マームとジプシー「塩ふる世界。」「モモノパノラマ」ほか

◎ロングスカートの少女たち—マームとジプシーにおける身体性
 藤倉秀彦

 マームとジプシーの身体性について書く。

 身体のリアルの低下—つまり、自分にはカラダがある、という実感の希薄化というのが、80年代くらいから進行していたのではないか、というふうに個人的には感じている。こうした身体の希薄化は、90年代以降の所謂「静かな劇」においては、平田オリザ的な「動かない身体」というかたちで表現されてきたのではないか。つまり、90年代から00年代は、80年代的な「躍動する身体」みたいなものを提示するのは、古い、ダサい、恥ずかしい、という感覚が作り手の側にも、受け手の側にもある程度共有されていたのではないか、と。これは自己が身体から疎外されている—あるいは逆に、身体が自己から疎外されている—という感覚の反映なのかもしれない。

 ところが、チェルフィッチュの登場あたりから、空気が変わる。初期の岡田利規は、この「疎外された身体」を、積極的に援用する。ワタシとカラダ、あるいはココロとカラダは、かならずしも連動しておりません、という滑稽で悲惨で切実な齟齬を意図的に前面に押し出したのだ。ワタシとカラダがずれている、という離人症めいた浮遊感覚と非現実感と疎外感が、新たな「身体のリアル」として浮上してきたわけである。で、マームとジプシーの身体もまた、こうした流れのなかに位置しているはずだ(乱暴きわまりない「まとめ」だけれど、個人的にはこんなふうに捉えている)。

 わたしがマームとジプシーをはじめて眼にしたのは、『塩ふる世界。』(11.8)だ。この作品における役者の身体のありようは、ある意味ダンス的だった。舞台上では「リフレイン」にもとづく反復が続き、初発のパターンをもとにバリエーションがつぎつぎに生成されていく。ここで頻繁に援用されたのは、複数の役者によるラインダンス的・スクエアダンス的な展開—点対称を意識した非常に幾何学的な動きである。こうした動作や場面の反復によって一定のリズムやグルーブ感が生まれ、その結果、役者の身体運用がダンス的な様相を呈していく。

 ただ「ダンス的」とは言っても、個々の役者がダンサー並みの技巧や表現力を示すわけではない。舞台上における複数の役者の身体の配置、移動、展開などにより空間が織り上げられていくさまが、演劇的であると同時にダンス的な印象を与えるのだ。また、役者たちの身体のありようが、台詞や感情と明らかに連動していない場面が散見される。これは身体と台詞・感情のあいだに意図的に齟齬を発生させるという、上述の初期チェルフィッチュ的な手法だろう。

 役者の身体は、体育的というか器械体操的というか、機能論や運動理論で語れそうなすっきりした身体だ。ただ、そのくせアスリート的な精悍さや鋭さは感じられない。汗みずくで演技を続けたあげく、ほんとうに疲労困憊してしまう—『塩ふる世界。』では、役者の身体に異様な負荷がかけられていた—役者たちからは、実のところ強烈な身体性は伝わってこない。身体がどれほど激しく動こうとも、そこにはやむにやまれぬ切迫感が感じられないのだ。彼らの汗をかく身体、疲労する身体は、演劇的というよりはむしろ体育的だった。役者たちの身体から真摯さ、懸命さは感じ取れる。しかしそこには、骨が軋み筋肉が躍動する身体のリアルはあまり感じられなかった(ただ、もしかするとこれは、最初から意図されたものだったのかもしれない)。

【写真は「塩ふる世界。」公演から。撮影:飯田浩一 提供:マームとジプシー 禁無断転載】
【写真は「塩ふる世界。」公演から。撮影:飯田浩一 提供:マームとジプシー 禁無断転載】

 アングラ的な身体は、情念だとか怨念だとか、濃くて重たいあれやこれやを内に秘めたもののような気がするのだけれど、マームの役者の身体は逆に「何も内蔵していない」感が強い。これは藤田貴大という演出家個人の資質もさることながら、時代の空気の問題もあるだろう。アングラにおいて信じられていたであろう身体の神秘性、呪術性みたいなものは、おそらく現在はほとんど信じられていない。マームの役者の器械体操的・体育的身体は、虚ろで空っぽな身体とも、自由で軽やかな身体とも、激しく空転する身体とも取れるだろう。

 また、マームとジプシーの舞台では、個々の役者がおのおの役柄や台詞に立脚し、自己の肉体を駆使し、主体的に「演技している」というふうには見えない。むしろ指定された位置に立ち、指定されたタイミングで動くよう「コントロールされている」印象が強い(ただし、これは客席から「そのように見える」という話であって、実態がどうなのかはわからない)。

