山の手事情社「ヘッダ・ガブラー」

◎生き生きしたゾンビ
 水牛健太郎

 薄暗い青い光で照らされた約2メートル四方の舞台には白い雪(繊維状の材料のようだ)が降り続いており、山のように盛り上がったところが何か所かある。そこに鮮やかな青いドレスを着たヘッダ(山口笑美)が現れると、盛り上がった雪の中から男3人が立ち上がり、ヘッダを取り囲んだ。こうして上演が始まった。
 今回の「ヘッダ・ガブラー」の特徴は何といっても、ヘッダを除く登場人物が「ゾンビ」として舞台に現れることだ。顔は白塗り、衣装はところどころ破れた薄いガーゼ状の布で覆われて、色あせてぼろぼろになった服を表現している。また彼らは舞台への登場と退場の際はぎくしゃくと不自然に身体を歪ませている。小道具は、花束や論文、ピストルなどすべてが、雪で代用されている。俳優が何かに見立てて床の雪を掴み取ると、それは指の間からはらはらと落ちていく。すべてはゆめまぼろし、死者の国での出来事であったかのようだ。

 「ヘッダ・ガブラー」を見ると、主役のヘッダにいつもイライラさせられる。他人の邪魔ばかりしていて、ヘッダ自身は特にやりたいこともない。彼女は自分の存在の鮮やかさだけに賭けて生きてきて、退屈さや平凡さを受け入れる用意がない。本当はヘッダほど退屈で平凡な人もいないが、彼女にはそれらを引き受けてから始まる本当の人生に踏み出す勇気がない。女性が自由に生きることが難しかった時代の犠牲者という面はあるのだろうが、それにしてもあまりにも子供のように思えるのだ。

【「ヘッダ・ガブラー」公演より。左からヘッダ、レーヴボルグ(平松俊之撮影。提供=山の手事情社。禁無断転載】
【「ヘッダ・ガブラー」公演より。左からヘッダ、レーヴボルグ(平松俊之撮影。提供=山の手事情社。禁無断転載】

 ヘッダ以外の登場人物は、ヘッダよりもはるかに貪欲に生きている。特に夫のテスマン(川村岳)がそうで、友人で自分よりもはるかに才能があるレーヴボルグ(浦弘毅)が頓死し、その遺稿を再現する使命に目覚めるや、がぜん生き生きとし出す。こういう人はよくいて、自分自身は二流なのだが、一流の才能を理解する能力を持っているし、それを世に出すことの意味も知っている。そこで自分がささやかなりとも役割を果たせるのなら、こんなにうれしいことはないと思っている。

 いわばテスマンは、二流であることにおいて一流なのである。実は世の中のほとんどはこういう人たちが支えているので、決して馬鹿にされるようなものではない。テスマンはレーヴボルグの仕事を支えてきたエルヴステード夫人(大久保美智子)という絶好のパートナーまで得て、早くもヘッダのことはどうでもよくなり始める。舞台が狭い(山の手事情社のいわゆる「四畳半」)ので、2人の急接近と、そこからヘッダが排除されていく様子が凝縮された形で表現される。生涯の仕事とベストパートナーを得たテスマンとエルヴステード夫人はゾンビの格好こそしているが、もうぜんぜんゾンビには見えない。

【「ヘッダ・ガブラー」公演より。左からヘッダ、テスマン、エルヴステード夫人、ブラック(平松俊之撮影。提供=山の手事情社。禁無断転載】
【「ヘッダ・ガブラー」公演より。左からヘッダ、テスマン、エルヴステード夫人、ブラック(平松俊之撮影。提供=山の手事情社。禁無断転載】

 貪欲と言えば、判事ブラック(山本芳郎)にしてもそうである。判事という仕事に就いているが、退廃した人物で、社会正義などに関心はなく、私的な小さな欲望の充足に余念がない。ヘッダとは長年の腐れ縁で、中庭を通ってはしょっちゅう会いに来る。あわよくばの思いを隠そうともしないが、ヘッダの方でも暇つぶしなのか、適当に付き合っている。若い美人の周辺には確かに、こういう感じの年上男がよくいる。

 ヘッダは美しい生き方への幻想をレーヴボルグに託していたが、ブラックはその情けない死の真相(下腹部を誤って撃ち抜いてしまった)をヘッダに教え、レーヴボルグにピストルを渡したのはヘッダではないかとほのめかす。それにより、ヘッダを自由にしようとする。このあたりのブラックは本当に生き生きとしている。長年の夢がかないそうになっているわけだから、無理もない話だ。

 ヘッダはこめかみを撃ち抜いて死ぬが、周囲の人たちの「生きる力」の旺盛さに押し出されて死を選んだように見えた。それなのに周囲の人がゾンビで、ヘッダだけが生きている人間として演出されているのは逆であるようにも思える。

 だが、演出の安田雅弘の意図は、芸術において永遠に生きるのがヘッダだというところにあるようだ。私の記憶が正しければ、当日パンフにそういった趣旨のことが書いてあった。ついに成熟することなく死んだヘッダこそ真に生きているという逆説が芸術なのだということか。

 分からないでもないが、やや古い芸術至上主義的な解釈のようだ。イプセンの時代に沿った解釈としてはそれでいいのかもしれないが、今の時代においてヘッダという人物をどう見るかという視点は感じられなかった。「演出」という高度な職人芸に安住し、時代と切り結ぶことを軽視した態度とも思えた。現代において、ヘッダのような成熟拒否は貴種でもなんでもなくてむしろありふれており、むしろ私たち、すべての平凡な人間の代表者でさえあるかもしれない。少なくとも、超然として反俗的な価値を示しうる存在には思えないのである。

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:
http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro

【上演記録】
山の手事情社「ヘッダ・ガブラー」
文化学院講堂(2014年3月20日(木)~29日(土))

構成・演出=安田雅弘
原作=ヘンリク・イプセン
キャスト= 山口笑美/ 山本芳郎・ 浦弘毅・ 大久保美智子・ 川村岳・ 園田 恵/ 倉品淳子

照明・舞台美術=関口裕二(balance,inc.)
音響=斎見浩平
衣装=綾
舞台監督=本弘
宣伝美術=福島治・古川洋祐
演出助手=小笠原くみこ
制作=福冨はつみ
製作=劇団山の手事情社 有限会社アップタウンプロダクション UPTOWN Production Ltd.

チケット料金(日時指定・自由席)
一般 3,800円、ペア 7,000円、高校生以下 無料


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