座・高円寺 劇場創造アカデミー4期生修了上演「戦争戯曲集・三部作」

◎「劇作」と「文体」と、創作に必要な在り得べき「姿勢」の在り方の問題について
 矢野靖人

 3月1日(土)、座・高円寺劇場創造アカデミー4期生修了上演、エドワード・ボンド作「戦争戯曲・三部作」通し上演を観劇。
 私たちshelfの前回公演「nora(s)」(2013年10月初演、第20回 BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加作品、日韓共同制作)の制作助手(兼通訳・翻訳)の任を担ってくれたアマンダ・ワデルが演出部としてこのプロダクションに参加していたのがこの上演を観に行ったいちばんの理由だった。そしてshelfが過去に京都アトリエ劇研で公演やワークショップを行った際にたびたび世話になった俳優・森衣里や、フリーぺーパー「とまる。」の元編集長の高田斉君もこの上演にそれぞれ俳優、演出部として参加していて、彼/彼女らの仕事を見届けたかったのと、あとはぜんぜん別な関心事として座・高円寺の「芸術創造アカデミー」というところがどのような事業を行っているのか。それにも興味があって、マチネ・ソアレの通し上演を観劇した。
 この公演、タイトルは「戦争戯曲集・三部作」とあるけれど、マチネAプロが一部として『赤と黒と無知』、『缶詰族』の二作を上演し、第二部をBプロとして同日に『大いなる平和』を連続上演するという、まことにまあ野心的というか、とても無謀な企画であった。途中休憩はあるものの、上演時間7時間超という大作を観るのは、歌舞伎の通し狂言でもなければ今日日まったく稀れな体験であって、非常に得るものが多くあった。そのような意味で観に行って本当に好かった。クロニクルというか、年代記とでもいうのか。7時間超という長い時間を通してしか得られない体験が、舞台芸術には確かに在る。それが身体で分かっただけでも実に僥倖であった。

 しかし、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」と語ったのはヴィトゲンシュタインだったか。とにかく全編通じて思ったことには、「戦争」、「死」及び「歴史」について語ることの困難さ、Bプロの『大いなる平和』についてはこれに加えて更に「宗教」と「神話」とについて語ることの困難さを改めて強く感じさせられた。

 「客観」とか「俯瞰(する)」というのはあくまで観念的なものに過ぎなくて、人間は世界に相対するときには必ずその時代、生まれ育った環境等に影響を受けずに世界を認識することが出来ない。観察者がその観察対象を観察するにあたって、それ、つまり観察対象に対して、観察者は影響を及ぼさざるを得ないといってもよい。

 斯様な意味で、「(他者のことを)分かる。」と思うこと。或いは「分かった気になる」ということは、我々人間にとってもっとも忌避すべき態度であって、裏を返せば「分からない。」という態度を保持し続けることのみが、唯一且つ“正しい”態度なのかも知れない。

 しかし、とすると語る権利を持つ当事者とは誰なのか? という問題が生じる。どこからどこまでが当事者を名乗る権利を持っているのか。というか、そもそも当事者とは誰か? 当事者であれば何を語っても良いのか? という問題が発生する。

 いうまでもなく(舞台)芸術はプロバガンダではない。特定のメッセージやイデオロギーを伝達する手段では決してない。しかし表現をするということは、誤解を恐れずにいえば、逆説的ではあるがそこには「思想」がなければならない。「思想」といって難ければ、自らの「姿勢(スタンス)」の表明、自覚的な、自立した自己の「意識」表明が伴わなければならない、と私は考えている。

 無知は罪だ。無自覚であることは愚かなことだ。といってしかし幾らたくさんの知識を溜め込んだところで、それだけで何かしらものを作ることは決して出来ない。そこには命懸けで跳躍しなければならない大きな境界線がある。つまり、リスクを取らずにクリエイションは行えない。ということなのだが、我々にとって、何かしらを(他者を)「分かる。理解できた。」とは、そもそも原理的に考えても、決して言うことが出来ない。しかし、繰り返しになるが、表現をするためにはどこかで決断を下し、飛躍することが必要だ。

