蓮沼執太フィル 「音楽からとんでみる4」全方位型フィル

◎「ステレオ」のパフォーマンス空間
 ラモーナ・ツァラヌ/井関大介/廣澤梓

「音楽からとんでみる4」公演チラシ
「音楽からとんでみる4」公演チラシ

 TPAMへの2度にわたる招聘や快快への楽曲提供など、舞台芸術との関わりも深い音楽家・蓮沼執太。彼による15人編成のオーケストラ「蓮沼執太フィル」は2010年の結成以来、ライブベースの活動を行ってきました。そこでは集団性や観客を含めた場の創造という観点において、今日の演劇を考える上でのヒントを与えてくれるように思います。この度、4月27日(日)の「全方位型フィル」と題されたライブに立ち会った3名によるライブ評を掲載します。(編集部)

解放感のサウンドスケープ—蓮沼執太フィル公演『音楽からとんでみる』
 ラモーナ・ツァラヌ
作者をこれ聖と謂ふ—音楽共同体への憧れと蓮沼フィル—
 井関大介
もう一度、集まることをめぐって
 廣澤梓

○解放感のサウンドスケープ—蓮沼執太フィル公演『音楽からとんでみる』
 ラモーナ・ツァラヌ

 蓮沼執太フィルのツアー「時が奏でる、そして僕らも奏でる」の東京公演『音楽からとんでみる』は4月26日と27日、青山のスパイラルホールで行われた。26日の公演では、蓮沼執太が指揮するアンサンブルは前方ステージの上で演奏し、「対面型」のコンサートスタイルだったが、翌日の公演では「全方位型」の演奏形式だった。つまり演奏者は観客に囲まれた形でセンターステージにいた。両日のセットリストも異なったので、蓮沼フィルの二つの側面が見られたといえる。筆者は27日の公演しか観ていない。しかもはじめての蓮沼フィルによるコンサートの観賞だったので、この公演を中心に話を進める。

 会場に入ってまず目にとまるのはこれから演奏される楽器の数々だ。ピアノ、ギター、ベース、ドラム、シンセサイザー、サックス、スチールパン、ユーフォニアム、ヴァイオリン、ヴィオラ、マリンバ、フリューゲルホルン、グロッケン等。これらの楽器を演奏する優れたミュージシャンを集めた蓮沼フィルの作る音楽は一つのジャンルにとどまらず、本公演ではクラシックポップとでも呼べるような緩やかなメロディーも、ゆったりとした自由な感じのラップソングも、緊張感に溢れたロックな曲も聴けた。

 蓮沼フィルの音楽は、どこか単純なところがあって、遊びへの誘いのような雰囲気を放ちながら、聴いている側に何も押し付けないような感じがする。普段着姿のようなラフな格好をした演奏者は、観客の間を通って登場し、それぞれが担当する楽器を手に取る。そしてどこからともなく音が鳴り始め、空間に溶けるような音が流れる。

 ここで蓮沼執太という作曲家が作る音楽の特色が見えるかもしれない。電子音楽をはじめ、環境音のサンプリングをもとにした音楽制作、音楽を含む展示などのような実験的な試みを経て、蓮沼の取り組む音楽活動は幅広い。さらにミュージシャン15人体制の蓮沼フィルによって、その活動を発展させた。蓮沼がキーボードや電子楽器を使って作曲した音楽のスコアを出発点に、複数の楽器の演奏によってメロディーがより豊かで自由になる。

 蓮沼は元々大学で環境学を専攻しており、空間の特徴に敏感であることはその背景のおかげであろう。今自分がいる空間の中に自分が作る音を無理矢理吹き込むのではなく、空間の特徴と音楽の特徴の調和を目指し、自然な音の流れを追求するように見える。結果生まれた音楽は、心地よい繰り返しからなる。何回もリピートされる軽快なメロディーラインは聴き手の心にすぐに染み込む。楽器が順番に加わったり、演奏をやめたりするので、その旋律はつまらなさに陥ることはない。螺旋のような音の繰り返しは、メロディーにおいてはしばらく急な変化は起こらないということを予想させるので、ドラマティックな転換がなければ、心の余裕というような感じが生じるし、音楽が与える喜びと解放感を味わいながら、オーディエンスはただ音の流れを楽しむのだ。

