フェスティバル・トーキョー2013「光のない。(プロローグ?)」(E.イェリネク作、宮沢章夫演出)

◎観客に届く、彼方からの声 語ることの不可能性と必要性
 ラモーナ・ツァラヌ

keinlight_prologue0a 東日本大震災によって発生した福島の原発事故に強い衝撃を受け、オーストリア出身のノーベル文学賞受賞者エルフリーデ・イェリネクが ”Kein Licht”『光のない』(日本語訳は林立騎による)という戯曲作品を執筆した。初演は2011年9月ケルンで行われた。翌年はオーストリアのグラーツで再演されたが、その時点では原作に『エピローグ?』が増補されていただけではなく、序幕に当たる文章を読むイェリネク自身の声の録音が本番に先立って流れた。おそらくその文章をベースにして『光のない』シリーズの3番目の作品『プロローグ?』が成立した。震災のことが語れない、表現できないという確信がこの作品の重大な主張である。

 宮沢章夫が演出を手がけたフェスティバル・トーキョー2013参加作品『光のない。(プロローグ?)』では、能楽の要素が現代演劇に取り入れられ、独特の言葉と身体性を通じてイェリネクの戯曲に込められたメッセージが観客に届く。公演期間中の東京芸術劇場シアターウエストに能舞台を模した舞台が立てられ、それが土に覆われていた。その舞台は墓に見え、そこに出てくる登場人物はきっと死者の代表であろうと、早い段階から想像できる。

 下手から能舞台の橋掛かりを連想させる道をゆっくりと進みながら、5人の女優が次々と登場する。カジュアルな服装を着ている彼女らは、旅に出ているようだ。一人一人が話し出すと、言葉に詰まる、またはその言葉が度々矛盾し、何度も何度も繰り返され、話し続けられない状態になる。それでもなお話そうとしている。言葉にできないことがそこにあるのだ。

【写真は、「光のない。(プロローグ?)」公演から。撮影=青木司 提供=F/T13 禁無断転載】

 この女性たちの身体を介して死者の声が聞こえるので、それぞれが担当している役は霊媒のような存在として考えられていたのであろう。もはや語れない人たちに代わって声を上げるのだ。しかし彼女らは、言葉だけなく、歩き方、姿勢、舞台上の位置、存在感、または不在によってだれかに何かを伝えようとする。「語れない」状態ではあったとしても、なんとか語ろうと努めている。

 舞台の上にいろいろな物が置かれている。大きな力によって元の持ち主から持ち去られた物(時計、ラジオ、花瓶、コップ、皿、おもちゃ、洋服など)で、まだ人間の感触が鮮やかなようだ。散らかっているように見えるが、普通の日常的な散らかり方ではない。自然の見えない規則によって配置されている感じがする。これらの物は多分依り代のように、昔の持ち主の魂を呼ぶという役割を果たしているのではないかと考えられる。

 途中で、すさまじい力が突然、舞台上にあったすべての物をまたどこかへ持っていく場面がある。女優たちの動きが急に乱れ、あっちこっちへ走りながら、舞台に置かれていた物を上手へ持っていく。焦り、混乱、対立、お互いに対して攻撃的な振る舞いなどが乱れた状態を表す。その上、耳をつんざくようなヘヴィメタルの曲が急に流れる。前半の静けさに潜んでいた怒りのようなものが突然あらわになる。

 その騒音にさらされた観客は、「無関係」でいられなくなる。どうみても尋常な音量ではなかった。もし、その時点までに観客は気楽にどこかの映画を見ているような感覚でいたとしたら、その爆音を自分の耳で感じ取り、女優たちの体がその音に乗って、ダンスのような動きに引き裂かれるのを見るので、「無関係」でいるわけにはいかないと思える。度を超した音量に観客もある種の「痛み」を感じてしまうから、明らかにもう他人事ではない。観客は無理やりその展開に引き込まれるのだ。

 ここで能楽風とおぼしき演出方法が急にひっくり返される。この乱れの場面がなければ、宮沢演出の『プロローグ?』は、単に能楽の要素を取り入れた上演として片付けられたかもしれない。とはいっても、能にも、例えば修羅能や思いゆえの物狂いという種類の演目では、主人公かその亡霊が怒りや執念で暴れる場面がある。多くの場合、その場面が演目の最後の方に置かれている。主人公の内的な感情が外の自然界で発生した嵐などと重なる。元々これは全部誰かの夢の中で展開していくストーリーなので、結局それは夢に現れた幽霊だったのか、それとも現実の嵐だったのか、定かではない。これは夢幻能の古くから仕掛けられた魅力の一つなのだ。

