笑の内閣「福島第一原発舞台化計画~黎明編~超天晴!福島旅行」
地点「光のない。」
フランソワ・シェニョー&セシリア・ベンゴレア「TWERK」

◎あなたたちとわたしたち――KYOTO EXPERIMENT 2014報告(最終回)
 水牛健太郎

 KYOTO EXPERIMENT最終日19日も京都はもったいないくらいに晴れた。この日は回る場所も多く、自転車に乗った。午前から夜まで、京都を北から南まで。最高の一日になった。

福島第一原発舞台化計画~黎明編~超天晴!福島旅行

 笑の内閣の上演はいつも何かしら驚きがある。私が初めて見た「ツレがウヨになりまして」(2012年)では、会場となった京大吉田寮の現代離れしたたたずまいに驚かされた。次に見た「65歳からの風営法」公演(2013年)は東京・永田町で開かれ、社民党の福島瑞穂党首ら国会議員が3人も出席した。昨年のKYOTO EXPERIMENTのフリンジとして上演された「ツッコミ不足のオウム選対」(2013年)では、近くの席にゲストの上祐史浩氏が座り、劇のモデルその人が劇を見ているのを間近に見るという、なかなかない経験となった。こうして書いてみると劇の中身はともかく、演劇というものを武器として社会と関わり、面白い状況を次々に生み出していく主宰の高間響の腕前は確かなものだと言えるだろう。

 笑の内閣は今回も去年に引き続きKYOTO EXPERIMENTのフリンジに参加、福島原発をテーマとした。東浩紀の著書『福島第一原発観光地化計画』に触発された作品だという。滋賀県の私立高校「高間学園」では修学旅行は10年来、北海道でのスキー旅行となっていた。副校長の間久部(髭だるマン)はこれを、福島での被災地見学を中心とする旅行にしたいと考え、何人かの教師と相談して密かに計画を進める。そこには高校OBが中心となっている学校運営にクサビを打ち込み、外様の自分が主導権を握りたいという狙いもあった。

 この劇は会議室を舞台に設定し、修学旅行の行き先決定を巡る両派のあの手この手の駆け引きを描く。会議の参加者は間久部のほか、高校OBの校長(松田裕一郎)、教頭(青居邦彦)に、来年修学旅行に行く1年生の担任教師5人の合計8人。北海道と福島それぞれの計画に関わる旅行会社の担当者も登場し、話に膨らみを持たせる。

 作品としての質の向上には目覚ましいものがある。コテコテのコメディ演技は気になるが、90度に配置された4つの机に2人ずつが座る会議室は視覚的にも効果的で、背景の黒い幕が登場人物をくっきりと浮き上がらせる。中央に配されたほぼ正方形のスクリーンに旅行先のプレゼンテーション映像が映るが、その無駄なく分かりやすい出来映えは見事。福島出身の江田(中村彩乃)が故郷に寄せる思いを演歌として歌って雰囲気を盛り上げる。

【上演のようす。撮影=坂根隆介(ドキドキぼーいず)、提供=笑の内閣 禁無断転載】

 盛りだくさんの趣向に支えられて展開するストーリーは、各人物が裏の事情や思惑を抱えながら、最後には福島旅行に理事会での承認を得ようと協力していくことになるという内容だ。今後東京公演(12月4日‐7日、こまばアゴラ劇場)もあるので詳述は避けるが、間久部らが取る手段の中には人間としてどうかというものもある。校長らも様々な弱みを抱えるし、教師らも一皮むけば思いは様々。それでも一つの目的のために結束していく姿に、きれいごとでは動かない社会の実相に迫る骨太さを感じさせる。

 放射能を巡る議論が延々と続く場面など、演劇としてのバランスにはなお危ういところがあるが、高間による前説で映写される福島での合宿、700円もする意欲的なパンフなど、作品作りに費やしたトータルの手間暇を思えば、そうした点さえ勢い余ってというふうに見えてくる。演劇と社会との関係を考える上で、今後も注目していくべき団体だ。
(19日午前11時の回)

