西東京市立田無第四中学校演劇部「あゆみ」

◎中学演劇の「あゆみ」─ 無名性がもたらすかがやき
 片山幹生
 
さまざまな「あゆみ」
 
 「あゆみ」はとりわけ思春期前半の少女を想起させないだろうか?
 柴幸男の代表作「あゆみ」は、ひとりの女性のライフステージの各段階を、日常的なエピソードの再現によって提示する作品だ。乳児期から老年期まであらゆる年代のあゆみが登場するのだが、そのなかでも最も印象的なのが少女期のあゆみではないだろうか?
 第64回東京都中学校連合演劇発表会(これは実質的に中学演劇の都大会に相当する)の第4日目にあたる2014年1月13日に、西東京市立田無第四中学校演劇部の「あゆみ」を見た。私はこれまで5つのバージョンの「あゆみ」を見ているが、田無第四中演劇部の「あゆみ」は、これまで私が見た「あゆみ」のなかで最も素朴で、そしてその素朴さゆえに最も美しく、感動的な「あゆみ」だった。

 「あゆみ」はこれまで様々なかたちで公演が行われてきた。最初の「あゆみ」は2008年2月に劇作家協会東海支部プロデュース 劇王Vで上演された3人の女優による20分の短編作品である。同じ年にこまばアゴラ劇場で10人の女優による長編「あゆみ」が上演された。私が見た最初の「あゆみ」はこのバージョンだった。翌年2009年には、1月にシアタートラムの企画、《Next Generation》で3人の女優による短編「あゆみ」の上演があり、7月にはめぐろパーシモンホールで、公募による中学・高校生16名による「あゆみ – めぐろパーシモンREMIX-」の上演があった。2010年には「あいちトリエンナーレ」に合わせて、新しいバージョンの「あゆみ」が創作された。
 そして同じ年の8月には、渡辺源四郎商店を主宰する畑澤聖悟の指導のもと、青森県立弘前中央高等学校の演劇部が「あゆみ」を上演し、高校演劇全国大会で優秀賞を受賞する。8人の女子高生によって演じられたこの「あゆみ」を私は国立劇場で見て、大きな感銘を覚えた。2010年以降も、「あゆみ」は継続的に、それぞれの上演の状況にあわせてさまざまなバージョンが制作され、ほぼ毎年、どこかで上演され続けている。

田無第四中版の「あゆみ」
 
 弘前中央高校演劇部の「あゆみ」は、この作品を思春期の少女たちが演じることによって得ることのできる大きな劇的効果を引き出した。「あゆみ」には、作品の性質上、卓越した演技力と存在感を備えた女優は必要とされない。いやむしろ、平凡な女の子が不器用に演じるほうが好ましいとさえ言える。高校演劇部はたいてい女子部員のほうが多いので、「あゆみ」を上演する上でキャストの問題はない。意欲のある指導者さえいれば、多くの高校演劇部で上演可能な作品なのだ。弘前中央高校演劇部以降、福島県立いわき総合高等学校、東京都立世田谷総合高等学校などさまざまなバージョンの高校演劇版の「あゆみ」が作られるようになった。

 田無第四中学演劇部版の「あゆみ」は、弘前中央高校演劇部版の「あゆみ」をおそらくベースにしている。高校、中学演劇には上演時間の制限があり、おおむね60分以内に収めなくてはならない。toiによる最初の長編「あゆみ」の上演時間は約100分間だったが、今回の田無第四中版の上演時間は約45分だった。

 客電がついたまま、緞帳が上がる。舞台袖までむき出しになったがらんとした広い舞台が現れる。奥のほうに制服姿の女の子たちがいて、がやがやと話をしながら、机を移動させたりして、上演の準備をしている。14歳(中二)の少女たちが、これから赤ん坊から老婆までを演じるという虚構が、この冒頭の上演準備の場面によって強調される。彼女たちが準備作業を行っているあいだに客電が徐々に落ちていく。
 

【撮影者=小山内徳夫 会場=大田区民プラザ大ホール(東京) 禁無断転載】
【撮影者=小山内徳夫 会場=大田区民プラザ大ホール(東京) 禁無断転載】

 「えーと、私は、一生に、だいたい1億8千万歩ぐらい、歩きます」

 少女たちの集団から一人、前に出てきて前口上を述べはじめる。「あゆみ」がどんな芝居であるか既に知っている私はこの口上が始まった時点で、目に涙がこみ上げてしまった。中学生の俳優たちの張り詰めた緊張感が舞台から伝わってくる。彼女が客席に向かって最初に踏み出す一歩が、作品の開始を告げる一歩となる。息を飲み、「せいのっ」というかけ声が聞こえくるような感じがした。覚悟を決めて「はじめの一歩!」を踏み出した瞬間、舞台上の少女たちは「あゆみ」になる。

