庭劇団ペニノ「大きなトランクの中の箱」

◎平成のオイディプス
  堀切克洋

公演チラシ
「大きなトランクの中の箱」公演チラシ

 2000年代の日本において、青山の自宅アパートを改造して舞台装置を作り込み、公演の準備を行うような真似をしていたのは、タニノクロウの庭劇団ペニノくらいだっただろう。
 維新派の松本雄吉の命名によって「はこぶね」という名を与えられたこの小さな部屋は、やがてわずか数十名の観客を招き入れ、いわゆるアトリエ公演を行うようになった。『小さなリンボのレストラン』(2004年)、『苛々する大人の絵本』(2008年)、そして『誰も知らない貴方の部屋』(2012年)の三作品がそれだが、建物の老朽化と大震災による障害によってこのアトリエが取り壊されることとなり、タニノはこの三つの作品をひとつの「箱」に詰め込んで上演することを決めた。それが、『大きなトランクの中の箱』(2013年4月12日-29日、森下スタジオBスタジオ)という作品である(*)。

タニノ作品の特徴
 タニノの作品には、大きな特徴がふたつある。
 ひとつは、異様なまでに精緻なオブジェや舞台美術。タニノの作品は「大人のための童話」という色合いが濃く、その異空間を表象するために、舞台上にはグロテスクでいかがわしい「もの」が溢れ返っている。これらが、観客の眼を楽しませ、そして何だか心地よい不快感を与えてくれるのである。
 もうひとつの特徴は「性」への関心。そもそもが「ペニノ」という劇団名は、タニノの名前と「ペニス」という言葉をミックスしたもの。精神科医である両親に育てられ、みずからもかつては精神科医という職業に就いていたというタニノにとって、「男根」がひとつの強迫観念として今もなお迫ってくるかのごとく、「ペニス」や「去勢」という概念がドラマトゥルギーの重要な鍵を握っているのである。

「父」への愛憎
 主人公・ムラシマ(山田伊久磨)は、大学受験を控えた「高校生」である(演じている役者は30代後半から40代前半に見えるため、それだけで滑稽!)。三畳ほどの和室で学ランも脱がずに必死で勉強していると、その様子をでっぷりとした体型にランニング姿の「父」(飯田一期)が覗きにやってくるのだが、ムラシマは、部屋から父が立ち去ってもなお、興奮を隠せない。というのも、彼は自分でも理解できないほどに、「父」の肉体に性的関心を抱いているのである。無意識のうちにノートに書き込まれた「妄想小説」を発見してしまったムラシマは、いけないことだと思いながらも興奮を抑えられず、押し入れのなかに隠れて自慰行為にふけるのだった。

 この近親相姦的同性愛が、『大きなトランクの中の箱』を貫いている主題である。この家には「母」の姿がなく、まるで王様のような「父」がいるのみである。したがって、いつまで経っても「大人」になることのできないムラシマが抱えているのは、母親とのセックスを夢見て、父親に「去勢」されてしまうという、通常のエディプス・コンプレックスではない。彼は、「母」が不在の家のなかで、贅肉と包容力に満ちた父親に認められ、褒められ、そして抱かれてみたいと思っているのだ。これは、先に挙げた三作品のなかでも『誰も知らない貴方の部屋』で描かれていた主題であり、このタイトルの「貴方」とは、ムラシマにとっての「父」を意味している。ムラシマにとって「父」の部屋は未知のワンダーランドであり、実際にそこに足を踏み入れてみると、そこではあらゆるもの(椅子、机、ランプなど……)がペニスの形状をしている奇妙な部屋なのであった……。

 しかし、今回の作品では、受験生ムラシマが自宅で勉強をしている最初の場面と、父親の部屋にたどりつく最後の場面のあいだに、『苛々する大人の絵本』と『小さなリンボのレストラン』の二作品が挟み込まれるかたちで構成されている。といっても、これらは完全に独立した作品ではない(『苛々する大人の絵本』の主人公はやはりムラシマであるし、これら三作品には後に触れる二人の「魔女」が登場する)ので、物語はそれほど無理のないかたちで構成されていたと言えるだろう。というかむしろ、以前に見た作品よりも遥かに豊饒なコンテクストを含んでいたのである。