 この矛盾をどう、生きるか。

 エドワード・ボンドは、イギリスの劇作家・演出家で、1934年のロンドンに生まれる。労働者階級の子として育ち、貧しい幼少期を送ったらしい。工場労務者、ペンキ屋、保険会社の事務員などの様々な職業に就きながら劇作を行い、後に自らの作品の発表を通して、当時のイギリスにまだ存在していたイギリス演劇界の検閲制度を廃止に至らせるなど、今やハロルド・ピンター等と並んでイギリスの現代演劇を代表する劇作家として、今も活動を続けている。彼の劇作はどれも常に社会構造の歪みや不合理な暴力を描くことに傾注されていて、ときに不器用なまでに重厚な言葉が連綿と書き綴られる。

 当日パンフレットに記載されていて初めて知ったのだが、彼の劇作全般における根本的な態度を知る上で手がかりとなるような一つのエピソードが記載されていたので、少し引用させて頂きたい。

 […]かつてボンドは、パレルモ大学の学生を対象としたワークショップで、次のような筋書きにしたがった即興演技を要求したという。兵士が、ひとりの赤ん坊を選び殺害せよという命令を帯びて帰省する。街には自分の母親が生んだ赤ん坊と、隣人が生んだ赤ん坊がいる。母親は兵士を歓迎し赤ん坊を見せる。隣人も兵士を観劇し赤ん坊を見せる。彼は隣人の赤ん坊を殺害し、帰宅する。
 ボンドは学生たちにこう行動するだろうと自分が思う通り正直に演じるよう求めた。最初の学生は、躊躇した挙句、筋書きに逆らって隣人に赤ん坊を返し、帰宅して母親の赤ん坊を殺した。兵士を演じた学生も、それを見ていた他の学生たちも、その行動に驚いた。学生たちは、次に兵士を演じた者がやはり「間違った」赤ん坊を殺したことに驚いた。全員が兵士を演じたが、誰ひとりとして「正しい」赤ん坊を殺すことは出来なかった。[…](今回の上演戯曲の翻訳者・近藤弘幸氏のパンフレット挨拶文「作品の手がかりとして」から引用。)

 この経験に基づいてか、ボンドは愚直なほどにそのままに、第三部『大いなる平和』の冒頭にこのエピソードを配置した。つまり赤ん坊の殺害を命じられた兵士が、逡巡した挙句、けっきょく他人のではなく、自分の母親の生んだ赤ん坊を殺す、というくだりが丁寧に描かれていたのだ。

 第一部『赤と黒と無知』は、母の胎内で被爆死した<怪物>の「生きることのなかった生涯」が語られる。幼少期に始まり幾つかのキー・ワードを元に繰り広げられる9つのパートで構成され、<怪物>を中心に、寓意に溢れたメッセージを直裁に投げかける社会性の高い作品だ。『缶詰族』は、すべてが終わってしまった核戦争後の世界の片隅の廃墟で、軍の備蓄か何かででもあったのか、焼け残った「缶詰」を食べて生き延びている(そのことによって実はそこには労働から解放されたユートピア的な、或いはどこかしら宗教集団のような匂いのする理想主義的な)コミュニティを描く。そしてそのコミュニティが、そこへまた別の生き残りの人間一人がコミュニティの外部からの異物として現れたことで内側から崩壊していく様を描いている。第三部『大いなる平和』では、核戦争後の廃墟に新しい<新コミュニティ>を建設し、こちらは戦争で埋まってしまった過去の遺構を発掘しそれを用いて発電したり、或いは野を耕して麦を育てパンを焼き、と『缶詰族』とは異なり、労働によって社会を再建しようとする人々と、一方でそのコミュニティに加わることを頑なに拒絶し続け、荒野を十数年も彷徨った挙句、孤独に死する一人の女性が対比的に描かれる。(そしてその女性こそが、劇の冒頭で息子に自分の赤ん坊を殺された女性であることが示唆され、また女は布を纏めて作った偽の赤ん坊と劇後半において一人、対話し、対話して、対話し続けるのだった。)

【写真は、「戦争戯曲集・三部作」公演から第三部『大いなる平和』。撮影=宮内勝 禁無断転載】
【写真は、「戦争戯曲集・三部作」公演から第三部『大いなる平和』。撮影=宮内勝 禁無断転載】