 「身体性」という言葉を使うとき、個々の役者の身体のありようを指すのが一般的だ—あの舞台のあの場面のあの役者のあの身体、というように。それは「身体性」が本質的に役者に帰属するものであり、台本や演出といった枠組を通じて自動的に生成されるものではない、という意識があるからだろう。しかし、マームとジプシーにおける役者の「身体性」は、むしろ集団的だ。重要なのは、個々の役者のアクションというよりは、複数の役者のインターアクションなのだ。

 かつて平田オリザに対しては、「役者を将棋の駒のように使う」という批判がなされた。これは台本の構造上ないし劇の進行上、役者が将棋の駒と化すという意味だった。いっぽう藤田貴大の舞台では、身体運用という面において役者が将棋の駒と化す。個々の役者の身体が—その存在感や切迫感が—何かを語るのではない。複数の役者の身体のアンサンブルが語るのだ。

 マームの身体はわたしが見続けたここ三年弱のあいだに—藤田貴大の作風とともに—少しずつ変化を見せている。『塩ふる世界。』で顕著だったスクエアダンス的身体運用は『Kと真夜中のほとりで』を境にしだいに陰をひそめ、『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』以降はよりシンプルで抑制の効いたものに変わっていく。しかし、先述したような、「何も内蔵していない」ような佇まい、あるいは体育的な感覚は、あまり変わっていない印象が強い。

 近作の『モモノパノラマ』では、これまではあまり見られなかった、役者同士の身体が密着する場面がいくつかある。たとえば、幼い姉と妹が取っ組み合いの喧嘩をし、たがいの躯を掴んだまま、舞台の床をごろごろと転げ回ったりする。ただ、これもやはり器械体操的で、躯がぶつかり合う衝撃や力感、肌と肌が密着する生々しさは、まったく伝わってこない。おそらく、最初からそんなものは意図されていないのだろう。

 同様な身体運用として、三人の役者が舞台の床に平行に横になり、三人に直交するかたちで四人目の役者がその上に身を横たえる、というものがある。これで下の三人が「コロ」となり、上の役者を前に進ませるわけである。これはほかの役者によって芝居の主筋が演じられるのと同時進行的に、舞台端で行われる身体運用で、ある種パフォーマンス的なものと言っていいだろう。ここまで来ると、器械体操的身体どころか、もはやモノである。身体性どころか、役者の固有性すら剥奪されているようにも見える。

 マームとジプシーには、こうした集団的・相互作用的な身体があるいっぽうで、「独白する身体」とも言うべき個人的な身体がある。

 たとえば、『塩ふる世界。』では、吉田聡子演じる少女がみずからの処女喪失について淡々と語る場面がある。このとき吉田は、マット運動の動作が途中で崩壊するような、奇怪な動きを何度もくり返しながら独白を続ける。これも前述した、言葉と身体に齟齬を生じさせる手法だろう。『塩ふる世界。』では、まだ生硬な印象があったこの手法は、その後徐々に洗練されていく。青柳いづみが額縁のような四角い枠と戯れ(?)ながら独白を行う『あ、ストレジャー』の一場面は、台詞と身体が行きはぐれるさまに異様な迫力と説得力があり、忘れがたい印象を残す。

【写真は「塩ふる世界。」公演から。撮影:飯田浩一 提供:マームとジプシー 禁無断転載】
【写真は「塩ふる世界。」公演から。撮影:飯田浩一 提供:マームとジプシー 禁無断転載】

 また、尾野島慎太朗の「語り」に代表される、ハンドマイクを片手にしゃべりまくる場面も面白い。通常なら「赤裸々な内面の吐露」であるべき独白も、役者がハンドマイクを握ったとたんに「マイク・パフォーマンス」に変容してしまう。そのようにして語られるコトバの意味は微妙にカッコで括られ、ひじを高く上げてマイクを口もとに近づけながら舞台を移動する身体は「作りもの」の輝きと胡散臭さを同時に放つ。

 集団としての役者が将棋の駒のような「コントロールされた」動きや身体を見せるいっぽうで、個としての役者が存在感を持って舞台に屹立するギャップが興味深い。ただ、この二つの身体性から共通して感じ取れるのは、どこまでも強烈な「演出」の存在だ。個々の役者の内的な、あるいは身体的な切実さは、演出が統御する台詞術や身体性によってつねに相対化される。マームとジプシーの魅力のひとつは、この錯綜した相対化の感覚であり、役者がつねに「演じることを演じている」ようにも見える騙し絵めいた重層性であろう。

