三木美智代 in 風蝕異人街「桜の園」

◎「変な金持ち」に教えられたこと
  水牛健太郎

 私はこれまでの人生のほとんどをカネがない人間として過ごしてきたため、「金持ちはちょっと変」という気持ちが強い。そんな私にとって、「桜の園」のラネーフスカヤ夫人は「変な金持ち」の代表みたいなものである。恋にうつつを抜かし、乱脈な生活の結果、先祖からの領地を失いかけているのに、現実を見ようともしない。

 特に不思議なところは、幼い頃夫人に可愛がられ、今や立派な商人となったロパーヒンが、領地の中の桜の園を別荘地に貸しだしさえすれば、十分な収入が得られ、全く安泰である、と至極真っ当な話を何度も持ちかけているのに、耳を傾けさえしないことだ。私はいつもロパーヒンがかわいそうでならず、最後にロパーヒンが、魔が差したように領地を落札してしまい、それでもなおラネーフスカヤ夫人を「どうして私の言うことを聞かなかったんですか」と責めながら泣いてしまう場面では、もらい泣きをしそうになるぐらいである。

 今回取り上げる公演は「桜の園」をラネーフスカヤ夫人の一人芝居にしたもの。一人芝居というが、もう一人男性(こしばきこう)が背後に立っていて、ロパーヒンを中心に男性登場人物のせりふを言い、ラネーフスカヤ夫人と対話をする形になっている。

 舞台は平場に白塗りの椅子や小さなテーブルがいくつか置かれており、その奥に黒い幕が一枚下がっている。幕には左右に二か所、窓が開いていて、金色の縁取りがある。額縁のようだが、馬車の窓をかたどったものらしい。「桜の園」ではラネーフスカヤ夫人が馬車に乗って領地を訪れるところから始まり、最後に馬車に乗って去っていく、その馬車である。男性登場人物のセリフを担当するこしばは燕尾服を着てこの幕の背後に立っており、窓から下半身だけをのぞかせている。顔は見せない。

 ラネーフスカヤ夫人を演じる三木美智代は北海道の劇団「風蝕異人街」の代表を務めており、これまでに鈴木忠志や宮城聡などの舞台に出演している。「風蝕異人街」では寺山修司作品を中心に上演しているようだ。

 照明の具合か、最初は幕の存在にも気づかなかった。明転すると、黒い幕と、窓の向こうに悠然と座っているラネーフスカヤ夫人を発見して驚いた。まるで絵のように数分間動かず、まばたき一つしない。それからゆっくりと立ち上がって大きな革トランクを持って幕の前にやってくる。ラネーフスカヤ夫人が領地に到着したのである。

「桜の園」公演から
【写真は、ラネーフスカヤ夫人が領地に到着する。「桜の園」公演から。提供=風蝕異人街 禁無断転載】

 夫人のセリフと主要な会話はかなり丁寧に拾ってあるので、一時間に満たない上演だが、「桜の園」を知らない人でも物語の大筋はつかむことができる。三木は基本的にアングラの人らしく、やや誇張された身振りと気迫に満ちたセリフ回しでラネーフスカヤ夫人像を構築していく。感情の振り幅が大きく、泣いたり笑ったりと忙しく、愚かしくも見え、しかし純真で魅力的なラネーフスカヤ夫人だ。

 人はよく会う人と仲良くなるものだと言うが、一人芝居という形でラネーフスカヤ夫人をずっと凝視していると、「変な金持ち」のはずの彼女の生き方なり、モノの見え方に共感していく自分を感じる。三木の力強い演技に、見る者を人物の中に引きずり込んでいく力があった、ということでもあろう。学生のトロフィーモフが「いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです」というのに対して、ラネーフスカヤ夫人は「あなたはどんな重大な問題でも、勇敢にズバリと決めてしまいなさるけど、それはまだあなたが若くって、何一つ自分の問題を苦しみ抜いたことがないからじゃないかしら」と答える。これはまるきり屁理屈みたいに聞こえるが、三木がこのセリフを言った時、不思議とすっと入ってきて、この人の言っていることが分かったと感じた。

「桜の園」公演から
【写真は、「桜の園」公演から。提供=風蝕異人街 禁無断転載】

 桜の園を手放せずに、みすみす領地全体を手放すことになってしまうのも、悪い男と知りながら離れられないのも、傍から見れば馬鹿みたいだが、この人の生きてきた道からすれば、どうしてもそういうふうになってしまう。そのことを論理的に説明することもできる(たとえば、「桜の園」のない領地、というものをこの人がどうしてうまく想像できないのか、というようなこと)が、多分そんなに重要なことではない。

 それは要するに、違う人から見れば何事も違うように見えるという、言葉にしてしまえばあまりにも当たり前のことでしかない。しかし、その事実を本当の意味で理解することはとても難しいし、完全な意味で理解できたら、その人は人間ではなく、神になってしまうだろう。ところがこの芝居では、違う人から見た物事の見え方の一端を、垣間見たと感じた。

 人間の生活の基盤に経済があって、それがちゃんとしていないとすべてが失われてしまうということ。現代では王族ですら免れえない、常識以前のこのことが、ラネーフスカヤ夫人にはどうしても理解できないのだが、その代わりに、ラネーフスカヤ夫人には土地や人との、経済を媒介にしない、生々しい結びつきの感覚がある。私が感じたのはその感覚である。「自分の問題を苦しみ抜く」と彼女は言うが、そこには「カネの問題」は全く入っていない。なぜならカネは人生の本質的な問題ではないから。彼女にしてみれば、それは言う必要もないほど当たり前のことなのである。

 ラネーフスカヤ夫人は人と土地が、身分秩序に従い、貨幣を媒介とせずにつながりあっていた伝統社会に生まれ育った。貴族である彼女にとってカネは稼ぐものではなく「当然ある」ものであり、人への好意の証として自分から人に対して渡されるものなので、カネが近代社会において重要な問題になり、自分に逆襲してくるということが全く理解できない。頭ではかろうじて理解できても、身体は追い付けない。

 一方、カネのことばかり気にしながら生きてきた私は、カネを抜きにして「自分の問題を苦しみ抜く」ことはできない。要するに私は人生に対してその分、盲目なのである。何かが見えるということは逆に何かが見えなくなってしまうということだ。ロパーヒンの方がラネーフスカヤ夫人よりも賢明に見えるのは、ただ現代人はロパーヒンに近い生き方をしているから、ということに過ぎない。

 ラネーフスカヤ夫人は「桜の園」が書かれた二十世紀初めの時点で「過去の遺物」であったことは間違いないが、それから百年以上が過ぎ、貨幣経済の肥大化が進むなかではもはや道化に近い。三木の演じるラネーフスカヤ夫人は、貴婦人然とした服装と感情表現のエキセントリックさの対照で、その印象を強めていた。演劇における道化が常にそうであるように、三木の演じるラネーフスカヤ夫人も、その異質な存在感と言葉の力によって秩序を転倒し、世界の隠された一面を見せてくれたと感じた。

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
三木美智代 in 風蝕異人街「桜の園」
サブテレニアン(2013年9月2日‐3日)
作 チェーホフ
演出 こしばきこう
出演 三木美智代
板橋ビューネ参加作品

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください