北九州芸術劇場プロデュース「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」

◎水底で踊れ
  藤倉秀彦

公演チラシ
公演チラシ

 『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』(作・演出/藤田貴大、於あうるすぽっと)について書く。本作はマームとジプシー主宰の藤田貴大が、北九州芸術劇場企画のプロデュース公演のために作・演出を担当した舞台である。二十人の役者のうち尾野島慎太朗ほか数名は、マームの芝居の常連だが、その以外の大半はオーディションによって選ばれたようである。
 舞台は北九州小倉。ひさしぶりに小倉に戻ってきた男が、かつての友人や知人と再会したり、少年時代の記憶を甦らせたり、という流れを中心に、小倉で暮らすさまざまな男女の人生を、藤田貴大お得意の〝リフレイン〟の手法で点描する群像劇である。

 当日パンフレットなどによると、この公演は北九州芸術劇場によって企画され、北九州で公演されたということで、それで小倉が舞台になったようである。そのため、小倉とその周辺の土地、商店街、店などの名前が頻繁に出てくる。『LAND→SCAPE』を見ていて(聞いていて)最初に引っ掛かったのは、この固有名詞の問題である。北九州市小倉北区室町の北九州芸術劇場では、こうした固有名詞の数々は、(地元であるだけに)説得力をもってリアルに響いたのだろうか?
 東京都豊島区東池袋のあうるすぽっとでこの芝居を見たわたしにとっては、あまりリアルには感じられなかった。いや、北九州に土地鑑がないからとか、そういう次元の問題ではない。そもそも藤田貴大は、土着性とかローカリティとかいったものとは無縁な劇作家/演出家のような気がするのだ。彼の過去の作品の舞台となった海沿いの街、湖のほとりの街にしても、記号的、匿名的な印象が強い。これら水辺の街は、藤田の出身地である北海道伊達市のイメージが投影されている、という説もあるのだが、それらは日本中のどこの街であっても違和感のない―いや、何なら外国の街であってもかまわない―ニュートラルで普遍的な空間のように感じられる。
 そうであるだけに、旦過市場とかスーパー丸和とか魚町銀天街とか言われも、聞いているほうとしてはどこかすっきりしない。土地を指し示すコトバはしつこいほど反復されるものの、その土地の持つ匂いや雰囲気などが、舞台からあまり立ち上がってこないのだ。むしろ、商店街や店の名前が、強烈なイメージを喚起することなく、虚ろに通り過ぎていくような印象が強い。

 小倉という街の固有性と藤田貴大の〝水辺の街〟の記号性の行き違いに関しては、またあとでふれる。とりあずここではまず『LAND→SCAPE』が、さまざまな点においてマームとジプシーの『Kと真夜中のほとりで』(’11.10)を連想させる、という点について考えたい。
 藤田貴大は類似のモチーフをくり返し使うタイプの劇作家なのだが(もちろん、それ自体は欠点でも何でもない)、『LAND→SCAPE』と『K』は特に共通点が多い。例として、真夜中から夜明けまでの物語であること、中心となる語り手(ともに尾野島慎太朗が演ずる)のきょうだいが水辺で(たぶん)死んでいること、舞台となる街の閉塞感が語られること、水底の死体というイメージが重要な意味を持つこと、などが挙げられるだろう。
 しかし、共通点が多いにもかかわらず、この両者は質感がかなり違う。『K』は暗鬱で息苦しいほどの緊張感に満ちているが、『LAND→SCAPE』にはそこまでの暗さや重さはない。題材や設定の類似が、かならずしも作品の類似につながっていないのだ。たとえば、舞台となる街。『K』の湖のほとりの街は、死の臭いの立ち込める閉塞した空間である。これに対して、『LAND→SCAPE』の小倉は、閉塞感はあるにしても、戻るべき土地、最終的に帰属すべき場所というニュアンスも強い。
 水底のイメージも違う。『K』における湖は、月明かりがなければ穴のように見える不気味な場所であり、街全体を蝕む喪失と虚無の象徴のようでもある。そして湖底は、犬猫の死骸とともに(たぶん)妹の死体が埋もれている暗黒の空間だ。しかし、『LAND→SCAPE』における海(海底)は、もう少し両義的だろう。そこは兄の死体が横たわっていた死の世界、決して癒えることのない心の傷の源ではあるのだが、過去との和解が果たされ、死の呪縛が打ち消される浄化の場のようにも見える。

