アトリエセンティオの8年

作る側と見る側の関係を作る

−SENTIVAL!のコンセプトは一貫していましたか。それとも途中で変わったりしたのでしょうか。

山田 メーンストリームでは変わってません。

鳴海 関東外で活動している劇団に上演してもらいたい、優先したいという気持ちは二人にありました。東京で活動している劇団よりも、関東以外で活動している人たち、東京で滅多に公演をしないカンパニーに来てもらって東京のお客さんに見てもらう。アトリエセンティオは小さい場所なので、1000人を喜ばせるような舞台や予算規模ではなくてもいいわけです。40人のお客さんの刺激になるクリエイションを考えることができる。実験的なことも出来るわけです。そういう上演機会としても機能していたと思います。地域のカンパニーは環境がシビアなので実験的な試みは難しい。お客さんから一度嫌われてしまったら大変だと考えるだろうし、地元のお客さんの期待にまず応えることが活動の大きなミッションになると思います。逆にSENTIVAL!は、自分たちがやってみたいことに挑戦してもらう機会でもありました。

山田 こっちも機会があったら(地方に)行きたいという気持ちもあったね。

鳴海 それはありましたね。ネットワークを形成するためのフェスティバルという意味もありましたね。

−第七劇場は2006年以降、拠点で作品作りをして、地域で公演するというスタイルをとったとうかがいました。アトリエづくり、ネットワーク形成はその考えに基づいていたのですか。

鳴海 2004年のBeSeTo演劇祭以降、拠点を持ちたいと考えるようになると同時に、東京公演を行うモチベーションを持ちにくくなっていました。何の意味があるのか、という疑問がありました。第七劇場の場合は利賀やSPACの活動を見る中で、表現者の創造活動にはどういう環境が必要か、を考えるきっかけを与えられました。じっくりものを作る拠点は必要だ、それに加えて、作品を見てもらう人たちとどういう関係を作ったらいいかを考えるきっかけも2004年から06年にかけて多くありました。拠点はいいタイミングがあってセンティオを持つことが出来ました。その後、その拠点を中心に、東京や関東のお客さんとクリエイションをどういう方法で共有していこうか、とならなかったのは、ほかの地域で公演している舞台を見に行ったときに、そのお客さんの反応が関東のお客さんよりもポジティブに映ったことが大きかった。お客さんの姿勢や参加の仕方は、地方の方がポジティブに映った。それが萌芽になって関東以外で公演したいと思うようになりました。2003年と04年の利賀演出家コンクールでの上演を除けば、2006年のSPACでの公演がはじめての関東外での公演で、以降、関東外での公演を多くしています。2006年前後はちょうどその過渡期でもありましたし、アトリエを持ったのがちょうどアーティストとしての今後の方向を決めるそのグレーな時期でした。関東外地方には、人生を楽しもうとする根本的な姿勢、アーティストとしてはうれしい姿勢があると感じたので、相対的に関東外がポジティブに見えました。それがどんどん増幅して「関東じゃダメだ」という方向に定着していったんです。

−そういう印象を強くした象徴的な出来事があるのではありませんか。

鳴海 今から思い返すと、私にとって衝撃的だったのは利賀の野外劇場で見た光景です。芝居が終わったあと鈴木(忠志)さんが出てきて、鏡割りをして、村民の方々や世界各地から来た観客とお酒を酌み交わす。作る側と見る側があれほどお互いに見て触って話して共に過ごす時間を見たのが衝撃的、印象的でした。ターニングポイントはあの体験だったと思います。

−いつですか。

鳴海 2003年ですね。翌2004年にも利賀に行っていますのでそのときも見てます。

東京の先が見える

−アトリエは取り壊しですか。

鳴海 大規模リフォームか建て直しか、大家さんの意向は決まっていないようです。ただいずれにしろ大きな手直しをするという方向ははっきりしているので、3月末で契約が切れる私たちが契約を更新することは出来ないという区切りになりました。

−鳴海さんが拠点を三重に移すことになったから契約せずということになったのですか。

鳴海 契約更新できるならほかの方とのシェアで続けることも現実的に模索していましたが、結果的に大家さんとの協議の結果、それも難しいと分かった。私がいなくなる云々はあまりアトリエの閉鎖とは関係ありません。

山田 契約継続の可能性はない、ということです。

−山田さんも静岡に拠点を移して活動するそうですが…。

山田 来年度から静岡に移ります。やっぱり創作の拠点があって、わいわいやりながら芝居が作りたい。拠点がない活動をするってことは、自分にとっては単にアトリエを持つ前、つまり8年退化するようなものに近いです。これからコツコツ活動を続けます。

鳴海 閉鎖の話が出る前の年くらいから、お互いにアトリエや今後の創作活動をどうするかという話はしていました。二人とも東京を離れることを考えていましたから。契約更新できないという事情もきっかけになったし、私にとってはまたそれが関東外に拠点を移したいというタイミングと合ったということもありました。

