディーであったことからもわかるように、そもそも劇中で尊ばれていた概念ではない。むしろ『四谷怪談』の世界観の中ではかなり下位であったはずだ。そう考えると『ボクの四谷怪談』は原作に隠された倫理観を引き継いでいるともいえる。

 隠亡掘といえばお岩と小仏小平の戸板返しの仕掛けが有名だが、この芝居では小仏小平は登場しないので戸板返しは見られない。その変わりに鏡を使った反転が随所で採用されている。
 伊右衛門浪宅での髪梳きの場は、伊藤喜兵衛内(ラジオのDJルーム)を挟んで上下にあり、下手が尾上松也演じるお岩と宅悦のいる歌舞伎の世界で下手が70年代の病室であり、『愛と死をみつめて』になぞらえた歌を歌うお岩と伊右衛門がいる。歌舞伎の女形の様式で松也が演じるお岩はこの芝居の中ではむしろ新鮮だ。70年代のお岩への励ましが喜兵衛のラジオから流れてきていて、媒体を挟んで江戸と70年代後半が向かい合う。伊右衛門浪宅には鏡がない。それはお岩に顔を見せないための伊右衛門の気遣いのように解釈される。
 二人のお岩の死と同時にラジオ番組が終わり、もとの一つの舞台へと戻る。

 お岩の幽霊が伊右衛門を悩ませ始めると同時に70年代後半の秩序も狂ってくる。お岩の死と同時にこの世の秩序が反転するのは歌舞伎の通りであるが、ここでの狂いかたはもっとロックで、仏野孫兵衛内では事件が起きるかわりにシュールなのど自慢大会が展開され、それが百万遍の念仏へとスライドする。この芝居での狂乱のクライマックスはお岩の死ではなく、むしろこののど自慢大会であるかもしれない。
 直前の夢の場では、花の中で眠る伊右衛門をお岩がギターの弾き語りをしながら見下ろしている。子守唄のようなやさしい旋律(『君はいつでも夢の中で』)が終わり、お岩が鬘をむしり取るとそこには伊右衛門と同じ金髪の顔がある。この鏡像関係はフィナーレへの序曲であり、お岩/小平ではなくお岩/伊右衛門という『東海道四谷怪談』ではありえない入れ替わりが示唆される。
 百万遍念仏の後の伊右衛門の独白から終幕までは怒涛のごとくで、伊右衛門は仇討という目的のために死んでいった与茂七を羨み罵り、直助やお袖にも置いて行かれたことを嘆く。そして「面倒臭い、グダグダ考えるの止めた。乗る時は乗っちゃお」と流される「イマドキの若者」の本領を発揮する。

 怪異という形で彼岸が此岸へと染み出てきている四谷怪談の世界から、戸板に囲まれた完全な異界へと伊右衛門が閉じ込められ、流される自分を自覚したときに彼はお岩の亡霊と初めて向かい合う。憑りつき祟る、すなわち流されるどころか念の塊となるお岩が伊右衛門の前で鬘と衣装を脱ぎ捨てると、そこにはそっくりそのままの伊右衛門が現れる。
 この演出が可能なのは松也が若女形で体型が佐藤と近く、現代劇での青年役の経験もあったからで、異次元の古典の芝居から70年代の芝居へと飛び込んできてもさほど違和感がなく、キャスティングの妙を感じた。
 伊右衛門がお岩を自分の分身として認めた時に、彼は自分の生き方を全肯定しはじめる。人と比べるのではない、これが自分でそれでいいのだと。

 周囲の戸板の裏面は鏡になっていて、そこに二人と同じTシャツにジーンズの亡霊たちが張り付いて二人一組を作る。二幕から削除された戸板返しがこの三幕で行われるのである。しかも歌舞伎のように役者の身体的な一人二役の分身ではなく、お岩は伊右衛門自身だった、すなわち伊右衛門の内面を投影したドッペルゲンガーだったという設定だ。
 この解釈は一見奇妙にも思えるが、70年代後半の若者たちの物語だと思えばごくありふれたものになってくる。無為に流されて生きている若者にとって、自らの内面と向き合うことは恐怖を伴う大事件なのかもしれない。伊右衛門浪宅で鏡を隠したのも、お岩に見せないためではなく伊右衛門が自らを見つめることを避けていたと考えることもできる。