【「音楽からとんでみる4」全方位型フィルより。撮影=後藤武浩 提供=蓮沼執太 禁無断転載】
【「音楽からとんでみる4」全方位型フィルより。撮影=後藤武浩 提供=蓮沼執太 禁無断転載】

 蓮沼フィルがライブハウスやコンサートホール、パフォーマンススペースなど、色々な会場で演奏しているのも、このアンサンブルの柔軟性を伝える事柄である。今年2月に横浜で開催された国際舞台芸術ミーティングTPAMにも参加し、演劇やダンス公演を中心としたイベントの枠にごく自然に溶け込んだ。その理由はこのアンサンブルの持つperformativityという性質であろう。音楽は生演奏によってオーディエンスの前に生まれる。しかし、それだけでperformativityとはいえない。その音楽は実はどこか緩いような性質を持ち、楽譜に定着せず、ある程度の即興性と遊び心を許す。音がメディアになり、音を通じて演奏者の間にコミュニケーションが生まれる。そのコミュニケーションは音楽の形を取って、観客に届く。

 このような音楽制作法、または音楽の届け方を可能にするのは演奏者の間にある信頼関係であろう。その信頼関係が一番よく見えてくるのは、即興演奏の時だ。例えば、最後の曲におけるサックスのラインは特に印象的で、スコアから解放された勢いでそのメロディーには元々なかった色を与え、曲のラインを終演に相応しい盛り上がりへと導いた。公演全体において全ての楽器がこのような出番があり、15人のメンバーは、それぞれが自分の楽器の音をよく知って、全員で決めた枠組みにおいてハーモニーを保つ範囲で演奏しているように見えた。

 その演奏を見て、「役割」という言葉が浮かんできた。演劇において、舞台上で展開する状況の中で自分の役割は何なのかが分かった上で、その役割を果たすのが役者の仕事である。その上、相手、つまり共演者の役割も分かることが必要だ。芝居の中で自分も、相手もそれぞれ果すべき役割があって、一人でも欠ければ、その芝居の風景が成立しない。蓮沼フィルのメンバーは、それぞれが担当する音の役割を果たして、それで済むのではなく、お互いの音の存在をよく意識していると強く伝わってきた。ここで「全方位型」式の演奏の特徴が見えてくる。フィルのメンバーはお互いに向い合って、目を合わせながら演奏していたので、普段のコンサートでは感じ取れない無言のやり取りが今回観客の目の前で展開されていた。音楽における「即興性」は、演奏者の間の以心伝心のようなコミュニケーションなしでは不可能ではないだろうか。このような演奏においては調和(ハーモニー)を保つこと以外のルールはない。このアンサンブルのライブの楽しさの根元はそこに探るべきであろう。

 また、演劇においては、観ている側、つまり観客との関係を考えるのも大事である。観客をひきつけるような芝居もあり、観客とある種の距離感を保ちながら、観ている側に自分の判断を許すようなパフォーマンスもある。蓮沼フィルのライブも後者のように、音楽はただそこにあって、その旋律に乗るかどうかの判断は聴いている側がするのだ。オーディエンスの自由を認め、その自由を受け入れながら、演奏者も自由な感じで演奏することに、蓮沼フィルならではの音楽に対する姿勢が見える。

 音楽のライブという「舞台」の上では芝居は行われないが、役割分担と演奏者の間のコミュニケーションを出発点とするパフォーマンスはある。蓮沼執太フィルのスパイラルホールでの公演は、パフォーマンスとしてこの要素を見事に反映しており、音楽における演劇性と演劇における音楽性についてこのように考えるきっかけにもなったが、何より先にただただ音楽をライブの演奏で楽しむ時間だった。

【筆者略歴】
ラモーナ・ツァラヌ(Ramona Taranu)
 1985年生まれ。ルーマニア出身。早稲田大学文学学術院に所属。世阿弥能楽論の研究を中心に、総合的に舞台芸術の研究に取り組む。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ra/ramona-taranu/

 

