ナショナル・シアター・ライヴ「コリオレイナス」

◎トム・ヒドルストンと悲劇の向かう先
 藤原麻優子

 辻佐保子氏が『ワンダーランド』390号に寄稿した通り、2014年に入って英国のナショナル・シアターによる舞台作品の上映「ナショナル・シアター・ライヴ」がTOHOシネマズで開催されている。第一作が辻氏の扱った『フランケンシュタイン』、そして第二作が本稿にて取り上げる『コリオレイナス』である(註1)。同作はシェイクスピアの『コリオレイナス』に基づき(註2)、300席に満たないドンマー・ウェアハウスの小劇場空間での新演出による上演であった(註3)。ドンマーの芸術監督ジョシー・ルークによる演出、『アヴェンジャーズ』『マイティ・ソー』への出演で世界的なスターとなったトム・ヒドルストンのコリオレイナス、人気ドラマ『シャーロック』のマーク・ゲイティスらも出演する話題の舞台であり、劇場には連日早朝から券を求める列ができたという。

◆不満なく楽しめる公演

 同作品が質の高い上演であることは言うまでもない。シェイクスピアの中では上演の少ない劇『コリオレイナス』の、特にドンマー・ウェアハウスという元は倉庫であった小さな空間での上演である点、原作から政治性を取り出す意欲的な演出コンセプト、小劇場空間に相応しいシンプルな装置と残酷ながら美しく印象的な視覚イメージ、コリオレイナスのキャラクターの造形に奥行きを与えたヒドルストンの演技や力強い演技を見せたヴォラムニアのデボラ・フィンドレーに対して評価を惜しむことはできない。メニーニアスのゲイティスも役においても演技においても劇の良心と呼べる好演を見せた。概して、作品選定と基本的な演出コンセプトは成功しており、主演俳優であるヒドルストンはスター性を発揮しながら緊密な演技を見せ、不満なく楽しめる公演だったと言うことができる。しかしながら、今一歩の物足りなさが残った。では、何が充分でなかったのだろうか。

まず、場面転換を埋める音楽の騒がしさの妥当性への疑問や、シェイクスピアの劇にあった複雑さがテキストの大幅なカットにより失われている点はイギリスでの上演に対する劇評の指摘するところである。そして、何よりも気にかかるのは、ヒドルストンの滴るような魅力にもかかわらず彼の魅力を演出やプロダクション全体が越えられなかったように見える点である。昨今の商業演劇の流行とさえ言える視覚的なイメージのクールさが際立つ一方で、テキストに読み込まれた政治性や劇の描く軌跡の点では最後に息切れしてはいなかったか。小劇場での上演を映像で鑑賞するという限界はあれど、シェイクスピアの『コリオレイナス』から取り出したかった視点や要素がきちんとこの上演に翻訳し切れていたのか、そしてその舞台空間で起きたことがきちんと映像に翻訳されていたのか、本稿にて確認したい。

◆アウトサイダーとしてのコリオレイナス

 この上演はマーシアス、後のコリオレイナスをアウトサイダーとして描く。マーシアスは、彼を批難する民衆と彼を擁護する友人メニーニアスの前に登場して開口一番に民衆を蔑む言葉を発する男である。彼の考え方はどの社会、集団においても浮いており、広場で民衆に対しても、議会で貴族に対しても、清々しいほどに場のルールに従えない。ドンマー・ウェアハウスの演技空間後方の壁を照明によってコリオライの城壁に見立てる鮮やかな演出の中で、マーシアスが唯一属しているかに見える戦場においてさえ兵士たちは怯んでしまい彼について来ず、マーシアスの異質さ、属す場所がないことが印象付けられる。

 この異質さは視覚的にも示されている。コリオライの砦から出てきたマーシアスはまさに頭から血を被ったかのような姿である。劇中もっともインパクトのあるマーシアスのイメージであり、観客の眼前で血を洗い落とした後も血まみれのイメージは残像のように清潔な身体に重なり続け、彼の平時と政治への馴染まなさを説得力をもって訴え続ける。ヒドルストンのスターとしての恵まれた身体、ビジュアルのインパクト、劇的な意義の重なり合う、同公演でも出色の演出であったといえる。