 芸術に限らず表現を行うものはすべて、何がしか「決断」し、リスクを背負いつつ「飛躍」しなければならない。先ほどそのようなことを述べたのは、かくの如き人を迷わせるような背反する命題や不条理を抱えた人物を演じなければならない俳優たちのほとんどすべてが、残念ながら今回の上演では、舞台上で何の葛藤も抱いていないように見えてしまったからだ。

 例えば、『缶詰族』では核戦争を生き残った集団がコミュニティを形成しようとしているところへ、また別の生き残りが登場する。そこで、戦争と生と死をめぐって個々の登場人物の思惑や信念や妥協、自己都合などが交錯するのだが、俳優個々に聞いたわけではないので確証はないが、それでも俳優一人ひとりが「戦争は良くないことだ。」という予め正解を与えられた状態で演じていいるように見えて、台詞(発語)も行動も、そのことの「説明」に終わってしまっていた感が否めなかった。

【写真は、「戦争戯曲集・三部作」公演から第二部『缶詰族』。撮影=宮内勝 禁無断転載】
【写真は、「戦争戯曲集・三部作」公演から第二部『缶詰族』。撮影=宮内勝 禁無断転載】

 一部、二部は同じ佐藤信の演出なのだが、一部は熟練の俳優たちが出演していたからか、そのような「予め結論が出ている」ようなことは感じられなかった。(といって僕が一観客として演劇的に楽しめたかというと決してそうではなく、俳優の演技がただの「説明」に堕することはないまでも、所謂「余白」はすべて埋め尽くされていて、俳優や演出家の決めごとがこちらの了解なしに、無前提に一方的に押し付けられている感じは少なからずあった。)

 非常に難しいことなのだとは思う。しかし、三部作すべてを観劇して一貫して感じられたのは、表現者の責任の所在の曖昧さ、とでもいうべきものだった。いや、もちろんそのような上演であってもいろいろと得るものはあったし、観ていていろいろと考えさせられた。

 しかし、しかしだ。ひょっとしてこれは日本の伝統的な文化なのか? とすら思えてしまうのだが、例えば東京電力の「原発」問題や政治の空洞化を引き合いに出すまでもなく、一人ひとりが自立して、その場所に一人で立つ。それこそが今を生きる者の宿命なのではないか?

 それともやはり、「和を以って尊しとなす」という、日本人に一種独特な、「世間」や「会社」、「家」への自己同一化(滅私奉公!)をかなえてこそ、一人前の人間とする、それが、正しい生き方なのだろうか。本音と建前とは上手に使い分けて然るべきものであって、表立って社会に対し異を唱えるような行為は恥ずべきことなのだろうか。

 「飛躍」すること。それは同時に「考え」続けることでもある。「揺らぎ」続けることでもある。今の日本人には著しくそのこと、つまり「考える」力が欠けているように思えてならない。分かり易い例として、例えば、福島の「原発」の問題についても、「考える」ことを欠いた言動を起動させる二つの対照的な立場が想定され得る。一つは「反原発」の立場であり、もう一つは「原発を擁護して、日本の経済的な競争力を維持することこそが善」とみなす立場である。もちろん個々の活動における個々人の名誉や意思を毀損したり非難したりするつもりはない。しかし、両者は反対のように見えて、同じ性質を持っているのではないだろうか? つまり、どちらも己の揺らぎない「善」なるスタンスを持ち、そしてどちらも一個人が責任を問われることのない、安全な外部からの言動に過ぎないのであって、また両者は必ずしも当事者の負担を減らしてはおらず、本当の意味で被災者のことを「考え」てはいない。

 話がちょっと広がりすぎた。話題を演劇に戻そう。そう、だからしかし、その場で誰一人責任を取っているように思えない、そんな作品は、果たして本当の意味での「演劇」なのか。演出家の指示に従い懸命に「演技」する。あるいは、作家の描いた戯曲のテキストの精密な「読解」を行い、文化的時代的背景を加味し、作家の書きたかったことの本質を探り当てる。それは別に悪いことではないし、必要な作業でもある。しかし、しかしだ。問題はやはり、決意表明をしつつも「しかし、」と自分を疑い続け、「答え」を提示するのではなく「問い」を立て続けられるかどうかということなのではないだろうか。