○作者をこれ聖と謂ふ[1]—音楽共同体への憧れと蓮沼フィル—
 井関大介

 奏者達の島の向こうに、こちらを向いている人垣が見えたんです。「全方位型フィル」なので、どこから見てもそうなるわけで。その対面する人たちが、笑っています。あ、どうも顔面が疲れるなと思ったら、自分も笑っていたということに気づきました。笑うのはまあ、楽しいから、なんでしょう。そして、スポーツの試合のような緊張感、それと矛盾しない解放感。もともと“合奏”って、こういうものでしたっけ、久しく忘れていましたけども、そういえば。

 自分の角度からは、K-Taさん(マリンバ)と小林うてなさん(スティールパン)の二人が、しばしば視線を交え、笑いかけ合いながら、踊るように打っているのが見えます。楽しくてしょうがない、という顔で。とても、うらやましい姿。そういう感覚、そういう効果。仮にいうならば、“ハッピー”。誰でも、それぞれに“ハッピー”な音楽の原風景をお持ちでしょう? 自分がなぜか抱いている陳腐なイメージの一つでいえば、ローカルな場で行われるアイリッシュ・フォークのセッションですが。とにかく、“ハッピー”な音楽の原型です。

 蓮沼フィルはそれを今っぽく、再演しているというように感じました。まさに「今っぽく」、過不足なく、ちょうど「今っぽく」、です。東京の青山なんていう○○な街[2]を歩いている「今っぽい」人が、うまうまとそれを感じられるように拵えて、彼らは“ハッピー”の原型を演じ、実行し、作り出している。そんな印象。かつては(昔は? 幼いころは? )音をでたらめに一つ鳴らすだけで、それを感じられたのかもしれないのに、手間をかけていただいて恐縮です。

【「音楽からとんでみる4」全方位型フィルより。撮影・提供=井関大介 禁無断転載】
【「音楽からとんでみる4」全方位型フィルより。撮影・提供=井関大介 禁無断転載】

 そんな蓮沼フィルについて考えるため、突然ですが、ここで儒教の話をします。紀元前500年程の中国で、本当の成立はもっとややこしいんですが、仮に孔子という人が説いた思想、ということにしておきましょう。孔子さんの言行録には、音楽の話がたくさん出てきます。端的にいえば、儒教とは「礼楽(れいがく)」、つまり、クールでリーズナブルなふるまい(「礼」)と、ハッピーでエレガントな音楽(「楽」)によって国を作ろうという、社会思想・実践なんですね。よく勘違いされていますが、ああしなさい、こうしなさいと、がみがみ説教する道徳論ではありません、本来は。

 たとえば、『孝経』という経典に、「風(ふう)を移し、俗を易(か)ふるは、楽より善(よ)きはなし」とあります。恰好良いふるまいや、気持ち良い音楽に憧れて、真似て、参加しているうちに、皆いつのまにか感化されて、立派な人になって共同体を支えていく。そんなすごい効果のある「礼楽」を、「聖人」だけが作るとされています。ただし、儒教でいう「聖人」とは、“倫理性において優れた人”というニュアンスもあるけど、第一義的には“天命を受けて礼楽を作り、天下を治めた昔の王さま”のことです。どれくらいの昔かというと、ほとんど伝説でしかないってくらいの昔。蓮沼執太さんに、その「聖人」の残り香を嗅いでしまいました。

 音楽で作られる国って、想像できますか? 「聖人」が王さまを指すとはいえ、後世の巨大帝国を統べる皇帝なんかをイメージすると、ちょっと途方もない話になってしまいます。普通、音楽なんかより法律とか警察が最優先に思えますよね。でも、前近代のムラ社会では、ご先祖さんから伝わる歌や踊りが大切に扱われ、共同体にとって必要不可欠なものとされていることが多いんです。祭りの式次第や踊り方、演奏の仕方に詳しいお年寄りが尊敬され、皆のお手本、憧れの的になります。

 中央アフリカのあるムラで、学校の新しい校長さんについてどう思うかと人類学者が尋ねたところ、ムラ人は「彼の踊りっぷりをちょっと見てみましょう」と答えたそうな[3]。立派な人かどうか、踊り方でわかるらしい。たぶん、伝説化される前の実際の「聖人」は、それくらいのスケールの人だったんでしょう。互いに顔の見えるような規模のコミュニティを束ねる長老をイメージすると、「礼楽」によって維持される社会は人類史的にありふれたものになります。音楽がことばにできない美意識やいろんな「やり方」を共有したり、次世代に伝えたりするのに役立ち、刑罰なんか無くても平和に続くコミュニティ。中国が巨大帝国化してからも、そんな昔々の記憶に憧れ続けていたのが儒教なんです。

