カトリ企画UR「紙風船文様」

◎表すこと、現れるもの
  西尾佳織

 アトリエセンティオで2013年4月4日-7日に上演されたカトリ企画UR「紙風船文様」について、先日3人の方の書いた劇評を掲載しました(»)。今回はそれを同上演の構成・演出の西尾佳織さんにお読みいただいた上で、「応答する形で」寄稿をお願いしたものです。(編集部)

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 私が構成・演出を担当したカトリ企画UR『紙風船文様』の公演が終わってすぐ、ワンダーランドの水牛さんから、山崎健太さん、落雅季子さん、宮崎敦史さんが今回の公演に対する劇評を書いてくださるそうだとうかがった。そして「それに応答するかたちで、作り手からの原稿を」とご提案をいただいた。舞台作品について、腰を据えた、粘り強い対話が必要だと常々思っていたので、一も二もなくお引き受けした。そしていつものパターンで、引き受けてから考え出した。「応答」ってなんだ?

 4月24日、掲載されたクロスレビューを読んで、何を書けばいいのかますます分からなくなった。率直に言うと、私は山崎さんと宮崎さんの劇評が何を言っているのかよく分からなかった。これは、劇評ではなく感想では……? と思った(落さんの劇評には、ピシリと何かを押さえられた感じがした。これについては後で書く)。

 肯定であれ否定であれ、指摘には応答できる。でも、感想には応答できない。どんな感想にも「間違い」はない。上演に対して「こんな感じがした」、「そこからこういうことを考えた、想像した」、「どこが好きだった」、「嫌いだった」、どの声も、聞けることは嬉しい。作品が人に対して、何かを喚起できて、反応が返ってくることは嬉しい。けれどそれらの声に私の返せる言葉は、「そっかぁ、そうなんだねぇ」だ。ときには、作品に強い反応が返ってきて、そこから別のお喋りに発展することもある。それは楽しいし、好きだ。でもそのお喋りは作品から離れ、「その人と私の」お喋りになっていく。それは作品をきっかけに発生したお喋りではあるけれど、作品についての、ひらかれた対話ではない。

 三本の劇評は、全体的に『紙風船文様』に対して肯定的に書かれていたので、私がそこから言葉を拾って紹介し、演出意図を開陳していくのは、人の言葉を自分の言い分の補強に利用することになると思った。それは私の考える「応答」ではない。

 作り手が作品について語ると、それが「正解」のように受け取られ、「答え合わせ」のようになり、結果、作品が持っていたはずの解釈の可能性が言葉によってかえって狭められる、ということがたまにある。けれど作品は作家のものではない。作品の見方に、唯一絶対の正解はない。ただ、作品のことを誰よりも考え、時間もエネルギーも注ぎ込んで作品と付き合っているのは作家だ(ここで「作家」という言葉は、劇作家に限らず、演出家、俳優等を含む「作り手」の意味で使っています)。だからそう簡単に、作品に関して観客が作家と対等にはなれない。それでも観客は、自分が触れたたった一回の上演を通じて受け取ったものと、それを受け取った自分を信じて、そこだけを頼みに、作品について話が出来る。

 今回、岸田國士の戯曲を演出家として演出するということで、演劇作品が生まれる工程と、劇作家・演出家・俳優の職分について、かつてない真剣さで考えた。なぜかと言うと、上演をベストのものにするために、例えば「インスパイアードバイ岸田國士」といった感じで私が『紙風船』を完全に新しく書くという選択肢がアリかナシか?から検討しなければいけないくらい、私は「戯曲を演出する」とはどういうことか、分かっていなかったのだ(ちなみに考えた結果、「インスパイアードバイ…」は「翻案」と呼ばれる、作家の職分に属する仕事だろうということになった)。

 で、考えて稽古して上演まで至った結果、演劇作品は次のような工程を踏んで生まれていることが分かった。(1)【始まり】劇作家が戯曲を書く→(2)【公演準備】プロデューサーが、俳優、演出家、公演会場といった具体的な条件を決める→(3)【公演準備・稽古】演出家が中心になって、俳優やスタッフも、戯曲を解釈する→(4)【稽古】(2)の具体的な条件と(3)を踏まえて、今回の上演の方法が見つかる(=上演台本ができる)→(5)【稽古】その方法を(方法「で」ではなく、方法「を」)俳優が精度高く実現できるようにする→(6)【公演本番】観客の前で、上演する(舞台芸術の場合、この(6)が「作品」と呼ばれる)。

 「知ってるよ!」と思われるかもしれない。私も知っていると思っていた。でもよく分かっていなかった、と今回分かった。強調しておきたいのは、劇作家が戯曲を書き、その戯曲から演出家が上演台本をつくる、ということだ。この二つはどう異なるか。戯曲は基本的に、「読んで理解される」ことを前提としている。劇作家は、その戯曲を上演する演出家や俳優に直接コンタクトを取れるとは限らない。そしてもし取れても、演出家が彼の言葉を聞き入れるとは限らない。もしかしたら彼の預かり知らぬところで、彼の戯曲は彼の思いもしなかった読み方(解釈)をされ、ズタズタに切り刻まれる(構成される)かもしれない。その可能性も踏まえて、劇作家は自分の表現したい世界を戯曲に込める。