 赤ん坊のころの最初の一歩から、人生の終わりの最後の一歩にいたるまで、一人の女性の平凡な生涯が「歩む」と言う行為を通して表現される。中心となる演技エリアは舞台前方である。間口と平行に、照明によって幅2メートルほどの帯が浮かび上がり、その光の帯のなかを上手から下手へと俳優たちが移動していく。

【撮影者=小山内徳夫 会場=大田区民プラザ大ホール(東京) 禁無断転載】
【撮影者=小山内徳夫 会場=大田区民プラザ大ホール(東京) 禁無断転載】

 「あゆみ」はライフ・ヒストリーのありふれた断片的エピソードから構成されているので、オリジナル版のエピソードをカットして再構成しても作品構造上の問題は生じない。作者の柴幸男自身も、上演の条件に合わせて、エピソードのカットやまったく新しいオリジナルなエピソードを挿入することを容認している(『あゆみ[完全版]』東京:創英社、2011年、220頁)。

 戯曲単行本に収録されている「あゆみ」長編版は51の場面から構成されているが、田無第四中版では45分の上演時間におさまるように、そのなかから23の場面が取捨され、各場面の台詞のやりとりもおおむね短縮されている。選択されたエピソードは、生徒たちの要望も取り入れたのだろうか、恋愛に関わるものが多かった。

 意外なことに、演じ手である中学生にとっては馴染み深く、共感しやすいはずの小学生時代および思春期時代のエピソードが大幅にカットされていた。彼女たちと同年代の「あゆみ」のエピソードの省略はおそらく意識的なものだ。そこにはもしかすると指導者の教育的意図もあるのかもしれない。今の自分たちと別の年代の人物を表現しなければならないとき、中学生の俳優たちはそこで立ち止まって考えなくてはならない。ライフステージの異なる段階にある「あゆみ」を演じるという経験は、中学生にとって、「私」の過去・現在・未来を考える契機となるだけでなく、大人という「他者」を意識させる契機にもなったはずだ。舞台上の少女たちの姿を見ながら、大人になること、大人であることを、抽象的で漠然としたかたちでしか思い描くことができなかった、思春期のころの自分を思い出す。

 田無第四中版の「あゆみ」のオリジナルな部分は最後の場面だ。この最後の場面は、弘前中央高校版とも異なっていた。柴幸男の「あゆみ」長編は、「最後の一歩」で終わる。「あゆみ」は人生の歩みそのもののアレゴリーであり、その結末は当然「死」でなくてはならない。平凡な人生の日常の美しさに対する賛美は、死へと一直線に向かっていく時の無慈悲さと対比されることで、さらに輝きを放つ。柴幸男の作品のあっけらかんとした明朗で健全な劇世界の背景には、「生」に過剰な意味づけをしない乾いたニヒリズムが漂っている。
 単行本に収録された2010年10月に上演された「あゆみ」の脚本の最後は次のようになっている。

  だから、最後はもちろんそこに。
   はい。じゃあ、行きます。せーの、さいごのいーっぽ。

    わたしたち、ジャンプ。着地と同時に暗転。

    おしまい。

 田無第四中の最後の場面は、次のようになっている。
 老婆となり、夫とも死に別れ、あゆみは老人ホームでひとりで暮らしている。あゆみはこれまでの人生を回顧する。混濁した記憶のなかで、いくつかの過去の情景が浮かび上がる。ここまではオリジナルの「あゆみ」長編版と変わりはない。
 舞台上には9人のあゆみが勢揃いする。彼女たちは舞台奥に横一列に並び、《丘を越え行こうよ》を歌う。歌がハミングに変わり、「私」が最後の口上を観客に述べる。上に引用した「あゆみ」最後の台詞の後に、次のような一節が付け加えられていた。

  でも、もっと考えてみると、最初の一歩は覚えていないし、
  最後の一歩もいつなのか分からない。
  私にとって大切なのは、たいせつ〔ママ〕なのは今だから、
  だから、これからも、もちろんここから、

  はい、じゃあ、いきます。
  せーの、明日のいっぽ。

 舞台中央に照明によって、手前に伸びる光の道が作られる。9人の少女たちが舞台後方から、観客席のほうへ駆けてくる。

【撮影者=小山内徳夫 会場=大田区民プラザ大ホール(東京) 禁無断転載】
【撮影者=小山内徳夫 会場=大田区民プラザ大ホール(東京) 禁無断転載】

 死の暗闇への「最後の一歩」を、未来へ踏み出す「あしたの一歩」に変更してしまうことで、作品の意味は大きく変ってしまう。この追記への評価は分かれるかもしれないが、この追記には教員である潤色者が、自分の教え子たちに託した未来への切実な願いと希望が反映されている。

