NPO法人向島学会×東京アートポイント計画「墨田区在住アトレウス家」Part 1&2

◎アトレウス家の過ごし方 その1
 中村みなみ/日夏ユタカ

 アトレウス家はギリシャの神話や演劇に登場する家族である。一家が現代の東京に住んでいたら?—このような発想から始まったという「アトレウス家」のプロジェクトは2010年にスタートした。『墨田区在住アトレウス家』『豊島区在住アトレウス家』『三宅島在住アトレウス家』と上演の度に名前を変え、一家は住む場所を変えてきた。

 上演は住む人がいなくなった民家、地域の複合文化施設、島の林道などで、いわゆる劇場では行われない。つまり、ここにいれば全てを見通せるという点は設定されていない。そこでは観客が、何を見聞きし、また何を見聞き逃すかを、意識的にも無意識的にも選択することになる。

 家はそこに住む人と場所の両方を意味する。「家」を標榜するこの作品は時間と空間の枠組みであり、訪れた人たちは各自でその「家」での過ごし方を模索することとなる。ここでは中村みなみ、日夏ユタカ、斉島明、廣澤梓の4名の「アトレウス家」での時間を紹介します。

■中村みなみ すきまとあそび—『墨田区在住アトレウス家』Part 1

 たとえば今はもうない家を思い出すとき、ふと浮かび上がる痕跡は、ほんのささいなものかもしれない。何気ない柱の傷、あるいは帰宅して玄関を開けた時の扉の音や声の響き、暗い部屋に入って電気のスイッチを押す手つき。自分のからだに蓄積された記憶は、小さなきっかけで見えてきたりする。

『墨田区在住アトレウス家』Part 1は2010年7月31日と8月1日の2日間、そのタイトルのとおり墨田区のとある一軒家で上演された。昼夜1回ずつの計4回公演で、昼と夜とで内容が変わる。また7月31日夜の回は隅田川花火大会に合わせた特別版だったため、同じ公演の名を冠していても、観客の体験はそれぞれまったく異なったものだったと言える。

 わたしが訪れたのは8月1日15:00の回だった。会場は東武伊勢崎線「東向島」駅から徒歩8分ほど。事前にメールで送られた地図(Googleマップ等ではなく、手書き)を頼りに背の低い家々のあいだを進み、明治通りを渡った先に、「旧アトレウス家」はひっそりと佇んでいた。すこし大きくて、でも一見なんの変哲もない古風な民家。

 玄関脇で受付を済ませ、裏の勝手口で靴を脱ぎ家の中へ入る。まず台所、それに風呂、トイレ、物置、いくつかの部屋。物語を想起させる演出じみた装飾はなく、目立った家具も置いていない。誰かがいた気配はあるが生活感はないような、奇妙な空気だった。

 この公演には自由時間とイベント時間があり、イベントの中でもその回の観客全員が同時に見るものと半々に分かれて見るものがある。その都度スタッフから声がかかるが、基本的に観客は自由に家の中を移動してこの演劇を見ることになる。

「上演時間は1時間。どこを開けてのぞいてもかまいません。」そう言われたところでじゃあ遠慮なく、と物色する勇気はなかなか出ないもので、他の観客も少々戸惑っているようだった。わたしは公演が始まってすぐ、押し入れの中に熨斗袋のようなものを見つけていた。明らかにここにあるのは不自然……しかし果たして手にとっていいものか……ともじもじしているうちに声がかかり、20名ほどの観客が2階に集合した。

 夏の日が射す明るい部屋で、演出の長島確からコンセプトが語られる。この家にはかつて、あるギリシャ悲劇の一家が暮らしていた。この家族には父親がいない。父アガメムノンは、花火の夜に妻クリュタイメストラとその愛人アイギストスによって殺された。彼らのもとで監禁状態にあった次女エレクトラはある時、戦争から帰ってきた弟オレステスと共謀し復讐を果たす。

 そんな凄惨な事件が、この家で起きた。今はもうその家族はここにいない。彼らが暮らしていたことを想像しながら家を見てみたらどうなるか……といった内容だったかと思う。

 客席があるわけでもない畳の和室なので、観客は長島氏の周辺に適当に座っている。窓が開放されていて、ときどき風が通った。近くの観客がぱたぱたと扇子をあおいでいるのが目に入る。きっと劇場の客席でされたら多少嫌な気持ちになっていた。けれど家のなかでのその光景は、自然なすがたのように思えた。