 それに対して演出家は、「自分の世界」を強く出すことが仕事なのではない。演出家はひたすら読み、見つめ、そこに道すじが浮かび上がるのを待っている。劇作家の描いた世界を戯曲から読み取り、それを俳優や、公演会場や、その他様々な具体的な条件との中にどう実現できるかの、方法を発見する。そして俳優がその方法を実現していくところに立ち会い、導く。戯曲の世界や俳優の存在を尊重して扱う手つきに、演出家のまなざしと思想はにじむ。

 この、上演の方法を記したのが上演台本だ。上演台本は、見知らぬ誰かに通じることを前提とする必要がない。今回の上演に関わる俳優、スタッフに通じればいい。しかも、もし台本を読んだ上で通じていない場合には、直接話しかけて伝えることも出来る。

 できるだけ工程を分割して書こうとしたけれど、実際にはこれらの工程は非常に複雑に入り組んで(企画によって多少前後することもある)、混じり合って、行きつ戻りつしながら進んでいる。作品の生まれる流れは魔法のようだ。でも魔法のようでいて、本当はとても、コンクリート(具体的な、明確な、現実の)なものだ。優れた作り手は、この1コの生き物のようになって流動していく集団創作の工程に対して、自分個人の果たすべき役割、行うべき作業をきわめてコンクリートなものとして把握している。これは今回、黒岩さんと武谷さんから教わったことだ。そして劇評というものは、戯曲・俳優・演出が魔法のように三位一体になった上演(=作品)を見て、それをもう一度バラバラに解体し、例えば「戯曲の解釈は妥当だけれど、それを具体化するための上演方法のアイディアがまずいんじゃないか?」云々……とかいうこれまたコンクリートな作業を、言葉と思考(それはつまり思想)によって、行う仕事なんではないか。

 しつこいぐらい「コンクリート」と繰り返したのは、今回の三本の劇評に対して、そして世の中に出回っている作品をめぐる言葉の大半に対して、コンクリートでなさすぎると感じているからだ。なんとなくの雰囲気、感情、感覚で発されているように感じる。そして私は、それがとても不満で不安だ。やわやわとした実体のないものを介してでは、初めから同じ感性の人同士でしか話せない。そしてそんな人は、いない。だから実は、何かを話しているようでいて何も、起こっていないのだと思う。

 「表現」という言葉を考える。「表す」と「現れる」で出来ている。表現者(という言葉、私は好きではないのだが)は、何かを表そうとして、表す。そのとき必ず、その〈表されたもの〉に伴って〈現れてしまったもの〉がある。「現れてしまった」と言うと、「おっといけねぇ、予定外のものが現れちまった!」という感じだが、実はその〈現れてしまったもの〉の方が、〈表されたもの〉以上に魅力を放っていたりする。舞台芸術は特に、〈表されたもの〉よりも〈現れてしまったもの〉が比重を負った分野である。

 ちょっと間違えると、〈現れてしまったもの〉に直進しようとする不届き者が出てくる。だが〈現れてしまったもの〉を意識的に〈表す〉ことは出来ない。これは、「そのままの自分」とかいうものが、芸術の場ではそのままに肯定されるんじゃないかと、(なぜか)勘違いしてしまっている例だ。しかしそれは、誤りだ。みっともない我利我利だ。〈表す〉努力を怠っては、その甘えとだらしなさが〈現れる〉ばかりである。

 〈表す〉ことは実は、〈とても表せないことを表さないこと〉だ。「とても表せない」という感覚は、倫理に通じる。それは、表そうとする存在への、尊重と畏れだ。表せないことは表さない、としたとき、表現は厳しく削られる。削られて残らないなら、表さなくてよいのだと思う。

 〈現れてしまったもの〉が自由に現れてくるところへ到達するために、私たちは〈表す〉ことしか出来ない。作り手は必死で〈表し〉ている。それはとてもコンクリートな作業だ。何となくの雰囲気でやっていても、何も現れない。一回一回の試行は具体的であるほどいい。そうして何かが〈現れ〉始める。それはコントロール出来るものではない。良いも悪いもコントロール出来ず、作品に関わる全てが流れ込んで、〈現れ〉る。

 落さんの劇評に、ドキリとした。自覚していないままに現れていたことを、指摘された。

 ところで、原作戯曲のラストシーンがカットされたことに気がついて、私は暗転の中で訝しんだ。本当なら、夫婦のもとに隣家の少女が遊ぶ紙風船が転がり込むシーンがあるはずだったのだ。アフタートークによると、岸田國士が“夫婦と子ども”という単位で家族をイメージしている点を疑問に思ったため削ったとのことだった。
 私は、あのラストを待っていた。妻が夫とともに紙風船をついてくれれば安心できたはずだった。夫婦の空虚さに子どもの不在という理由が与えられ、それが同時に救いにもなるあの場面。でも西尾はそこに安易な希望を描かなかった。しらっと紙風船のかわりに焼きかけのハンバーグなどを登場させ、夫に食べさせて上演は終わった。それを岸田の家族観に対する抵抗で済ませるわけにはいかない。彼女は、結局何をやっても子どもがいても、あの夫も妻も変われないということを示したのだ。女の視点で封建的家族制度に対して溜飲を下げてよしとする演出では、到底なかった。西尾佳織はもちろん、男たちに厳しい観察眼を向けるが、女にも、安易な逃げ道を作らない。どちらにとっても難しい道を、本能で選び取る演出家だ。それが心底おそろしく、頼もしかった。