 両者に質感の差が生じたのは、ひとつには物語の組み立ての違い、といういささか身も蓋もない理由があるだろう。『K』では妹の死とそれがもたらす喪失や痛みが、序盤で語られる。ところが『LAND→SCAPE』では、親しい人間の死はしばらく伏せられたままだ。尾野島演じる〝しんたろう〟の、兄が海岸で波に飲まれて死んだことも、尾野島の友人の妻が病死(?)したことも、明らかにされるのは終盤になってからだ。
 序盤で死と喪失が提示される『K』では、〝リフレイン〟で描かれる光景が、どれほど日常的でありふれたものであったとしても―いや、むしろ日常的でありふれたものであるからこそ―あらゆる場面が禍々しい翳りに蝕まれていく。いっぽう『LAND→SCAPE』では、死と喪失というカードが伏せられたまま、ありふれた日常が反復的痙攣的に演じられていく。それゆえ、日常はあくまでも日常にしか見えず(この〝日常〟の陰には何かが隠されているのだろう、という印象はつねに付きまとうものの)、『K』のような窒息的なテンションは発生しない。終盤で二つの死が提示されても、衝撃や喪失感はない。そこに生じるのはむしろ、謎解きによるカタルシスである。
 作劇における盛り上げ、組み立てという観点から考えると、まず死を提示し、しかるのちに〝死に蝕まれた日常〟を描くほうが、おそらく簡単だし、効果的だろう。にもかかわらず、なぜ藤田貴大はこうした手法を使わなかったのか?

「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」1
「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」2
【写真は「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」公演から。撮影=木寺一路 提供=北九州芸術劇場 禁無断転載】

 この問題について考える前に、舞台美術についてふれておきたい。今回、美術でいちばん印象に残ったのは、舞台の上方―劇場の天井部分に設えられた〝船底〟である。『LAND→SCAPE』は小倉の街で繰り広げられる物語だが、この頭上の船底が、一貫して舞台の空間性を攪乱しつづける。舞台は小倉の街でありながら、海底でもあるのだ。
 『K』をはじめとするマームの過去の作品では、水はおおむね死や異界を象徴し、海岸や湖畔といった水辺の空間は、生と死、此岸と彼岸を分かつ境界領域として描かれている。『K』において湖は、現世と隔絶した暗い死の世界なのだが、『LAND→SCAPE』の海は、すでに書いたとおり、両義性を帯びている。海岸や波打ちぎわも境界的ではあるが、『K』の湖岸のような苛烈な断続性、不連続性はない。むしろ、異なる二つの領域が曖昧に交わる場として描かれているようだ。
 水平性と垂直性が矛盾しながら並立しつづける舞台空間。街は水平的に広がり、その果てに浜辺がある。しかし、それと同時に、頭上にはつねに海が存在している。こうした空間の狂い、ズレによって、『LAND→SCAPE』には魅力的な混乱と錯綜性がもたらされる。それはこの世界の多義性を暗示するものでもあるのかもしれない。だが、このようにして作品世界を多義化、錯綜化、普遍化させていくと、演劇空間は否応なく土着性を失う。ある特定のどこかである必然性が乏しくなるからだ。冒頭に書いたように、小倉の街の匂いや雰囲気が立ち上がってこないのは、それゆえだろう。