 マーシアスは言葉の上でもアウトサイダーである。繰り返し他者の称賛を拒絶する素振りを見せるのである。ローマの貴族たちやマーシアスの母ヴォラムニアは彼の戦場での功績を褒め称えるが、コリオレイナスはその度に称賛を拒む。そうではない、欲しいものは言葉ではない、見せたいのは傷でも業績でもない、あなたたちが言うようなつもりで戦ったのではない、そうマーシアスは主張する。つまり言葉で行為が書き換えられてしまうことを拒み続けており、あたかも他者の言葉の外に身を置きたいかのようだが、彼に与えられるのはコリオライを陥落させた業績を讃える「コリオレイナス」という名である。少なくとも一幕では、コリオレイナスは明らかに場にかみ合わない男、広場にも議会にも軍にも凱旋にもそぐわないアウトサイダーとして提示される。いわば、一幕でのコリオレイナスの悲劇は、古傷よりも今痛む傷に生きる男、言葉で戦う政治の場にはいられない、言葉の外にいたい男が言葉の枷にはめられていく故の悲劇である。

◆コリオレイナスの悲劇の転換

 二幕に入り、民衆を罵り反逆罪でローマを追放されたコリオレイナスは敵方かつライバルのオーフィディアスのもとへ向かう。ここから彼の次の悲劇が始まる。すなわち、敵に受け入れられるようでいて、しかし受け入れられきらないという悲劇である。オーフィディアスは夢に見るほどに敵対したコリオレイナスを陣営に受け入れる。だが、戦場と政治の力学、そしてコリオレイナスの生来の性格により、結局コリオレイナスを友として受け入れることはない。アウトサイダーであるコリオレイナスに安息の場はないのである。

だからこそ二幕冒頭にコリオレイナスが敵に膝をついて身を投げ出す場面が美しく、オーフィディアスとコリオレイナスの交わすキスが痛切に映るのではなかったか。しかし、コリオレイナスを徹底的にアウトサイダーとして位置付ける演出は二幕の終盤に途絶え、劇はモンスターの如き母の呪縛から逃れられない男の悲劇となって終わってしまう。先行する劇評において「冷酷な劇が突然感動的になる」と評された部分である(註4)。もちろん母による説得を聞き入れる場面はこの公演のみの課題ではないが、母、妻、子供が敵方にあるコリオレイナスを訪ねる場面をあのように感情的に演出するのであれば、劇の初めからもっと別の演出の組み立て方があったのではないか。ヒドルストンとフィンドレーは文字通りの熱演であり、映像であればこそヒドルストンの流す涙も見ることができたが、劇の転換を下支えする演出の欠ける中では力業でねじふせた違和感が拭えない。俳優の身体、視覚イメージ、原作の解釈と上演のコンセプトを鮮やかに噛み合わせていた一幕の後ではなおさらである。