【写真は、「光のない。(プロローグ?)」公演から。撮影=青木司 提供=F/T13 禁無断転載】

 しかし、『プロローグ?』の場合、その場面は5人の魂の乱れた状態を表しているわけではない。実は大自然の秩序が四分五裂状態になってしまった様子を指しているのではないか? その内的分裂や崩壊のイメージは、一人の個人の物語という狭い枠を超え、病的になった自然の現れなのだ。これは何を暗示しているのか。人間の業と人間が生きている環境の間には相互依存の関係がある。つまり、人間のあらゆる行為がいろいろな形で自然に影響を及ぼすので、震災や環境問題などは人間の存在と何らかの関係があるわけだ。自然が乱れたことは、ただの偶然性ではなく、人間にも責任があるだろう。もちろん、これは例えば霊性復興運動のような思想などに関連付けられる見解ではない。ただ、人間は自然環境に対して責任を持っているというのは、間違いなくイェリネクの主張なのだ。

 『プロローグ?』で何よりも顕著なのは、言葉を紡ぐその声だ。主体のない声であって、またはいろいろな依り代に宿れる存在のように幾つかの主体を行き来する声なのだ。その声が発信する言葉の流れのなかで、時には複数の声が聞こえる。

「…太陽は漏れて空になった、海も、ところでそのため海は健康でない病気の魚を返された、自然はすべてをわたしたちに貸し与えていただけだったのに(思うにそれ以前に自然そのものもすべてを借りていたのだろう)…」。

 時には「作者」のような存在がイメージや記憶のようなものを「表像」または「上演」しようとする人に対して挑発的に話しかける。

「人間は想像の中を動く、それは私の想像、そう、問題はわたしの想像、あなたでなく!人間の表象が、上演が(それを規定するのもわたし!)、存在するものを対象としてイメージとしての世界へ想像する限り、あなた、想像し妄想する、人間の表現者、生産者、あなた!…」
(二つの引用文はともに「Festival/Tokyo 12: Documents」所収の『光のない。(プロローグ?)』、林立騎訳より)

 公演の台本は再構成されたとしても、作家の意図をきちんと保つのだ。このような言葉を一つの解釈に絞れないのは、イェリネク作品の大事な特徴である。

 その言葉を向けられた観客は、「わけが分からない」と感じざるを得ない。その「わけの分からなさ」は実はもちろん意図的だった。震災と向き合わされ、わけが分からなくなるのは当然だし、言葉を失うし、自分の無力さを痛感する。イェリネクはそれを全て観客に感じさせたかった。人々が決して忘れないように。

 複数の存在を媒介にしているイェリネクの声がうまく観客に聞こえるように、演出を担当した宮沢章夫は力を尽くした。演出にはこの戯曲とその書き手である劇作家に対する敬意が感じられる。その戯曲を綴る言葉の意味を解釈した上で、自分の思い込んだイメージを押し付けようとせず、あくまでもイェリネクの声を観客に届けることを目指したようだった。

 これは当たり前のように見えるかもしれないが、その常識はそれほど一般的ではないと、ここで強調したい。演出家は与えられた戯曲に対して新しい視点を用いて、作家の意図や理想の観客の想像を超えるような演出を目指すのが一般的なのだ。しかし、鋭い意識によって書かれ、揺るぎのない声で人の心に訴える、それでも演出指示が一つも施されていない『光のない。(プロローグ?)』のような存在感の強い戯曲を扱うと、やはりその姿勢を見直すのが常識であろう。

 イェリネクの作風の特徴として、演出に関する指示を一つも書いていないし、登場人物の数さえも決まっていない。その辺の全てを演出に任せるということだ。そして内容を見ると、言葉の流れは何らかの物語になろうとした瞬間に、話の展開が急に変わったり、違う声が突入したりするので、それまでと異なる話題になる。したがって、その言葉の流れをそのまま上演しようと思っても無理だ。演出の面でどうにか工夫を加えないと、この作品は意味をなさない。そのままで意味を成すつもりで書かれていないからだ。

 しかも、公演中「上演は失敗する!」という言葉が何回も繰り返される。この発言はもちろん少なくとも二つの意味を持っている。震災のことは実は語れないものだというイェリネクの主張であると同時に、震災のこと、または『プロローグ?』という作品を「物語」にしようとする人たちに対する不気味な予言でもある。言い換えれば、劇作家自身がこの作品に罠のようなものを仕掛けたので、上演不可能な作品であるという意味だ。

 しかし、どうしてこのような戯曲を書くのか? 大震災といった事柄を語るには言葉が使えないのに、どうしてあえて言葉を使おうとするのだ? おそらく、語れない事柄だからといって、語らない、語ろうとしないわけにはいかない。忘却の働きは意外と早い、とイェリネクが伝えようとしている。