 前説が終わり、再びの自由時間。やはり先ほどの熨斗袋が気になり見に行ったところ、もうなくなっていた。近くのスタッフに「あれは何だったんですか」と訪ねると「シークレットアイテムです」との答えが返ってきた。わたしの前にだれか他の観客がとったのだろう。(だからわたしは、3年たった今でもあれがなんだったのかを知らない。)

 説明が遅れたが、自由時間中は各部屋にスタッフがいて、この家についての説明をしてくれる。たとえば1階の大部屋は、この家が動物病院として使われていたときの診療室だったという。間口が広いのはベッドを運び入れるためで、壁にかかっているのは医者を呼ぶための呼び鈴です、など。それは確かにこの家にあった現実の話で、だがそれだけでは終わらない。

 2階の小さな部屋では「ここはオレステスが隠れていた場所で、この床の隙間から階下の様子をうかがっていたんですよ」と言われ、覗いてみると確かに1階にいる別の観客の姿が見える。なるほどこういう感じね、いや待てそれは現実じゃないぞ、と半分ノリツッコミのような混乱が生じる。

 さらに現実と嘘が混合するのが台所にある柱の傷だ。そこには3つの傷が刻まれていて、どうやら子供が背比べをした跡らしい。それがギリシャ悲劇の姉妹たちによるものか、この家に昔住んでいた三姉妹のものなのか、観客にははっきりと伝えられない。どちらにだって見えてくる。実はどちらでもないのかもしれない。

 そうして時を過ごしているとだんだん、説明のない部分にも妄想が広がってくる。壁に貼られた小さなキャラクターシールを見つければ、誰が貼ったんだろう、エレクトラかな……いや、その前に住んでいた別の人かも……などと思いを巡らせる。増築箇所の段差につまずけば、ここに住んでいた家族もこれは不満だっただろうに、と勝手な共感を抱く。

 この頃にはどう過ごせばいいかわからない気まずさは消え去っていた。わたしは1階のギイギイ鳴る狭い廊下が気に入って、探索もせずひたすらそこで遊んでいた。誰にも咎められることはなく、そこにいることを許されているような時間が心地よかった。

 イベントはソポクレス版「エレクトラ」のテキストを基にした3つのシーンと、地元の工務店の方による家の解説ツアーの計4つ。(この公演は『墨東まち見世』という東京都のアートプロジェクトの一環として上演され、プロジェクトチームのみではなく地元の方も出演していた。)

 さきほどまで説明してくれていたスタッフたちが今度はパフォーマーとなって言葉を発する。だが彼らは多くのばあい柱の陰などにいて、よくすがたが見えない。彼らはひそやかに、そっと、そこにいる。それはまるで、この家に染みついた声が再生されているかのようだった。



【写真は「墨田区在住アトレウス家」Part 1より。Photo: Ryohei Tomita 禁無断転載】

 最後のイベントは1階の和室で起こる。オレステスが父の仇をうつシーンだ。ここでもやはりパフォーマーはふすまの陰にいたり、窓を背にしていたりして、姿も表情もほとんど見えなかった。オレステス(地元の高校生の葵くん)がゆっくりとアイギストス(武田力)を追いつめ、廊下へ消えていく。ギイギイと木の鳴る音がして、あの廊下にいるのだとわかった。

 声も音も消えたところで“守役”の福田毅から、以上をもちまして本日の公演は終了です、と告げられる。勝手口から外に出て、わたしがこの家で過ごす時間は終わった。

 上手につくられた嘘の世界を提供されて、おとなしくそれを見る演劇のかたちとは明らかに違う。この家に重なる嘘はすきまだらけで、「そんなの嘘じゃん」と一言誰かが発すれば崩壊してしまう危ういものだ。それでもこの家自体、この家がもつ時間や記憶は確かにそこにある現実のもので、もしかしたらそんなこともあったかもしれない、と思えてくる。現実のすきまに想像のあそびを差しこむようなこの感覚は、観客自身が体験する演劇の場によってこそ生まれるもので、そこには自分自身の知覚をひろげるひとつの可能性があるように感じる。