 田無第四中演劇部の「あゆみ」は、演劇部員である彼女たちの日常からはじまり、最後にまた演劇部員の彼女たちの日常へと戻ってくる。45分間の時間旅行。「あゆみ」でひとりの女性の生涯を疑似体験することで彼女たちは、どう変わったのだろうか。そして観客は「あゆみ」を見て何を感じたのだろうか。

はかなさという寓意

 この作品のなかで、あゆみは非個性的で記号的な存在であり、あらゆる平凡な女性の総称的存在である。あゆみの《非個性》性は、視覚面では、ひとりの女性の生涯を複数の女優で分割して表現し、人物の動きを上手から下手へと循環化させるという演出の仕掛けによって強調されている。
 内容の面では、観客の多くが共有可能な体験は何かということが考え抜かれた上でエピソードが選択されている。学校、恋、結婚、子供の誕生、親の死、老いといったライフステージの各段階を典型的に感じ取ることができるようなリアルで通俗的なエピソードが、時間軸に沿って並べられている。

「あゆみ」では時間は生から死へと一直線に進むが、「私」の子供の成長の場面と最晩年の回想の場面を組み込むことで、時間を部分的に逆行させ、エピソードを反復させた。この非凡な着想によって、物語は重層化され、ダイナミズムが生じる。最晩年、老婆となったあゆみの回想は、彼女の人生を一気に俯瞰する。あゆみを見て、観客はそれぞれ、自らの過去、現在、未来を重ね合わせ、感傷的な気分に浸るだろう。

 作品の主題の通俗性、陳腐さと、それに感じ入る観客のナイーブさを嘲笑したくなる人間もいるかもしれない。しかしこの作品の優れているところは、ありふれたステレオタイプの素材だけを使って、1人の人物の生涯を演劇的に構築し、多くの人がアクセス可能な普遍的世界を舞台上に提示していることにある。そしてその世界は甘美なノスタルジーのみで満たされているわけではない。人生の終末に訪れる死と平穏に向き合うクールでタフな精神によって支えられているのである。

「あゆみ」の通俗性と日常性は、多くの人間が自分を彼女に置き換えることのできる普遍性と結びつく。あゆみは集合的で寓意的な女性像として提示されている。あゆみの《非個性》性が、強力な逆説として作用し、大きな感動を生み出す。特殊でないことを特殊な手法により浮きだたせる演劇のマジックがそこにはある。
 平凡な女性のありふれた人生の再現である「あゆみ」は、無名の少女たちによって演じられるのがよりふさわしい。それも思春期に入ったばかりの14歳の少女たちによって演じられるのが。それはなぜか?
 それは「あゆみ」がそのつきぬけた明朗さ・健全さにもかかわらず、〈メメント・モリ memento mori「死を記憶せよ」〉の教訓を想起させる現代の寓意劇ともいえる作品だからである。1人の女性の生涯のライフステージを象徴するエピソードを併置することで、「あゆみ」は滅びゆくもの、変わってしまうもの、はかなきものを描出する。
 中学時代は子供から大人への移行期にあたり、心身ともに大きな変化のただ中にある。とりわけ男性より女性のほうがこの変化は劇的なものだろう。不安定で移ろいやすい思春期前半の少女たちは、はかなさのすぐれた象徴となる。彼女たちが「あゆみ」を演じるとき、そのまばゆいばかりの若さは、〈メメント・モリ memento mori)「死を記憶せよ」の思想と裏表の関係にある〈カルペ・ディエム carpe diem「その日を摘み取れ(楽しめるうちに楽しめ)」〉という教訓を浮き上がらせる。

 田無第四中演劇部の「あゆみ」は、都大会で高い評価を得て、3月28日(金)に第3回関東中学校演劇発表会・2014関東中学校演劇コンクールでも上演されることになった。平日の午後という時間帯だが、多くの人に中学生による「あゆみ」をぜひ体験してほしいと思う。

【著者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
 1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学ほかで非常勤講師。専門はフランス文学で、研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。2012年より《ワンダーランド》スタッフ。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/

【上演記録】
西東京市立田無第四中学校演劇部「あゆみ」
平成25年度第64回東京都中学校連合演劇発表会 上演作品
会場:太田区民プラザ 大ホール(2014年1月13日)
作:柴幸男(ままごと)[『あゆみ[完全版]』東京:創英社、2011年]
潤色・指導:安藤俊弥
出演:西東京市立田無第四中学校演劇部
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田無第四中演劇部の「あゆみ」は第3回関東中学校演劇発表会・2014関東中学校演劇コンクールで、3月28日(金)15時10分から上演されます。発表会のプログラムは近日中に関東中学校演劇教育協議会のウェブページ上に掲載される予定です。

第3回関東中学校演劇発表会・2014関東中学校演劇コンクール
日時:2014年(平成26年)3月27日(木)—28日(金)、会場:神奈川県立青少年センター)

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