 『K』の湖底が完全に異界(あの世)であるとすれば、『LAND→SCAPE』の街=海底は、死が内包された現世ではないのだろうか。つまり、『K』で描かれるのが死によって引き裂かれた世界だとしたら、『LAND→SCAPE』で提示されるのは死すらも構成要素のひとつとして包摂しつつ、断固として存続しつづける世界ではないのか。
 死が提示されるのが序盤か、終盤か、という組み立ての問題も、おそらくこのあたりが関わっているはずだ。つまり、序盤に死を提示しておけば、それ以降の緊張を演出するのはより簡単になるが、そのいっぽうで舞台空間は、生と死の二色に塗り分けられたモノトーンの世界になる。『LAND→SCAPE』では、こうした単色の世界より、もう少し複雑で微妙な色調の世界を描きたかった、ということではないだろうか。『K』をはじめとする過去の舞台では、死はどこまでも喪失でありつづける。いっぽう『LAND→SCAPE』においては、もちろん喪失感は色濃く立ち込めているのだが、同時に回復や浄化の暗示もなされているような気がする。
 死に蝕まれた生から、死を内包する生へ。これが藤田貴大の作風の変化を示すものなのか、劇団外でのプロデュース公演という形態がもたらした副産物なのかは、現時点では判断のしようがない。とはいえ、記憶の作家を名乗る藤田が、記憶の呪縛をそれほど感じさせない、新しい抽斗を開けてみせた、という印象は強く、そのあたりは興味深い。

 最後に役者について。実のところ本作も、プロデュース公演にありがちな弊害を回避しきれていない。個々の役者の技量、佇まい、演技の方向性にばらつきがあるのだ。その結果、全体として統一感に欠ける憾みは禁じ得ない。藤田貴大の持ち味である、悲しくて馬鹿っぽい、可愛らしくて気色の悪い、あの独特な雰囲気が薄れてしまったのは残念。マームとジプシーの舞台に横溢するあの空気が、演出家と役者が共有してきた時間性の賜物であることを、あらためて痛感させられる。



【筆者略歴】
藤倉秀彦(ふじくら・ひでひこ)
 1962年生まれ。翻訳家。訳書にゴードン・スティーヴンズ『カーラのゲーム』、エリック・アンブラー『グリーン・サークル事件』、インガー・アッシュ・ウルフ『死を騙る男』ウルフ(以上、東京創元社)など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujikura-hidehiko/

【上演記録】
北九州芸術劇場プロデュース「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望

公演日程
■北九州公演=北九州芸術劇場 小劇場
2012年11月13日(火)~18日(日)
■東京公演=あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)
2012/2013あうるすぽっとタイアップ公演シリーズ
2013年3月8日(金)~10日(日)

作・演出
藤田貴大

出演
荒巻百合、大石英史、折元沙亜耶、小林類、佐藤友美(劇団C4)、田口美穂、田中克美(超人気族)、中嶋さと(14+)、仲島広隆、中前夏来、鍋島久美子、野崎聡史(ZERO COMPANY)、船津健太、的場裕美、森岡光(不思議少年)、安永ヒロ子、李そじん/尾野島慎太朗、成田亜佑美、吉田聡子

スタッフ
照明:芳田寛希※
音響:塚本浩平※
衣装:真行ひとみ(black2id)
テクニカルマネージャー:吉田敏彦※
舞台監督:森田正憲(F.G.S)
宣伝美術:トミタユキコ(ecADHOC)
宣伝写真:木寺一路(FU.)
宣伝ヘアメイク:橋本理沙(万能グローブ ガラパゴスダイナモス)
営業:後藤勉※
広報:一田真澄※、岩本史緒※
票券:中村智子※
制作:吉浦宏美※、三橋由佳※、高橋優※、黒崎あかね※
プロデューサー:能祖將雄※
(※=北九州芸術劇場スタッフ)

主催/(財)北九州市芸術文化振興財団
共催/北九州市、あうるすぽっと(公益財団法人としま未来文化財団)≪東京公演≫
助成/平成24年度 文化庁優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業
企画・製作/北九州芸術劇場

チケット料金(税込)
日時指定・全席自由
■北九州公演
 一般3,000円、学生(小~大学生)2,500円
■東京公演
 一般3,000円、学生(小~大学生)2,500円
 豊島区民割引2,700円(あうるすぽっとのみ取扱)
※当日各500円増

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