 公演が終わったあと、建設途中の東京スカイツリーまで歩いてみた。まだ408m地点だったその電波塔はそれでも相当な高さがあって、通りがかる人全員、首がもげそうなくらいに一生懸命てっぺんに向かって目を凝らしていた。もしかしたら、こうして見上げている人たちのなかにあの家族の誰かがいたりする、のかもしれない。

(つづく)

■日夏ユタカ『墨田区在住アトレウス家』Part2〜恋する演劇〜

 一瞬にして勝負が決まった、ように思えた。

 ひとりの和装の男が、玄関の扉をガラガラとあけて、少し不機嫌そうに室内に入ってきた瞬間のことだ。そのとき、われわれ観客は受付を済ませ、会場となった古い民家の、とくに客席が設けられているわけではない室内で開演を待っていた。そしてそれが、開演の合図だったのだ。

 まるで通いなれた親戚の家を訪ねてくるときのように、玄関からふらりと登場した男は、音楽家で評論家の大谷能生。じつはそのとき、彼がアガメムノンの弟であるメネラオス役だということは、わからなかった。妻ヘレネがトロイアの王子パリスと駆け落ちしたことへの意趣返しのために、兄に戦争をするから協力してくれと頼みにやってきたことなど、知らされてはいなかった。つまり観客は、とくになにも説明されぬまま、物語のなかに突然、放り込まれていたのである。

 けれどそのとき。はっきりと。古代ギリシャの神話や演劇に登場するアトレウス家という家族が、古い日本の民家で生活している設定だということは理解できた。少なくとも、Part 1を体験していた観客や、多少の情報があった者ならば。

 そう。前回は、その古い家自体に焦点が当てられ、亡霊のような存在ともいえたアトレウス家の人びと。彼らが今回は生身の人間としてそこでどっしりと生活しつつ、なおかつ日本人としての振る舞いも重ね合わせながら、悲劇の物語を繰りひろげることになりそうな重層的な構造がすんなりと腑に落ち、痺れたのだ。一瞬で。玄関から、ひとりの男が登場するだけで。

 その結果、それだけで勝負が決したと、上演される作品の成功を勝手に期待・推測し、その場に立ち会えた、出会うことができた幸運に感謝してしまう観客の単純な喜びと興奮がそこには、あった。勝負という言葉が適切でないならば、虜になった、でもいいだろう。もっとも正しくは、恋に落ちた、だったかもしれない。

 それゆえ、ここからの感想はすべて、恋するものだけが味わった夢みる世界。その後の、2階建ての一軒家のそこかしこで行われる短いパフォーマンスの連続を、貪欲に、なにひとつ見逃すまいと少し興奮気味に動きまわりつづけた記録。オープニングの成功は観客の期待を一気に高めるのだ。

 そして、どういう順番で観ればいいのか、前説的な説明はなにもされなかったが、それぞれの観客の手元には、配られた1枚の進行表があった。まるで新聞のテレビ欄のような体裁のその進行表には、「14時−14時10分 1階広間 アガメムノン」「14時50分−15時 2階板間2 エレクトラ・オレステス」というような、約1時間の間に同時多発的に行われるイベントのスケジュールが記されていたのである。

 それは、なにを観るかを選べる自由を与えられながらも、すべてを観ることはできないという制約でもあった。しかも、その家では、年末から正月にかけての営みが、時系列を無視して繰りひろげられていた。さらにまた、重ね合わせられたギリシャ悲劇の物語は、いきなり数年の年月が過ぎてしまうという複雑な構造。しかしそんなある種、不親切ともいえる状態だからこそ、家のなかを他の観客たちとともに移動しながら、五感がどんどんと冴えていく。ギアもはいる。与えられたものを単に観る、ではなく、作品を作ることに加担しているような、ささやかな喜びもそこにはあったからである。

 しかもそのうち、そこで生活しているアトレウス家とはけっして交わらない単なる観客ではありながら、おなじ家でおなじ時間を過ごしていることから、奇妙な共有感も生まれてきた。それは、かつて体験したことのある、お節作りや障子の張り替え、門松の設置といった日本的な年越しの準備の慌ただしさだったり、のんびりと華やいだ年賀の雰囲気を重ねていった効果だろう。おなじ空気を吸っているうちに、観客ではありながらも、まるで、その家の親戚の子供であるかのような錯覚を感じられたのは奇妙な体験だった。前回のPart 1のときに知った(地元の大工さんが案内してくれる日だった)、会場となった民家の構造や増改築の跡、さらには劇中で印象付けられた柱の疵などが、ひさびさに訪れた親戚の家のような錯覚の呼び水にもなっていたのである。