 ヒドルストンは優れた体格を活かし繊細な演技と柔らかい声によってこのナショナル・シアターのプロダクションのユニークなコリオレイナス像を作り上げた。にもかかわらず「あと一歩」が足りないと感じるのは、現在映画での活躍の目覚ましいヒドルストンに舞台俳優として何かが欠けているのでは全くなく、俳優がスターとしてではなく役として舞台空間に立つための土台としての上演テキスト、踏切板としての演出の不足にあるのだろう。とはいえ、全てはヒドルストンを筆頭に実力派の揃う俳優陣、護民官の1人や劇の幕開きの台詞を述べる民衆に女性を据えるキャスティングから舞台美術を始めとした空間の構成まで、シェイクスピアの『コリオレイナス』の新演出として優れた公演であると認められる上での指摘である。演出の基本的なコンセプトである同作の政治性は強い声を持っている。たとえば一幕と二幕の対比は非常にスリリングなものである。一幕の終わりにローマの護民官たちは民主主義を訴えコリオレイナスを追放するが、二幕になってコリオレイナスが敵となってローマに攻めてくると彼らはまったく無力となる。平時には説得力をもって聞こえた民主主義の論理が戦時には役立たずに響く空虚さ、政治家は結局実際には何の責任も取れないという事実、護民官たちの主張する「民衆の声」とは実際には誰の声なのか、すぐに変わってしまう民衆の声によって運営される国はどこへ向かうのか、といった問題は私たちの社会にも通底する。古代ローマを舞台に据える400年前のイギリスの戯曲に基づくドンマー・ウェアハウスでの上演が現在の日本の状況に対してこのようにリアルな同時代性を備えているということは、この『コリオレイナス』が日本で上映されることの意義の証左であろう。

◆ナショナル・シアター・ライヴの課題

 最後に、ナショナル・シアター・ライヴの課題を三点指摘したい。まず舞台収録映像としての課題である。演技空間を三方から観客が取り囲む上演を収録する困難は理解できるが、俳優に寄ったショットが多いため人物の位置関係がわかりにくく、上演空間の三次元の広がりが感じられない。ドンマー・ウェアハウスで行われた上演の全体像を把握しにくい映像であった。次に冒頭及び休憩後のコメント映像である。確かに興味深くはあるが、作品の上映の前にあらかじめ演出家や出演者たちの解釈を示しては、観客たち自身の自由な作品解釈を阻んでしまうのではないだろうか。特に、「トム・ヒドルストンは地球上で一番セクシーな俳優」だというコメントを二幕に入る前に流す必要はあったのだろうか。最後に字幕の問題である。あまりにも誤植が多い。しかも、カタカナに平仮名が混じるといった脱力してしまう誤植のほか、漢字の偏が異なるなど一見似ているが異なる漢字の間違いも多々あり、何を間違えてこの字幕になったのかと推測するために劇から気が逸れる。公演の素晴らしさに比して不幸というほかなく、改善を切に願うものである。

 とはいえ、ナショナル・シアターの同時代の舞台を日本の映画館で鑑賞するという機会は得難いものであり、今後のナショナル・シアター・ライヴへの期待を述べて本稿を終えたい。

(註1)ナショナル・シアター・ライヴの日本版公式サイトのURLはhttp://www.ntlive.jp/。これまでに『フランケンシュタイン』『コリオレイナス』が上映され、2014年は『ザ・オーディエンス』『リア王』ほか計6本の作品が上映される。

(註2)メシュエン出版からナショナル・シアター版『コリオレイナス』の戯曲が発売されている。

(註3)本稿はナショナル・シアター・ライヴの上映を扱うが、『コリオレイナス』のドンマー・ウェアハウスでの上演は2013年12月6日から2014年2月13日。

(註4)チャールズ・スペンサー、『テレグラフ』誌、「『コリオレイナス』ドンマー・ウェアハウス公演劇評」、2013年12月18日。Spencer, Charles. ”Coriolanus, Donmar Warehouse, review” Telegraph 18 Dec. 2013 http://www.telegraph.co.uk/culture/theatre/theatre-reviews/10524062/Coriolanus-Donmar-Warehouse-review.html

【著者略歴】
藤原麻優子(ふじわら・まゆこ)
1981年生。早稲田大学演劇博物館招聘研究員、早稲田大学ほか非常勤講師。専門はアメリカン・ミュージカル、宝塚歌劇。

【上映記録】
監督(演出):ジョシー・ルーク
脚本:ウィリアム・シェイクスピア『コリオレイナス』に基づく
2014年イギリス作品
上映時間180分
出演:トム・ヒドルストン、マーク・ゲイティス、ピーター・デ・ジャージーほか
4/25(金)〜4/30(水)
TOHOシネマズ系列映画館にて上映


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