 江戸時代の儒学者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)によれば、「聖人」が作る正しい音楽はハーモニーであって、ユニゾンではないそうです[4]。ハーモニーなんて難しいものを使って作曲できるのは、天から才能を授かった「聖人」だけなんですね。長い長い時間の中で、たまに現れた天才が、ハーモニーを作曲する。皆はそれを伝統として大切に伝えていく。伝えるうちに訛ったり、時代に合わなくなったりするけど、またいつか天命が革(あらた)まり(これが東アジア的な「革命」)、新たな王さまが、新たなハーモニーを作曲してくれます。

 徂徠は異なった性格や才能を持つ人々の「和」によって成り立つ理想社会と、この音楽におけるハーモニーを重ねて論じていました。「聖人」自身は万能ではなく、指揮者やふりつけ師のように、メンバーの才能を見きわめ、各々が最も活きるよう役割を与えるのが、「聖人」による統治です。全体のプランを知っていて、それを作ることができるのは「聖人」だけ。パターナリズムの極み、かもしれません。一方に踊らせる人、もう一方に踊らされる人がいるという、とても非対称な関係。近代人の好きな自由・平等は、そこには無いでしょう。でも、人それぞれが異なっているというのも、確かに世界のリアルな姿です。「聖人」は、そんな非対称な世界をハーモニー的に昇華してくれる、のかもしれません。

 つまり、と牽強付会するならば、蓮沼さんはハーモニーを作曲し、メンバーに役割を与え活かすことで、束の間、「聖人」たり得ているのです。蓮沼フィルの“合奏”の彼方には、音楽なるものの、そういう人類史的な深みが垣間見えます。彼の楽団に、参加したくなる。彼らの演奏で、踊らされたくなる。そうやって作られるコミュニティ。そうやってコミュニティを作る力。彼は天からその力を授かり、“ハッピー”を我々凡人に贈る、そんな天命を得たんでしょう。音楽が去勢されたご時世ですから、残念ながら、一瞬ですけど。失われた音楽共同体を思い出させる、束の間の「聖人」。蓮沼フィルの「今っぽさ」は、ぐるっと一周回って、じつは民俗音楽に見られるような、古い古い何かにつながっているようです。

 繰り返しますが、蓮沼フィルの“ハッピー”が、優れた曲と演奏でたまたま発生したものかどうかというと、むしろその効果を狙って演=奏することで、作られたものに思えます。それほどまでに、合奏的な“ハッピー”が前景化している。だから、音楽を治国平天下に用いる「聖人」の作為と重なって見えたんでしょう。そして、たぶん観客も、半ばわかっていて、のってるんですよ。のったほうが活きるから。のらない自由? それはあるでしょう、もちろん。自由・平等の近代国家らしいので。でも、自己主張したがる一方、天才の作為にのせてもらいたいのも、やっぱり人間の一面なんでしょう。

 もしかしたら、作曲や合奏は全てそういうものかもしれず、ことさら蓮沼さんに「聖人」性を感じるのはナンセンスかもしれません。私が趣味で稽古している山伏神楽でもそうですし、部活の吹奏楽など、皆それぞれの限定された場所で“ハッピー”の原型を垣間見てきたのではないでしょうか。でも、ですよ。「音楽ってほんっとにいいもんですね」、終わって奏者達が席を立ち、ざわつき始めた中、そんなことを蓮沼さんが急いで言ったんです、金曜ロードショーの水野晴郎さんみたいに。「おっと、コレを言っておかねば」という感じで、ややわざとらしく、半笑いで。ああ、ほら、確信犯だ。と思いました。

[1] 「作者をこれ聖と謂ひ、述者をこれ明と謂ふ」(『礼記』楽記篇)
[2] ○○には、お好きなfour letter wordsを入れてください。
[3] W-J.オング『声の文化と文字の文化』藤原書店、1991、p.120
[4] 徂徠の楽論については、小島康敬「荻生徂徠一門の音楽嗜好とその礼楽観」(『礼楽文化』ぺりかん社、2013年)を参照。なお、儒教の性格については当然ながら諸説あり、ここでは徂徠等の述べた礼楽重視の儒教観を紹介している。礼楽についての概説としては、小島毅『世界史リブレット 東アジアの儒教と礼』(山川出版社、2004年)がおすすめ。