 子供の視点で、大人たちの世界を覗き見する。残念ながら一緒に遊ぶ子供はおらず(観客同士は無関心を装うので)、でも大人たちのなかには混じれず、けれど束縛されることなく動きまわれる権利を得て。その自由度の高さに、さらにギアがはいる。じぶんの知らない世界を観たいという好奇心が、たぎる。

 そんな子供の目(のようなもの)で目撃したアトレウス家の生活は、じつはちょっと歪なものだった。ふつうに大晦日や正月を過ごしていたときには感じない違和感を、設けられた演劇という枠組みはしっかりと伝えてくる、という言い方のほうが正確だろうか。なんといっても、戦争の影がつねに背後に佇みつづけ、その影響が男女でまったくちがう想いが描かれていたのだ。

 たとえば、女たちはずっと暗い台所でお節を作りつづけていたが、そこには男たちの姿はほとんどない。また、和室でクリュソテミス(アガメムノンの三女)が破れた障子の貼り替えをしながら、戦争がはじまっちゃうと小さく洩らす。こんな手間のかかることをして、気持ちよく新年を迎えようとしているのに……。

 あるいは、相変わらず台所で女たちが料理を作りつづける気配を感じながら、メネラオスは麻雀に楽しそうに興じ、はたまた別室では戦争を行うことにはしゃぎ、高揚し、お年玉を渡しながら、今度は戦利品をたくさんあげよう、奴隷はいらないかと上機嫌で尋ねていた。妻ヘレネが駆け落ちしたことで、トロイア戦争をみずからが勃発させるという状況のなかで、だ。

それらはいずれも日本の年中行事のありふれた一コマではあるのに、それだけで、
アトレウス家が(男は少し楽しそうに、女たちは仕方なく)巻きこまれていった戦争のひとつの姿をみせていた。というよりも、ギリシャ悲劇がすっと腑に落ちる。ひとの欲望のささやかな連なりによって安易に行われた戦争だっただろうことが。



【写真は「墨田区在住アトレウス家」Part 2より。Photo: Ryohei Tomita 禁無断転載】

 さらに、抗うすべのない女性たちの戦争への不安は丁寧に描かれ、不倫によってはじまる戦争が強調される。それは、最終盤のこたつの置かれた和室。日本の正月最大のイベントでもある箱根駅伝の映像に、国威昂揚的なオリンピックの音声(おそらくナチスドイツのもの)を重ねながら、ヘルミオネ(アガメムノンの姪)がじっと、コタツ越しにこちらの目を覗きこみ、1枚の紙をみせるクライマックスにつづく。
「おばさんに恋人ができたかもしれない」

 アガメムノンが戦争にいっている間に、彼の妻クリュタイメストラが不倫していたのだ。それは、さらなる憎悪と戦争の繰り返しの予感。いま、まさにアガメムノンたちは戦争中だというのに、いや、戦争中だったからこそ、新たな火種がすでに生まれている怖さ。そのシーンでのヘルミオネは一言も声を発さなかったが、あなたに言っても仕方ないだろうけど(じぶん的には、子供にはわからないわね、と脳内変換されていた)、といった感じでその紙を引き戻して、今回の舞台は終わる。とても印象的で美しいエンディングであった。

 なにより、それまで観客は透明人間のように扱われていたのが、その瞬間だけ、劇中の人物として取り込まれたことで、大きく脳が揺さぶられる。吊り橋効果で、ふたたび恋に落ちる。観劇の、とても心地よい時間がそこにはあったのだ。

 しかし。それだけでは終わらない。その部屋をでると素晴らしいカーテンコールが待ち受けていたのだ! 劇中、台所で作られつづけていたお節料理と、お屠蘇を頂けることになっていたのである。しかも、二段重にはいっていたお節料理は、じつはすべてギリシャ料理。お屠蘇も、蜂蜜とスパイスをくわえたワイン。正月だから許されるアルコール飲料の摂取は、子供が大人の仲間入りができたような喜びを感じさせるものだったが、そのときにはとにかく、すっかり騙された、という衝撃のほうがはるかに上回る。まるで、それまでじぶんが観たり感じたり信じていたものが一瞬にして揺らぐ瞬間が、そこにはあったのである。