妄想の迷路と「廻り舞台」
 押し入れで自慰行為にふけっていたムラシマは、眠りから覚めるとまるでガリバーのように大きくなって、ミニチュアの街の上に寝ていることに気づく。しかも、驚いたことに、股間からは大きな樹木がにょきにょきと生えているのである。その木は低い天井を突き破って、上につながる部屋まで伸びている。『苛々する大人の絵本』として上演されたこの場面は、舞台装置が上下の二層構造になっていて、「ミニチュアの街の上」には、童話に描かれる森のなかの小屋のような空間がある。

 ムラシマが天井から顔を出してみると、魔女のような姿をしたふたりの女(瀬口タエコ・島田桃依)が、下から伸びている樹木(部屋のなかに生えている)から出る白い液体――もちろん、これは「精液」を連想させる――を音を立てて啜るようにして食べて生活している。全身黒ずくめで、後頭部は箱のような形状のものが出っ張っていて、いびつな歯と歯茎をもっている二人の女のうち、一方は豚の顔をしていて、もう一方は牛の顔をしている。ムラシマは、まるで「不思議の国」に入り込んでしまったかのように、みずからの夢の世界における出口を探すのである。

 物語は、そのあともムラシマが次々と奇妙な空間に入り込んでいくというかたちで進行していく。魔女たちの家の扉を抜けると、そこは骨董店かと見まがうほどの薄暗いレストラン(『不思議の国のアリス』で言うならば、いわゆるマッド・ティー・パーティーのような場面)であるが、ここでは、予約客と目されたムラシマのもとに、ウェイトレスとなった「牛」と「豚」が次々と(巨大化したゴキブリなどの)奇妙な料理を運んでくる。このレストランを抜けると、今度はタイルで覆われた狭い空間にたどりつく。そこに待ち構えていていた「父」はやがて、みずからの書斎に「息子」であるムラシマを招き入れてくれる……。
 こうした目まぐるしい舞台展開が、「箱」のような矮小な空間にものを溢れるほど詰め込んだり、上下二層の空間に再構成したり、最終的にはこれらの舞台を円状につないで「廻り舞台」とすることで、まるで夢の世界の奥へ奥へと入り込んでいくような印象を与えることに成功していたというのが、本作品における最大のポイントであったのではなかったか。まさしく「心地よい不快感」である。

オイディプスは父を生かす
 物語の後半で、ムラシマは「父」と再び邂逅する。やはり二層構造の下部にあたる狭い空間は、四方にタイルが貼られていて、彼はここで「父」に対して以下のような数学の問題を出す。

無限に広がるタイルがあります。そこに王様と悪魔がいます。王様がタイルを一マス動くごとに、悪魔はタイルを一マス食べてしまいます。王様は悪魔から逃げ切れるでしょうか?

 ここで、ムラシマが「父」に期待していたのは、「王様は逃げ切れる」という答えだっただろう。彼は、「どんな試練にも負けない強い父親像」をこの出題を通じて求めていたのである。
 しかし、「父」の答えは違っていた。王様はやがて年を取って、疲れて、歩くのをやめてしまうから、逃げ切れないだろう、というのである。文藝評論家の田中和生は、

日本の現代文学で(…)「父」ほど描かれることが少なく、また描くことが困難なものもない。それは一つには、一九四五年の敗戦後に生まれた日本の戦後文学が自らの「父」である戦前の日本を嫌悪し「父」のイメージを希薄化しつづけてきたからであり、またもう一つには、フェミニズムを含む二十世紀後半以降の現代思想が近代的な「私」を再生産する「父」を否定しつづけてきたからである。あるいはその二つの事情が重なった日本において、もっとも「父」のイメージの破壊は熾烈だったと言えるかもしれない(『神様のいない日本シリーズ』、文春文庫、172頁)

と、この「ベケット」をめぐる父と子の物語の解説のなかで論じていたが、1976年生まれのタニノクロウが『大きなトランクの中の箱』において、やがて弱りゆく父親の像を暗示していたことは見逃せないだろう。とりわけ、この物語の主人公は「中年」でありながら、いまだ大人になりきれない「高校生」であり、つまるところ「童貞」であり、さらには「結婚」などにも興味が持てずにいるのである。そして冒頭に述べたように、「母」は不在のこの家庭において、「王」である父がやがて老いてゆくという事実を、息子であるムラシマは見つめなければならない。だからこそ、ムラシマは舞台の終盤に「父」のこの回答にこう反論するのである。「お父さん、ちがうよ。お父さんが歩けなくなったら、ぼくがおぶっていくんだよ」と。

