ナショナル・シアター・ライヴ「フランケンシュタイン(Aバージョン)

◎もたれあう父子に見る人類と科学の姿
辻 佐保子

 昨今メトロポリタン・オペラや劇団☆新感線など舞台作品の映画館での上映が頻繁に行われ、ついに英国ナショナル・シアター (以下、NTと略記) 作品の上映も2014年からTOHOシネマズにて開催されることとなった(註1)。ナショナル・シアター・ライヴ日本上映の記念すべき第一作は、2011年にオリヴィエ劇場で上演された『フランケンシュタイン』 (Frankenstein) である(註2)。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein: or the Modern Prometheus, 1818) を下敷きとしているNT版『フランケンシュタイン』はどのような作品であるのか。その特色を端的に挙げると以下の二点となる。

 一点目は、言語を操るクリーチャー像である。『フランケンシュタイン』と聞いた時に、ジェームズ・ホエール監督の映画版 (1931) でのボリス・カーロフ演じるボルトを頭に打ち込まれた怪物の姿が脳裏に浮かぶ人は多いだろう。呻き声や叫び声を発しながら徘徊するその巨体はクリーチャーの典型としてその後浸透することとなった。しかし、原作のクリーチャーは高い知能と論理的な思考を会得しており、多弁である。NT版のクリーチャーも言語を解し、語り、対話するキャラクターとなっており、映画版が決定づけたクリーチャーのイメージ刷新を図っている。

 二点目は、舞台経験豊富なベネディクト・カンバーバッチと映画やテレビドラマを中心に活動してきたジョニー・リー・ミラーという二人の俳優が博士とクリーチャーを交替で演じている点である (日本での上映では、便宜上カンバーバッチが博士を演じた回はAバージョン、ミラーが博士を演じた回はBバージョンとされていた。本稿でもその呼称に倣いたい)。本編上映前のインタビュー映像の中で二人が語ったように、ダブル・キャストという手法は「博士とクリーチャーが鏡像関係にある」ことを示すために採用されたのだろう。もちろん、来歴も演技スタイルもまるで異なる二人による二通りのNT版『フランケンシュタイン』を見比べる楽しみが生まれることは言うまでもない。可能であるならば両バージョンの相違を詳述したいものの、今回はあえてAバージョンに焦点をあてたい。本作は原作に準拠したあらすじながらも主人公二人の描かれ方が全く異なっており、特にAバージョンではその相違がより顕著に現れているためである。

◆科学の落とし子としてのクリーチャー

 NT版『フランケンシュタイン』のクリーチャーは原作のエッセンスを引き継いでいる一方で、小説と舞台というジャンルの違いから生じた異同を持つ。

 原作は若い冒険家ロバート・ウォルトンがフランケンシュタイン博士の数奇な生涯を聞き書きしたという体裁をとっている。手記というスタイルはシェリーが生きた当時は一般的であったものの、2011年に演劇として作り替えられるにあたって舞台と観客の間に立つ存在であるウォルトンが削除されたのは、時代及びジャンルの相違を踏まえると自然な流れと言えるだろう。しかしながらクリーチャーの描かれ方に着目すると、小説と舞台の相違がウォルトンの有無に留まっていないことが分かる。すなわち、原作のクリーチャーは主に博士によって語られ、思い出される存在であるのに対して、NT版では開演から約50分もかけて「科学の落とし子」であるクリーチャーの誕生から博士との邂逅までが描かれるのである。

 特に、クリーチャー誕生の場面は圧巻である。冒頭、舞台に設置された大きな円形の皮膜から、雷を思わせる眩い光と共にクリーチャーが地面にこぼれ落ちる。四肢を痙攣させて浅い呼吸を繰り返し、生命のシグナルを縫合が施され人為的に蘇生させられた肉体に行き渡らせる。そして、転がり回る状態から上体を起こして這い、地面に足裏をつけて体重を支え、ぎこちないながらも二足で前進することを猛烈なスピードで学んでいく。原作では語られなかったクリーチャーの生物としての始まりが、NT版では詳細に物語られる。