 なにしろ、じぶんは劇中ずっと、台所で作られているものが通常の日本のお節料理だと微塵も疑わなかったから。もう少しだけ好奇心があれば、ほんとうに子供であれば、近づいて盗み食いをしてその正体を暴けたのに。上手く欺かれたことを愉しむ気持ちとともに、もっと積極的な観客でありたかったとの悔いも残る。そんな風に思わせるような仕掛けが、今回のアトレウス家には施されていたのだ。

 しかも、さらに企みはつづく。ギリシャ料理を食しワインを飲みながらの歓談となり、いつしか終演後な雰囲気にその家が包まれていくなか、かすかな気配を感じて台所に向かうと、そこにはアガメムノンとメネラオスがいて、なにやら密談している模様。そして、柱にもたれ掛かっていたのはイピゲネイア(アガメムノンの長女。戦争のための舟が風が吹かず動かせないため、神託によりその後に生贄となる)だっただろうか。進行表に記されていないシーンがこっそり隠されていたのだ。ほとんどの観客に存在を知られぬままに。

 そのときの二転、三転したどんでん返しの刺激はなかなか味わえないもの。派手な音楽や照明がなくとも、ただふつうの年末年始を過ごしている姿をみるだけだというのに、古い民家のなかでは、ものすごいエンターテインメントが成立してしまっていたのだった。

 そして、その興奮を抱えながら、『豊島区在住アトレウス家』に、われわれ観客は8ヶ月後に訪れることになる。まさか、向こうの島(墨田区のアトレウス家は東向島にあった)から豊かな島への引越が、あれほどの落差を生むとは想像もせずに。
 今度は、子供ではなく、老人にじぶんは姿を変えることになるとは……。

(つづく)

【筆者略歴】
中村みなみ(なかむら・みなみ)
 1990年生まれ。立教大学大学院映像身体学専攻(修士課程)在学中。「長島確のつくりかた研究所」研究員。2008年頃から東京の小劇場を中心に演劇をみています。twitter: @dusmin

日夏ユタカ(ひなつ・ゆたか)
 日大芸術学部卒。フリーライター。80年代小劇場ブームを観客&劇団制作として体感。21世紀になってからふたたび演劇の魅力を再発見した、出戻り組。BricolaQ内の「マンスリーブリコメンド」で演劇のオススメも行っている。Twitter: @hinatsugurashi
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hinatsu-yutaka/

【上演記録】
NPO法人向島学会×東京アートポイント計画|墨東まち見世2010「墨田区在住アトレウス家」
会場:旧アトレウス家(墨田区東向島)および周辺
Part 1 2010年7月31日‐8月1日
Part 2 2011年1月13日‐16日
Part 3×4 2011年3月16日‐20日*震災のため中止

コンセプト・構成・演出:長島確
出演:稲継美保、聞谷洋子、山崎朋、立川真代、石田晶子、東彩織、堀切梨奈子、西島慧子/國武葵、北條元康、小林賢弘、大橋加誉、藤井さゆり、坂上翔子、原友里恵、吉中詩織(Part 1)/大谷能生(Part 2)/石田龍太郎、堀内里菜、馬渕かなみ、森純平、和田匡史(Part 3×4)

コラボレーター:福田毅、武田力
レトロクッキング:EAT & ART TARO
写真・映像:冨田了平
ロゴデザイン:福岡泰隆
ドラマトゥルク:佐藤慎也、横堀応彦(Part 1)
演出助手:宮武亜季
進行:西島慧子(Part 2)
制作:戸田史子

企画:mmp(ミクストメディア・プロダクト)
主催:東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、特定非営利活動法人向島学会
協力:日本大学佐藤慎也研究室、東京藝術大学市村作知雄研究室、中野成樹+フランケンズ、花よし生花店、堂地堂、昆野純子、こすみ図書、本間晴智、Yuri-chan、佐脇三乃里、菅野菜実子、丹下幸太、長尾芽生、福田朱根、碇笑美子、苅部将大

料金:1500円


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