光のない。

 「光のない。」はオーストリアの作家イェリネクが東日本大震災と原発事故を受けて書いた戯曲で、地点はこれを2012年のフェスティバル/トーキョーで上演した。今回はその再演となる。

 この戯曲はストーリーはない。目立つのは「わたし」「あなた」「わたしたち」「あなたたち」という言葉が大量に飛び交うことだ。これらの言葉は明らかに、震災、特にその後の津波による死者を指している。死ななかった私たちを指してもいる。どちらがどちらということではなく、どちらをも指している。その両方の間に、失われた回路を切り開くために用いられている。

 京都駅から烏丸通りを北へ行くと巨大な西本願寺の伽藍があるが、そこの壁に大きな横長の看板がかかっていて「いま、いのちがあなたを生きている」と書いてある。仏教の信者でもないし、教義も知らないが、この看板を見るといつも考え込んでしまう。この文字が言わんとしているのは、一つながりの生命の流れとでも言うべきモノがあって、「あなた」というのは、その生命の流れの一端が今、仮に、この世で取っている一つの形に過ぎない、ということだろう。これを宮沢賢治の言葉を借りて「わたくしという現象は仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です」と言っても同じことだ。

 でも本願寺の看板も、宮沢賢治の言葉も、本当は必要ではなかった。うちの猫のファビちゃんはいつ見ても、いながらにして則天去私の三昧境に自足している。本来ヒトもそのように、自然の一部たるべきところ、脳を発達させ、言葉というものを持ったから、もう、いけない。ヒトには常に私というものがあって、「カネがほしい」とか「成功したい」などと馬鹿なことを考える。それを頭の中で自然に戻すためにも、言葉による概念操作が必要になった。

 矛盾しているのは言葉というのは本来コミュニケーションの手段として発達したということだ。精密に具体的な情報をやりとりするために世界を分節化する言葉を発達させたら、ヒトは世界から分節され、孤独になった。1人でいるときにも頭の中でああでもない、こうでもないと言葉を使って考えている。内言に満たされている。

 内言の受け取り手として、かつては神が想定されていたと思う。ひょっとして神はそのために、つまり言葉を持った人間を孤独にしないために、考え出されたものかもしれない。しかし今、神はいないことになったので、大量の内言が宙に浮くことになった。

 普段はそれでも大して気にならないが、大震災のような大量死があると、死者の内言の行方はどうしても問題になってくる。水が押し寄せて身体が流されて、死に至るまでの間、2万人近い人たちの頭に浮かんだ大量の言葉は誰が受け取るのだろうか。確かに存在したのに、もはやどこにも位置づけようのない言葉たち。受け取り手がない言葉が大量に残るのはまずいと、人は考える。被災地にはいま、幽霊のうわさが大量に乱れ飛んでいるというが、それは受け取り手のない内言を受け渡し/受け取ろうというわたしたちの、あるいは同じことだが、あなたたちの、試みにほかならない。

 「光のない。」という作品は基本的にその内言の行方を巡るものだ。それが作品の中で頻繁に用いられる「声」「音」という言葉の意味であろう。「声」は個人的なものであり、その人の存在そのものでもある。

 この作品は死者の思いに関するものだから、どうしても供養に似た性格を持つことになる。しかし供養ではない。あくまでも非宗教的なものだからだ。実際に死者の内言を聞ける超越的な回路が存在するわけではない(少なくとも、イェリネクと三浦基はそう思っていないはずだ)。だから、それは彼岸ではなく、私たちの想像力の中でいかに大量死の死者の内言への回路をつなぐかという戦いなのだ。

 本来回路がない「わたしたち」と「あなたたち」の間に回路を開くのだから、最初から失敗が運命づけられている仕事だ。しかし、それは行われなければならない。そのために音楽が使われる。合唱がある。俳優の「声」そのものも、極限まで酷使される。叫び、すすり泣く。私はこの作品の初演を見ていないが、上演時に観客の間にどれほどの感情的な効果を引き起こしたかは想像できる気がする。この作品は震災時に多くの人が感じた恐怖や動揺の記憶に直接的に訴えかける要素を多く持っていたからだ。