 このさりげない親子の会話のなかに、もしかすると、高齢化していく日本社会における種々の問題を読みとることができるかもしれない。ギリシャ悲劇のオイディプスはかつて、父であるライオスを(それと知らずに)「殺害」したが、現代においては逆に「父」を「生かす」ことが問題となっていると言うことができるだろうか。たとえば、父親の弱ったペニスを溲瓶に入れ、排尿させるという介護の場面を想像してみればわかるように、私たちはオイディプスとは全く異なる意味性を帯びたペニスを相手にせざるをえないのである。

ペニスの行方は?
 こうした場面は、もちろん『大きなトランクの中の箱』の主題ではない。しかしながら、本作を単なるフロイディズムの猥雑な演劇と見るには、どうも惜しい気がするのだ。上に述べたように、この作品では「平成版オイディプス・コンプレックス」とでも呼びうるものが論じられているように思われるからである。

 だからこそ、最後に「父親の部屋」で四人の登場人物が、ペニスのかたちをしたリコーダーで四重奏を演じる場面は、どことなく神話的な、救いの場面であるように見えてならない。ここで演奏されるのは、パッヘルベルの『カノン』。ムラシマ、父、そして二人の魔女が、ペニスだらけの部屋のなかで、コード進行や演奏パートを少しずつ変えながら、『カノン』を五分以上にわたって――演奏がなかなか上手であるために、客席からは笑いが洩れる――演奏するのである。ムラシマは何かから「解放」されるようにして、恍惚の表情でリコーダーを吹きつづけていた。

「大きなトランクの中の箱」公演から
【写真は「大きなトランクの中の箱」公演から。撮影=田中亜紀 提供=庭劇団ペニノ 禁無断転載】

 しかし、ムラシマはこの直後にみずからのペニスがなくなっていることに気づく。同じ旋律を四人がそれぞれ演奏する『カノン』では、「大逆循環」という和声の進行をしていくからだろうか、ペニスを喪失したムラシマは慌てた様子で、下半身裸で(とはいっても大事なところは隠している)、舞台の肝である「廻り舞台」を高速で逆回転しながら、「大事なものなんです! このへんに落ちていませんでしたか!」と言って探しまわるのであった。この思いもよらぬオチに観客は大きな笑いを誘われるが、一体彼のペニスはどこにいってしまったのだろうか?

 少なくとも、彼は古典的なエディプス・コンプレックスを通じて抑圧されて「去勢」されたのではない。彼がペニスを喪失したのは、みずからが「父」になることを断念したせいかもしれないし、あるいは憧れの「父」の老いを認めてしまったからかもしれない。その答えは、デュシャンの「トランクの中の箱」という作品がまるで彼の芸術を小さな空間に凝縮しているかのごとく、タニノクロウという劇作家のこれからの作品へと接続されることだろう。「はこぶね」は、航路へと出たばかりなのである。


*「トランクの中の箱」とは、マルセル・デュシャンが自身の作品の複製やミニチュアなどを「箱」のなかに一挙収納した作品のタイトル。

【筆者略歴】
 堀切克洋 (ほりきり・かつひろ)
 1983年福島市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。専攻はフランス語圏舞台芸術・表象文化論。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社)、分担執筆に『北欧の舞台芸術』(三元社)。「翻訳(不)可能な文化をめぐる旅――ジャン=ミシェル・ブリュエール『たった一人の中庭』」にて第17回シアターアーツ大賞受賞。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/horikiri-katsuhiro/

【上演記録】
庭劇団ペニノ「大きなトランクの中の箱」
森下スタジオBスタジオ(2013年4月12日-4月29日)

作・演出・美術:タニノクロウ
出演:山田伊久磨、飯田一期、島田桃依(青年団)、瀬口タエコ

構成:玉置潤一郎、山口有紀子、吉野万里雄 
美術製作:稲田美智子
美術助手:松本ゆい
特殊小道具:小此木謙一郎(GaRP)
舞台監督:三津久 
照明:阿部将之(LICKT-ER)
音響:佐藤こうじ(Sugar Sound)
演出助手:仮屋浩太郎 
運営:西村和晃 
制作:小野塚央 

制作協力:quinada
助成:公益財団法人セゾン文化財団
主催:庭劇団ペニノ

チケット:整理番号付き自由席
チケット料金:4月19日まで 前売り2500円・当日券3000円・学生2000円
       4月20日より 前売り2800円・当日券3300円・学生2000円
 

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