 怪談、怪異はこの世の理の通らない不条理の世界がどこかにあることへの恐怖心と興味から創り出されていて、なかでも『東海道四谷怪談』は『忠臣蔵』という武士の義の世界の裏側に下層の不条理を寄り添わせているからこそ混沌が魅力的なのであり、そのなかでは仇討に代表される武家社会の倫理観は相対化される。
 歌舞伎ではお岩の死を境に秩序の崩壊した世界がこの世へと手をのばし、舞台上では暗黒の空間が展開されるにもかかわらず、伊右衛門は与茂七に討たれ、再び現世の秩序へと取り込まれる。その結果観客はいきなり現実に引き戻されてカタルシスを感じていられないが、同時に不条理は強引に現世の理念へと回収される。

 一方、『ボクの四谷怪談』では反対に70年代的日常が終幕で完全な混沌に投げ込まれてしまい観客は突き放されたような唐突感をも覚えるかもしれない。フィナーレでは登場人物がみな亡霊として同じいでたちで並ぶのだが、これを見るにあたっては不条理が回収されるのではなく、鏡によって増幅されたのだと思いながら、伊右衛門とともに何か突き抜けた悟りの境地にすら近づいてしまう。
 歌舞伎の四谷怪談だと思えば何とも歯切れの悪い書き換えかもしれないが、これは『ボクの四谷怪談』なのだから70年代後半若者の一人称の物語だと思えばいい。目標もなくシラケて流されてきた若者が、ようやく自分に向き合って、自分を投影しながら他者に向き合うことを知り、自分を知るまでの物語。これがボクにとっての四谷怪談なのだろう。70年代後半、「イマドキ」の若者にとって自分自身が怪異だったころの物語なのである。その時ボクは流されていた。そして流れの中で自分に向き合うことを知った。
 それから30年がたって、もう一度そのころのボクを見つめなおし向かい合う。今ボクはどこにいるんだろう。そんなかつてのボクたちのロックな叫びがこだまするような舞台であった。

【筆者略歴】
吉田季実子(よしだ・きみこ)
 1978年4月東京生まれ。東京大学理学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科満期修了。法政大学、東京経済大学非常勤講師。イギリスルネサンス演劇専攻。共著書に『今を生きるシェイクスピア』(研究社)、共訳書に『反逆の群像-批評とは何か』(青土社)。「ミュージカル・蜘蛛女のキス劇評:蜘蛛女の操る幻想-『心配しないで。この夢は短いけれど、幸せの物語なのだから』」で、第15回シアターアーツ賞佳作入選。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yoshida-kimiko/

【上演記録】
騒音歌舞伎(ロック・ミュージカル)『ボクの四谷怪談
東京公演 Bunkamuraシアターコクーン 2012年9月17日-10月14日
大阪公演 森ノ宮ピロティホール 2012年10月19日-10月22日

脚本・作詞:橋本治
演出:蜷川幸雄
音楽:鈴木慶一

出演
佐藤隆太、小出恵介、勝地涼、栗山千明、三浦涼介、谷村美月、尾上松也、麻実れい、勝村政信、瑳川哲朗、青山達三、梅沢昌代、市川夏江、大石継太、明星真由美、峯村リエ、新谷真弓、清家栄一、塚本幸男、新川將人 、妹尾正文、佐野あい、隼太、松田慎也、周本絵梨花、内田健司

スタッフ
美術:中越司
照明:勝柴次朗
音響:井上正弘
衣装:前田文子
ヘアメイク:河村陽子
振付:池島優
所作:尾上菊之丞
音楽補:池上知嘉子
演出補:井上尊晶
舞台監督:芳谷研
宣伝美術:TUGBOAT2
チーフプロデューサー:北村明子(シス・カンパニー)/加藤真規(Bunkamura)
企画・製作:シス・カンパニー/Bunkamura

料金
Bunkamuraシアターコクーン  S\9,500 A\7,500 コクーンシート\5,000
森ノ宮ピロティホール  \9,500


「シス・カンパニー/Bunkamura「ボクの四谷怪談」」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: mihara
  2. ピンバック: 薙野信喜

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