 だがそれは、おそらくこの作品の本質とはあまり関係がなかった。私は初演を見なくてよかったとまでは言わないが、今だからこそよく受け取れるものがあるように感じている。

【プログラム公式写真。photo: Hisaki Matsumoto、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】
【プログラム公式写真。photo: Hisaki Matsumoto、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】

 それは「光」ということだ。光とは何だろう。「声」が死者個人を巡るものであるのに対し、光はより抽象的で、思弁的なものである。人間が思考の力によって見いだしていくもの、進んでいくべき方向を示すもの、それが光だ。この作品は、その光がいったん失われ、そして今は死者のもとにあるというのである。

 死者のもとにある光を求めること。それはより広い共同性へと私たちを開くことである。そして実にそれこそが、演劇の役割でもある。「光のない。」はその試みである。死者の内言を聞こうという、不可能な試みをするのも、そのためにほかならない。光はそこにしかない。
(19日午後2時の回)

TWERK

 会場に入ると既にクラブ音楽が大音量でかかっており、舞台上では5人のダンサーが回転している。腕を前に出したり、縮めたりを繰り返し、5人で緩やかに円を描いている。5人は色とりどりのウィッグをかぶり、原色の服を着ており、ドラッグクイーン風とでも言うか、要は熱帯の鳥みたいだ。

 やがて腕にも振りがついて、そこからどんどん踊っていくが、ともかく楽しそうなのが印象だ。身体の動き自体を楽しんでいる。そしてもう一つの特徴は、性的な挑発性が前面にでていることだ。お尻を突き出してくねらせたり、腰の部分をくっつけて前後に動かしたりするなど、あからさまに性的なニュアンスのある身振りが多い。

 やがて3人のダンサーが長い黒髪のウィッグを着けて、上半身裸の胸に垂らして踊り始める。そのうちの一人が前に出て、胸も露わに全身をくねらせる。全身が誘惑という感じで、長い髪が相手に向かって伸びていきそうだ。表現されているのは、性的な積極性・挑発性そのものをよいもの、美しいものとする価値観だと思う。自分の身体を欲望のままに好きに扱うこと。自分の身体によって他者の欲望を駆り立て、それもまたちゃんと扱えること。そういう意味での自由の感覚であり、生きる喜びだ。

 私は自分の身体、特にその性的な面と相性のいい人間ではないから、ここに表現されているようなことを自分の中に見出すことはない。しかし私はそれをとても美しい表現だと思った。

 5人は最初、全員が女性であるようにも見えるのだが、見ているうちに2人が男性であることが分かってくる。しかし、女性との区別がつきにくいことからも分かるように、マッチョなタイプではなく、ダンスの上でも女性との区別はない。もしこれがマッチョな感じであればまた違ったニュアンスが生じると思うが、あからさまに性的な身振りでありながら、いやらしさとか危険な感じはなく、むしろ子どもが遊んでいるような楽しさがあるのは、これもまた一つの理由だと思う。

 特徴的な身振りの一つは、5人が一連なりになり、電車ごっこのようになる。そして真ん中に挟まれたメンバーを横に抱える。腰の方は性器を重ねるかのようにまたを開かせて抱え、頭の方はまたにはさむ。このような姿勢で前後に動いたり、腰と腰をぶつけあったりする。それから発展して、上半身裸の1人の女性を他の4人が性的にもてあそぶかのような場面もある。女性も歓喜の身振りでこたえる。

【プログラム公式写真。photo: Emile Zeizig、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】
【プログラム公式写真。photo: Emile Zeizig、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】

