きたまり+NPO法人Offsite Dance Project「RE/PLAY(DANCE Edit.)」

◎演劇とダンスと人生−多田淳之介演出「RE/PLAY(DANCE Edit.)」をめぐって
 木村覚

フライヤーデザイン:加藤和也
フライヤーデザイン:加藤和也

 例えるなら、魚を水槽に放ったとして、その水槽と魚の関係がこの作品における演劇とダンス(ダンサー)の関係であった。多田淳之介の『RE/PLAY(DANCE Edit.)』は見終わった瞬間、いや見ている間も、非常に挑戦的な、ゆえに考察するに値する作品だとぼくの目に映った。演劇がダンスを取り込む。それは昔から行われてきたことではある。幕間で役者たちが踊るなんて使い方はかねてからありふれていたが、岡田利規が登場して、その独特な台詞回しのみならず役者たちの奇妙な身体運動に注目が集まり、果てはコンテンポラリー・ダンスの一大イベント、トヨタ・コレオグラフィーアワード(2005)に出場するなんてことが起きてからというもの、演劇とダンスは別物と考える思考は明らかに「古く」なった。

 枚挙にいとまがないが、快快、一昨年解散したバナナ学園純情乙女組、Qなど、ダンス(的なもの)が不可欠な要素に(多様なレイヤーを据えた際、その主要なひとつと)なっている劇団は、少なくない。その傾向がもつひとつの可能性は、演劇のミュージカル化であるとぼくは思っているけれど、そしてその潜在的な力について興味があるのだけれど、この文章がその方向に進んでいくことはないだろう。さて、本作の演出家である多田は、演劇とダンスの関係についてこう語っている。

「演劇」と「ダンス」を分けるものは「ドラマ」、もしくは「人間」と言い換えても良いかもしれません。「演劇」は人間を描き「ダンス」は人間以外のものも描く。「言語」と「表象」の関係にも似ています。俳優は人間ですが、ダンサーは人間ではないとすら思っています。少なくとも舞台上の役割はそうであると思っています。(多田淳之介「演出家からのメッセージ」(以下、引用はすべてこの文章)

 多田は本作の前に俳優を起用した『RE/PLAY』を上演している。ぼくは未見なのだけれど、アクセス可能な動画で知る限り、俳優版は、カラオケ・パーティで盛り上がる若者たちが、ひとつながりの場面を、何度も繰り返すものだ。『RE/PLAY(DANCE Edit.)』も同じ踊りをひたすら繰り返すところに特徴があった。8人のダンサーが、短い振りを数珠つなぎした、その点で『トリオA』に似たところもある踊りを、各自曲にあわせて踊る。曲たちは観客が「ダンス」や「津波」や「人生」を顧みるように周到に選択されていた。曲が変わると踊りも変わる。ただし、曲は何度もリプレイされる。『オブラディ・オブラダ』は、10回以上反復されたか。振り付けはダンサー各自によるものだろう。多田が行った主たる仕事はおそらく、曲を選択し、反復する回数を決めることであったろうと想像する。言葉(台詞を書くこと)で俳優を操る人間的な関係ではなく、ダンサーとの関係は多田にとって言葉を超えたところにあったらしい。「ダンサーは人間ではないとすら思っています」という発言がそれを象徴している。冒頭のぼくの例えで言えば、多田のした仕事は「水槽」を拵えることだった。水槽が設えられることでぼくらはダンサーをつぶさに見ることが出来た。そう、これも多田の言葉だが、観客は水槽越しに「『踊る』生き物」としてのダンサーを観察しえた、そしてそこで目にした出来事に感動させられたからこそ、高らかな拍手喝采を捧げたのではないか。

【写真は「RE/PLAY(DANCE Edit.)」公演から。撮影= Ryuichiro Suzuki 提供=Offsite Dance Project 禁無断転載】