 そのままで意味を成さないこの文章はなぜか「戯曲」と名づけられ、その上演に挑む演出家を待っていた。この作品の場合、一見して解せないその言葉の流れに実は意味や思想が込められているということを信じ、そしてそれを観客に届けることに責任を感じるのは、演出過程の第一歩であろう。実は、ここで演出家自身が媒介の役割を果たすべきだ。演出家が劇作家と観客の間に入っていなければ、劇作家の伝えたいことは観客に届くはずがない。そういう意味で『プロローグ?』は劇作家と演出家の共同作業を前提とする作品なのだ。

【写真は、「光のない。(プロローグ?)」公演から。撮影=青木司 提供=F/T13 禁無断転載】

 自分の作品を上演不可能にする妨げを仕掛けたイェリネクは、その作品に最もふさわしい演出家として、宮沢章夫を見いだした。宮沢章夫自身も演出の面で、イェリネクと似たようなやり方を持っているのだ。演劇メッソドのようなものを作るのを目的とせず、一つのまとまりに至った表現方法に長らくとどまることはない。2013年中の演劇活動を振り返ってみるだけで、その傾向が明らかになる。まずはシティボーイズミックスの公演『西瓜割の棒、あなたたちの春に、桜の下ではじめる準備を』(4月)で作・演出を担当し、次に市川海老蔵出演のABKAIえびかい公演『はなさじいさん』(7月)の脚本を担当した。9月に自分が主宰する演劇団体遊園地再生事業団の公演『夏の終わりの妹』があって、それから12月にF/T13で発表されたイェリネク作品の『光のない。(プロローグ?)』で演出をつとめた。

 これらの作品の特徴を見てみると、共通点が少なく、その活動の幅広さが目立つ。宮沢は演劇に対する位置を常に変えたり、自分の方法をひっくり返したりすることで、自分らしくいられるようだ。言い換えれば、自分の定めた約束事を破り続けるのが宮沢の方法だといえるかもしれない。この演出家にとって演劇は実験のようなものなのだ。それは、芸術家としていつも新しいことに挑戦したいからではなく、むしろ演劇を利用しながら、人間を探求しているかのように見える。その姿勢は特に『夏の終わりの妹』に、そして今回ここで取り上げたF/T参加作品の『光のない。(プロローグ?)』に現れた。

 『プロローグ?』の上演にあたり、劇作家のイェリネクと演出家の宮沢との共同作業の一例として、鉛筆や紙など全てを失ったが、起きたことをどうしても記録しなければならないと言い出す登場人物が現れる。彼女の言葉は上手く出ず、言葉につまずくような話し方をしている。やはり語れない。それにしても、何回も何回も必死に語ろうとしている。印象に残るこの人物の苦闘は、実は原作にない。宮沢が台本の再構成の段階で入れたセリフで、女優の牛尾千聖に演じさせた。このような場面は、語ることの不可能性と同時に、語ることの必要性を強調している。

 東日本大震災を取り上げる全ての物語に関して「上演は失敗する!」と作中で繰り返されるように、演劇人、または表現者として何を考えようとしても、震災のことを語れないだろう。そもそも震災について、最も語ってほしい人はもうこの世にいないからだ。イェリネクの『光のない。(プロローグ?)』の演出を手がけた宮沢章夫はこの感覚を優先し、劇作家と力を合わせて、フィクションでありながら忘却に抗う記録のような作品を造形した。

【筆者略歴】
ラモーナ・ツァラヌ(Ramona Taranu)
 1985年ルーマニア生まれ。ブカレスト大学で日本語日本文学・ドイツ語ドイツ文学を専攻し、2008年卒業。同大学で東アジア学修士課程終了。2010年ドイツのトリアー大学で能楽の研究をはじめる。現在、早稲田大学大学院文学研究科に所属。専攻は能楽研究。日本の舞台芸術を英文で紹介するブログ「鏡は語る」を執筆。

【上演記録】
F/T13 イェリネク連続上演『光のない。(プロローグ?)
東京芸術劇場シアターウエスト(2013年11月30日-12月8日)

作:エルフリーデ・イェリネク
翻訳:林立騎
演出:宮沢章夫
出演:
安藤朋子
谷川清美
松村翔子
牛尾千聖
大場みなみ

美術:宮沢章夫
音楽:杉本佳一(FourColor/FilFla)
照明:木藤歩
音響:星野大輔(有限会社サウンドウィーズ)
衣裳:坂本千代
舞台監督:田中翼(株式会社キャピタル)
小道具:長谷川ちえ
演出助手:上村聡、阿部怜絵
制作:金長隆子
上演時間:約80分

ポスト・パフォーマンストーク
12/1(日) 18:00 宮沢章夫×松井周(劇作家・演出家・俳優)
12/4(水) 15:00 宮沢章夫×小沢剛(美術家)
12/4(水) 19:30 宮沢章夫×佐々木中(作家、哲学者、理論宗教学者)

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