 今回の演出で、私は『紙風船』の『紙風船』たる理由とも言うべきラストシーンを削った。二人で過ごす日曜日をもて余し、行き詰まっていた夫婦の元に、隣家の少女(千枝子ちゃん)の遊んでいた紙風船が転がり込んでくる。夫がそれを力まかせに突き、妻がたしなめ、「千枝子ちやん、をばちやんと一緒に遊びませう」と言ってまず妻が、追って夫が、外に出て行くシーンである。

 アフタートークで話した通り、「夫婦+子供」が家族の理想形として提示されること(『紙風船』の場合は子供が不在で、その不在が夫婦に強い不全感をもたらしているので、逆の提示の仕方だが)に異議を唱えたかった。外界からの侵入者によって二人の世界が開かれ、夫婦が外へ出て行くという終わり方も、安定した、いかにも作品の終わりらしい終わりで、そうやって「チャンチャン」と綴じてしまいたくなかった。『紙風船文様』をつくりながら、私はずっと岸田國士に、それから作中の夫に、憤っていたのだ。

 ……と自分では思っていたけれど、違った。そのことに、落さんの劇評で気が付いた。確かに私は、「男はどうせみんなばか」と思っていて、でも「だから、参っちゃうけどしょうがない」と思っていた。期待も反発もしていない、低温だった。本当は妻に対して、一番怒っていたのだ。私は熱を持って怒っていた。どうして「可愛がってもらえる女学生」として関係を構築できなくなったら、一気に夫を置いて千枝子ちゃんに近づき、自ら「をばちやん」を名乗ってしまうのか。誰かによって対象化され位置づけてもらうしか、女の立ち方はないのか。そこで自閉してどうする? あなたが一人で一足跳びに変化してたくましくなってしまったら、男は意味が分からないまま、ふてくされてヨソで「母ちゃん」の悪口を言って、きっと一生変わらない。だって変わらなくたって生きていけるのだから。一緒に変わっていかないと、だめなのだ。

 社会は、とりあえず現状、ユニヴァーサルな形にデザインされているわけではない。例えば自分が足を骨折して初めて、「この駅はどこにエレベーターがあるんだ?」が切実なものとして意識され始めるように、現状に特に不便を感じない立場の者が、この世界がどのようにデザインされているかを意識することは難しい。だから、男/女という分け方で見た場合には、女の側が男に伝えない限り、認識されない社会構造上の不備がたくさんあるのだと思う。けれど、女のしんどさを男に思い知らせて復讐しても仕方ない。男女を入れ替え、マチズムを反転させたって虚しい。男がどんなに女を無視しても、私は男を小馬鹿にしつつ、切り捨てないで、話がしたい。

 『紙風船文様』は、これから更に七人の演出家を迎え、七つの上演がつくられる。今回、私のつくった上演に対する劇評では、戯曲解釈や内容面での言及が中心だった。けれど私は、演劇作品とは、つまり上演とは、内容を〈いかに扱うか〉ということだと思っている。山崎さんと落さんと宮崎さん、そして他の劇評を書く方が、これからの『紙風船文様』についても、〈扱う手つき〉に言及した劇評を書いてくださったらすごくいいなーと、期待している。

【筆者略歴】
 西尾佳織(にしお・かおり)
 作家・演出家、鳥公園主宰。1985年東京生まれ。幼少期をマレーシアで過ごす。東京大学表象文化論科にて寺山修司を、東京藝術大学大学院芸術環境創造科にて太田省吾を研究。2007年に鳥公園を結成以降、全作品の脚本・演出を担当。「正しさ」から外れながらも確かに存在するものたちに、少しトボケた角度から、柔らかな光を当てようと試みている。2011年3月、鳥の劇場(鳥取)の滞在制作で「家族アート(再演)」を上演。同年10月、「おねしょ沼の終わらない温かさについて」でF/T11公募プログラム参加。12年2月、大阪市立芸術創造館主催のコンペティション・芸創CONNECT vol.5にて、「すがれる」が優秀賞受賞。鳥公園の活動と並行し、07年-10年には劇団乞局(コツボネ)に俳優として在籍。現代美術やダンスなど、異分野の作品にも参加している。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nishio-kaori/

【上演記録】
 カトリ企画【 UR06 】 シリーズ岸田國士「紙風船文様
 3月30日(プレ公演) 4月4日-7日(本公演) アトリエセンティオ

 原作 岸田國士
 主宰・プロデューサー カトリヒデトシ
 脚色・演出 西尾佳織(鳥公園)
 出演 黒岩三佳 武谷公雄

 料金 <プレ公演>1500円 <本公演>予約:2000円 当日:2500円

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