 その後もクリーチャーが様々な刺激を受容し、他者から受ける冷淡な仕打ちに不快感を示し、反復しながら学習していく様子が、指先の動きにまで注意を払ったミラーの演技を通して表される。上映前のインタビューでミラーが「自分の2歳の子どもを参考にした」と述べているように、その姿はさながら赤子である。原作では予め、博士の口から知性は高いものの残忍で怒りを燻らせた存在としてクリーチャーは読者に提示されるが、NT版は異形であるがゆえに残酷な扱いを受ける見捨てられた幼子として造形されている。それでは、創造主であり父であるフランケンシュタイン博士はどのように描かれているのか。

◆不能な父としての博士

 フランケンシュタイン博士もクリーチャーと同様に原作との異同を持つ。原作の博士は、恵まれた家庭で愛し愛された自分がいかにクリーチャーの創造に踏み切り、またそれを後悔しているかをウォルトンに切々と語る。他方、NT版ではクリーチャーの誕生と成長に力点が置かれるために、博士の半生は描かれない。結果として、社会性が欠如した傲慢な人物として博士は登場することとなった。

 たとえば、原作の博士は許嫁エリザベスに対する愛情を繰り返し吐露するが、NT版では博士の許嫁への愛情は疑わしいものとされている。何年も婚姻を延期し続けている婚約者に対して、エリザベスは愛情を確認するために博士の手を取り自らの胸に寄せる。しかし、博士は官能を掻き立てられることはなく、標本を観察するような眼差しをエリザベスの身体に向けるのである。また、伴侶を生み出してほしいとクリーチャーに乞われた際、原作の博士は創造主としての責任感に基づいて作成を決断する。ところが、NT版の博士は迷った挙げ句「後戻りは出来ないのだから、前進するしかない」と呟く。そこには創造主としての義務感や被造物への憐れみは見られない。

 さらに、NT版の博士は単なる血縁や社会的な繋がりに頓着しない青年でなく、創造主/家長として不能な父親としても描かれていると考えられる。まず、エリザベスとの関係が示す通り、博士の言動は男性能力への疑いを呼び起こす。クリーチャーに対しても博士は創造主としての責務を全うしない。自らつくり出したにも関わらずその存在を認めず、一旦は着手した伴侶作成も土壇場になって反故にする。人の子として種を存続させることも、創造主として被造物を継続させることもしない、インポテンツな父としてNT版ヴィクター・フランケンシュタインは描かれているのである。

 劇化にあたり、博士をただ探究心が過ぎたゆえに一生軛を背負うことになった青年とするよりも、予め欠陥や欠如を抱えた青年とする方が、劇冒頭に詳細に語られるクリーチャーのインパクトにかき消されないだろう。この改変は博士を安っぽいマッドサイエンティストの類型に押し込める危険性も帯びている。しかし、カンバーバッチのジェットコースターのような緩急ある台詞回しと手指や眼球の動きまで制御しているように感じられる演技の繊細によってその点は回避されている。

◆割れ鍋に綴じ蓋、父と子、そして人類と科学

 改めて博士とクリーチャーの関係性に注目した時、クリーチャーを子として認めていないにも関わらず父権を振りかざす父=博士に対して、父権を脅かすものの父殺しも父になることも放棄する子=クリーチャーという閉鎖的で共依存的な父子関係という図式が浮かび上がる。

 博士がクリーチャーの未来の妻を破壊する時、クリーチャーを伴侶のいて然るべき生物として見なしていないだけでなく、種を継続させる可能性を排除していることが明らかになる。その復讐として、クリーチャーは博士の婚礼の夜にエリザベスを陵辱する。だが、エリザベスを強制的に伴侶とすることで「男/人間になった」(註3) はずのクリーチャーもまた、彼女の首を折ってその命を奪う。一見、伴侶を奪うという意味ならばクリーチャー自らがエリザベスを殺害する必要はないように思われる。しかし、エリザベスの末路はNT版における妻/母の役割を担う人物に共通する悲劇性を帯びているのである。

