アジア舞台芸術祭「Waiting for Something」

◎人を異邦の者にする言葉
 馬塲言葉

 もし、大人に「きれいな赤いレンガの家を見たよ、窓にはゼラニウムがあって、屋根には、ハトがいて…」こんな話をしてもそんな家を想像することすらできないでしょう。あなたは、大人に次のように言わなければいけません。「10万フランの家を見たよ。」って。すると大人たちは、「それはすばらしい!」と叫ぶでしょう。(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「星の王子さま」より)


 言葉は思ったより通じないな、と、人はいつ思うのだろうか。ごく幼い子供は、単語をひとつひとつ記憶していき、伝わることに喜びを覚える。そして、より精度の高い情報の伝達を望んで、言葉というものの紡ぎ方を身につけるのである。しかし誰しもその限界に気づく時がくる。途端に、自分がまるで異国に取り残されてしまったような恐怖、不安や焦り等の感情を少なからず抱くこととなる。言葉によって形作られていた世界が崩壊することによる恐怖は、言葉によって作られていた自己が持続できるのか、という不安に付随するものであると考える。
 人間に命や身体といった境界線が存在しつづける限り、わたしたちは孤立したひとつの生命体でしかない。しかし口は食べることでそれを維持するだけのものにとどまることを許されず、なかば不毛とわかって尚、伝達のために動かされ続ける悲愴な器官と言える。わたしは人の口の端に刻まれたほうれい線を見るにつけ、この不幸な現実を作り出してしまう「言葉」に、強い不信感と疑念を抱かずにはいられない。

 「生きることの意味を問う」などと謡われた作品がどの世界にも溢れるほどあるのは、それが普遍的であり、誰もの興味の根底に働きかけるテーマだとわかっているからだし、わたしたちが常に、人生が素晴らしかったか、自分の生誕が正しかったか、判断できる日を待って生きているからだ。「待つ」こととは人間にとって最も受動的な行為でありながら、精神的にはこれ以上なく能動的でなければならない。働きかけることのできない状態のものへ、それでも自分の内的な部分の一部(こころの一部と言って正しいだろうか)を裂き続けることは決して容易にできるものではない。

 原作の「ゴドーを待ちながら」で、ゴドーが誰なのか、どんな人物なのかが語られることはない。ウラディミールとエストラゴンという二人の浮浪者がただただ、タイトル通りゴドーを待ちながら会話を続けるという内容だ。滑稽で落としどころの見つからない会話である。
 今回の公演では、この「実ることのない会話」というものが、日本人の男性と韓国人の女性(お互い、相手の国の言葉はまったくわからない)という組み合わせでユーモアたっぷりに表現されていた。男は携帯電話の充電を切らし、「わざわざ充電器とか買うのは、なんか納得いかない」という理由で女のもとを訪れる。
 「携帯電話の充電がきれちゃって…」「わたしを殺すつもり?」「あ、そうそう! だから充電させてくれないかな」「きゃあああ! 殺さないで!」といった調子で、男性が日本語に身振り手振りを加えていくら説明をしても、もちろん女には伝わらない。観客はほとんどが日本人なので、女の発した台詞は時折、バックスクリーンに文字として映し出されるシンプルな仕組みだ。
 やがて携帯電話に充電が必要だ、という理解はふたりのあいだで共通のものとなり、男はコンセントを借りることに成功する。しかし、すでにふたりのあいだには数々の誤解が生じている。途中、数少ない共通認識できる単語として「ミュージカル」「ベニス」がでてきたことで、女は男が著名な演出家であり、携帯の充電が終わり次第、憧れの街、ベニスに連れて行ってくれる存在だと信じている。

「Waiting for Something」1
「Waiting for Something」2
【写真は、「Waiting for Something」公演より。撮影=青木祐輔 提供=アジア舞台芸術祭事務局 禁無断転載】

 暗転から、ふたりの位置はかわらないまま、時は二年後。携帯電話の充電はまだ終わらない。原作では、第一幕の終わりにゴドーからの使者がふたりを訪れ、「ゴドーは今日は来ないが明日来る」と言い残して去っていくのだが、女はなんと二年ものあいだ毎日、「充電は今日は終わらなかったが明日終わるかもしれない」という期待を繰り返してひたすら待っていたのである。相変わらず言葉は通じないし、女は薄々、男が演出家ではなく、ベニスに連れていってくれないことにも気づいている。最初の目的は消滅しかけているが、この二年という待ち時間が、ふたりを離れ難い存在にかえてしまった。