 見ているうちに、彼らのダンスを見ている自分(を含む観客)という位置取りが気になってくる。何で自分はその中に入って踊らないのか。もちろん彼らのダンスは圧倒的に高い技術に支えられ、その一方、ふだん踊ることのない自分のダンスと身体が見るに堪えないものであることは言うまでもない。それでも、自分が動物園の檻でも覗くようにして彼らが踊っているのを見ているという気がしてきて、いたたまれなくなってくる。

 それは、このダンスには、ダンスを人に見せる「舞台芸術作品」としているような、見る人、見られる人の意識の境界を揺るがせるものがあるからだと思う。楽しそうであるというのが一つ。自分はふだん、クラブとか踊る場には行かない人間だが、そういう場で人の踊るのをじろじろ見ている人がいたら、気持ち悪いではないか。そういう人にはなりたくない。もう一つにはこの作品には性的挑発の要素もあるため、何もしないでただ見ている自分がデバガメのような情けない存在に見えてくるのだ。

 最後の部分になると、彼らは横一列になって尻を観客に突きだし、床に座って、尻を揺らし始める。中には右の尻の肉と左の尻の肉を大変なスピードで交互にぷるぷると揺らすという技を見せる人もいる。そして舞台手前から奥に一列に重なり、人間のお尻で構成された芋虫のようにうごめいてみせる。その姿には、不思議に、アートとしてのダンスを感じさせるものがある。おそらくはその過剰さが、表現以外ではありえないからだ。先ほどまでのいたたまれない感じもだいぶ和らぐ。

 彼らのダンスが終わると、心にわいてきたものが不思議にあたたかかった。「いいものを見せてもらった」という気持ちが湧いた。それは明らかに自分だけではない。観客の拍手はみなあたたかかった。よくも悪くもこの作品は最後に、「舞台芸術作品」に落ち着いたのだった。
(19日午後5時の回)

 この後もう1本、悪魔のしるし「わが父、ジャコメッティ」を見た。素晴らしい作品だったが、これについては別の場で論じることにする。やはりネットメディアであり、ご覧になりたい方は11月の中旬以降にでも、検索してくだされば簡単に読むことができると思う。

 これで今年のKYOTO EXPERIMENT報告を終わる。ワンダーランドでは今年は11月3日にKYOTO EXPERIMENTの演目を題材にした劇評セミナーを京都芸術センターで開催しますので、ご興味がおありの方はぜひご参加ください。

 これで報告も4年目になるが、KYOTO EXPERIMENTは毎年本当に充実した内容で、奇跡的なほどだと感じている。次回は1年置いて2016年春になるとのこと。ぜひ見ますと言いたいところだが、来年のことを言えば鬼が笑うというぐらい、まして再来年のことは人間には分からないというほかはない。もちろんまた見に行き、レビューも書ければとても嬉しいが、まずは一段落とし、再来年のことは再来年考えようと思う。

 KYOTO EXPERIMENT 2014関係者御一同のご尽力に感謝いたします。本当にお疲れ様でした。

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2014年9月より、慶應義塾大学文学部で非常勤講師。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro

【上演記録】
KYOTO EXPERIMENT 2014 フリンジ オープンエントリー

第19次 笑の内閣「福島第一原発舞台化計画~黎明編~超天晴!福島旅行」
アトリエ劇研(2014年10月16日‐21日)

作・演出=高間響
出演=有本ミチヨ 楠 海緒 黒須和輝(第三劇場) 中村彩乃 髭だるマン(劇的細胞分裂爆発人間 和田謙二) 松田裕一郎 丸山交通公園(月面クロワッサン) 諸江翔大朗 山下みさお(笑の内閣) 由良真介(笑の内閣) 横山清正(月面クロワッサン)
演出助手=小林まゆみ(KAIKA劇団 会華*開可)
演出補佐=由良真介・山下みさお・山野博生
舞台監督=稲荷(十中連合)
舞台美術=栗山万葉
舞台美術補佐=濱口綺香
照明=山本恭平
音響=神田川雙陽(劇団粋雅堂)・島崎健史(ドキドキぼーいず)
映像=坂根隆介(ドキドキぼーいず)
衣装=橋本源氏
宣伝美術=大原渉平(劇団しようよ)
制作=前田瑠佳・荒木健哉
提携=アトリエ劇研・(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
京都芸術センター制作支援事業
主催=笑の内閣