 まず、博士の母は劇の幕開け時には既に他界している。また、クリーチャーは盲目の老人から教育を受けるが、老人の息子夫婦に手ひどく追い払われ、仕返しとして彼らの家に放火する。その老人の義娘が妊娠していることは象徴的である。エリザベスも度々博士に子どもを授けるよう乞うが、その望みが叶うことはない。また、クリーチャーが陵辱に踏み切る直前まで、エリザベスはクリーチャーに傷つけも打ち捨てもしない新しい関係の可能性を示すにも関わらず、成就せずに終わる。このように、妻/母にあたる人物が次々に排除されていくのである。最後にエリザベスが手をかけられることで博士の父としての権威は地に落ち、クリーチャーは父となる可能性を自ら放棄する。生産能力を持たない父とその落とし子という関係性のみが保たれ、二人が不毛な極北の地に辿りつくのは当然の帰結と言えるだろう。

 最終場、クリーチャーが過酷な環境の中で博士を導きながら「父が息子に、主人が奴隷に」と語るように、一見すると二人の立場は反転したかのように思われる。ところが、博士が憔悴し反応を示さなくなるとクリーチャーは狼狽し、「置いていかないで」と懇願する。割れ鍋に綴じ蓋と言えるほど執着しあう博士とクリーチャーのなれの果ては、原作とはかなり隔たったものとなっている。原作ではウォルトンに過去を告白した博士は死に、その死を見届けたクリーチャーも自ら生を絶つとウォルトンに告げることから、死後の救済を予感させる。他方NT版では、クリーチャーの破壊を目指す博士と、博士を挑発し導くクリーチャーは舞台奥から差し込む鋭い光の中へと歩き去って終幕となる。果たしてクリーチャーの破壊は成就するのか、その前に博士が息絶えるのか、あるいは異なる結末を迎えるのか、答えは明示されない。

 だが、歩く二人の後ろ姿からは不毛さへの悲哀は感じられず、むしろ力強さを覚える。そこには、シェリーの時代とは少々異なる人類と科学の関係のあり方が織り込まれていると考えられる。父として科学技術を生み出し、発展させ、主人として思うままに操作しているようでいて、むしろ科学技術に依存し、導かれている。子がいなければ父でなく、奴隷がいなければ主人ではないように、人と科学はもたれあい、脅かし合いながら前進するよりない。NT版『フランケンシュタイン』の幕切れは、博士とクリーチャーに救済をもたらさないという意味で冷徹なものではあるが、その互いの影法師のように依存しあう在り方を肯定も否定もしない結末が21世紀にふさわしいことは確かだろう。荒涼とした大地を二人並んで進む博士とクリーチャーの背後には、幾億もの博士たちとクリーチャーたちが連なっているのである。

[註]
1. ナショナル・シアター・ライヴの日本版公式サイトのURLはこちらである。2014年は計6本の作品が上映される。
2. 本作の上演期間は2011年2月22日から5月2日までで、『スラムドッグ$ミリオネア』(Slumdog Millionaire, 2008) などで知られるダニー・ボイルが演出を務めた。2011年度のオリヴィエ賞で主演男優賞と照明デザイン賞を受賞。詳細はダウンロード可となっているパンフレットを参照のこと。
3. この部分は、戯曲では “Now I am a man.” (72) となっている。字幕では「これで俺も男になった」とされていたが、”man” には「男性」だけでなく「人間」の意味も重ねられていると考えられる。ニック・ディア作の戯曲Frankenstein (2011) を参照。

【筆者略歴】
辻佐保子(つじ・さほこ)
1987年生。日本学術振興会特別研究員。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍(表象・メディア論コース)。研究対象はアメリカン・ミュージカルとミュージカル映画。

【上映記録】
監督(演出):ダニー・ボイル
原作:メアリー・シェリー
脚本:ニック・ディア
2011年イギリス作品
上演時間135分
キャスト:ベネディクト・カンバーバッチ、ジョニー・リー・ミラー、ナオミ・ハリス
Aバージョン 2014年2月14
16日、3月28
30日
Bバージョン 2014年2月21
23日、4月4
6日
TOHOシネマズ系列映画館にて上映

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