忘れられない一冊、伝えたい一冊 第35回

◎「フルトヴェングラー 音楽ノート」 (白水社 芦津丈夫訳)
  山本卓卓

「フルトヴェングラー 音楽ノート」表紙
「音楽ノート」表紙

 正直、5年くらい前の僕にとってクラシック音楽は鬱陶しいだけでした。
 芝居の音選びのためにTSUTAYAで借りてきたりして「クラシック100選」的なものとかを…
 いざ聴いてみるとなんかどれも大仰な感じがしたし、交響曲とか協奏曲とか室内楽とかオペラ音楽とか種類がいっぱいあってややこしくて、それよりなによりファッションに成り得ないのです20歳そこそこの若者にとってクラシック音楽は。

 たとえばパンクな奴ってやっぱりパンク聴いてたしポップな奴はやっぱりポップスでしたよ確かに。たまにプログレ好きですみたいなやつもいて、こう、あんまり友達できないっていう…当時の僕なんですけども。
 とはいえ(音楽に限らずだけど)自分がかなりの雑食であることは認めます。
 中学の頃祖父の影響でジャズにハマったかと思えばMxPxやNOFXを聴いたりやはりビートルズに舞い戻ったりダフトパンクに行ったり民族音楽や環境音楽に心酔したこともありました。ロックンロールはもうなんかエルビスプレスリーから聴いちゃって果てにポストロック、ブルース、ヒップホップ。それで20歳の頃にはピンクフロイドやYES。雑食じゃないだろそれただのつまみ食いだろ、と言われても仕方ないと思います。とにかく、自分の一番しっくり着られるファッション(音楽)を思春期の頃はずっと探していました。
そういう時期に、他者の影響なくしてあるいは生い立ちのバックボーンなくしてクラシック音楽を着るということはなかなかにハードルが高かったように思います。ジャズでさえ祖父の影響を差し引いてさえ、接点はありました(親友が好んでマイルスを聴いていたからなんだけど)。改めて断っておきますが、僕の実家はクラシックのクの字も相応しくない田舎の(ぶどう畑ともも畑に囲まれた)商業家系で、間違っても粧し込んでコンサートに行くような素振りは決してありませんでした。小中高と弱小の吹奏楽部を端から見て、一回トランペットとか吹いてみたいなと朧げに思うことはあってもそれが持続することは全然なかったです。
 そんな僕がクラシックにハマりました。しかもけっこう長いことここに落ち着いています。

 やっぱりなんだかんだ人ってギャップに萌えるのです…。
 当時の僕のクラシックのイメージ(クラシック好きのみなさんお許しください)
 ①・大仰 ②・金持ち ③・汗臭くない(努力とか無縁そう。涼しい顔でやってそう) ④・かっこよくない ⑤・老いたもの

 ⑤。この ⑤ が僕の一番のフックになっていました。仮に、仮にですけどクラシックが老いたものだとするならば、それは古典というもの、まして老いというものの意味をなんら理解していないということになります。なぜなら古典は、それを世に出す時、老いとはむしろ反対の性質をもった、いわば墓場から生命を蘇らせるような作業を必要とするからです。老い、が例えば墓場へと向かっていく力学なのだとしたら、古典・クラシック、は、あるいは(こっちの方がしっくりくるかもしれない)母体から産まれ出る赤子の力学を持ち得るということです。このことを僕の全細胞を伝って気付かさせた原体験というのが、いよいよ本題ですが「フルトヴェングラー」の指揮するべートーヴェンのシンフォニー集です。

 フルトヴェングラーといえば20世紀のドイツ、いやクラシックを代表する偉大な指揮者で、ベートーヴェンといえばいわずもがな歴史の教科書に載っているあの髪のモジャモジャの大作曲家です。僕がこの文章を書いているのは2013年の12月の末頃ですから、日本では年末の恒例となった第九シンフォニー「歓喜の歌」が至る所で演奏されているはずです。
 発売されている音源によっても感動にバラつきがあるのは否めないものの、どこで知ったか、たまたま彼の指揮する第7シンフォニーをTSUTAYAで借りたら… 上記の①と②と③と④とまして⑤なんてバチコーンと打ち返されて場外へ飛んでいきました。圧倒的に新しい…。当初の薄っぺらい僕の「イメージ」なんて遠く銀河系の彼方に飛ばされたこのギャップ。しかもCDでさえそれが伝わるという謎の興奮、これを生で聴けた人はどんなに幸福なんだろうという羨望、ひれ伏してさえ聴くべきだという畏怖、様々な感情が入り乱れて虜になりました。そうした時、僕の中でもう音楽はファッションではなくなっていて、なんというか、渦のようなものでした。