【筆者略歴】
井関大介(いせき・だいすけ)
 1981年生まれ。和歌山県出身。神奈川県小田原市在住。宗教学の研究者。趣味は自給自足(稲作4年目)、山伏神楽、虚無僧尺八、戴氏心意拳。

 

○もう一度、集まることをめぐって
 廣澤梓

 演奏する人を見るのは面白い。自在に奏でられているように見える音楽は、紡ぎだされた瞬間に演奏者からふわりと離れる。演奏を繰り出している身体とそれを聴こうと集中している身体は異なるもので、演奏者はそのふたつの身体のマーブル状態、あるいはそれらに引き裂かれているようですらある。そうしてひとたび鳴らされた音は、演奏者の耳も観客の耳も同じように震わせる。音楽を生み出す人が複数いれば、状況はなお複雑になる。

「全方位型」と題されて、4月27日にスパイラルホールで行われた蓮沼執太フィルのライブでは、総勢14人ものプレイヤーが車座になり、その様子を観客は360度ぐるっと取り囲んで見た。座席は用意されていない、オールスタンディング方式だ。これは今回に始まったことではなく、2011年のフィルの2回目のパフォーマンスの時点で既に採用されていたという。ちなみに、その前日に行われたライブは「対面型」と呼ばれ、この同会場での2daysのパフォーマンスは客席と舞台のあり方の違いがタイトルに付されていたのだった。

 イトケンとJimanicaによるツインドラムは同心円の対極線上に、向かい合って配置されていた。大きく使われる身体と音が比較的同期して見えやすい、ドラマーを見る喜びは先の演奏者を見るそれとはまた別の快楽をもたらしてくれる(両氏は映像とドラムによるインタラクティブパフォーマンスを行うd.v.dのメンバーである)。更にそれらが同期、あるいは離れまた出会うことで生まれるものが、ライブにもたらすものは大きい。

 フィルはドラムだけでなく、同系統のパートを担当する演奏者が複数人存在する。結成以来、メンバーチェンジや新規加入を行いながら、ライブパフォーマンスを繰り返してきた彼らは、徐々にその演奏を安定させてきて現在に至る。石塚周太と斉藤亮輔のツインギター、千葉広樹のバイオリンと手島絵里子のヴィオラ、小林うてなのスチールパンとK-Taのマリンバ、蓮沼と木下美紗都のヴォーカル+環ROYのラップ、そしてゴンドウトモヒコのユーフォニアムと三浦千明のフリューゲルホルン+大谷能生のサックス。そしてメンバーとしてPAの葛西敏彦も名を連ねる。ここに作曲を行った蓮沼によるピアノが加わり、グルーピングに厳密なようで常にその枠からはみ出てくるようなアンサンブルが形成される。

 楽器がまるでできないわたしはたまに、フィルの音楽を聴いているときの気分を呼びだすべく、蓮沼と木下のヴォーカルを口ずさんでみることがある。聴いていて心地よいメロディーは思った以上に再現が難しく、一方のメロディラインを歌っていると、もう一方に引っ張られ、かと思うと、またもう一方に引っ張られる。例えひとりのパートを歌いきれたとしても、さほど喜びはない。そしてようやく、ああ、これは2人の声のあいだの領域で響いていたのだ、と気付く。このようなことが各パートごとに、そして15人のあいだでも同様に起こっており、そうやって生みだされる音楽はやはり個々のプレイヤーのからだとは別のところに生まれた何かのように思われるのだ。

***

 常にライブベースの活動をしてきたフィルで演奏される機会が多く、故に代表曲として今年になってようやくリリースされたCD/LP『時が奏でる』にも収録されている楽曲は、蓮沼個人の名義(Syuta Hasunuma)で発表された音源に収録されている既存のものが多くあることに気付く。i Tunesで確認したところそれらはエレクトロニカ、に分類されるとのこと。