 ぼくも興奮の詰まった拍手に貢献した1人だ。最初に思ったのは、こうした作品をダンサー/振付家はなかなか作れないのだが、代わりに演劇の作家は作ってしまうのだな、ということだった。自分たちを「『踊る』生き物」として相対化し、その相対化のためにしかるべき「水槽」を用意すること。ぼくが常日頃抱いているダンス作家への不満というのは、ひとつにそうした反省の乏しさに向けられる。ただ純粋に自分の描きたい自分にとって美しい線を身体で描いてみたところで、それだけじゃひとはそうそう感動しないわけで、ある線を美しいと思う自分とは何かといった自己への冷静な分析が含まれていないとどんな振り付けも社会へと開かれはしない。「『踊る』生き物」として自分を反省し社会的に表象しない限り、ダンサーの表現はいつまでたっても独り言以上にはならない。他方、演劇作家である多田は、ひょいと軽い手つきで「『踊る』生き物」を舞台に浮かび上がらせてしまった。そのことに感動した。と、同時に、これはあくまでも演劇作品であり、ダンスの上演ではないとも思い、少し醒めた。

 一番醒めたポイントは、曲のリプレイに対して、ダンサーたちが疲弊しているかに見えるところにあった。10回も同じ振りを続ければ、肉体的にも精神的にもくたくたになるというのも事実かも知れないけれど、でも、ぼくの知るダンサーの真実は「100回だって全然平気!だって踊りたくってしようがないんだもの」なんてところにある。ロマンチックバレエの傑作に『ジゼル』がある。第二幕のクライマックスに、男が妖精たちによって踊り狂わされるシーンがある。踊りとは、踊り狂うものだ。男はくたくたになる(もちろん、演技で)。けれども、それは彼が人間だからで、妖精たちはいくら踊ってもびくともしない。ダンサーとはゆえに人間ではなく妖精である。くたくたになるダンサーを、だからぼくは芝居っぽいと感じてしまった。開演の四時間くらい前から観客抜きで踊りが始まっていたら、その疲労はさすがにリアルに見えただろうけれど、90分踊り続けたくらいでダンサーが疲労するなんて、水族館の魚たちがえさ目当てに曲芸するようなものではないか、と思ってしまった。ダンス狂であることこそ「『踊る』生き物」の実存ではないか、そう信じるからだ。

 さて、ぼくが求めるべきは、要するにこの問いだろう。水槽で魚は観察できるのか?
 こう問えるのは多田が問うに値する地点まで事柄を引き上げてくれたからなのだけれど、だからこそ、問い詰めたい。多田の言葉をもう一文引用してみよう。

「RE/PLAY」で試みたことはダンサーを人間化することだったのかもしれません。

 ここで多田の言う「人間化」とは何か。つまり、舞台上では「人間ではない」はずのダンサーが人間らしさをうかがわせる瞬間、それはいつか。「踊る/踊らない」の二分法とともに多田はこの瞬間をダンサーが「踊らない」ときの内に捉まえようとした。なるほどぼくが見た「疲労する」ダンサーは、その「人間化」のひとつのあらわれだったのかも知れない。しかし、さっきからぼくはこう問いたくなっている、ダンサーは本当に「疲労する」のか? と。そして、さらにこう問いたい、踊らないときのダンサーは果たして踊っていないのか? と。

 いや、まずこう言うべきだ。多くのダンス公演は踊り過ぎである。踊らない状態を舞台に用意することが、多くのダンス作家は不得意だ。だから「踊る/踊らない」のスリリングな関係が舞台で展開することなく、あたかもここでは「踊る」ことが「踊らない」よりも当然であるかのように(つまり、そういう約束ごと=演劇性に自分が囚われていることに無自覚なまま)ダンサーは踊ってしまう。ぼくの知る数少ない例外は、『薔薇の人』シリーズの黒沢美香であり、また室伏鴻のぼやきである。室伏が突然観客に目を向け語りかけると、それまであった緊張は一気に弛緩し、踊りが与えていたイリュージョンは消滅し、ぽかんと現実が顔を出す。『薔薇の人』の黒沢は、たいていの場合、奇妙な用途不明の道具を用意する。用意しているうちに気持ちが高ぶると、不意に踊り始める。室伏に関してもそうなのだろうが、とくに黒沢において、踊っていない(道具を用意する)時間は本当に踊っていないのか? というと、その答えは簡単ではない。