 劇作家の「文体」の問題について。本当は誰か(批評家?)がきちんと、いつか理論立ててまとめてくれることを願ってやまないのだけれど、例えば今回の上演に使用されたエドワード・ボンドの戯曲は、所謂「日常を活写する」というタイプの、対話や会話を描くというタイプの台詞では決してないのではないかと私は思う。

 もちろん本人に会ったこともなければ、エッセイ等といった彼の思想に触れられるような文章はおろか、恥ずかしい限りだけれど戯曲もちゃんと読んだことがない。しかし、ここまで映像技術が発達した現代において、それでも舞台表現を自らの戦場に選んで、そして現役の「劇」作家である以上、ベケットは勿論、サラ・ケイン以降の(※気になって念のため調べてみたら、サラ・ケインは1971年エセックス州生。ブリストル大学を首席で卒業後、バーミンガム大学修士課程で劇作を学び、1995年、23歳で問題作『ブラスティッド』でデビュー。とあるから、エドワード・ボンド(1934年、ロンドン生。)のほうがずっと年配だったワケだけれど、ここにおいてそんなことは些事に過ぎない。だって、ベケットやサラ・ケイン以降の時代を、エドワード・ボンドは生きているワケだから。)現役の「劇」作家として、絶対にベケットやサラ・ケインを無視したりすることは出来ないはずだと考えるからだ。

 というのも、所謂スタニスラフスキー由来、リー・ストラスバーグ経由で、今や世界を征服したリアリズム演技のその力を最大限に発揮するには、そのためには明らかに舞台芸術を選ぶよりか、映像表現を主戦場にしたほうが都合が良いのだ。それは間違いない。だから、にも関わらず舞台芸術を戦場に選んだ現役の「劇」作家として、舞台芸術でしか為し得ない、舞台芸術特有の演技(様式)を想定していたほうが自然だ、と、そう僕は考える。そうすると、戯曲の「文体」をどう捉えるか。ということが、ここにおいて非常に大きな問題を孕んでくる。

 そしてそれを前提に考えると、ここからはもう推測にしか過ぎないのだけれど、エドワード・ボンドの戯曲(台詞)は、誤解を恐れずにいえば「詩」に近いのではないか、と僕は思うのだ。「会話」や「対話」ではなく、だ。

 これは演出部にいたアマンダ・ワデルに聞いた話なのだが、三部において先に述べた「女」という主人公の一人が、核戦争後の荒野を10年以上一人で彷徨い続け、新しく復興しつつある新コミュニティへ誘われても何故か拒絶し続け、ついには終幕、何故彼女が新しいコミュニティへの帰属を拒み続けたのか? ということに対しての明確な答えを提示せぬままに、女は一人荒野で死ぬ。というシーンがあって、その荒野に出てからの一人の「女」が、僕が観たものでも、3部だけで3時間超あったのだけれど、オリジナルの戯曲では「女」のモノローグが延々と続くところ、半分近くカットしたらしいのだ。

 何故か? というと、例えば閉館時間の都合など、いろいろな現実的な制約などもあるのだろうとは思うけれど、ともあれ長大なモノローグが戯曲にはあって、それをリアリズム的な等身大の人間の心理から追うと、これはおそらく、演じることが不可能なのではないか、と、僕なぞは考えるのだ。

 前述した演出部のアマンダ・ワデルも言っていたのだけれど、エドワード・ボンドの戯曲はリアリズムを前提にして書かれていないのではないか? という、或いは、それだけではなく、例えば仮にリアリズムで行く! というなら、例えば一人の兵士が出てきたときにその俳優が兵士に見えるか? 人を殺し続けてきた人間と感ぜられるか? という問題が必然的に出てくるわけなのだが、しかしながら、修了公演だからしょうがないということも出来るかも知れないけれど、まったくもってそのへんにいそうな心も身体も「ゆるい」若者が舞台に上がって、兵士「然」としている。それはちょっと、演劇を上演するにあたって、やっぱり失敗しているんじゃないか。