 そこでは現実に響いている音を録音したもの、それを電子的に加工したものから、何かと何かを物理的にぶつけて鳴らすレベルでは現実には響くことのない、純粋に電子的なものまで、あらゆる音を等しく「素材」として扱い、PC上で切り貼り(まさにカット、コピー&ペーストが行われる)することで作曲が行われる。こうした素材は元々は複数の異なる時間、空間で鳴らされた音である。それらを引き延ばし圧縮し、様々加工・変形させたりループさせたりしながら重ね合わせて、再生ボタンひとつで勝手に時間を進めていくようにすることにより、元あったのとは別の時間の流れ、あるいはそれが鳴らされる場所が新たに作られることになる。

 そのようなテクノロジーによって可能になった作曲法と時間の立ち上げ方によってできた曲をまさにマンパワーで演奏するべく、まずはツインギター、ツインドラムとピアノによる5人編成の「蓮沼執太チーム」が作られ、それを母体に15人編成のフィルが結成されたのだという。全方位型フィルではチームの演奏も行われ、そのプロセスを体感することができる公演だった。
 だが、そうひと言に言っても、その過程はひどく面倒なものであろうと想像する。自分ひとりの体で、再生ボタンのクリックひとつで無限に音楽を奏でることができてしまうところから、作り上げられた音楽をバラバラにほどき、15人もの身体で「もう一度」構成しようと言うのだから。しかしこの「もう一度」のおかげで、演奏とは合奏とはこのような喜びに満ちたものだったということを、わたしたちは再び認識することができる。

***

 今ここで生成されるリズムにからだを預け、それを共有する人たちと同期する。そのような音楽が生み出す一体化の喜びに、ついわたしたちの時間というものを見出したくなる。だがそれは音楽という手段にとっては容易いものであろうし、それを確認するだけのものであるならば、演劇も含め全てのライブ・パフォーマンスはよしとされる。だが、蓮沼執太フィルの試みにそれとは一線を画すものがあるとしたら、再生ボタンを押すことでいつでもどこでも音楽が鳴り、家で、電車の中で楽しむ個別的な音楽体験を経たのちに、どう私たちは集まることができるのかということをめぐっての実践のように感じられる点にあるのではないか。そして蓮沼の音楽は、そのような試みを行うための「場」として開かれている。

【「音楽からとんでみる4」全方位型フィルより。撮影=後藤武浩 提供=蓮沼執太 禁無断転載】
【「音楽からとんでみる4」全方位型フィルより。撮影=後藤武浩 提供=蓮沼執太 禁無断転載】

 だが、観客が熱狂するほどに演奏者たちは冷静さを増すようにも見える。まさに機械的に繰り返されるフレーズを下敷きに、それらを表現する彼らもまた蓮沼の音楽にとっての「素材」であるかのようだ。そもそも蓮沼執太フィルというネーミングについて、それはあくまで蓮沼個人の作曲を巡っての試みであるという姿勢がうかがわれるが、だからといって作曲家が場において支配的な存在にはならない。

 もう一度フィルの演奏を眺めてみよう。蓮沼は演奏が終わって間髪いれずに「よい!」と威勢よく声を上げた。フィルではお馴染みの光景である。これは単なる掛け声なのかもしれないが、「良い」という風にも聞こえる。そして、このパフォーマンスの到来は蓮沼がオーディエンスと同じく、ひとりの聴く人であったことを強く印象づけるものだ。観客と同じように、その場で生成された音楽を喜ぶ作曲家の「よい!」もまた、そこに集まった人全員の耳を同時に震わせたのだった。

【筆者略歴】
廣澤梓(ひろさわ・あずさ)
 1985年生まれ。山口県下関市出身、神奈川県横浜市在住。2008年より百貨店勤務。2013年1月よりワンダーランド編集部に参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hirosawa-azusa/

【上演記録】
蓮沼執太フィル ツアー2014「時が奏でる、そして僕らも奏でる」
Shuta Hasunuma Philharmonic Orchestra TOUR 2014 “Time plays – and so do we.”

東京公演『音楽からとんでみる4』対面型フィル
スパイラルホール(2014年4月26日)
立見 / 前売  3,500円 / 4,000円
出演:蓮沼執太フィル

東京公演『音楽からとんでみる4』全方位型フィル
スパイラルホール(2014年4月27日)
立見 / 前売  3,000円 / 3,500円
出演:蓮沼執太フィル&チーム  
ゲスト:坂本美雨

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