 マームとジプシーにおける身体について語るうえで、どうしても無視することができないのが女性性の問題である。この問題への入口として、衣装を取り上げてみよう。女の役者たちが身に着けるのは、ロングスカート、ゆったりしたブラウスやカーディガンなどで、色はオフホワイトやベージュといった淡色が多い。躯のラインが隠されてしまう、よく言えば清楚で上品、悪く言えば地味で色気のない衣装である。「森ガール」(すでに古語?)という言葉を当てはめてもいいのかもしれない。

 藤田貴大は女を単なる恋愛や欲望の対象として描くことはない。が、だからといって、劇中の女たちがステレオタイプの女性観から解放された、あるがままの等身大の女だとも思えない。マームの舞台に登場する女たちは、成熟した大人の女という感じがあまりせず、衣装が暗示するように、おしなべて中性的、コドモ的な印象が強いのだ(ただ、衣装に関しては『モモノパノラマ』では、女の役者の身体のラインが比較的はっきり現れるもの変わっていたこと、また『Rと無重力のうねりで』がある意味「男芝居」だったことは指摘しておく必要があるだろう)。

【写真は「モモノパノラマ」公演から。撮影: 橋本倫史 提供:マームとジプシー 禁無断転載】
【写真は「モモノパノラマ」公演から。撮影: 橋本倫史 提供:マームとジプシー 禁無断転載】

 いずれにせよ、藤田貴大の芝居においては、女という異性は、対峙すべき他者としては姿を現さない。それが証拠に、マームの芝居では、恋愛が題材として正面きって取り上げられることがほとんどない(ついでに言えば、男と女ではなく、兄と妹というモチーフが何度かくり返されるあたりも意味深長である)。これはマームとジプシーの舞台においては、他者性が重視されていないことの象徴と見ていいだろう。

 基本的にマームの芝居は、同じ記憶を共有する者たちの物語である。共有された記憶という主旋律が、個々の登場人物によって変奏(=リフレイン)されていくのだ。したがって、劇世界は否応なく同質化、均質化する。そこで関係性のドラマが描かれたとしても、それは同じ体験=記憶を共有しているにもかかわらず、わかり合えない、すれ違う、という小さな差異の物語にすぎない。個人的には、このあたりに若干の懸念と苛立ちを禁じ得ない。マームとジプシーの舞台に静かに佇むロングスカートの少女たちは、他者とめぐり会うことがないまま、永遠に記憶のなかを生きつづける運命にあるのだろうか?

【筆者略歴】
藤倉秀彦(ふじくら・ひでひこ)
 1962年生まれ。翻訳家。訳書にゴードン・スティーヴンズ『カーラのゲーム』、エリック・アンブラー『グリーン・サークル事件』、インガー・アッシュ・ウルフ『死を騙る男』ウルフ(以上、東京創元社)など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujikura-hidehiko/

【上演記録】
マームとジプシー「塩ふる世界。
■初演 STスポット(2011年8月17日-22日)
出演者
青柳いづみ、伊野香織、荻原綾、尾野島慎太朗、高山玲子、緑川史絵、吉田聡子
作・演出:藤田貴大
舞台監督:森山香緒梨、加藤唯
照明:吉成陽子、山岡茉友子
音響:角田里枝
宣伝美術:本橋若子
制作:林香菜

主催:マームとジプシー
共催:STスポット
チケット料金:前売2500円、当日2700円

■国際舞台芸術ミーティング(TPAM)in yokohama 2012参加
大平勝弘(STスポット)ディレクション
横浜赤レンガ倉庫1号館(2012年2月17日・18日)

マームとジプシー「モモノパノラマ

■神奈川公演
KAAT神奈川芸術劇場(2013年11月21日-12月1日)

出演者:石井亮介、伊東茄那、荻原綾、尾野島慎太朗、川崎ゆり子、成田亜佑美、中島広隆、波佐谷聡、召田実子、吉田聡子
作・演出:藤田貴大
舞台監督:森山香緒梨
音響:角田里枝
照明:富山貴之
衣装:高橋愛(suzuki takayuki)
宣伝美術:本橋若子
制作:林香菜

主催:マームとジプシー
提携:KAAT神奈川芸術劇場
助成:ACY先駆的芸術活動支援助成
チケット料金:前売り3000円、当日券3500円

■新潟公演
りゅーとぴあ新潟市芸術文化会館(2013年12月6日-7日)
チケット料金:前売3000円、当日3500円、高校生以下[前売・当日とも]1000円

■北九州公演
北九州芸術劇場(2013年12月14日-15日)
チケット料金:前売り3000円、当日券3500円、学生[前売り]2500円、[当日券]3000円

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