 といって、しかしここで文体の限界を云々するつもりは僕にはまったくない。そこで必要とされるのは、劇作家の「文体」に対応すべき新たな演技様式か、若しくは演技というもの、人間の発語行為に関する俳優の、演出家の「思想」というか、「姿勢」を考え直すことなのではないかと思うのだ。

 こうして話は、拙稿の冒頭の「決断」と「跳躍」に関する問題、及び「分からない」という態度を留保するべきか否か、という問題に回帰する。

 繰り返しになるが、何らかの理念に基づいて、俳優も演出家も自分の表現を実現するためには、自ら決死の覚悟で「決断」をし「跳躍」せねばならない。と同時に「分からない。」という態度を留保し続けなければならないという相反する要求に、全ての芸術家は応えなければならないのではないか、と私は今、考えている。

 思い浮かぶのは、イプセンが戯曲『民衆の敵』の中で、主人公で、公害を告発し、コミュニティから迫害されたストックマン博士に語らせた有名な台詞、「一番強い人間とは実生活の舞台の上にたった一人で立っている人間なのだ。」という言葉だ。

 アカデミー修了生の皆さんには、当日パンフレットに掲載されていた、僕も敬愛する座・高円寺の館長の桑谷哲男さんや、ドラマトゥルクの長島確さんが寄せられていた挨拶文にあるように、これから先一人の自立した表現者として、「思考」し続けていって欲しいと思う。芸術表現に正解はない。というより、予め用意された正解を探し出すことがあなた方の仕事ではない。やらなければならないのは、むしろ「問い」を立て続けることなのだ。社会に対して、そして他でもない自分自身に対して。

 険しく厳しい道が待っていると思う。しかしあなた方は決して一人ではない。頑張って、這い蹲ってでもこの普通に生きることさえますます困難になりつつある世界を、どうかしぶとく生き抜いていって欲しいと切に願う。

【筆者略歴】
矢野靖人(やの・やすひと)
演出家。演劇ワークショップファシリテータ。1975年名古屋市生まれ。Theatre Company shelf代表。代表作に『R.U.R. a second presentation』(作/カレル・チャペック)、『構成・イプセン ─ Composition / Ibsen』(作/ヘンリク・イプセン)、『悲劇、断章 ― Fragment / Greek Tragedy』(作/エウリピデス)、長久手文化の家×三重県文化会館合同プロデュース「三島ル。」(作/三島由紀夫 より「班女」「弱法師」)等。日本演出者協会会員、(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。
次回作は、2014年4月3日(木)~4月7日(月)に、題材を日本国憲法前文、武者小路実篤や太宰治、武田泰淳らの書いたテキストを取って、新作shelf volume 17 [deprived(仮)]を明大前キッド・アイラック・ホールにて。

【上演記録】
座・高円寺 劇場創造アカデミー4期生修了上演「戦争戯曲集・三部作
座・高円寺1(2014年2月26日―3月1日)
作/エドワード・ボンド
訳/近藤弘幸
構成・演出/佐藤信 、生田萬
ドラマトゥルク/長島確

出演/
4期生:稲垣和俊、加藤亜実、居石竜治、丹澤美緒、馬場郁哉、藤田一陽、堀井和也、連木綿子、森衣里、桐沢千晶

賛助出演/
下総源太朗
重盛次郎
占部房子

劇場創造アカデミー修了生/
荒木秀智(1期生)、
大浦千佳、竹田茂生、宮尾昌宏、山田宗一郎(2期生)、石橋和也、田中ゆかり、吉田彰文(3期生)

演出部(4期生)/
アマンダ・ワデル、佐藤二葉、杉原徹平、高田斉

美術/島次郎
照明/齋藤茂男
映像/飯名尚人
音響/島猛
殺陣/栗原直樹
衣裳/今村あずさ
メイクデザイン/清水悌
歌唱指導/伊藤和美
小道具/福田秋生
演出助手/鈴木章友
舞台監督/佐藤昭子
舞監助手/山﨑牧
料金(全席自由・税込)/Aプロ、Bプロ共、各1,000円

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