佐藤佐吉演劇祭2012

||| 個別の公演を取り上げると(1)

-すっかりあとになってしまいましたが、座談会に参加している方々を紹介したいと思います。都留さんと大泉さんはワンダーランド編集部のメンバーでワンダーランドに寄稿もしていて、クロスレビューにもほとんど参加しています。小林さんと齋藤さんもワンダーランドの寄稿者で、これまでクロスレビューにも参加していますね。

小林:私は大学に入学したころから芝居を見ています。そのころは第三舞台が紀伊國屋ホールに進出する時期ですから80年代半ばですね。就職して一時休みましたが、90年代半ばからまた見始めて年間150、160本から200本ほど。そんなペースでこの十数年観劇が続いています。

-齋藤さんはいつころから芝居に興味を持ったんですか。

齋藤:学生のころや就職で上京したてのころから、友人などに誘われて少しずつですがお芝居を見ていました。劇団青い鳥、新感線、加藤健一事務所、第三舞台などですね。劇場に足を運ぶ楽しさを知ったもう一つのきっかけは2年間のニューヨーク勤務です。オフィスが六番街にあって、ブロードウェイまで2ブロックでしたので、TKTSの割引チケットなどを利用してミュージカルをよく見ました。帰国してからも継続してお芝居を見るようになりましたが、そのころは、年間100本も芝居を見るなんてことはあり得ないと思っていた。でも見続けていると、魅力的な作り手や役者さんに巡り合ったりもして新しい興味が広がります。あれも見たい、これも見たいとなり,少しずつ観劇本数が増えて、気がつけば年間200本強を見るいまに至るわけです。

大泉:私は70年代に見ていて、それから30年ものブランクの後、また見始めました(笑)。

都留:私はブロードウェイは一度だけ。「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」を見ました。

小林重幸さんと齋藤理一郎さん
【写真は、小林重幸さん(右)と齋藤理一郎さん。撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

-先ほど小林さんは演劇の枠組みを超える試みに出会わないと述べていましたが、その枠とは何か、具体的に話してもらえますか。物語中心に収まっている、というような指摘なんでしょうか。

小林:舞台ですから、物語だけではなくて、表現スタイルや表現方法も重要な要素だと思っています。今回は10作品ともストーリー的な骨組みがあり、いくつかの劇団は物語を「映像的」に舞台に浮かび上がらせることで、その物語の世界を表現しようとしていました。ぬいぐるみハンターなどは舞台を直接的に「絵」として見せようとしてましたね。俳優のせりふや動きで、背後に映像を浮かび上がらせようという企みというか試みがあると思いますが、そこで浮かび上がらせようとしている「映像」がいままで見たことのないようなものかというと、そこまでは到達していない。物語としても画期的なものには出会わなかったという気がします。あとダンス的な動きの表現も今回はほとんどなかった。そういう意味で、従来からある、想定できる演劇表現の中で各カンパニーがどう個性を出していくかという試みだったと思います。

-齋藤さんは参加劇団の舞台をほとんど見てましたね。どういう舞台が印象に残ってますか。少し具体的に話していただけますか。

齋藤:各劇団の作品にこれまでのベースから全く乖離したものはなかったですが、それでも目を引かれた劇団はいくつもあって。一番はロロですね。彼らを見始めたころの作品は「ラブ」がドッと広がる感じでしたが、最近の作品ではその広がり方に緻密さが生まれていて、今回はそこから更に踏み出して、終盤の壁を破ったあとに広がる風景がひとつの想いへと収束するところにまで至っていた。同じような驚きは、ぬいぐるみハンターの作品にもあって、舞台に勢いや広がりを作り出す力には以前から圧倒されていたのですが、今回はさらにその向こう側に人が育ち生きることの質感が編み上げられていた。これらは作り手がこれまでの自らのメソッドで描くにとどまらない、さらに高めて新たな世界を見せようという試みの果実のようにも思えて。こういう風にして作り手が見せてくれる新たな一面には強く惹かれる。このような作品には評価の★を加えてしまいます。

大泉:ロロが目立ったというのは同感です。レビューにも書きましたが、あの壁の穴から強い光が差し込んでくるシーンに象徴されるような収斂的なものは、いままでになかった。違ったものが出てきたなあと思いました。

-確かにロロの舞台は、旅の最後に壁があり、それを壊した先に木があり、その先の根元に旅の途中で出会った人たちが横たわっている。「ラブ」の恋しさ、楽しさだけでなく、生と死が混じり合う涅槃のような風景が待っているというこれまでにない到達点でしたね。