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 「平凡さの概念についての意見はさまざまである。すべての判断とは、判断の対象について語るとともに、判断する人間を語っている。平凡な人々はきわめて平凡な事物、たとえば第九交響曲の最終楽章をも平凡であると感じる。問題は普遍的な価値を有することであって、平凡さではない。」ー[フルトヴェングラー 音楽ノート「カレンダーより」] 白水社 芦津丈夫訳ー

 いくつかの編からなるこの本を読むと、特に日記の部分、先の引用のような部分にも現れているように、厳しい批評眼を聴衆に対してもっていると同時に、なんだかフルトヴェングラーがフルトヴェングラー自身を鼓舞するために、焚き付けるために書いているようにも感じます。「私は判断しない。私は普遍的な価値さえだけ持っていればいいのだ」というように聞こえなくもないからです。他にも

「———-オーケストラを前にしたとき———-
 相手の顔を見て話すこと!
 落ち着いて話すこと!
 要求のすべてを完全につらぬくこと!
 なにごともできるだけ簡潔に語ること!
 絶えず、まっすぐな澄みきったまなざし。
 できるだけ笑わないように。
 たえず積極的に。腹を立てるのは禁物。
 個人的なことで譲歩しないこと。」

 まるで指揮者としての十戒のようです。こうした誰かに言うのも憚られるような個人的法律というのは、演劇を創作する側においても、身に覚えがあるものです。この法律は、いかに厳格か、そして豊かな創作のためにのみ機能するかどうかで、ようやく意味を成します。そうでなければただの飾りにすぎません。
 同じような響きをもった、ある名言があります。

 「今運命が我をつかむ……自分は光栄なく塵の中に亡びざらんことを願う!……汝の力を示せ、運命よ!……我ら(人間)は自らの主人ではない。決定されてある事は、そうなるほかはない。さあ、(運命よ)そうなるがよい!……そして私にできることは何か?……運命以上のものであることだ!」
 ー[ベートーヴェンの生涯]岩波文庫 ロマンロラン著 片山敏彦訳ー

 ベートーヴェンです。これほどまで、ちょっと笑っちゃいそうなほど、運命、というものを挑発した人がいたでしょうか。シェイクスピアの登場人物のようです。そして有名なエピソードではありますが、上の言葉を、ベートーヴェンが難聴に苦しめられたという背景から生まれたものであると前置きした場合、どのように感じるでしょうか。運命を挑発すると同時に己をも挑発しているように、僕には聞こえます。

 芸術家は、傲慢で、いちいち鼻について、冷徹で、神経質で、変で、無責任。そのようなイメージを持っているのならば、この本を手にとったり、あるいは自分が大っっっっ嫌いな何か(それは芸術でなくとも)に、耳や目をほんの少しでも傾けてみるのは、傾けてみようとしてみるのは、どうでしょう。

 というわけで、フルトヴェングラーの音楽ノートをお勧めします。

 雑食系男子に幸あれ

 よいお年を

【撮影=斉藤翔平】
【撮影=斉藤翔平】

【略歴】
山本卓卓(やまもと・すぐる)
 1987年山梨県生まれ。劇作家・演出家・俳優・範宙遊泳代表。プロジェクターで舞台上に映し出した文字.絵.写真.間取り図など2次元のエレメンツに、3次元の俳優を有機的に絡ませ、2.5次元の演劇を立ち上げる─。真新しいスタイルと、有機物と無機物を平等に扱う存在への秀逸な眼差しが、注目を集めている。2012年には、一人の俳優に焦点を当て、生い立ちから掘り下げて作品化するソロプロジェクト「ドキュントメント」を始動。映像や音楽の制作・オペレーションも手がけている。代表作は「幼女X」「さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-」など。

*「忘れられない一冊、伝えたい一冊」シリーズはこの回で終了します。(編集部)


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