山田 そうだね。

−鳴海さんは三重のどこに移るのですか。どこの劇場の芸術監督になるのでしょう。

鳴海 特定非営利活動法人パフォーミングアーツネットワークみえが運営してる津あけぼの座と、旧幼稚園の講堂を改修した津あけぼの座スクエアという劇場があり、さらにもう一つ津市の山側に新しい劇場、テアトル・ドゥ・ベルヴィルがオープンします。その3つの劇場の芸術監督に今年1月から就任しました。

−鳴海さんが主宰している第七劇場はどうなりますか。

鳴海 カンパニーメンバーは短期的には私を含めて3人が津に引っ越します。残りのメンバーは関東に残ります。

−劇場と劇団の関係は。

鳴海 第七劇場は、その新しく出来るテアトル・ドゥ・ベルヴィルのレジデンスカンパニーになります。

−スタジオ型ですか、それとも客席のある本格的な劇場ですか。

鳴海 客席は80から100席ぐらいの予定です。まだ劇場化のための改修中です。NPO法人が劇場を借りて、プログラムディレクターの油田晃さんや、テクニカルディレクターの山中秀一さんたちなどのコアメンバーとともに、ほかの2つの劇場ともども運営していきます。また、三重県津市には三重県文化会館という県立の劇場もあり、そこの松浦茂之さんをリーダーとする事業推進グループとともに官民協働している実績が津にはすでにあります。それも含めて、三重県の劇場文化を今よりもよりよくし、「一地方都市・津市から中心大都市・東京へ」という図式ではなく、利賀、SPAC、鳥の劇場などのように「拠点地域から日本各地、または世界へ」という発信をしていきます。

【写真は(左から)鳴海康平さん、山田裕幸さん。右は聞き手の北嶋孝(ワンダーランド) 撮影=都留由子 禁無断転載】
【写真は(左から)鳴海康平さん、山田裕幸さん。右は聞き手の北嶋孝(ワンダーランド) 撮影=都留由子 禁無断転載】

−そういうケースはありますか。

山田 珍しいでしょうね。そういう流れはとてもいいことだと思います。東京の観客もあと10年するとさらに高齢化するでしょうし。先細りになるんじゃないでしょうか。私はそう見てますけど(笑)。もちろん、他の地域でも高齢化は避けられないでしょうが、同時に観客を育てる活動、アウトリーチのやりがいは、うんとあるような気がします。

鳴海 SENTIVAL!でトークを続けてきたことから考えると、あの場所を続ける可能性はあったかもしれませんが、続けたところで、アーティストのポリシーとお客さんとの関係や状況を考えると多分、今の現状維持にしかならない。

山田 それはよく分かるね。現状維持が精一杯…。地域と関わった活動をしたり、子供達を集めたりするのには、やっぱり狭すぎる。

鳴海 そこがもどかしい。40人50人を前に演劇やダンスをツールにして人生を豊かにしてもらおうといくらアピールしても、その40人50人の中の何人かが変わるかもしれないけれど、残念ながら関東というマスには広がらない。アトリエサイズの枠を超えない。私たちが作ったもの、あるいは私たちの活動と見に来てくれる人たちと、その背景にある大衆的なものや小劇場的メインストリームの間が遠いわけです。SENTIVAL!のトークの理念でもあった交流の文脈からいつのまにか遠ざけられてしまう状況の中でクリエイションをして、お客さんの人生にコミットしている実感が霞んでしまうことはもう嫌だ、と思います。山田さんは静岡で、私は津ですが、もっと充実したクリエイションのための環境と、お客さんの人生にコミットしている実感が得られる環境をと、願っています。

山田 同感です。その地域の方にとってなくてはならない芸術集団になりたいし、そういう作品を創作していきたいと思っています。

助成には枠組みがある

山田 とえあえず、焼津、藤枝、島田のあたりに拠点を構え、稽古、そして公演ができるようなスペースを作っていきたいと思っています。まだ具体的にあるわけではありませんが。その活動の中で、東京公演という形で、東京でやることはあるかもしれません。

−劇団の人たちは…。

山田 これから話し合って行きますが、なかなか、来いとは簡単に言えませんからね。

鳴海 (うなずく)

山田 東京は日本の文化拠点であることには変わりないですから、若い才能にとって、そういった環境で日々を暮らす意味はあると思うし。だけど、静岡—東京間は新幹線でちょうど1時間。思った以上に近いですよ。

鳴海 ユニークポイントも第七劇場も、引っ越し組と東京残留メンバーとに分かれるでしょうね。私たちはクリエイションをゆっくり進めていこう、そういう時間の使い方にシフトしていこうと思っています。東京だと年間2本新作を書かないと忘れられるとかいう見方があるように感じます。2年上演していないと、その人たち誰だっけ、と言うことになりかねない。

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