齋藤:ロロやぬいぐるみハンターは外へのベクトルの広がりで作品世界に見る側を導いていた印象がありますが、シンクロ少女などが描くものには中へ中へと入りこみつながっていく感覚があって。演劇祭をみていくなかで、劇団ごとに個性的なベクトルの作り方で、それぞれの作品の奥行きが確保されていたのはすごくおもしろかったですね。

-佐藤佐吉演劇祭には、参加10作品をすべて有料観劇した観客が選ぶゴールデンフォックス賞が設けられていて、今回はシンクロ少女「少女教育」公演が受賞しました。しかし都留さんと大泉さんは★が多くなかったですね。

大泉:シンクロ少女の公演を見たのは2回目でした。手法はとてもおもしろくて最初見たときは新鮮でしたが、2度目になると、2つの舞台を関係させる手法だけでは物足りなくなり、その先を求めてしまう。その点は劇団にとってちょっと不利だったかもしれません。

都留:演劇祭の参加作品は、それぞれに違う舞台でしたが、みんな粒がそろっているというか、レベルが高いと思いました。

齋藤:どう作品が踏み出すかという方向や肌触りが同じように並ぶと飽きてしまうこともあるけれど、私は、今回その質感にもバリエーションが生まれていたと思います。シンクロ少女のほか、アマヤドリも中へ踏み入る独特の感触を持った舞台でしたね。

小林:ピンク地底人は物語という面から見ると、落ち着くところに落ち着いてしまったという気がして、それほど特徴があるわけではない。でもそれを見せる手法としてはとても斬新でした。劇場の空間が狭く感じられるほど、浮かび上がるイメージはとても大きかった。スマートに見せることに力点をおいたステージで、あのやり方は成功してましたね。最近そういう表現の志向を見かけなくなっていただけに「おしゃれ」なところが目立ちました。

大泉:私はそのおしゃれなところがダメでした(笑)。みなさん評価が高かったんですが、私は一人、低くて肩身が狭かったというか…。そのおしゃれとバランスをとるかのように「豚キムチ」が出てきましたけど(笑)。

||| 個別の公演を取り上げると(2)

大泉:先ほど小林さんが、演劇の枠を飛び出すような発見はなかったとおっしゃった点に関連して、私は見ていないので分からないのですが、以前にこの演劇祭にも登場したZOKKYの「のぞき部屋」という手法は、枠をはみ出しているような気がしますが、どうだったんでしょう。もう一つはバナナ学園純情乙女組です。バナナ学園は王子から登場した劇団だと思うのですが、解散という事態になったのはとても残念です。これも演劇の枠を外れた集団とも言えるかと思うのですが…。

小林:演劇のスタイルとしてみたら、ZOKKYもバナナ学園も枠を外れているといえば外れてますが、それは上演スタイルの部分ではないでしょうか。演劇を次の世代にどう渡していくか、あるいは「まだ見たことのない演劇」という意味でいうと、個人的にはZOKKYは演劇の枠に収まっているという意見なんです。上演スタイルというか、興行スタイルが突出しているのであって、それが演劇のファクターであることには違いないけれど、表現とはちょっと違うんじゃないかと思います。もちろんあれは真似のできないものですけど、あのスタイルの先に、表現として大きなものがあるとは思えません。のぞき穴の中でやっていることは従来の演劇そのものではないかと思っています。

大泉:のぞくと見えるんですよね。

小林:ええ。一対一で見せるというか、のぞき窓の向こうで、観客一人のために演劇をするというスタイルです。それが演劇を次世代に引っ張っていくものかというと、そうは思えない。実はバナナ学園にも同じことが言えて、演劇全体があっちの方向に進むとは思えない。あのスタイルはアイドルの歌謡ショーやひょっとしたら宝塚につながるものではないですか。個人的にはとってもクラシカルなものの中で、少しだけ外れたところにいるという印象ですね。いままでの演劇の連続の中にあるような気がします。ただマームとジプシーは、ある部分は演劇の連続性の中にあると思いますが、それを複合して最先端の成果を自分のものにして、ちょっと先に引っ張っていく。その意味では、マームとジプシーはまだ見ぬ演劇をちょっとですが、見せてくれているのではないでしょうか。