 たいへん印象的だったのは、そんなふたりがベンチに座って、少しは通じる、と気づいた英語で、会話をするシーンである。身長や好きな色といった、ほんの小さな情報が取り交わされるのを、男、女、観客の全員がやっと共有できる場面だ。このとき、おそらくわたしだけでなく、多くの観客が喜びや、嬉しさといった感情を抱いたことだろう。
 人間同士のすれ違いや、伝達などというものは本来このような、瑣末で微笑ましいものであると思う。なにがどうなっているとか、それがどういう意味だとか、そんなことはおそらくどうでもいい、シンプルなことなのだ。
 同じ国の者同士であっても、相手の中にある言語の意味を考えずに話せばそれは自分の言葉として、相手の中に誤った状態で残ってしまう。かといって、これをただ器用にやりとげようとするほど傲慢なことはない。取り繕う程に本来の、感情の核の部分から離れていく自分の言葉を、現代人なら必ず知っているはずだ。

 物語は男の妻の登場によって転機を迎えるが、妻と男のふたりは日本語で会話をしているにもかかわらず、まるで言葉が通じていない。価値観の相違などといいう一言では片付けられない食い違いである。
 ここでの問題は、同じ言語を持つものには「言葉は通じるものだ」と、彼女が信じていることだ。言葉の不完全さを、相手の内面の不完全さととらえるこの現象も、誰にも非常に身近なものだ。だからこそ冒頭に引用させていただいたように、わたしたちは数字を用いたわかりやすい単位に頼らざるをえないし、頼りすぎているような気がしてならない。

 さて、この物語は端的に言えば、男と妻の「終わり」と男と女の「始まり」なのだが、明確なハッピーエンドを迎えるわけではない。しかし、終わりがないことこそがある意味一番のハッピーエンドと言えるのではないだろうか。お伽噺の最後には必ず、「末永く幸せに暮らしました。」という決まり文句が付く。しかし、生きている限りその後も物語は続いているのだ。美しい終わりなどというものは、なかなかに存在しないものである。

 「Waiting for something」。わたしたちが待つ限り、やってくるのは「始まり」か「終わり」である。それが幸か不幸かは未だわたしにはわからない。広い意味で言えば、人間は誕生した瞬間が強制的な始まりで、死が終わりだと言える。公演の最後、男は女のところにとどまり、産まれてくる子供のことを考える。最も本質的な「始まり」を考えるのである。
 この物語は、決して重苦しい話ではない。全ての人が直面し、苦悩する問題は、はたから見れば実はこれだけユーモラスで、可愛らしいものであることを知らしめることに嫌味なく成功している珍しい作品ではないだろうか。

 今回、この公演は「アジア舞台芸術祭2012」の一環として上演された。当然、韓国ソウル公演では、観客がほぼ韓国人であることに合わせ、バックスクリーンの字幕での演出が男女逆転のものとなっているだろう。両国で上演するという形態を無駄にしないという意味でも、素直に、面白い試みだったと思っている。
 日本では、韓国の言葉の意味を、韓国では、日本の言葉の意味を理解しようと、観客は意図的にスクリーンに目を移す。わたしたちが興味をもって対象を見つめる限り、互いを認め合う余地は国境や性別を超えて無限にある。それは演劇を含む全ての芸術に対しても、言えることである。

 今回の公演を見に、わたしは東京芸術劇場へ向かった。最前列中央に座ってみると目の前の舞台には机や芝生や楽器、植木やブルーシート等たくさんのものが雑然と置かれていた。開演までのあいだ、外の天気をチェックしようと携帯電話を取り出したが、電波が入らなかった。
 わたしは「待って」いた。劇場の天井の高さと、睡眠時間のことなんかから、脈絡なく思考は変化して今までしてきた選択のひとつひとつがもたらした「始まり」と「終わり」について考えていた。それらは個人的で非常につまらないことなのだが、なにが言いたいかといえば、終わってみればわたしはこの観劇に最適な状態だったのである。そして、物語が終わりを迎えないために、ゴドーが永遠に来なければ良いと思っている。

【筆者略歴】
 馬塲言葉(ばば・ことは)
 1986年愛知県生まれ。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科セノグラフィ専攻卒業、日大芸術学部文芸学科大学院在籍。季刊「メタポゾン」にて短編小説を発表予定。ライター、インタビュアーとしても活動中。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/baba-kotoha/

【上演記録】
アジア舞台芸術祭「Waiting for Something(サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』より)」
東京芸術劇場シアターウエスト(2012年12月1日-2日)

誤意訳・演出:中野成樹
出演:チェ・ナラ(ソウル市劇団)、村上聡一(中野成樹+フランケンズ)、石橋志保(中野成樹+フランケンズ)、キム・サンヒョ(ソウル市伝統音楽管弦楽団)ほか

チケット:入場無料


「アジア舞台芸術祭「Waiting for Something」」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: 川光俊哉
  2. ピンバック: APAF

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