【写真は「RE/PLAY(DANCE Edit.)」公演から。撮影= Ryuichiro Suzuki 提供=Offsite Dance Project 禁無断転載】

 踊っていないときもダンサーは踊っている。こう口にすると「何やら形而上学的な響きに、筆者は自分でうっとりしている?」みたいと疑われそうだが、かなり「ベタ」に言っているつもりだ。例えば、土方巽の伝説的な奇行、独特のなまった抑揚や屈曲した言葉遣い、あれは何だろう。彼は「土方巽」を演じていたとも言えるけれど、彼は人生のただ中でも相変わらず踊っていたのだとも考えられないだろうか。「踊る/踊らない」の二分法は、ダンスか演劇かを区別するのにはよいのだが、ダンスと人生を切り分けるには不十分なところがある。だみ声で売り文句を繰り返す八百屋のあの抑揚や、電車の車掌が声をつぶして独特な雰囲気を言葉に載せるときのあのグルーヴは、生活が身体と溶け合わさって生まれたリズムを有していて、外見上踊ってはいないが、踊っているようなものだ。ダンサーの踊らない状態とは、そうした「踊る」状態に近似した何か、ではないのだろうか。

 演劇はダンスを捉まえられるのか? その問いに答える前に、ぼくはよくこう感じることがある。演劇のなかでダンスが踊られるとき、その瞬間だけ演劇は消える、と。例えば『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(1992)という映画で、盲目の老人が、自死を決意して若い介添人とともに最後の旅をするのだけれど、クライマックスの場面で、老人は若い女性をタンゴに誘う。踊る前と後で物語は確実に重要な展開を果たしているのだが、何が起きたというわけではない。ただ「二人が踊った」だけである。踊りは物語を停止させる。と同時に、物語を結末へとおし進める決定打を与える。なぜそうなのか。理由は、踊りを通して物語(演劇)は人生に触れるから、ではないか。演劇は人生を語る(人生を反省する)が、人生を生きることは出来ない。代わりに、ダンスは人生により近い、というよりダンスは生きること(生命)と地続きの、不思議な運動なのである。

 だから今日の演劇作家たちは、ダンスに興味を持っているのではないかというのがぼくの推論だ。そして、そのことを真剣に考えると、ミュージカルの可能性を模索するのではないかと、そう思う。ただし、ミュージカルの話をするのならば稿をあらためることにしたい。

【筆者略歴】
木村覚(きむら・さとる)
 1971年千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)修了。現在、日本女子大学准教授(人間社会学部文化学科)。専門は美学、ダンス研究。2003年、土方巽の舞踏論で第12回芸術評論募集佳作入選。「BT/美術手帖」「ワンダーランド」などにダンスを中心とした批評を執筆。著書に『未来のダンスを開発する—フィジカル・アート・セオリー入門』(2009年)。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ka/kimura-satoru/

【上演記録】
きたまり+NPO法人Offsite Dance Project『RE/PLAY(DANCE Edit.)
(上演時間:70分)
横浜・急な坂スタジオ ホール(2014年2月14日-16日)

演出:多田淳之介(東京デスロック)
振付・出演:岩渕貞太、遠田 誠、北尾 亘、きたまり、伊東歌織、岡田智代、花田雅美、林 七重
舞台監督:三津 久
照明:岩城 保
音響:泉田雄太
Web&フライヤーデザイン:加藤和也
制作:岡崎松恵

料金:一般2,500円/学生・パス割引2,000円 ※当日料金:500円UP
主催:きたまり、NPO法人Offsite Dance Project
共催:急な坂スタジオ
助成:アーツコミッション・ヨコハマ 先駆的芸術活動支援助成、神奈川県
制作協力:STスポット、東京デスロック

※関連企画
2月14日(金)15日(土)/急な坂ラウンジOPEN
2月16日公演終了後/アフタートーク 出演:多田淳之介・きたまり(英語通訳あり)

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