チケット料金
一般 早割 2,000円 前売 2,500円 当日 3,000円
学生 早割 1,500円 前売 2,000円 当日 2,500円

KYOTO EXPERIMENT 2014

地点「光のない。」
京都芸術劇場 春秋座(2014年10月18日‐19日)

作/エルフリーデ・イェリネク
翻訳/林立騎
演出/三浦基(地点)
音楽監督/三輪眞弘
出演/安部聡子、石田 大、小河原康二、窪田史恵、河野早紀、小林洋平(以上、地点)合唱隊 朝日山裕子、今井飛鳥、大井卓也、大畑和樹、小村典子、中西重人、野口亜依子、圜羽山圜、真都山みどり、村田結、好光義也、米津知実
美術/木津潤平
衣裳/堂本教子
照明デザイン/大石真一郎(KAAT 神奈川芸術劇場)
照明オペレーション/岩田麻里(KAAT 神奈川芸術劇場)
音響デザイン/徳久礼子(KAAT 神奈川芸術劇場)
音響オペレーション/稲住祐平(KAAT 神奈川芸術劇場)
舞台監督/山口英峰(KAAT 神奈川芸術劇場)
舞台監督助手/足立充章
技術監督/堀内真人(KAAT 神奈川芸術劇場)
制作/小森あや、田嶋結菜(以上、地点)
製作/フェスティバル/トーキョー、地点(2012 年初演)
2014年版共同製作/KYOTO EXPERIMENT
主催/KYOTO EXPERIMENT

チケット料金
一般 前売 ¥3,500/当日 ¥4,000
ユース・学生 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
シニア 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000
ペア ¥6,000(前売のみ)

フランソワ・シェニョー&セシリア・ベンゴレア「TWERK」
京都府立府民ホール“アルティ”(2014年10月18日‐19日)

構想/フランソワ・シェニョー、セシリア・ベンゴレア
出演/エリザ・イヴラン、アナ・ピ、アレックス・マグラー、フランソワ・シェニョー、セシリア・ベンゴレア
DJ/イライジャ&スキリアム(Butterz[ ロンドン])
照明クリエーション/ドミニク・パラボー、ジャン=マルク・セガレン、フランソワ・シェニョー、セシリア・ベンゴレア
照明/ドミニク・パラボー、シンディー・ネゴス
舞台監督/ジャン=マルク・セガレン
音楽監督/ミグエル・カレン
監修/アレクサンドル・ロコリ
衣装/フランソワ・シェニョー、セシリア・ベンゴレア
製作/カンパニーVlovajob Pru
共同製作/リヨン・ダンス・ビエンナーレ、ポンピドゥー・センター舞台芸術部(パリ)、フェスティバ ル・ドートンヌ(パリ)、トゥールーズ公立振付振興センター(ミディ=ピレネー)、ベルフォール国立振付 センター(フランシュ=コンテ)、グルノーブル国立振付センター、Le Vivat d’ Armentières – Scène conventionnée danse et théâtre(ノール=パ・ド・カレー)、カーン国立振付センター(バス=ノルマンディー)
製作助成/ARCADI(イル=ド=フランス)助成FUSED(French U.S. Exchange in Dance)、FACE(French American Cultural Exchange)
協力/la Ménagerie de Verre(パリ)、Chez Bushwick(ニューヨーク)、ドリス・デューク慈善財団(ニューヨーク)、フローレンス・グールド財団(ニューヨーク)
共催/アンスティチュ・フランセ日本
助成/アンスティチュ・フランセ パリ本部
後援/在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
京都公演共催/京都府立府民ホール”アルティ “
主催/KYOTO EXPERIMENT

チケット料金
一般 前売 ¥3,500/当日 ¥4,000
ユース・学生 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
シニア 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000
ペア ¥6,000(前売のみ)

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