齋藤:先日横浜でwe dance というダンス・プロジェクトが開かれて、そこで白神ももこさんのディレクションによる「不本意そうな人々を不本意そうな組み合わせでプログラムしてみました」というnottDanceの4編の作品を観ました。ダンスがベースになっていつつ作品によっては演劇の演出家や役者の方も参加していて、そこから生まれる感覚はすごくおもしろかったのですが、加えて演劇とダンスは表現のジャンルとしての認識は違うけれど、表現されるもの自体には重なり合っている部分がとても多くあるのではないかとも感じました。ジャンルを隔てる違いがあるとすれば、それは作り手が身をおく世界の語り口なのではないかとも。舞台に表現されるものは、作り手がどの語り口で世界を紡ぐか、そして見る方がどういう意識で見るかによってダンスになったり演劇になったりその中間のなにかになったりもする。そう考えるとたとえば演劇祭の作品も、一応演劇の語り口で語られていたから演劇に見えているのではないかとも思う。バナナ学園にもマームとジプシーの作品にもダンス的な動きやさまざまな新しい切っ先をもった表現が含まれていますが、少なくとも今の段階では私にとってそれらが演劇の語り口で伝わってくるので演劇の表現の範疇だと認識しているように思います。

小林:今回の演劇祭に話を戻してみると、ナカゴーをどう見るかという話につながると思います。最初は「静かな演劇」のように始まりますね。関係を描く群像劇と言ってもいいような雰囲気です。しかし途中で群像劇を作ってきたストーリーはいきなり終わってしまう。そこからは完全なキャラクター芝居になります。最後にどうなるかというと、ダンスになっている。これをさて、どう見るかですね(笑)。彼らは演劇のスタイルをいろいろ知っていてわざとやっている。でも演劇の枠を越えているかというと、枠の中でやっているわけです。1つのパッケージにいろんなものを詰め込んでみた、という状態ですね。芝居が終わってみて、全体の構造が見えてくる。すると、個別のパートの精度の問題が出てきます。例えば最後のダンスのパートをイデビアン・クルーの精度で踊られたら、すごくおもしろいと思うわけです(笑)。各パートがそれぞれの演劇のスタイルとしてもっと完成度が高かったらと思うのですが、実際にはそこまでは到達していない。

-ナカゴーのダンス部分をイデビアン・クルーが踊ったら、うまくなりすぎてちょっと心配ですね(笑)。

齋藤:ナカゴーの作品を私が思い浮かべたのはジャズなんです。最初はゆっくりと奏でられる主旋律があって、それが満ちるとソロ的なパートが登場する。やがて舞台を構成するロールたちが、交代でソロを取り、バリエーションを作り、時に突き抜け、でも主旋律を完全に逸脱することなく、ソロにかぶったり外側でベーストーンを奏で続けているロールもあって、その展開にのっかると有機的に膨らんでいく過程がグルーブ感を伴ってとてつもなくおもしろい。腹筋が痛くなるほど笑いつつ、演劇としてのこういう骨組みの作り方や表現のセンスは凄いと思いました。

-最後にアマヤドリについてうかがいたいと思います。ひょっとこ乱舞改め、となっていて、今回の公演が第0回。旗揚げなのか準備段階の公演なのかはっきりしませんが、みなさんどうご覧になりましたか。

小林:ひょっとこ乱舞のころもそうでしたが、シーンの描き方はとても上手です。今回その精度はさらに上がりました。一つ一つのシーンの精度が上がって、シーン間に狂言回しのような部分が入ってくる。でも描かれる全体の物語はいまいち分からないところがあります。紗幕を張って、向こうとこっちの世界を作っています。そこで構造は作られたけれど、その中で描かれる世界は何でしょう。ある立脚点から世界をどう捉えるのかということを「物語」と呼ぶとすれば、それがはっきりしません。わざとぼかそうとしているのかどうかも分からない。故意にぼかそうとしているのなら分からないでもないのですが、故意かどうかすらはっきり見えてこないのが不満ですね。これまではその曖昧な部分を身体の動きでカバーしていたのですが、アマヤドリになって動きの部分がなくなったので、その曖昧さがより露わになったのではないでしょうか。

齋藤:シーンは綺麗でしたよね。紗幕による舞台の切り分けの狙いも全てではないけれど分かります。作品自体についていえば作り手にとってのとてもリアルな心風景の描写だったように思える。でもそれが観客に対して十分なトリガーをあたえきれず伝わらない憾みが残ります。今回は表現のトリガーを探り当てる実験のような意図もあって、なので第0回なのではとも思いました。


「佐藤佐吉演劇祭2012」への14件のフィードバック

  1. ピンバック: まごころ18番勝負
  2. ピンバック: 待山佳成
  3. ピンバック: ゆうた
  4. ピンバック: 王子小劇場
  5. ピンバック: 薙野信喜
  6. ピンバック: ピンク地底人
  7. ピンバック: ピンク地底人3号
  8. ピンバック: 待山佳成
  9. ピンバック: 司辻有香
  10. ピンバック: 竹子
  11. ピンバック: ピンク地底人5号
  12. ピンバック: 辻企画
  13. ピンバック: 司辻有香

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